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現場猫、原子力事故、過去の話

記事の画像は、仕事猫(現場猫)がフォークリフトの荷台に立って天井の豆電球を交換する様子を描いている。ネットからの拾いものなのだが、ユニークだと思ったので引用させて頂いた。画像にはフォークリフトを運転する猫と取り替えようとする猫、2匹いる訳だがどちらも顔がにやけてしまっている。しらっと、「ヨシ!」とまで言っちゃっているが、どこが良いのだろうか。完全にアウトである。

現場猫のLINEスタンプ。中には「ご安全に!」も

以前にも書いたと思うが、僕は学校を卒業し、工場メンテナンス会社にまずは入社した。誰でも少し考えれば分かると思うが、工場という所は危険がいっぱいで、危険を前にし、かなりの頻度で指差し呼称をやるのである。スタンプの「ヨシ!」をやっている様子は、別に誇張でもなんでもなく本当に現場でやっているのだ。身体を曲げたり、腰をくねらせたり、振り向きざまに「ヨシ!」をやらせている辺りが滑稽なところで、これは何を意図して作ったのだろう。

入社1年目の同期は皆、数ヶ月に及ぶ机上の安全知識やその他諸々を頭に詰め込まされた後、色々な工事現場へ一人で研修に行かされた。派遣先は、本当に人それぞれなのだが、最終的には鉄工場と化学工場、大型機器据付現場の3箇所に何処かしら必ず皆んな行かされた。僕は化学の大分、鉄の愛知、据付の千葉と、この順番で回ったのである(別に具体的に語る必要もなかったのだが、哀愁に駆られたせいであって深い意味はない)。
いち現場作業員として配属されるならまだしも、入社1年目社員が現場監督補佐という名目でやってきて、何を手伝うでもなしでただただ現場をじろじろ観察してその日1日何があったか日記を書き、引き受け先に提出して宿泊先に帰るといった半分遊び人の様な生活をしながら過ごすのだから、派遣先にはすこぶる印象が悪い。この様な“兵役期間”が終わるのは1ヶ月そこそこの後。研修結果を報告する為、全国散り散りになっていた同期がまた一同に会すのである。
再会した際の合言葉は
「ご安全に!」
研修室で勉強していた頃には知らなかったであろう掛け声を覚えて帰ってきたのだ。それを発するお互いの顔はちょうどスタンプにおける現場猫のようであったと記憶している。

久しぶりに会ったのもつかの間、また次の派遣先へと出かけて行くのだが、3回目の研修が終わってめでたく全研修が終了した後、会社役員も交えた大掛かりな研修結果報告会が催された。研修先で思い付いた改善提案も併せて発表しなければならなかったのだが(技術的な改善若しくはシステムの考案が社内的に普通一般の改善提案とされている。トヨタのカイゼンをイメージして頂けると分かりやすい)、僕はどうしても思いつかなかったので、現場における安全意識の乏しい部分を写真に載っけて、「これを現場で指摘しました!」とやったのだ(勿論と言ってはなんだが実はやっていない…どの工場現場も目を皿のようにして探せば、叩けば埃は多少とも出て来るものである)。研修先から上司に向けて、発表資料の事前提出が指示されていたので、パワーポイントスライドの中に例の写真を仕込んでやったら、今迄比較的優しかった研修現場の担当者含め周りの世話してくれていた方々が一気に冷たくなったのを覚えている。
要は、出来の悪い工作員みたいな事をやったのだ。しかし今となってはもう時効だろう(笑)帰った後、自分より前のタームに派遣され同現場経験済だった同期に
「なぁ、あそこの現場の◯◯さんってどうだった?」
と尋ねたら
「優しかったぞ!最終日他の人も交えて焼肉に連れて行って貰った!」
と返ってきて察したのである。

発表会が終わり、座学・現場経験含めた1年の長い新入社員研修を終えた僕達は、各現場へ現場監督見習いとして正式配属されるという運びとなったのだが、僕だけは日記生活が続いたのである。それからさらに1年以上が過ぎて転勤になり、今度こそ一般社員のやる仕事を少しずつ任された訳だが、そんな矢先、来たる昇格の時期をスキップされてしまったので本格的に嫌気が差して職を辞したのであった。理由は「そんなレベルにない」との事である。こっちとしては今迄の経緯を盾に反論の余地もあったのだが、「ご安全に!」の人生に元々の不満もあったので逆に辞める契機としたのは盛大な余談である。
その頃はまだ、曲りなりにも大卒として社会貢献しようといった漠然とした大志(笑)を抱いていたのであった。「ご安全に!」が大卒のそれに当たるか当たらないの判断は人それぞれであろう。ただし、工事を発注するメーカー、それを受注する元請け、それを実行に移す下請けという構造の中で、元請けと下請けの橋渡し役を担う役割(中抜き役)に、その存在意義に、自分は一生胸を張れるであろうか真面目に考えてしまった結果でもあるのだ。


という過去を思い出したのは、「東海村JCO臨界事故」がきっかけであった。発生時は1999年、自分はまだ子供であったので当時は勿論なんとも思っていない。しかし、多少の現場監督を経験した後に感じるのは「不思議だな」という違和感だ。
端的に経緯を説明しよう。原子力については全くの素人なので、認識足らずだと思うが、要は、現場作業員が手を抜いてしまった為に、手元で原子爆弾を炸裂させてしまったという事だろう。

九州電力の説明
実際の作業の様子、右が大内さん

僕には狂気の沙汰としか思えない。作業前、ヒヤリハットの洗い出し、書き出しを必ず現場監督は作業員に対して強いるのであるが、1999年時点においてはその程度の安全管理もままならなかったという事であろうか。
「作業前のミーティングなんて、手元足元注意ヨシ!って言い合っている程度だよ」
と指摘されてしまいそうだ。確かにその面は否めない。ただし、そういう危ない工場へ立ち入る際は必ず入館教育を聞かされるのである。「◯◯化学」「新◯鐵」とかって会社があったら、その数だけ、それどころか工場の数だけ入館教育が存在するし、僕は数多の眠たくなる話を潜ってきた。
この人達は眠っていて聴いていなかったのだろうか。いやそうではないだろう。聴かされていなかったのだ。僕のような現場監督という立場の人間、いやそれ以上の人間なら必ず「原子爆弾炸裂」の可能性を知っていた筈で、なんならそういう人間が、逆に
「バケツリレーをやった方が工程は早まる」
と指南した可能性すらある。でないと、硝酸ウラニルといった極めて専門的な物質を精製出来ないのだ。しかし、九州電力の示す工程をみている限り、「要は、ウラン酸化物と硝酸を混ぜればいいんだろう」と作業員レベルで曲解したと思えなくもない。ただし、指南したと言えないまでも、臨界の類を伝えていなかったのは確実であろう。それとも、オリンピック委員会の様なJCOという会社は臨界の可能性を認知していなかったのだろうか。

自分如きが警察まがいをやっても答えは出ないのだ。「死人に口なし」3人の内2人は亡くなった。別室で待機しており、奇跡的に生還した横川さんは、現在取材拒否をやっているとの事。もう忌まわしい過去には触れられたくないという意味なんだろうか、それとも変な事を喋って過去を掘り返したくないという意味なんだろうか。JCOの所長は3年の実刑判決を受けたらしいが、この所長が当時現場近くに居たのか居なかったのか尋ねてみたい。

亡くなった2人が後にどのような病状を辿ったのか写真を載せる。20代の頃に比べて幾分真面目な告発者として。

左が大内さん、右が篠原さん


大内さん被爆後①


大内さん被爆後②


大内さん被爆後③


篠原さん被爆後


大内さんは入院後以下の様な言葉を発していたらしい。

看護婦のメモ①


看護婦のメモ②


看護婦のメモ③


看護婦のメモ④

大内さんは
「モルモットにしないでくれ」
とも言ったとか言わないとか。家族を責めるつもりはないが、大内さん被爆後③の写真の様子を見たら早く治療を終えてくれと思わなかったのだろうか。御本人、麻酔薬を打たれて意識は殆どなかったのだろうが、脳神経は健在だったらしいのでふとした拍子に意識が戻った際は何をか言わんやである。犯罪ではあるが、映画「ミリオンダラーベイビー」の最後を思い出す。

家族の発言「2000年はこしてほしい」


家族の発言「お父さんがんばって」

以上の写真の殆どは、NHKドキュメンタリー「被曝治療83日間の記録〜東海村臨界事故〜」からの抜粋である。
最後以下の様に閉める辺りが、とても政治的でNHKらしい。

家族から医師へ送られた手紙と称したナレーション
「とても悲観的な考えなのかもしれませんが、原子力というものにどうしても関わらなければならない環境にある以上、また同じような事故が起きるのではないでしょうか。所詮人間のすることだからという不信感は消えません。」

結果論だけを申せば、「東海村JCO臨界事故」を通じて日本の原子力政策に対する尻込みと珍しい治験体を得るに成功したのだ。
臨界に達した際、大内さん達は青い光を見たらしい。ある文学者が
「悲劇的なもの、真摯なものにはもう一面にどこか滑稽なところがある」
と言っていた。不謹慎な話だが、現場猫を見ているとそれを思い出した。

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