ぼくのためのメメント・モリ/あきみ

ぼくのためのメメント・モリ
あきみ


「あー、君、あと一週間の命だね」

 内科の先生は、妙に砕けた調子で言った。

「へ?」

 あまりにも突然な余命宣告に、ぼくは素っ頓狂な声をあげてしまった。

「とりあえずお薬出しておきますねー」

「えっ、薬、なんで?」

「鎮痛薬だよ。死ぬ前に痛いのもヤでしょ?」

「……はぁ」


▼一日目

 先々週から体調が頗る悪かった。常に疲れが取れず、脇腹から胸にかけて小さい発疹が出来、口にも数個の炎症が出来ていた。その内に咳が止まらなくなった。夜半に、皮膚の直ぐ下を毛虫がのたうち回るかのような激痛に襲われ、碌に睡眠が取れなくなった。

 これが風邪や体調不良の類ではないと気付き、近くの内科に駆け込んだ。


「とても珍しいウイルスに罹ってるね。全身の神経に居着いちゃってて、これじゃもう何やっても助からないよ」

 先生は尚も軽い調子で続ける。

「イーフィルウイルスと言ってね。普通の免疫機構なら、まず感染しないウイルスだ。君は先天的にこのウイルスに対しての免疫が欠けている。極稀にそういう人はいるんだけど、ウン百万分の一ほどの災難だよ」

 ぼくの頭に先生の説明は全く入って来なかった。突き付けられたおぼろげな絶望の、その全容どころか、一端すらも捉えられず、ただ〝一週間〟という数字だけが頭の中をぐるぐる回っていた。

「もう神経が馬鹿になっちゃってるから、薬さえ飲めば、今夜には発疹や炎症、痛み、咳は無くなるね。他者に感染するリスクは無いから外出してもいいよ」

 先生は早くもカルテを片付け始めていた。

「私の見立てだと、息を引き取るのは七日目の朝かな。ま、残された時間を精一杯楽しむといいさ」

 診療所を出て薬局で薬を受け取ると、ぼくは呆然としたまま帰宅した。


 アパートの自室に着くと、上着や装飾品もそのままにベッドに倒れこんだ。ぺちゃんこの毛布は、ぼくの身体の骨ばった部分を心許なく受け止める。ベッドの骨組みを反射したぼくの鼓動が毛布越しに伝わってきて、先程の出来事を、嘘だ嘘だ、と言っているようだった。

 一週間の命、間近に迫る死。

 あまりにも現実感を欠いていて、ぼくの手には余る宣告だ。ちょっと面倒だとすら思った。

「誰かが代わりになってくれないかなあ」

 およそ余命僅かな人間が言うのとはちょっと違った意味で、そんなありきたりなことを言ってしまう。

 薬を飲み、咳と疼痛が和らいだことで、その夜は二週間ぶりに熟睡することが出来た。


▼二日目

 昨日のことは夢に違いないと思った。しかし、二週間も苛まれていた身体の不調がさっぱり取れていることが、惨くも現実であることの証明だった。

 さて、どうしたものか。

 死を前にしても、ぼくはそれに対して真正面から向き合うことが億劫でしょうがなかった。遺書の一枚でも書けばいいのだろうが、生憎書き残すことが思いつかない。

 こうなってみて初めて気づいたのだが、どうやらぼくは死ぬのに向いていないようだ。


 結局、いつも通り大学に行くことにした。
 
 いつも通りの通学路、自室から大学まで十五分ほどの一本道。道に沿って流れる川、その縁に並んで植わっている桜の木は、例年の冬と同じくしてその葉を振り落としている。起床から時間が経過し、血が巡り始めた脳にとって、代わり映えしないその風景はいささか刺激に欠いていた。

 目は無意識に珍しいもの、動いているもの、目新しいものを見つけようとしていた。

 そうしてぼくの無意識は目ざとく一軒の喫茶店に目をつけた。この真っ直ぐの道の途中、大きな国道と交差する十字路の、大学の反対側左手向こう岸、つまりは今ここで大学に行かんとして十字路の右側手前で信号待ちをしているぼくの、交差点を挟んで左前に位置する喫茶店だ。

 昨日までは見かけなかった店だ。信号が赤い間、遠目からじろじろと観察する。

 落ち着いた雰囲気の、居心地の良さそうな店内だ。予定の無い休日などに、読書しながら時間を潰すのに最適だろう。立て看板の「来春オープン」の文字を見て、開店を待ち遠しく思うも、自分が「来春」まで生きてはいないということを思い出して、ちょっぴり残念に思った。


 始業数分前のキャンパス内には、大勢の学生が行き交っていた。

 その日、授業を受ける教室はキャンパス内で最も大きな棟の一階に位置する大教室だ。幾人かの学生が吸い込まれていくその中に混じって、ぼくも教室に入る。

 人がいっぱいの教室で、辛うじて自分の席を確保する。一息ついていると、視界の端に誰かが乱暴に荷物を置くのが映った。

「ここ、いいスか?」

 気怠そうな顔の男だった。腰かけている二人掛けの長机、そのもう片方に座っていいか、という意味で尋ねているのだろう。ぼくは許可の意を、首を縦に振って示すと、彼はこれまた乱暴に腰を下ろした。


 授業を受けていると、いつも通りの日常の中に身を置いている安心で、自分の死について考えずに済んだ。

 将来の為の勉強であるはずなのに、ぼくにはその将来が失われているという矛盾。しかし、日常に馴染んだ学校生活というものが、今のぼくを慰めているという事実。

 そんなちぐはぐの中で、ぼくはふわふわと、足が地に着かないような心持だった。

 だがしかし、曖昧な恐怖から意識を逸らそうとするような本能が自分に働いていることを、薄々感じてはいた。圧倒的な不安を前にして、精神を自衛するために、その不安がまるで無いかの様に振舞う。そんな感じだ。

 気が付くと、隣の彼は荷物だけ残して忽然と姿を消していた。それからかれこれ二十分以上帰ってこなかった。きっと何処かでコーヒーでも飲んでいるか、煙草でも燻らしているのだろう。授業に参加はしないが、出席点は貰おうという魂胆に違いない。大人数の授業では決して珍しくないやり口だ。
これだけ人がいるのだ。一人くらい消えたところで誰も気にしないだろう。


 この日の授業は午前だけで、午後からはアルバイトの予定が入っていた。例によって日常ボケしたぼくは、バイト先へと歩を進めていた。

 大学の最寄り駅から二つ隣の駅、そこから徒歩五分の居酒屋だ。その立地の良さから、平日でも客入りは良い。

 都内最低賃金の自給の上に、仕事内容はキツいが、採用基準が甘くて学生の同僚が多いから友達が出来そう、という理由で始めたバイトだ。結局、バイト先の人間とは表面的な付き合いしかせず、世間話をする程度の仲にしかなれなかったのだが。

 電車に揺られながら、もし今からバイトに行かなかったらどうなるのか考えてみた。自分の残り時間を低い賃金で切り売りする馬鹿らしさに今更気付いたのだ。どうせ今働いたところで、給料が入るのは来月で、その頃にはもうぼくはいないのだ。

 もしぼくがバイトに行かなければ……。

  みんな困るだろうな。出勤者が一人減るだけでカツカツになるような業務体系なのだ。ぼくがいないために店がてんやわんやになるのを想像すると不思議と申し訳なさはなく、ちょっとだけ愉快だった。

 勿論、誰もぼくを心配したりなどしないだろう。ぼくが出勤しなかったことで、事故に遭ったのか、怪我でもしたのか、とぼくの身を案じる者はいないだろう。でも……。

 「困るんだろうなぁ」

 自分の顔がにやついているのが分かった。

 すると突然、自分を含めた周りの全部が足元からふるい落とされるような
衝撃を感じた。電車が急停止したのだ。車内がざわつく。


《ただいま非常停止ボタンが押されたため、安全確認を行っております》


 そのアナウンスと共に、人々はまた自分の世界へと戻っていく。


《ご乗車のお客様にはご迷惑をおかけしています。ただいま人身事故が発生致しました。運行復旧までは今しばらくお待ちください……》


 何処かから聞こえた舌打ちの音は、思いの外響かず、車内の空気に一体となって消えた。


 電車が動き出して、次の停車駅でぼくは降りた。最寄り駅から一つ隣の駅だ。

 バイトは結局行かないことにした。やっと自分の日常から抜け出せそうだ。
 
 駅内に設置されたATMから、預金の全額を引き出す。全部で25万と8974円だ。これから死ぬまでの明確な青写真がある訳ではないが、元手があるに越したことはないだろう。それに、この行為自体が、ぼく自身を日常から引き剥がすためのリハビリのような意味があるのだ。

 何となく、この駅から自分の部屋まで歩いて帰ってみようと思った。この駅で降りたのは、ただバイトに行きたくないからで、特に用があるわけではなかった。しかし、いつもと違う風景の、長い帰り道は存外楽しいに違いない。

 小学生の頃、親に内緒で、友達と寄り道してから下校したことがあった。いつもと違う下校道は、ただそれだけで、幼いぼくの冒険心に刺激を与えた。ユーレイ屋敷と呼ばれる曰くつきの廃墟を見に行ったのだが、途中でおっかなくなって二人して逃げ帰ったのを覚えている。遅い帰りを心配していた母親に怒鳴られたのを覚えている。

 ここにはぼくを怒鳴る人もいない訳だし、やはりこの駅から歩いて帰ることにした。

 スマホの地図アプリを開き、アパートまでの大まかな距離と方向を確認し、歩いてゆくことにした。

 駅前の、居酒屋、喫茶店、カラオケなどの風景を通り越すと、寂れた商店街に出た。ほぼシャッター街と化した通りはやけに長く続いていた。ある店では、店先に置かれた閉店セールと書かれた旗が日に焼けていた。いつから閉店セールをやっているのだろうか。ちょっと覗いてみると、古ぼけた雑貨屋だった。店頭に出されている雑貨たちは、値札が何枚も重ねて貼られており、もとの値段はほとんど分からなくなっていた。

 一個だけ買ってみようか。何だか彼らが可哀そうに思えて仕方がなかったのだ。そう思ってぼくは、黒い犬を模したキーホルダーを手に取った。


 そろそろアパートも近い、といったところで、意外な場所に公園を見つけた。こんな近くに公園があるなんて思いもしなかった。大学生ともなれば、公園なんて気にも留めない場所であるから、今まで目に入らなかったのだろう。

 しかし、今のぼくは日常にいて非日常に生きているのだ。公園という場所にちょっとしたときめきを覚えていた。

 日もかなり傾いているが、遊具で遊ぶ子供の姿はほとんど無かった。最近は、不審者の出没などで、子供が外で遊ぶだけでも危険だと言うし、そういった影響だろうか。

 ともかく、ぼくにとっては公園を貸し切ったような気分を味わえたので申し分のないことであった。

 楽しくブランコを漕いだり、滑り台で遊んでみてもいいのだが、やはり気恥ずかしさが勝って、ぼくは大人しくベンチに腰かけて物思いに耽ることにした。

 ふと、スマホのコミュニケーションアプリを開いてみた。普段、バイトの連絡に使っているものだ。予めバイト先からの通知は来ないように設定しておいたので、今開けば、店に来るよう催促するメッセージの通知が画面いっぱいに広がることだろう。

 しかし、意外なことにメッセージは一通も届いていなかった。今夜は客入りが良くなかったのだろうか。それで一人来なかったところで、特に問題は無かったのだろうか。

「なんだか期待してたぼくが馬鹿みたいじゃないか」

 このことは、ぼくの気性を些か暴力的にした。

 リュックの中の筆箱からハサミを取り出す。そしてスマホを保護する手帳型のカバー、そこに挟んである保険証やら学生証やらを抜き出して、ハサミでズタズタに切り裂いた。

 ぼくは死ぬんだ。一週間となく死ぬんだ。

 今更こんなものに意味などないのだから、別に切ってしまっても構わないだろう。

 自分に、あるいは誰かに見せつけるように切り刻んだ。それだけでは足りなかったので、リュックのポケットからライターを取り出し、着火することにした。

 学生証やポイントカードは燃えにくかったが、保険証や診察券はよく燃えた。そいつらを火種に、そこら辺の小枝や枯れ葉を燃やしてみた。冬場の乾燥によって、それらはすぐに燃え移った。

 その陰鬱な焚火を、しばらくの間眺めていた。炎は雑多のもの全部を変換していく。光と熱へ。煙と灰へ。それは、早々に訪れる冬の日暮れと、冷たい風に抗っているようにも感じられた。

 次第に火は大きくなり、煙の量も増えてきた。これでは人目についてしまう。それも面白いかもしれない。でもやっぱり、余命僅かでも警察のお世話になるのは嫌なので、足で揉み消して退散することにした。

 公園に入ってきた子供が燃え跡を見つけてしまったが、幸いにも、ぼくと燃え跡とを交互に見て、

「何を燃やしたの?」

 と無邪気に訊いてきただけだった。

「いろいろ」

 ぼくはぶっきらぼうに言い放って、その場を後にした。

 何か、言葉にできない靄のようなものを抱えながらぼくは部屋に辿り着いた。

 ベッドに倒れこみ、一頻りぼうっとしてから、冷凍食品のパスタを温めて、夕食にした。

 食事をしながら、ぼくは残った日をどう過ごすべきか考えていた。しばらく考えてから、ぼくは妙案を思いついた。


[死ぬ前 やるべきこと] 〔検索〕↙


 しかし、出てくるのは遺産相続や葬儀のことばかりだ。生憎、財産もなければ、葬式だって挙げても挙げてくれなくても構わない。

 ぼくは検索に使う言葉を変えてみた。


[自殺前 やるべきこと] 〔検索〕↙


 これなら若い人向けの内容が出てくるのではないかと踏んだが、検索エンジンから福祉の電話相談窓口を紹介される、という結果に終わった。

 とりあえず、定期サービスの解約やネットワークアカウントの削除などを行った。

「明日は身辺整理でもしようかな」

 その日は早めに床に就くことにした。


▼三日目

 今日の午前中いっぱいは、身辺整理に費やすことにした。本当なら今日も朝から授業があるのだが、ぼくは既に昨日のうちに日常を破壊し終えていたので、それがもはや無駄なことだと確信できた。

 ほとんど当てつけみたいにして、大学で使った教科書や配布物は全部まとめて捨ててしまった。

 普段は掃除なんて億劫で苦手だったが、今回はかなり積極的に臨むことが出来た。というのも、「これはここに戻す」とか「あれはあそこに置いておく」などは考える必要はなく、気に入らないものを捨てるだけで良かったからだ。気に入らないもの、というのは主に、死後に見られたら恥ずかしいもの、だと自分の中で定義していた。死後にどう思われたっていいだろうとは思うが、残りの日を気負いせず過ごすためだ。

 死後にどう思われてもいいのなら、昨日の炎は何のためのものだったのか。そこには、日常を破壊する以上の意味が何かあったはずだ。


 今日は、いつもなら、同じように午前中に授業がある親友のサダと学内食堂で昼食を摂る予定だ。身辺整理も一段落ついた上に、誰か知り合いに会いたい気分だったので、わざわざ大学まで出向くことにした。

 サダは大学一年生の頃のクラスメイトだった。入学初日でのクラスメイトとの顔合わせで隣に座っていたので、その日の昼食に誘ったのがきっかけだ。大学という初めての環境の、何処から手を着けていいか分からなかったぼくは、人見知りの気性に鞭打って話しかけたのだ。最初はお互いに探り探りのコミュニケーションだったが、すぐに打ち解け、それから週に一回か二回は昼食を共にする仲になった。特に何か共通の趣味があった訳じゃない。ただ何となく波長が合ったのだ。お互い、変にベタベタせず、あまり相手を気にしない性質が符合したのかもしれない。傍から見れば、仲良くはなさそうなのによく一緒にいる二人組だと思うだろう。

「それでさ、この前言ったユーチューバーの話なんだけどさ……」

 サダはいつも通り、その巨体にカツ丼をかっ込みながら、ぼくの興味を無視した会話を展開していた。ぼくもいつも通り、菓子パンを食べながら彼の言葉に適当な相槌を返す。

「……へぇ、そんな面白いことやるんだね」

「でさ、歌なんかも歌ったりしてさ、メッチャいいからお前も見ろよ……」

 サダが機関銃のように喋り倒し、ぼくがちょっとした反応を返す。平坦な会話、中身があるような無いような、いつも通りの会話だ。

 ぼくはこの空気感が嫌いじゃない。

 しかし、今のぼくには少しだけ、この会話が気に入らなかった。

「なぁ、サダ」

 昼食中に自分からサダに話しかけるのは珍しいことだった。ぼくの中で、何か保とうとしていたものが、ほつれているのに気づく。

「んぁ?」

 上唇にカツの衣の欠片を付けたまま、サダはこちらに視線だけ向けた。

 ぼくは今、自分がちょっとだけ意地悪になっているのを感じた。意地悪と我儘とに浮かれているのを感じた。

「あと四日でぼくは死ぬんだ。医者に言われた」

「へぇ~、そうなんだぁ」

 サダは、まるで天気予報でも聞いたかのような薄い反応を返すと、再びカツ丼を流し込み始めた。そして、またも畳みかけるような喋りを展開した。

「さっきの話の続きなんだけどね、今のエンタメのトレンドってのは……」


 まぁ、そうだろう。そんなとこだろう。死ぬなんて急に言われても困るよな。困る? いや、困ってなんかいないか。どうだっていいよな。大学から知り合ったような奴が、ただちょっとした会話の相手が、ただ相槌を打つようなだけの奴が、死のうが生きようがどうだっていいよ。ぼくだってそうだ。ぼくみたいな奴に急に「死ぬ」なんて言われてもどうだっていいもん。はは、恥ずかしいや。本当に気の迷いだったんだ。忘れてくれないか。すまない、あぁすまない。どうも、空気を悪くしてすまないね。

 そうだ、思い上がるな。いつの間にぼくはそんなに偉くなったんだ。この世にはこれだけ人がいるのだ。ぼくの代わりなんてごまんといる。ぼくはぼくの場所に頼まれて座っているんじゃない。ぼくが勝手にしがみついているんだ。


 サダは午後の授業のために去って行った。ぼくは自分を戒めるような気持ちを募らせながら、食堂に残っていた。
 自分の存在が限りなく希薄になって、現実から遊離していくような感覚を覚えた。周りの喧騒が一瞬消えたような気すらした。


 アパートに戻るぼくの足取りは、外面的には健康そのものだが、内面的には満身創痍だった。片足を引き摺り、腕を抑え、全身から血を止め処なく流しているような心持だ。

 たかが一回、興味を引けなかっただけだろ。それも単に友人に対して。それでそんなに傷ついて。本当に大袈裟な奴だな、ぼくは。そうやって痛がっていれば、誰かが気に留めてくれるとでも思っているのか。

 ぼくはぼく自身を叱りつけることでしか、この痛みを紛らわすことが出来なかった。

 あまりにも情けない。

 ぼくが死ぬのは、あるいは、世界がぼくという人間の不甲斐無さにいい加減愛想を尽かし、遂には処刑するに至ったからかもしれない。


 ぼくには何も価値はない。なら、ぼくは何だ? ぼくはこのまま死ぬのか? ただ生まれて死んだだけじゃないか。
 

 ぼくはほとんど衝動的に電車に乗り込んでいた。

 何処か。何処かに行かなくてはいけない。このまま埋もれるように死にたくない。何処か綺麗で安らかで落ち着いた場所へ。否、そうでなくとも、ここではない何処かだ。ぼくは最低限の荷物だけ持って、ほとんど失踪するような心持でいた。

 赴くままに旅しようと思うも、無意識に人との繋がりを求め、足は知っている場所に向かおうとしていた。都心で新幹線に乗り換え、そこから四時間ほど揺られて、ある地方都市へと行き着いた。

 ぼくの地元だ。本当なら、ここから更にバスを使って一時間ほど先にある海辺の町に実家があるのだが、今日はもう遅いので、駅付近のインターネットカフェに泊まることにした。

 東京より南に位置するこの都市は、ほんの少しだけ温暖な気候をしている。しかし、冬の酷寒の前には気休め程度のものでしかない。

 地方〝都市〟というだけあって、巨大な駅構内と、ビルが立ち並ぶ様はまるで都会のそれだ。しかし、明確な人通りの少なさと、夜景を飾る照明の乏しさは、都会の廉価な模造品と言わざるを得ないだろう。

 しかし、周辺地域からすれば、この地方都市は紛れもなく〝都市〟であった。


 インターネットカフェを見つけ、ぼくはその中におずおずと潜り込むように入って行く。

 薄暗く、ほんのりと煙草臭い、一畳半ほどの個室で、身体を折って横になる。目を瞑ろうとした時、周りから聞こえる雑多な音が耳をくすぐった。

 キーボードを叩く音、服が擦れる音、押し殺したような寝息、何か乾いたものを咀嚼する音。生活音と言ってしまえば一括りに出来るそれを、耳を澄まして聞き分けていると、不思議と気持ちが落ち着くのだった。


 見渡す限りの荒れ地。

 ぼくは干からびて倒れこんだ。

 誰かがぼくを遠くから見ていた。

 砂塵に遮られてよく見えない。

 目を凝らす。

 そいつは黒い布を纏っていた。

 影になって顔がよく見えない。

 光を反射した目だけがぼうっと浮いている。

 その目に見覚えがあった。

 風に吹かれて靡く布から痩せた四肢が見える。

 死神だな。

 そう直観した。

 そいつは何も言わず、ただぼくを真っ直ぐ見ていた。

 何だ、何か言いたいことでもあるのか。

 死神は押し黙ったまま立ち尽くしていた。

 それがただただ苛立たしかった。
 

▼四日目

 気付くと次の朝だった。いつの間にか寝付いていたらしい。起き上がると、身体の節々が軋むように痛かった。どうやら狭い所で寝たのがいけなかったらしい。会計を済ませて外に出ることにした。

 未だ夜の冷気を残した朝の風に顔を顰める。自販機で懐炉代わりにボトル缶のコーヒーを買って、停留所で飲みながらバスを待つことにした。

 白いガスを吐きながら、バスが到着した。始発のバスにはほとんど人が居なかったので、堂々と荷物を隣の席に置いてくつろいだ。

 車窓から、街並みが段々と寂れていくのを眺める。海に近づけば近づくほど、道を通る車の数も少なくなり、建物の背も低くなっていく。

 市の境となる橋を越えると、左手が開けて海が現れた。

 東京で知り合った人たちに自分の地元を紹介すると「海がある町なんて素敵だね」とよく言われるが、ぼくはこの海を好ましく思ったことなどない。

 きっと彼らもこんな海を想像して言っているのではないだろうが。

 くすんだ深緑色で、常にゴミや油膜が浮いている。限られた箇所にだけ砂浜を携えているが、基本的には切り立ったコンクリートに接していて、窮屈な印象を受ける。舞い踊る鯛や鮃なんている訳がなく、フナムシやフジツボばかりがセメントに繁殖している。

 この町の海は主に漁業の為にある。行き来する船は遠洋で魚を獲ってきた水揚げ船ばかりだ。海沿いにあるのは、港と工場、パチンコ屋、性風俗店ばかりで、地元住民ですら近寄りがたい雰囲気を放っていた。

 『海はまだ見ぬ場所への旅の入り口』、というのが、この町のUターン就職推進活動のキャッチコピーらしいのだが、本当に悪い冗談だとぼくは思う。

 海は開放感があっていい、と言う人もいるが、ぼくには海が巨大な壁のようにしか見えない。

 バスが坂を下ると、海はまた町並みに隠れていった。その先からは、いよいよ民家が目立ち始める。ぼくの実家もこの辺りだ。ぼくはのそりと降車ボタンを押した。


 実家に帰ってきたのは、今年の一月以来だろうか。約一年ぶりの実家は嫌なくらい変化がなかった。玄関前の猫の置物の角度も、雨樋と壁の間に作られた蜘蛛の巣も、二階の出窓に見える多肉植物の並びも。

 ここまで来て、やはり止めておこうか、と尻込みしそうになる。こんなとこに来たって意味無いじゃないか。何を期待しているんだ。何があれば満足なんだ。

 自暴自棄気味にチャイムを押すと、出迎えたのは父だった。

 父は一瞬だけ怪訝な顔をすると、すぐさま笑顔を作り上げ、

「誰かと思えばハルじゃないか。帰ってくるなら連絡すればいいのに。そしたら駅まで迎えに行ってやったよ。水臭いやつだなぁ」

「久しぶり、父さん。仕事中邪魔して悪いね」

「いんや、午前中にやるべき案件は全部片づけたからね。ちょうど昼ご飯まで休憩してたとこだ」

 父は在宅で翻訳の仕事をしている。普段なら仕事中は一切書斎から出てこない。

「しかし急にどうしたんだ。何か困ったことでもあったのか? それは電話とかじゃダメだったのか?」

 父がその真意を隠しながら、あるいは無自覚の内に、ぼくを拒絶しているのが分かった。

 何も知らない人から見ると、父は人柄が良くて頼りになる人間らしい。
しかし、ぼくから言わせれば、臆病な偽善者だ。ぼくを疎ましく思いながらも、決して自分が〝子供に理解が無い父親〟に成り下がることをよしとしていない。

 だから表面的にはぼくに対して好意的に接する。だが時として、先程のようにぼろを出すことが往々にあるのだ。昔からそうだ。少しも変わっていない。

 奥から物音が聞こえ、足音が近づいてきた。

 もう一人がぼくの帰宅に気付いたようだ。

「どうして帰ってきたの?」

 溜息まじりにそう言いながら、奥から現れたのは母だった。その表情には明らかな嫌悪感が剥き身になっていた。

 父とは違い、母はぼくへの拒絶感を隠さない。ぼくがまだ一人暮らしする前、家にいるぼくに向かって舌打ちをすることもしばしばだった。

「明日には帰るよ。ただ……」

「ただ?」

「みんな元気かなって」

「元気よ。私も父さんも姉ちゃんも」

 これで気は済んだか、という目で二人はぼくを見る。

「あと……久しぶりに母さんの手料理食べたいなあ、なんて……」

「はぁ……じゃあ昼ご飯食べてけばいいわよ」

 母はぶっきらぼうにそう言うと、また家の奥へと戻って行った。

 父は目を泳がせながら、何やら呟きながら書斎へと戻っていく。


「ただいまー」

 ちょうど昼ご飯が食卓に並ぶ頃、大学院に通う姉が帰ってきた。例の地方都市にある大学の研究室まで、バイクで通っているのだそうだ。

 姉は姉で、父親に似て偽善者の気がある。わざわざ昼ご飯を食べに四十分ほどする道のりを帰ってきて、「やっぱり家族で食べるご飯は美味しいね」と平気で宣うのだ。

 しかし、姉と父との違いは、ぼくへの態度にある。彼女はぼくに対して無関心だ。言葉遣いだけは親しげながらも、その接し方は他人に対するそれだ。

 どうやら、姉が大好きな〝家族〟に、ぼくは含まれていないようだった。

 姉はぼくの姿を認めると、ただ一言、

「おかえり」

 とだけ言って食卓についた。

 ぼくの存在によって、昼食は通夜のような雰囲気になってしまった。箸が食器に触れる音ばかりが響く。たまに姉が父親に話しかけるが、それもすぐに萎んでいく。

 こんな状況を作ってまで母親の料理を食べたいと言った理由は二つある。
「最後の晩餐は何がいい?」という定番の問いに対して、これまた定番の答えが「母親の手料理」だ。これを実証したかったというのが一つ目だ。

 二つ目は、母親に媚びることで、少しでもぼくを憐れんでくれたら、と思ったからだ。母は何も、ぼくが生まれた頃からこんな態度ではなかった。小学生の頃などは溺愛していたほどだ。その頃の愛情をほんの僅かでも思い出してくれれば、という訳だ。

 しかし、察しの通り、思惑は二つとも失敗に終わった。久しぶりの母の手料理には吃驚するほど感動しなかったし、母親は依然不愉快そうなままだ。

 彼らが悪いんじゃない。それは重々承知だ。

 小さい頃から、ぼくだけが家族とズレていた。単に少し変わった子だったのが、いつしか彼らと違う食事を好み、彼らと違うテレビ番組を視聴し、彼らと違う音楽を聴き、彼らと違うジョークで笑うようになる。

 彼らが心地いいものがぼくにとって心地よくなく、その逆もまた然りだった。本当にそれだけのことだ。それだけのことだが、家族という距離感はそれを許さなかった。

 小さなヒビは、気付くと大きな亀裂に成長していた。

 そう、彼らが悪いんじゃない。ぼくだけが我慢して彼らに合わせていれば、こんなことにはならなかった。

 この家族は、ぼくの不在によって完成する。

 それを改めて認識した。急いでこの場を逃げ出したくてしょうがなかった。

 しかし、ぼくはそんな感情の奔流に耐えて言葉を振り絞った。

「ぼくはあと三日で死ぬらしい」

 父は唖然とした表情でぼくを見つめ、母は大きな溜め息を吐き、姉は黙々と食事を続ける。

 数瞬の沈黙。それを破ったのは母だった。

「別にいいけど。家族に迷惑かけるのだけはやめてね」

 父は俯くばかりで押し黙ってしまった。

 姉は相変わらず、無視を決め込んでいた。


 事務的に、極めて事務的に食事を終えると、ぼくは別れも告げず、家を後にした。

 しばらく歩いていたが、遂に堪らず駆けだした。

 逃げろ! 逃げろ!

 何が怖くて逃げる? 死を前にして何を恐れる? まるで死ぬより怖いことがあるみたいじゃないか。

 孤独だ。孤独が怖いんだ。死ぬよりずっと怖いんだ。否、死が孤独を浮き彫りにし、その鉤爪を照らし出したのだ。いつか孤独から解放されるという〝見込み〟が、孤独の痛みを和らげてくれているに過ぎなかったんだ。

 ぼくは孤独なんだ。どうしようもなく。先日の公園での炎も、居心地の悪い実家へぼくを駆り立てたのも、全ては孤独の為だったんだ。

 ぼくが今まで他人事のように接してきたもの全部の〝見込み〟が今失われようとしているのだ。認めたくなかったもの全て、認めざるを得なくなってしまった。
 
 死とは人生の清算だ。どう言い訳しようと、そこでぼくらの価値や意味と言ったものは締め切られてしまう。それ以上もう未来に縋ることも出来なくなってしまう。

 ぼくには結局、価値や意味なんてないんだ。


 息が上がって我に返ると、ぼくは思い出深い場所にいた。

 民家が密集する中、その上を過ぎる高架橋の下に設けられた小さな遊び場。そしてそこから狭い車道を挟んで向かいにある、古ぼけた焦げ茶色の廃屋だ。

 玄関先は開けており、そのガラスの引き戸から積み上げられた段ボールが見えた。もう長いこと人が出入りしていないらしく、埃が溜まっていた。

 ここはかつて駄菓子屋だったはずだ。ぼくの実家から小学校への通学路、そのちょうど中間地点に位置していた駄菓子屋だ。登校時はこの駄菓子屋を見かけると「あと半分……ここまで来た道と同じ長さの道をあと一回……」と思い、下校時はここで友達と駄菓子を買って食べながら帰った。

 当時は老夫婦が切り盛りしていたが、この様子だと何処かに越したか、亡くなったのだろう。

 死者の瞼を閉じるように、引き戸をそっと閉める。

 ぼくはそのまま、小学生の頃に通っていた学校へ向かうことにした。


 久しぶりに歩く通学路は新鮮だった。あの頃とは違う所は少なからずあった。駄菓子屋を過ぎた先にあった弁当屋が無くなり、今は駐車場になっている。学校の近くにあった公園からは回転遊具と昇り棒が消え、代わりに屋根とベンチを備えた休憩所のような場所が設けられていた。
それら細やかな変化以上に、あの頃の自分より目線が高くなったことによって、その風景は全く別の様相を呈しているのだった。

 巨大な壁だった塀も、今では自分の背丈より少し大きい程度だ。長いと思っていた通学路も、あっという間に歩き終わってしまった。

 久しぶりに見た母校も、記憶の中のそれよりずっと小さかった。最近取り付けられたらしい耐震補強のM字鉄骨が目新しい。グラウンドの半分を覆っていた芝生はほとんど刈り取られていた。当時とは印象が少し変わっていた。

 小学生の頃の自分が、ずっと遠くのものに感じる。見るもの全部が大きくて、触れるもの全てが新しかったんだろう。家族とも今よりずっと仲が良くて、毎日友達と遊んでいた。

 楽しかったな。先行く不安よりも、未来への期待の方がずっと大きかった。このままいろんな人たちに囲まれながら、勉強に励んだりいろんな体験をして、人並みかそれ以上に幸福に生きていくのだろうと信じて疑わなかった。まさか二十一歳で孤独の内に死んでいくなどとは露知らず。

 かつては膨大に思えた時間も、今はあと3日だ。


 すぐそばを一台の原付が通り過ぎた。走り去る後ろ姿を、つい目で追ってしまった。雑に被ったヘルメットの顎紐が、脱色された長髪と共に後方へと靡いている。体格に比して大きめのサイズのその服もパタパタと音を立てていた。

 大学生だろうか。ぼくはこの人のことを良く知らないはずなのに、何故だか嫉妬の感情を覚えた。

 それは偏に自分に近しい身分の相手だからだろう。この世にいる大学生の中で、ぼくほど不幸な人間はいまいと、信じて疑わなかったからだろう。

 一体、ぼくが何をしたというのだろうか。何も悪いことはしていないじゃないか。仮に無自覚に悪行を働いていたとしても、原付のコイツだってぼくと同じくらい悪い奴かもしれない。ぼく以外のみんなが聖人だとでもいうのか。

 そんな言葉や感情も全部、ただの駄々に過ぎないことくらい知っている。それでもぼくは自分で処理しきれない絶望をそうすることでしか発散出来ないほどまで精神を磨り切らしていた。

 気が付くと、道の先で例の原付が停車しているのが見えた。目を薄めてこちらを伺う顔に見覚えがあった。

 近づいていくと、向こうから話しかけてきた。

「お前……もしかしてハルか?」

 小中高と一緒だった親友のカオルだ。親しかった人との記憶は声から忘れていくそうだが、会わなくなって三年経った今でも、カオルの声は忘れていなかったようだ。

「久しぶり、カオル……」

 カオルとは小学三年生の頃に、生活の授業で同じ班に分けられた時からの仲で、そのまま高校卒業まで一緒だった。それ以来、一切連絡は取っておらず、同窓会にも顔を出していなかったため、本当に久しぶりの再会だ。

 綺麗な直毛が印象的だったが、今はすっかり大学生らしい脱色とパーマの餌食になっている。

「良い機会だし、ちょっと話そうよ。ほらここ乗りな」

 そう言ってカオルが指し示したのは、原付の座席の後部だった。

「お前それ……違反だろ」

「ニケツくらいでつべこべ言うなって。ほら行くぞ」


 カオルに連れられてやってきたのは、地元では〝旧港〟と呼ばれている場所だった。もともとは町で一番水揚げが盛んな港だったが、地理的な都合と老朽化の為に新しく〝新港〟が作られたことにより、半分打ち捨てられた場所だ。今でも倉庫や駐車場として使われてはいるが、管理はされていない。しかし、人目を気にせず駄弁るには絶好の場所だった。

 カオルはぼくをここに下ろすと、一旦何処かへ消え、また戻ってくると、両手に500mL缶の発泡酒を携えていた。

「お前……飲酒運転……」

「そう言うと思った。これ買う時にお前を置いてって正解だったな。大丈夫だよ、これくらいで酔いはしないから」

 そう言うと片方の缶を開け、それをぼくに突き付けてきた。

 ぼくは拒絶しようとした。ぼくは完全なる下戸で、弱めのカクテルでも二~三杯でダウンしてしまうからだ。大学一年生の時に体験入会したサークルの飲み会で調子づいて泥酔してしまい、その後ずっとトイレで介抱されたあの時以来、一滴もアルコールは摂取していなかった。しかし、久しぶりに会った親友にこれ以上堅物だと思われるのも癪だったので、ぼくはその缶を受け取った。

 旧港の海にせり出した部分、そのコンクリートに二人して座った。投げ出した足の数十センチ下には海面があった。

「ん、それじゃあ乾杯」

「何に?」

 ぼくは苦笑して言った。

「二人の再会に、ってことで」

 互いの缶の縁を当てると、そのまま一口飲み込んだ。その瞬間、口いっぱいにアルコール特有の苦みと薬品臭が広がり、ぼくの身体は拒絶反応を示したが、自棄になって喉に通した。

「高校卒業以来か。お前、東京に出たんだったよな」

 カオルが訊ねてくる。

「あぁ、向こうで大学に通ってて、そのまま都内で就職を考えてるよ」

 ぼくが今話しているのは、かつてのぼんやりとした人生計画だ。カオルに余命のことを話すのは、もう少し様子を見てからにしようと思ったからだ。

「カオルは確かウチの姉ちゃんと同じ大学に行ってるんだよな」

「ああ、地元を出る理由も無かったしな」

 少しの間、お互いの学生生活や近況を話した。

 カオルは大学に入ると、軽音楽サークルとアルバイトに精を出したらしい。今はもう、サークルは引退したらしいが有志と組んだバンドを未だ続けていて、これからも趣味として続けていくんだとか。今は就職活動に励んでいて、目当ての企業のインターンシップに何回か顔を出し、既に社員からお墨付きを貰っているという。

 ぼくはカオルのかくありきといった学生生活に圧倒されてしまった。

 ぼくは悪行こそ働いていなかったものの、それ以上に何も為していないということを突き付けられてしまった。

 ただ授業に出て、サダと他愛もない話をして、事務的にバイトをしてきただけのぼくとカオルでは、その学生生活に雲泥の差があった。

 しばらくすると、カオルは話題を中断して、わざとらしくちょっと怖い顔をしてこう言った。

「どうして連絡してくれなかったんだ?」

「それは……」

 それは、お互い大学で出来た友達と楽しくやっていくんだろうと思ったし、例えそうじゃなくても滅多に会えないのに連絡するなんて面倒だろうし、そうやってズルズルと微妙な距離感を維持するのも悪いし……。

「ハル、お前、自殺したって噂聞いたぞ」

「えっ」

「東京の大学に行ったって話は何人か知ってたが、誰もそれ以上は知らなかったし、連絡も取って無かったからな。それに成人式と同窓会も来なかっただろ。だからその内誰かが言い始めたんだろうよ。『ハル、死んだんじゃね』って」

 なんて意地の悪い冗談だろうか。ぼくは自殺したと思われていたが、その実ちゃんと生きていて、しかし既に余命は幾許かなんて。

 彼らの中でぼくは既に死んだようなものだったのだろうか。だから〝自殺した〟などという噂が流れたのだろうか。それなら、彼らの中で死んだぼくに合わせるようにして、現実のぼくは死ぬのか。

 逆に言えば、ぼくは死んでもおかしくない人間だったという訳だ。

「まぁ、とりあえずハルに会えて良かったよ」

 カオルはぼくの暗い表情を察したのか、気を使った言葉をかけてくれた。

「なぁ、カオル」

「どうした?」

「もしぼくが本当に自殺していたらどう思った?」

 数瞬の間を置いてカオルは答えた。

「多分、悲しかったよ」

「そうか……」


 それから、その話題を避けるように明るい話を続けて、気が付くと日が暮れ始めていた。

 小中学生の帰宅を促す市内放送が流れているのが遠くに聞こえた。

 ぼくは完全に気持ち良く酔ってしまっていて、カオルが例の地方都市まで送ってくれることになった。

「本当は今向こうで一人暮らししてる部屋に泊めてやりたいんだけどな。今晩はちょっと五月蠅い奴がいるからな」

「なんだ。パートナーか?」

 理性がほとんど働いていないぼくは、思ったことを口走りやすくなっていた。

「あぁ……まぁ、そんなとこかな」

「へぇー、ふぅーん。会いに行っちゃおうかなあ」

「マジでやめて。明日アイツの誕生日で、サービスしてあげなきゃなんないの。それに、こんな酔っ払いを会わせたくない」

「いいよ、自分で会いに行っちゃうもんね。それでカオルの元カレ面しちゃうもんね。その子いびっちゃうもんね」

「あぁ分かった分かった。〝今度〟会わせてやるから、今日のお前は絶ッッッ対に会わせたくないんだよ」

 今度。ぼくに今度なんてないことを思い出し、弛緩していた脳が少しだけ覚める。

「なぁ、カオル」

 もし、ぼくがあと三日で死ぬとしたら、明日も一緒にいてくれるか。明日、パートナーとの約束を蹴ってでも、ぼくと下らない話をして笑ってくれるか。残り三日間をただぼくの為に使ってくれるか。誰よりもぼくの為に。

「どうした?」

「いや、なんでもない」

 酔いが覚めつつある身体は、夜の潮風の刺すような冷たさに気付き始めた。

 途中、小さい頃に訪れた〝ユーレイ屋敷〟が遠くに見えた。

「カオル、あれ覚えてるか?」

「ああ〝ユーレイ屋敷〟だろ。お前と一緒に行ったけど逃げて帰ってきたな」

「今なら全部見て回れるかな」

「まさか今から行こうっていうんじゃないだろうな」

「はは、冗談だよ」

「じゃあまたな」

 カオルはぼくを駅で下ろすと、挨拶を短く済ませて去って行った。まるで別れが短いものだと信じているように。

 お酒を飲んだこともあり、急に身体の力が抜けたぼくはここから東京に帰る気力もなく、また例のネカフェで一晩過ごすことにした。

 暗い一畳半の部屋に潜り込むと、自分がとうとうひとりぼっちであるという考えに取り憑かれた。もしあの時、カオルにぼくの余命のことを伝えていたら、アイツはぼくと一緒にいてくれただろうか。

 あの時、余命の話が出来なかったのは、『カオルに迷惑をかけられなかったから』というのが全てではない。もし本当のことを伝えて、それでもカオルが一緒にいてくれるか、自信がなかったからだ。

 もしカオルにまで拒絶されたら、ぼくはもう立ち直れる気がしない。

 だからといって、ひとりぼっちであるという事実に変わりはない。

 昨日は親しみ深く感じた周りの生活音も、今は少しだけ遠く感じた。


 身体のあちこちから血が滲む。

 砂嵐がぼくの肉体を削っていく。

 辛うじて目を開ける。

 死神。

 以前より近くにいた。

 手は届かない。

 しかし会話するには十分な距離。

 未だに顔は確認出来ない。

 なぁ、おい。

 返事はない。

 死神はぼくをじっと見つめる。

 どこか懐かしい光を湛えた瞳。

 今にも泣きだしそうだった。


▼五日目

 朝、ぼくはほとんど惰性で目を覚ます。もうぼくは自分が死ぬ前にやるべきことを見失ってしまったのだ。ひとりぼっちで死にたくはないが、これ以上どうすればいいのだ。ぼくは何も考えられず、東京に帰る新幹線へと乗った。

 都心の駅に着くと、田舎とは比べ物にならない人混みの規模に、今一度圧倒された。

 ぼくは流木のように人混みの流れに沿って動く。

 何処へでも連れていけ。物質ばかりの身体は、雑踏の中を漂っていく。

 無意識に降りた駅で、ぼくは酒を買い求めた。昨晩のような救いを欲していた。孤独を忘れさせる〝見込み〟を失った今、狂気のみがその肩代わりを出来るのであり、酒は一種の狂気を促す呼び水なのだ。

 駅内の売店に備え付けられた冷蔵庫を注視する。

 今までしっかりと物を見て酒を買ったことがないので、どれを買っていいか分からなかったが、何やら柑橘系の断面が印刷された缶のものが飲みやすそうだったので、それを買うことにした。

 駅構内を出て一口呷ると、身体は再び拒絶反応を示したが、それが逆に嬉しかった。精神は既に崩壊寸前だが、肉体は残り少ない命を全うしようと足掻いているのが実感できた。

 しかし、続けて飲んでいると気分は何処までも沈んでいった。昨日はカオルがいたことによってブレーキがかかっていた内省的な感情が、今回はフルスロットルでぼくを襲った。

 ぼくは誰にも顧みられずに死ぬのか。

 きっと誰にも悼まれることなどないだろう。ぼくが歩んできた人生は無価値なんだ。

 なら価値ある人生とはなんだろう。カオルのように生きることか。精一杯生きて充実した人生にするのが価値あることなのだろうか。でもカオルだっていつかは死ぬ。死んだら何もないじゃないか。

 それとも子供を作ればいいのだろうか。子孫を残して人類の繁栄に貢献すればいいのだろうか。いいや、この世は既に人間で溢れかえっているんだ。これ以上増やしたところで何の意味があるんだ。寧ろ、人類の首を絞めることになるだろう。

 じゃあ偉業を成せばいいのか。多くの人の為になる大業を成して、後世に語り継がれ、教科書に載ることが価値あることなのだろうか。

 昔、教師が言っていたことを思い出した。

「教科書に載るのは、類稀なる偉人か、あるいは大悪党かです」


 大量の人間が行き交うスクランブル交差点で、ぼくは一瞬足を止める。

 これだけ人がいるのだ。命の一つくらい消えたって誰も気にしないのだ。

 いや、これだけの人がいるのだから、誰か一人くらいぼくを看取ってくれないだろうか。

 道行く人に掴みかかって、助けを請いたい衝動に駆られた。

 胸ぐらを掴んで、泣きながら訴えてみようか。「ぼくはもうあと二日の内に死んでしまうんです。どうか、どうか助けてください」と。そうしたら誰か一人くらいはぼくに同情して、涙を流してくれたりするのだろうか。
それとも、今ここで大声で叫び、喉笛を掻っ切って、血を噴き上げて死んでやろうか。そうしたら大勢の人の記憶に、一生残る血塗れのぼくを写せるだろうか。

 みっともない。やめておけ。

 僅かに残った理性が、狂気的な妄想の実現を阻止した。

 でもここで誰かがぼくを肯定してくれなければ、ぼくはもう死んでいたも同然じゃないか。誰かの心の中だけでもぼくは生きていたいんだ。

 誰かぼくを認めてくれる人間は居ないのか。酒気で麻痺した脳を回して、精一杯考える。

 一人いる。

 ぼくは缶に残った酒を勢いよく飲み干した。


『……ハル? 急にどうしたの?』

「なぁ、今から会いに行って大丈夫か?」

『はぁ……。出来ればもう顔も見たくないんだけど』

「そんなこと言わないでくれよ。本当にこれっきりだから」

『何があったか知らないけど、こっちだって暇じゃないんだから』

「十万払うから……」

『へ?』

「十万円払うから会ってくれないか」

『何? 酔ってんの?』

「ぼくはもう……その……ほら、アレだ。閉店セールだから。キャッシュバックだよ」

『意味分かんないこと言わないでよ……』

「じゃあ十五万払うから……」

『分かったよ。会えばいいんでしょ。ただし、本当にこれっきりだからね。あと、お金は受け取らないから。金で元カレと会う女にしないで』

「ありがと」

『全く……。それで、何時くらいに来るの?』

「もうアパートの前まで来てるんだけど……」

『はぁ!?』

 スマホを片手にした女性が、二階の出窓から顔を出した。夕陽を背にして、刹那的にすら見えた。

「『げっ』」

 ぼくはその声を聞かなかったことにして、満面の笑みで手を振った。


 チトセはぼくが以前付き合っていた女性だ。といってもたった二ヶ月ほどで別れたのだが。

 大学一年生の頃に、サークルの飲み会で初めてお酒を飲んで潰れた時に介抱してくれたのが彼女だった。

 その時のぼくには彼女が聖母のように感じられて、衝動的に愛を告げたのがキッカケだった。もともと彼女がぼくに好意を寄せてくれているのは知っていて、ぼくもそのことを不快には思っていなかったから。

 今思い返すと、彼女の何が好きだったのかも分からない。嫌いという訳ではなかったが、特別な関心を向ける対象でもなかった。

 結局、ぼくの無精さの為に別れることになった。

 しかし、何故彼女は、最初だけでもぼくを慕ってくれていたのだろうか。


 チトセは渋々、自室の扉を開けてくれた。このアパートは少し古ぼけているものの、彼女の部屋は綺麗に整頓されていて過ごしやすそうだった。

「本当、急なんだから……。うわ、酒臭ッ」

 風貌は別れてから全く変わっていなかった。黒い猫っ毛と眼鏡が印象的な、何処にでもいそうな女子大学生だ。その様子に何故だかぼくはほっとした。

「はい、これ」

 ぼくは彼女に茶封筒を渡す。

「え、まさか……」

「うん、十五万円だよ」

 チトセは恐る恐る中身を確認すると、「ひゃあ~」という声を上げた。

「あげるからさ、明後日の朝までぼくと一緒にいてくれない?」

「マジで持ってくるのはビョーキだよ……」

 そう言うと彼女は封筒をぼくに押し返した。

「要らない。今酔ってるでしょ。あとで絶対に後悔するよ」

「いいや、多分ぼくは今払わないと後悔する」

「はぁ。じゃあ私の為に取り下げてくれる? これじゃ援助交際してるみたいで気持ち悪いんだけど……」

 ぼくが更に食い下がろうとした時、外套のポケットから何かが落ちた。

 先日に寂れた商店街で買った、黒い犬のキーホルダーだった。

 ぼくはそれを拾って彼女に渡した。

「そう言えばこれ、プレゼントなんだけど」

 チトセは怪訝な面持ちでそれを受け取る。

「分かった……。じゃあ今日と明日、一緒にいてあげるよ」

 どうやら彼女は、十五万円よりもそれを気に入ったらしかった。


 日はいつの間にか落ちていて、お腹も空いていたので、二人してコンビニで弁当を買ってきて食べた。

「ハル、私のトマトパスタちょっとあげるから唐揚げ一個頂戴」

「いいよ」

「うっわ、おいし。油モノって美味しいわ。こんなに美味しいのに太るのって罰当たりだよ」

「何言ってんのお前」

 彼女は何だか楽しんでいるようにも見えた。かつて付き合っていた時よりも楽しそうにすら見えた。

 もしぼくがもっと前から、彼女に対して前向きに接していたら、ぼくらはずっと一緒にいられたのだろうか。ぼくは孤独に苛まれずに済んだのだろうか。

「あ、ちょっとごめんね」

 チトセはぼくより先にご飯を片付けると、ベランダに出た。

 彼女は柵に肘をつくと、ポケットから煙草を取り出して吸い始めた。そうしてから、窓の隙間からひょこっと顔を出した。

「ごめんねー。臭いと思うけど換気扇の下で吸うよりはマシだからー」

「あれ……。煙草なんて吸ってたっけ?」

 チトセは煙草を寧ろ嫌っていたはずだ。服や髪に匂いがつくからやめて欲しいと愚痴をこぼしているのを聞いたこともある。

「あー……なんていうか、悪友の影響っていうかね」

 ぼくはそのはぐらかし方に一種の不快感を覚えた。

 ぼくは自分もベランダに出ると、彼女から煙草の箱とライターを奪い取ると、自分も一本吸い始めた。

「ちょっと! 言ってくれればあげたのに!」

 煙をいっぱいに吸い込むと、堪らず咽てしまった。

 肺と喉がチリチリとくすぐったく、口に煙の臭いが充満していた。

「最初はふかすようにしなきゃ駄目だよ。肺に含まずにやるんだよ」

 彼女は一度煙を吸い込むと、口を大きく開いた。

 そこには頬の内側や舌に張り付いた、一呼吸分の煙があった。それから口を閉じると、煙を舌で追い出して、線香の煙みたいに細く排出した。

「今みたいにね。口で煙を留めておくんだよ」

 その随分こなれた様子がちょっと悔しかった。

「誰に教えてもらったの?」

 チトセは目線を逸らして、ただ

「バイト先の人」

 とぶっきらぼうに答えた。


 その後は、チトセが録画していたテレビ番組を二人で見て、他愛のないことを話して、そのまま寝ることにした。

「ねぇ、ハル」

 チトセは眠そうな声でぼくに呼びかける。

「一体、何があったの?」

 逡巡の後、ぼくは答えた。

「なぁ、明日遊園地に行こうよ」

 チトセはじっとぼくを見つめる。推し量るようなその目つきは、次第に優しいものに変わった。

「分かった。明日の授業とバイトはサボるよ」

 彼女は読書灯を消すと、それ以上ぼくには何も聞かなかった。


 砂嵐はいつの間にか去っていた。

 傷口から流れていた血も止まっている。

 すぐ目の前には奴がいた。

 やあ、死神。

 死神は俯いた状態で何か呟いている。

 ぼくは手を伸ばそうとする。

 しかし、先に死神の手がぼくの頬に触れる。

 死神は、その面を上げ……。


▼六日目

 ぼくらは電車とバスを乗り継いで、隣の県にある小さなテーマパークを目指した。朝の通勤ラッシュとは逆方向に向かっていた為、比較的快適に目的地に着くことが出来た。

 誰かと外出するのは久しぶりだった。平日は授業や課題、バイトで手一杯だったし、休日は家でゴロゴロしているうちに一日が終わってしまっていた。

 それに、一緒に外出する相手もいなかった。

 ならば何故、ぼくはチトセのような貴重な存在を無下にしたのか。それも〝見込み〟の為だろうか。自分がまだ孤独ではないという〝見込み〟が、彼女をぞんざいに扱わせたのだろうか。

 ならば今回の場合、〝見込み〟の喪失は、いい方向に働いたと言えるだろう。そうでなければもう二度と、ぼくはチトセと会うことは無かったのだから。

「ほら、見えてきたよ」

 バスの車窓越しに、チトセが指さしたものを見る。それは大きな城を模した建造物で、そのテーマパークを象徴するものだった。


 テーマパークは平日だとは思えない賑わいを見せていた。学生のカップルや外国人観光客が多く、みな酔っぱらっているかのような盛り上がり方をしていた。

 遊園地に誘ったのはぼくだが、こういう所は全く慣れていなかったので、たじたじとしてしまった。

 一方、チトセは大喜びでぼくをいろいろなアトラクションや物販店へと連れまわした。ぼくはそれらをちゃんと楽しむことは出来なかったが、チトセが楽しそうにしているのを見ることが出来て、それはそれで満足だった。

 このままでは、貴重な一日を自分の為に使えなくなってしまうが、それはそれでいいような気がしてきた。

 これ以上何もない命だ。それでぼくの好きな人を笑わせられたら、安らかに死ねるような気がしてきた。


 チトセはジェットコースターやシューティングなどの派手なアトラクションを好んだが、急に観覧車に乗ろうと言い始めた。

「ハルはこういった落ち着いた方が好きでしょ」

「ああ、でも別に気にしなくてもいいのに……」

「何言ってんの。ハルが来たいって言ったくせに」


 観覧車には初めて乗った。思ったより一回転に時間がかかることに驚いた。内部には様々な落書きされていて、ハートマークや相合傘のイラストが散見された。これに乗ったカップルが思い思いに、自分たちの愛を何か形に残そうとしたのだろう。

「こうしてると、本当のカップルみたいね」

 チトセは少し悲しそうに笑う。

「本当のカップルだったら良かった?」

「どうなんだろうね、分かんない。昔のハルもよく分かんなかったけど、今はもっと分かんない。でも、今はとっても楽しい」

 二人の間に、しばし物悲しい沈黙が訪れる。

「なあ、チトセ」

「ん?」

「ぼくの何処が好きだったんだ?」

 ふぅーっと、チトセは息を吐いた。

「なぁんだ。そんなことか」

 チトセは顔を綻ばして続ける。

「ハルは多分もう覚えてないと思うけど、私とハルが会って間もない頃、それとなくハルが私の髪を褒めてくれたことがあるんだよ」

「それだけ?」

「うん、それだけ。惚れるには十分でしょ?」

 そんなものなのだろうか。人間はそんなふっと他人を好きになれるものなんだろうか。

「ていうか惚れてたのバレてたんか、恥ずいな……」

 観覧車は尚もゆっくりと回り続けた。


 帰りに土産品店を見ていると、テーマパークにしてはオシャレなピアスが売っていた。何処かのブランドとの協力で作られた限定品らしく、かなり高額だった。

 他に金の使い道も無いので、チトセの為に買ってやることにした。

 一方チトセは、あまり可愛くないキャラクターの巨大なぬいぐるみを買っていた。


「ハル」

 帰りの電車でウトウトしていると、真剣な顔をしたチトセに起こされた。

「今日は楽しかったよ、ありがとう」

 ぼくは眠い目を擦る。

「こちらこそ、急にすまなかったね」

「そんな……」

 チトセが俯いて、何かを堪えていた。

「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかな。ハルに何があったのか」

 ぼくはどう答えるべきだろうか。まさか死ぬまでもう一日も無いなんて、伝えたところで何になるんだろうか。「また会おうね」で別れた友人と、もう二度と会わないことなんてざらにあるんだ。

 ぼくが躊躇っていると、チトセが先に口を出した。

「分かった。これ以上詮索はしない」

 チトセの目は既に赤くなっていた。

「でも、明日も一緒にいられたらいいな」


 チトセの部屋に帰る頃には、日はとっぷり暮れていた。次に日が昇る頃にはもう、ぼくはこの世にはいない。ここでチトセの部屋で寝てしまえば、ぼくは彼女に看取ってもらえることだろう。そうすれば、ぼくの孤独は晴れて癒される。

 しかし、そんなことすればきっとチトセは悲しむ。それならまだ、また会えるフリをして、別の何処かで死んでしまった方がいいのではないか。

 その時、ぼくはピアスのことを思い出した。もう電気を消して、読書灯だけを点けていたチトセに近寄る。

「これ、あげるよ」

「ぅえ! ありがと! 高かったでしょ」

「いいよ、今日のお礼ってことで」

「あ、でも……私、ピアス開けたことないんだよね……」

「うん、買った後に気付いたんだけど、穴開いてないよね。だからピアッサー買っておいたよ」

「え、今ここで開けるの?」

「うん」

 だって、今じゃなきゃ。

「分かった……。でもハルだって穴開いてないでしょ。やり方わかるの?」

「大丈夫、上手くやる」

「怖……」

「ほら、動かないで」

 チトセの耳たぶに専用のマーカーで印をつける。

 それから、ピアッサーを印をつけた部分に当てがった。

「いくよ」

 パチン。

 まるでホチキスでもつけたかのような軽い音で、チトセの耳に小さな穴が開いた。

「いッつぅ~」

 パチン。

 もう一つの耳にも穴を開けた。

「よし。ハル、ちょっとそのピアス、私に着けてみて」

 言われなくても、一刻も早くチトセがピアスを着けた姿が見たくて急いだ。

 とても似合っていた。鏡で自分の姿を見たチトセも満足なようだ。

「このピアス、ありがとう。ずっと大事にするからね」

 観覧車に落書きは残さなかったが、ぼくらの中の何かを形に出来た気がした。

「なぁ、チトセ」

 ぼくはもう自分の中で決心が出来た。

「なに?」

「ぼくは死ぬんだ」

 チトセは唖然とした。

「まだ先のことだけど、そう遠くない内に死ぬ。数か月後かもしれないし、何十年後かもしれない」

 チトセは嗚咽を漏らしてぼくに抱き着いた。

「じゃあ、それまで私と一緒にいようよ」

「そうだね。少なくともその耳の穴が塞がるまでは一緒にいられるかな」


 ぼくは泣き疲れて寝てしまったチトセをベッドに寝かせると、例の茶封筒を机に置いて、彼女の家を後にした。


▼七日目

 何処か座る場所を探していると、川沿いに植わっていた木の下にベンチを見つけた。ぼくはそこを臨終の場に決めた。

 ポケットからスマホを取り出すと、川に投げ捨ててから、ベンチに腰を下ろした。

 こんなところで死んでしまったら、ぼくの死体を片付ける憂き目に遭うのは誰だろうか。私有地ではないだろうから、区役所の人たちだろうか。なら、彼らに迷惑をかけて申し訳ないな。

 本当に申し訳ないが、ぼくは自分の好きな人に迷惑をかけられないから。

「本当に自分の好きな人なのか? 結局のところ、自分を見てくれる都合のいい相手を探してただけなんじゃないか?」

 そう毒を吐いたのは、隣に座った死神だった。

「それでも別にいいじゃないか。ただそれだけのことで彼女を愛したとしても」

 死神は顔を上げてぼくの方を見る。

 死神の顔はぼくの顔だった。

「もういいのか」

「ああ、別に誰に看取られなくたっていいんだ」


 家々の屋根の向こうから、朝日が顔を出すのが見えた。

 その暖かな光に照らされて、夜の影と一緒に、ぼくと死神は消えていった。




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