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写真の中の人物は何者だったか クリスチャン・ボルタンスキー展レポート

2年近く前の下書きが肥やしとなっていました。供養。


ミーハー魂

人の興味のあるところに片脚だけ突っ込んでみた。
自分は興味が散漫になる傾向があり、
「誰かの面白がっているところには何かがある」
そんな風に思ってとりあえず機を見て触れてみる。
言ってしまえば簡単にカモになるタイプ。

数ヶ月も前のことだが、
世界的現代芸術家の1人らしい(不勉強なためあまり詳しくは知らず、恥ずかしい限りである)クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会が東京、大阪で開かれた。

これを知ったのはゲームグループ実況者のウェブラジオで、紹介した人は哲学的で死生観に強い理解というかこだわりがありそうなタイプ。

その人がネット電波を通して最近訪れた展覧会のできごとを話した。

「心臓の音がする部屋に1時間くらいいた」

狂気をはらんでいる発言だなぁと思うとともに、日常でそんなインパクトのある世界観に触れることはなかなか無いだろうな、とも感じた。

何より考えのある奇才タイプのオタクの意見だ。

世間で謳われるありふれたキャッチコピーより段違いの説得力がある。

人を無意識のうちに1時間も閉じ込めてしまうような展示物ってなんなんだ。確かめないと気が済まない。

こうして平日有給をとって、カモになるべくして新国立美術館に赴いたのだった。

生と死

ボルタンスキー展では死生観に根付いた作品をほとんどだった。

・生い立ちからの写真や自画像
・生まれた瞬間から今の時間を刻み続ける電光掲示板
・年単位で撮影したアトリエの監視カメラ映像
・角度によって天使と死神に見える1つの模型
・生きていて楽しいか?と生の意味を問うてくるコートたち……

ウェブラジオ出てきた心音の部屋は想像以上に狭い展示コーナーだった。
ステンドグラスのように配置された鏡ばりの部屋とオレンジ色に明滅する電球のフィラメント、響くのは録音されたボルタンスキーの心臓の鼓動音だった。

あの人はこの空間に1時間もいたのか……。
言葉だけ聞いたときは一種の洗脳か拷問装置かなと疑う内容で、実際に部屋に入った感想としてはほとんど同じだったのだが、

胎内にいる赤ちゃんはこんな感じなのかな、
とまた別の感覚も覚えた。

なんとも言えない気分になったのは確かだった。


知ろうとすること、理解すること

クリスチャン・ボルタンスキー展ではパンフレットが4ページほどの新聞紙形式をとっていた。

紙の地の色が真っ白ではなく薄いグレーだったため、照明の落とされた展示内で印字された小さな黒字を読むには紙を覗き込むことになる。

周囲には多くの作品が置いてあり、
手元には作品の情報の紙がある。

渡された情報をひと通り頭に入れ、ふと顔をあげる。

ほとんどの人が作品の意図や作者の背景を知ろうと、視線を落として写された情報をなぞっていた。

情報を知れば知ろうとするほど作品そのものから遠ざかる姿があり、その光景が本質に無関心な姿に見えてとても滑稽だった。

もちろん私もこの「無関心」な人々の一部分であった。

ボルタンスキーはこの光景も、1つの作品にしたかったのだろうか。


「俺はお前だ」

積み上げられた遺影と向き合う。
ひとりの女性の遺影が目の前にある。

私はこの人のことをこれっぽっちも知らないし、この人も死んだあとに作品にされることをきっと知らない。
でも、目を合わせ続けた。

A3サイズほどの金属製の枠内に収まっている彼女は、どんな最期を迎えただろうか。
死期は予想がついただろうか。
周りにはどんな人に囲まれて日々を営んでいただろうか。
毎日を噛み締めて生きてこられたのだろうか。

モノクロの瞳を見つめ、少し角度を変えてみれば自分の顔が作品のアクリル板に反射する。

彼女は自分だ。
死の覚悟も生きる覚悟もしていない、
腑抜けた自分の姿が見えた。

あまりにも境遇を知らなさすぎる邂逅で、
メメントモリをこんなにも意識づけられるとは。

数百もの無名の人たちと向き合う

作品で1番大きいものは、
スイスの新聞で報道された死者の遺影を集めた展示物だった。
その数は400名を超えるとされ、正確な数は載っていたような気もするが覚えていない。

ボルタンスキーはスイス人のみを本作品の対象としていた。
スイスは永世中立国であり、戦争をしない。
ボルタンスキーはフランス生まれではあるが
「ユダヤ系」の一族の系譜であり、第二次世界大戦で理由なき迫害を受けた民族でもある。

「歴史的に死ぬ理由がない」民族である点で
ユダヤ系とスイス人に強いシンパシーを持ち、
彼はスイス人を題材に選んだという。

それでも人は等しく最期を迎えるのだ。
なるほど、死生観を表すために扱う題材はなるべくフラットな方が良い。

タイミングや過程は様々ではあるものの正当な理由があってもなくても、人は生きて死んでいく。
死はどこまでも生命に平等だ。

いま在る生命のひとつとして

「なんかわからんが凄いものを見た気がする」

会場をあとにし、通りかかったガラス張りのカフェに入って勢いのままに書き留めた。

静かに、淡白ながらも空間の余白にまで死を予感させる作品ばかりで気が張り詰まっていたようだ。かなり疲れてしまった。

購入した作品マグネットを眺めながら展覧会を脳内で復習し、時間は有限であることを思い返す。

作品のテーマにされた人は作品を通して誰かの記憶に残ることができてラッキーだ、単純な気持ちで羨んだ。

いつ死んでも後悔のないように生きる、なんて窮屈で気持ちが悪いなと思ってしまうので自分にはできないだろう。
ただ、1ヶ月後に死を迎える、という設定なら満足に対する妥協点も、忘れないでおきたい軸のことも内省できるだろう。

死に向かって生き続けるしかない一生命だ。
来世に期待を抱きながらも日々大げさでない、たしかな満足を噛み締めていきたい。

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