この世界のどっかその辺で

この記事を読んで感じたことをメモ的に。

本質的な意味で、人は誰かを救うことはできない、と私は思っている。
もしも誰かが「救われた」と思うのなら、それはその人がその人自身を救ったのだ。一見、誰かに救われたように見えても、その誰かはきっかけを作ったりサポートをしただけに過ぎない。


もしも自分が「救う側」になったら、それは常に考えていなければいけないことだと思う。
花の種に水をあげて、そこから芽が出て花が咲いたときに、それが「水をあげた人の手柄」でないのと同じように。

以下は特に気になった部分の引用。

フィリピンには、信じられないような劣悪な環境で暮らしている子どもたちがいた。レイプの被害者にも関わらず手違いで刑務所に何年も収容されていた子。一畳ほどの蒸し暑い空間に、親と3匹の猫と兄弟と暮らしている子。彼らの笑顔は、私たちと何の変わりもなかった。刑務所の中に、ジャニーズにいそうな顔の金髪の男の子がいた。「ねぇ、君名前なんていうの?」そう話しかけられ名前を答えると、「良い名前だね、友達になろうよ」と塀越しに握手を求められた。しかし、私は微笑むだけで「うん!」とは言えなかった。無責任な気がしたからだ。彼は鉄格子のなかにいて、私は鉄格子の外にいる。もし、私と彼が鉄格子の外で出会っていたら。もし、同じ学校の、おなじ教室で出会っていたら...?私はすぐに「うん!」と言っていただろう。彼と友達であるというだけで周りも私を羨んだだろう。だけど... だけど私は、君と友達にはなれない。何故なら、神様が君をそこに生んでしまったから。

鉄格子の中と外の人間同士が出会い、友達になろうと言われたときに「はい」と言えないこと、それ自体は仕方ない。
しかしこれから誰かを救いたい、世界を変えたいと思っている人間が
「だけど私は、君と友達にはなれない。何故なら、神様が君をそこに生んでしまったから。」
と言い切るのは、目の前の人間を本当に救いたいと思っているのかと考えさせられる。

彼女がやりたいことは「救う側」になり、救われたい人を見つけ、神様によって選ばれた人生を生きることなのか?
生まれた環境が違う人間同士は友達にはなれないのか?
「彼らの笑顔は、私たちと何の変わりもなかった。」というけれど、その後には(でも私とあの子達は全然違う)という言葉が見え隠れする。


鉄格子の中の彼とあなたは同じ人間だよ。
もしも彼女が「鉄格子の中にいる側」の人間で、目の前に来た人に友達になろうよと言ったら曖昧に微笑まれ、あとから「でも私たちは住む世界が違うから友達になれないね。神様があなたをそこに生んだから。笑顔は一緒なんだけどね」と言われたらどう思うのだろうか。

人が生きていくのには衣食住だけではなく、尊厳も必要不可欠だ。
自分に対する尊厳。他者に対する尊厳。そういうことについて考えさせられた。

立派な仕事について人を救うのも良い、海外を飛び回り貧困を解消しよう、分断をなくそうと行動していくのも素晴らしいことだ。
ただそのときに、誰かに救いの手を差し伸べてそれを跳ね除けられることも、罵られることもあるだろうことは知っておいたほうがよいだろう。
誰もがあなたの助けを求めてはいない。救われたいと思っているわけでもない。
「住む世界が違う」と断じられ救う側と救われる側に分けられたいわけではない。
望むことは「哀れだ」と思われず、自尊心を持って生きていくことだ。
「分断されている」なんて思われずに過ごすことだよ。


世界のどっかその辺にて、世の中の8.9%に相当するらしいLGBTより。

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