学問を信じる
はじめに
先日話題になっていたツイートを見て、文章を書きたくなった。私なりに普段から考えていることも交えてnoteに書く。専門家でもなんでもないので、単なる私見である。
そのツイートはこちら↓
信じる対象は人それぞれ
大抵の人はどうしても何かを信じたり、何かにすがったり、何かに熱心になったり、そういうものが必要なのだろうなと感じる。私も例外ではない。
人それぞれ信じるものや人は違う。
家族や恋人や友達だったり
尊敬する人だったり
宗教だったり
(無宗教のつもりでも)お天道様だったり
推しだったり。
時には
占いだったり
怪しい情報だったりする。
私はというと、辛くなったら、アイドルのパフォーマンスを見て、元気をもらっている。
かつては、推しがいたこともある。
あとは、読書など、何かに没頭する。
知ることで世界が立体的に
加えて、私の特徴的な傾向は、何かに悩んだりぶつかったときに、学問的なアプローチで解決しようとすることである。
学問は終わりがない。
分野も多く、一生で到底学びきれない。これだけ豊富で興味深いコンテンツはないだろう。
そして、何かを知ったら、目に入る景色や情報がより立体的になる。
(ほんの少しかじっただけなので詳しいことは知らないが)デジタル画に例えると、「一枚の絵」にしか見えていなかったものが、「レイヤー(階層)分けされた絵の集合体」に見えるというイメージだ。下書きをして、線画を描いて、色を塗って、濃淡をつけて、光を入れて……そういう工程を踏み工夫されたもの、というように見えてくる。
陰謀論は「答え」をくれる
さらには、『ドラゴン桜』の有名なセリフにもあるように、やはり学問は身を守る手段でもあり、誰かの悪意に引き込まれることを防げると思うのだ。
逆に知識がなければ、騙されてしまったりすることばかりだと感じる。
例えば、陰謀論というものは、小難しい専門知識がなくても「分かる」ことができるものだと感じる。その「分かる」感覚は、たぶん、とても快い。人を高揚させる。
統計的に不適切であろうが、情報の出所に信憑性がなかろうが、医学的根拠がなかろうが、陰謀論は「不安なことに対する答え」を教えてくれる。
不安な気持ちに「答え」をくれて、世界が「見える」ようになる。それならばと、もっと「答え」が正しい理由を探す。「答え」を支持する情報ばかり受け取り、それ以外の情報は陰謀というブラックボックスに埋めて、聞く耳を持たない。いわゆる、確証バイアスだ。
これはとても強力なものであり、心身への悪影響が出てもやめられないことがあるはずだ。
学問のすゝめ
予防的なものになるが、私の答えとしては、
不安をそのまま持ち続けながらも、学問を学んでおくということだ。
疑うことは大事だし、心配することも悪いことではない。ただ、一般的に不安はそんな簡単に解決できない。
例えば何かが怪しそうだ、実は良くないものなのだろう、と思ったとして、その究極的な真偽は素人にも専門家にも分からないことがある。何十年経った時に、やっと、分かるのだ。
だから、不安はそのまま持っておくしかない。ただ、あなたが専門家でないのであれば「真実」を執拗に探すことはせず、答えをすぐ見つけようとしない方が良いのだろうと思う。だって、答えは見つからないのだから。すぐ見つかるのであればそれは即ち、「理解しやすい何か」だ。
そして、何が信憑性のある情報で、何がそうでないか、を知っておく。論文を読めるようになっておく必要はないが、論文というものが学問をそこそこ担保していることを知っておく。噂話においては、火のないところにも煙が立つ場合があることを知っておく。
何かのグラフを見たときに、これはアンケート対象者の選び方が偏っているとか、目盛りが不均等で恣意的だとか、そういうことに気付けるようにしておく。
Aが増加傾向だからBが増加したんだ、という情報を見た時に、Bが増加したのが先でそれを受けてAが増加した可能性や、そもそもAとBに関係はないのに相関を認めてしまっている(疑似相関)可能性を考えられるようにする。
そういうことを積み重ねていって、陰謀論などの怪しいものが入り込む隙間を埋めていく。
これは、自戒の文章でもある。誰でも、何かを信じたくなることはあるものだ。