ロリポップス・アゲインスト・ザ・シティ/天空橋小夜子

ロリポップス・アゲインスト・ザ・シティ
天空橋小夜子

登場人物一覧

〇サイダーハウス
 プリシラ
 エリオット・ネビル
 ドクター・アーヴィング

〇ハイ・ライズ
 チェリーズ・ディスクジョッキー
 スシボーイ・スペルマン
 グリン・ホットガイ
 ヴァンプ・ブレードランナー
 
〇ユニヴァーサルシティ警察第三分署
アーノルド・マクダネル

〇トリニティ・ハイスクール
アニー・ファインゴールド



 一羽の鷹が旋回している。夕陽に照らされて橙色に染まった普遍都市を見下ろして、高層ビル群の遥か上空をコンパスで引いたような真円を描いて飛んでいる。その曲線の直下、シティ屈指の高級タワーマンション『蒼天宮』の屋上に少女がいた。

 落下防止柵の向こう側――地上七十階、高さ二百九十六メートルの鋼鉄の立方体の頂点。眼下に広がる街を眺めるような格好でプリシラは立っていた。

 一歩踏み込めばそこには空が広がっているにも関わらず、百四十二センチの十三歳にしては小柄な身体は目の前の生死の境に一切興味がないというように、先日支給されたばかりのつま先の丸まったローファーの履き心地を気にしている。かかとが地面を軽く叩いて、かつかつ、と硬い音が小さく響く。しかし、実年齢より子供っぽい印象を与える太い眉の下には、緊張の光をたたえる目がきらめいていた。

 都市の熱気が発する上昇気流に黒髪が吹き上げられる。襟首に揃った後ろ髪。眉の上で水平を描く前髪。それらが後ろに吹き散らされても、薄く開かれた隙間に灯った青い眼は微動だにせず、のっぺりした地上の街の一点を見つめていた。

 屋上の縁から直線距離で四千十メートル先。都市の中心に屹立する九龍公使ビル――この都市を統べているのは我々である、と主張して隠さない様――から縦横に走るメインストリートのひとつ、ウエストロードの端からさらに奥まったところにある建設現場に集まった人だかりを、肉眼では決して判別できない極小の黒点をプリシラは正確に捉えていた。それは青い眼に刻まれた、この世のいかなる自然動物にも存在しない、螺旋のように渦を巻いた幾何学模様の瞳の能力だ。

 彼女の拡張された眼は四キロ先を鮮明に映し出し、その視覚情報が視神経に代わって換装された伝導細糸を通じて脳に伝達される。損傷した人体の代替、ではなく拡張。義肢、ではなく拡張器官。

 道路に面したビルの建設現場の地上に数十人が集まり、一人の肉体労働者然とした体躯の男から一定の距離をおいて囲んでいた。男が動くたびに人の輪が歪み、男が立ち止まるとそれを中心に再び円を描いた。建設現場の労働者だろう、筋肉で膨張して今にも破けそうな作業着に身を包んだその男は右腕の代わりにピザカッターのような歯車を生やし、接触不良なのか常に火花を噴出しながら刃が回転し続けている。

 男の数歩後ろ、彼が視界から離さないように注意を払っている建設現場のゲートには赤黒い血溜まりがあり、その中心には肩から先を切断された女がいた。

 彼女はまだ息があるようで、全身を血に染めながらも呼吸に胸を上下させ、切断された右腕を大事そうに胸に抱えながら横たわっている。

 望遠レンズの機能を持つプリシラの眼が喧騒の中心、鳥の巣のように鉄骨が入り組んだ建設途中のビルの足元で周囲を威嚇する男の顔を真正面から捉えた瞬間、彼女の全身に張り巡らされた伝導細糸が無線通信を受信した。

「プリシラ、状況を報告しろ」

 若い男の声がダイレクトに感覚されると、彼女の緊張が一瞬やわらぐ。氷のような身体が一瞬だけぬくもりに包まれる。が、直ぐに「はい。エリオットさん」繋がった通信を介して音声を送信した。口は動かずに、声帯を動かす電気的刺激を音声データに変換して送る。

「A地点に到着後、目標を視認しました。拡張者です。右腕の上腕から先の部分に工作機械のような拡張器官を取り付けています。目標付近に片腕を切断された女性が一人倒れていますが、今のところ呼吸はあるようです。目標の全身と正面から見えた顔の情報を送ります」

「わかった。目標の顔とデータベースを照合する」

 数秒のちに「プリシラ、目標は現場の建設業社の従業員だ。先月に拡張施術を受けたばかりだが、安価な拡張器官でこれまでも故障が確認されている粗悪品のようだ。拡張暴走か?」

 返答をする前に、一呼吸置いて考える。

「エリオットさん。目標の拡張器官は異常な運転をしているようですが、拡張者のほうはそれに振り回されている様子はありません。目標は十分にコントロールしているように見えます」

「拡張犯罪者か」エリオットの声色が低くなった。

 プリシラはエリオットの変調を全身に感じると、目標への目線をそのままにしゃがみこんだ。そして、黒光りする二メートルほどの鋼鉄、彼女の身の丈を遥かに超えるライフルを両手に取り、下部の二脚を展開して屋上の硬いコンクリートに設置した。

「プリシラ、治安維持局はもう到着したか」

「いいえ。エリオットさん。目標の周囲には維持局どころか都市警察すら確認できません」

「わかった」息を飲む音が聞こえる。ほんの少しの空白がエリオットの逡巡を伝えるようだった。

 地面に腹ばいになり、ライフルにマウントされたスコープに手を触れ、伝導細糸を通じて同期する。視界の中心に十字線が表示され、その周囲に数字と弧線が現れる。そしてその磔刑の十字を目標に合わせた。

 プリシラは次の言葉を待っていたが、既に右手はボルトハンドルに手を掛けられていた。

 安心と緊張が最高値に上昇する。彼の言葉を待つこの瞬間だけが、自身の中枢神経系以外の全身を拡張器官にした全身拡張者として、身体と精神の一体を感じられるときだった。

 判断の一切を他人に任せる安心。如何なる命令も達成しなければ己の存在を肯定できない緊張。その一見すると相反する奇妙な感覚が、全身に手を加えられた少女に最大の集中力をもたらす。

「目標を撃て」決して事務的ではない、確固たる意思を持った声色でエリオット・ネビルは自分の所属する児童福祉施設サイダー・ハウスの保護下に置かれた少女プリシラに命令を下した。

 遊底が後方に引かれ弾薬が弾倉からせり上がり、再び遊低を押し戻し弾薬が薬室に送り込まれる。そして、人体に対して使用するには幾重もの法と倫理の壁を突破しなければならない六十口径弾が対物ライフル・ディアスポラに装填された。

「はい。エリオットさん」

 プリシラがそれを言い終えるとともにトリガーが引かれ、弾薬の雷管を叩き火薬が燃焼/引火/爆音/圧縮/弾頭が黒く長い銃身の内部に刻まれた旋条内で加速/放たれた弾頭はジャイロ効果により目標への軌跡を更に安定化/四千メートルもの執行猶予を経て/目標に到達した弾は射手の名を表すが如く肉体労働者の身体を爆裂飛散させた。



 路肩のベンチに座っていたプリシラを車に乗せると、エリオットは車を発進させた。

 後部座席に置いたギターケースがカタカタと音を立てる。その中には楽器ではなく、プリシラの分解したライフルが収まっている。彼女は仕事を終えるとその場で武器の解体を迅速に行い、即座にエレベーターに乗ってタワーマンションを後にした。エリオットが慌てて待ち合わせの地点に到着したときにはまだ作戦の終了から八分しか経っていなかったが、それでも彼女はその場にいるのが当然という風にベンチに座っていた。


 今回の任務は唐突に始まった。

 ドクター・アーヴィングから作戦用の緊急回線を通じた着信があったとき、エリオットはカフェにいた。午後の温かな日差しが当たる席について、ウエイターにオーダーをした直後に胸のポケットが震え、けたたましい着信音が鳴り響いた。

「エリオット。君が今どこで何をしているかは知らないが、事件だ。本部から拡張者とみられる男が暴走していると連絡があった。プリシラは既に出動した」

「はぁ」寝ぼけたような、間の抜けた返事が自動的に口から出てしまった。

「いいかい、事件だ! 事件が起きたんだ! 状況開始、さぁ銃は持ったか? プリシラとの回線を繋げて情報を共有した後に現場で合流するんだ」

 ドクターの急かすような語調に戸惑う。しかし、直ぐに気を取り直すと、慌てて鞄からタブレットを取り出し、プリシラに回線を飛ばした。いくらかの簡易的なやり取りを終えると、オーダーしたコーヒーの行方に気遅れしつつ、路肩に駐車した車に滑り込んだ。車を急発進させて現場へ向かおうとしたところで再びドクターから着信。

「エリオット。君のいる場所を把握したぞ。ノースサイドのベイエリアじゃないか。優雅にヨットを眺めてランチのところをすまないね。ちなみにそこから現場まで、交通状況を考慮して最低でも二〇分はかかる。僕の言わんとしていることがわかるかい?」

「今日は久しぶりの休日だったんですよ。いいじゃないですか、海辺でカフェくらい」

「いいかい。拡張犯罪は普遍都市における犯罪事件全体の四割を占める。そして我らがサイダーハウスの業務のほとんどはその犯罪の鎮圧によって成り立っている。さらにだね、林檎は君ら支援員の命令ではじめて戦闘行為をおっぱじめられるんだ。僕の言わんとすることが……」

「わかりました! 俺が悪かったです。報告も無しに本部から離れたのは間違いでした」

「そうだ。君はたとえ休日だとしても支援員として彼女達の傍にいなければならないんだ。日々どこで発生してもおかしくない犯罪に対して、我々は誰よりも早く現場に到着し、そしてあっという間に鎮圧する。こうすることでしか我々は存在理由を証明できない」

 まくし立てるドクターの音量を小さめに設定していると、赤信号に足止めされた。思わず舌を打つ。

「エリオット! 君は真面目に聞いているのかい? 僕は林檎のメンテナンスと彼女達の収集したデータを管理するのが主な業務なのに、まさか三十路手前の男に社会人としての心得まで教えなければならないのか? いいかよく聞けエリオット! 上司の言うことには舌打ちではなく、はい、と答えなければならないんだぞ!」

「今のは信号に捕まったことに対しての舌打ちです。ドクターに対してではありません」いい加減ドクターの説教にうんざりして語気を荒くする。

 こちらに非があるのは認めるが、これから犯罪現場に向かうという緊迫した状況なのに上司から延々と説教を喰らうのは、それこそ業務に支障をきたすことではないのだろうか。ヒステリックな上司への不満がつのる。

「エリオット、朗報だ。プリシラが現場に到着したぞ、おそらく既に目標を捉えているだろう。もちろんディアスポラも一緒にな」

 ――早すぎる。連絡を取ってから僅か数分で現場に到着か。

「ドクターは彼女と連絡を取っているんですか?」

「いいや、天空の眼の映像をこちらに送ってもらっている。彼らの飛ばした鷹のカメラを共有させてもらってるってわけだ。おっと、本部からまた連絡が来たぞ」

 信号が切り替わりアクセルを踏み込むと、

「エリオット、直ちに車を停めろ」

「はぁ」意気込んだところに水を差すようなドクターの声に思わず困惑する。路肩に車を停めると、次の言葉に息を飲んだ。

「犠牲者が出たぞ。現場にはもう間に合わない。その場からプリシラに命令を下せ」


 エリオットは助手席に収まった少女を横目で見る。プリシラは身体を揺らしながら、ふんふんふん、と鼻歌を歌って機嫌がよさそうだ。つい先ほどまで四キロ先のターゲットを狙撃する任務についていたとは思えない様子に、毎度のことながら奇妙な笑いがこみ上げてくる。

 視線を感じたのか幼い眼でこちらを見上げてくる。青い眼を解除して、元のブラウンの瞳を輝かせるプリシラは訝しげに頭を傾げた。

 全身拡張者。脳の一部と全身を換装された最新技術の結晶。体内と表面に張り巡らされた伝導細糸によって外部デバイスとの同期・通信を可能とする。強化された身体機能と、ナイフや九mm弾程度では傷も付けられない耐久性能。

 見た目はただの女の子だ。横断歩道を渡ろうとしていれば思わず周囲を確認したくなるようなか弱い少女なのに。

 エリオットは口元を斜めにしつつハンドルを切った。プリシラが前を向きなおり、膝下まである純白のソックスを履いた足をパタパタとふらつかせた。

 冗談きついぜ、まったく。とエリオットは心の中でつぶやいた。



 
 児童養護施設サイダーハウスは都市の中心から外れた中産階級向けの商業地区の隅にある。

 スーパーマーケットや家族向けのレストランが立ち並ぶ通りを折れて少しいくと、辺りは廃棄された工場跡や建設資材置き場、貸しコンテナ群が目立つようになる。その一画に無個性な白い建物があった。それは四方を荒れ放題の空き地に囲まれ、一見すると周囲と同じように所有者に放棄された建物のひとつと思われるが、二階の入り口へ上る階段の脇に林檎の家(サイダーハウス)というプレートが架かっていた。

 帰り道の途中で買い込んだ大量のお菓子の入った紙袋を片手に抱えて、エリオットは車の扉を閉じた。ところどころがひび割れたコンクリートの地面を踏んで施設の入り口に向かう。隣には大きなギターケースを背負ったプリシラ。彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。

 強化ガラスの自動扉が開くと、来客用のロビーが目に入る。一組の応接セットと、誰が手入れをしているのかもわからない観葉植物。真正面の受付台には誰もいない。ロビーの両側に通路が延びている。空間全体を青い電灯の薄明かりが満たしている。

 人気のない研究所といった雰囲気。実際のところ、この施設の目的からするとそれが正しいのだろうが、役所に児童養護施設と登録された建物としてはいささか不気味すぎるほどの静けさが二人を包み込んでいた。

「エリオットさん。わたしは武器を閉まったらドクターのところへ向かいます」

 少女が肩に掛けたストラップを、くい、と引っ張った。

「わかった。ついでにこの紙袋もドクターに持っていってくれないか」

 プリシラは紙袋を両手に抱え、中に詰め込まれたチョコレートやナッツの描かれたパッケージを一瞥すると、「はい」と頷いて左手の通路に向かった。

 リノリウムの床に子供用のローファーの踵が奏でる軽快な足音がロビーから遠ざかっていった。

 一つくらい食べてもいい。とでも言うべきだったのだろうか。エリオットは少女がお菓子の袋に一瞬向けたブラウンの眼差しに、どうも後ろめたさを感じていた。

 
 プリシラと出会ったのは三ヶ月前のことだ。
 
 シティを牛耳る九龍公使に勤めていたエリオットは何の前触れもなくオフィスを追い出され、唖然としている間にこの寂れた施設に足を踏み入れていた。

 上司の一方的なクビ通告から数時間後、思考停止していたエリオットのところに社会福祉局の者だと名乗る男からの電話がかかってきた。彼は職を失ったエリオットに新しい居場所を与えるといって、日時と場所を指定するとすぐさま通話を切った。判断の時間を与えないやり方に彼は心底憤慨したが、後に考えると、全ては彼の意思を無視して公使と福祉局の間で了解済みだったことがわかる。

 公使と福祉局との間で何らかのやり取りがあり、その結果としてエリオットは児童保護施設の支援員という新たな仕事に就いた。公使のほうに何のメリットがあったのかはわからないが、福祉局は欠員補充のために彼を欲しがり、公使はそれを認めたということだ。

 元々選択肢などなかったエリオットは、児童保護施設の支援員という今まで何の関心もなかった立場へ収まることに大した抵抗も見せずに落ち着いた。まるで宙に投げられたボールが慣性に従って落下するみたいに、自分が誰かの仕組んだ予定通りに進んでいるのが彼自身にも感じて取れた。だからといってその誰かの正体や意図について探ろうとはしなかった。彼にとって環境というのは一方向に流れる川であり、流れに従いさえすればつつがなく人生を送れるというのが自論だった。

 はじめて施設に足を踏み入れたとき、ロビーのソファにいたのがプリシラだった。膝まである白いソックスを履き、黒い髪を肩の辺りで切りそろえた少女。外見からしてみればあまりに落ち着いている、ある種の品格を纏った少女。

「エリオットさんですね。わたしはプリシラといいます。これからよろしくお願いします」

 そういって頭を下げた彼女は顔を向きなおすや否や、振り返って通路のほうへ歩いていった。エリオットには関心がないという風に、彼女の立てる足音がやけに無機質に感じられた。

 その後、入れ違いにロビーにやって来たドクターと顔を合わせてこの施設について、支援員の役割について、施設にいる全身拡張者=ドクターのいうところの林檎について、一方的にレクチャーを受けた。白衣に身を包んだひょろ長の身体のてっぺんに、これまた不健康そうな長髪の男の顔があり、その口は休むことなくエリオットに言葉を投げかけた。

 ドクターの話を瞬時に理解することはかなわなかったが、支援員とは全身拡張者である彼女と二人一組になり、行動を補佐することで拡張技術のデータを収集するというのが主な業務であるらしかった。

 全身拡張者という言葉に一瞬たじろいだが、ドクターはそんなエリオットを気にせず、説明を止めようとはしなかった。それについては話したくない、と言外に主張しているようだった。それ、とは全身拡張という技術が過去の普遍都市にもたらした惨事のことだ。シティに長くいる住人にとっては全身拡張という言葉はタブーであり、誰もが忘れたがっているものでもあった。それ故に全身拡張技術の研究がこの一見廃墟じみた研究所で行われているのだとわかった。

 『探求者』。かつてそう呼ばれた研究グループがいた。
 
 二十年前、九龍公使の競合企業、ギャラクティク社は欠損した身体の補完を可能とする義肢産業に参入した。彼らは身体障碍者の社会参画を促進するという社会福祉の観点から多額の資金を研究開発に投入し、当時はまだ世間に注目されていなかった技術は加速度的に発展を進めていった。

 G社の参入後、数年で義肢技術は社会に浸透した。義肢を手足に換装している一般人は日常の風景となり、統計上では、当時の市民の十二パーセントがなんらかの形で身体に義肢技術に端を発する器官を換装していた。手足だけではなく、一見するとそうとわからない、眼や内臓なども技術によって補完することができたからだ。一般に普及し始めた義肢技術産業は今世紀を代表する技術進化と称され、あらゆる業界から投資の対象となっていた。

 競合企業の飛躍を傍らから眺めていた九龍公使は、ついに自らも産業に参入することを決定した。しかし既に業界を支配しているのはG社であり、同等の影響力を持つ企業である公使にすら参入の隙は無いように思われた。そこで彼らが目をつけたのは、義肢技術の軍事転用だった。

 義肢技術が賞賛されたのは、今世紀の人類の大きな課題である世界各地の紛争で、戦闘により身体の一部を失った者たちを助けられるという人道的な面での貢献という点も大きい。それは裏を返せば、負傷した軍人の早期戦場復帰による紛争の長期化という新たな問題をもたらす結果にもなっていた。

 九龍公使は手始めに、欠損した部位を以前よりも高い機能を持った器官に換装する技術の試験運用に着手した。しかし、それが行われたのは研究所や実験施設ではなく、あまり世間の注目をあつめていない東南アジアの少数民族間の紛争においてであった。世界の隅に置かれた戦場は新技術の実験場となり、試行錯誤が繰り返され、ついにG社の技術に対抗できる進化した義肢、拡張器官を完成させた。

 世界中に点在する紛争地で奇妙な兵士が現れたのはそれからだった。腕の代わりに重火器を生やした兵士。体表が銃弾を弾く装甲に換装された兵士。獣のように四足歩行で荒地を駆け巡る兵士。

 公使は戦場で得られたデータから、現在の義肢に代わる拡張器官の民間への提供を開始した。「超人」「新たな人類」と宣伝された拡張技術は身体障碍者のみならず、身体機能の向上願望を持つ健常者にも向けられており、新技術は義肢技術以上の注目を集めた。

 しかし、結局人体の強化という発想は一般市民には受け入れられず、いくらかの法に抵触する恐れもあり、ほとんど何の成果も挙げられずに拡張技術は世間の目から離れていった。その代わり、公使は技術を一般人から公の軍隊・警察、また民間の軍事会社に提供するように方針を代えることで成功を収めた。

 当然この動きにはG社も気付いており、彼らも拡張技術産業に参入することを決定し、公使と同じく軍需産業としての技術開発を始めた。

 公然の秘密として行われる、両企業による拡張技術競争はさらなる技術発展に貢献し、新たな拡張器官が次から次へと発表されていった。当然彼らの製品を求めるのは軍・警察であり、また両企業は紛争地やテロリストの手に渡ることも厭わず、世界中に拡張器官が行き渡る営業戦略をとった。この結果、テロリストは丸腰の一般人を装って都市に侵入し、街中で重武装した拡張器官を身につけた憲兵組織が睨みをきかせた。

 拡張技術は今世紀の新たな課題として、紛争の長期化・拡大、テロリズムの増加を人類にもたらすこととなった。

 その情勢下、九龍公使は自らの手中に収めた工業都市、普遍都市においてあるプロジェクトを開始した。その目的は拡張技術の更なる進化、中枢神経系の一部と全身を換装する技術、人体の完全サイボーグ化である全身拡張技術の開発だった。そのために、ある技術者グループがプロジェクトに編成された。彼らは自らを『探求者』と自称した。

 彼らを中心にして進められたプロジェクトは主に二つの組織から成った。一つは拡張技術の全身換装がもたらす人体への影響を研究する生体実験グループであり、これは探求者たちが主導した。そしてなにより重要だったのが、研究の試行錯誤のために求められる被験者の確保だった。

 研究当初の予想を遥かに上回る被験者が求められたため、都市の隅にできたスラムや移民街、孤児院を装ったブローカーなどから身分を持たない被験者を誘拐・強奪するための組織『梟部隊』が編成され、この二つの組織が機能することでプロジェクトは加速していった。

 都市のはずれに建設された研究所には毎日のように、投薬され意識を失った被験者が運ばれ、それと入れ違いに地下の大型焼却施設から出た煙が外に吐き出されていった。

 公使はプロジェクトの成功こそが競合企業のG社を突き放す秘策だと考えており、そのためには研究への投資を惜しまず、現場で行われている研究の詳細には一切口を出さなかった。こうして誰も計画に歯止めをかけるものがいなくなった状況で、研究は極致に達した。そして誕生したのが世界初の全身拡張者「アダム」だった。

 アダムは研究所で目を覚ますとその場にいたプロジェクト関係者を惨殺した。異変に勘付いた梟部隊オウルズが駆けつけると、研究所内は撒き散らされた赤黒い血液/引き裂かれた胴体からはみ出た臓物の鮮やかなピンク/おもちゃの部品のように所々に点在する人体の欠片/床や壁にへばりついた血液+体液+脳漿に彩られたサイケデリックな装飾/仕上げに隊員の吐瀉物ソースのアクセント=屠畜場めいた空間。そして彼らが目にしたのは壁に血液で書かれた、

 犯してやるぜ

 の文字だった。
 
 全身拡張者アダムは研究所を脱出し、宣言どおりに都市を蹂躙し尽くした。

 都市当局は非常事態宣言を発令。事態の収拾がつくまで市民の外出を禁止し、街中に武装した軍隊・警察が配置された。

 アダムが活動を停止したのは目覚めてから二日後、身体機能を維持するためのエネルギーが尽きたところだった。軍が動かなくなったアダムを発見、制圧し、事態は収束に向かった。

 都市だけでなく世界中のメディアがこの事件に反応し、そしてこの街を実質的に支配している九龍公使に説明を求めた。

 そして公使は全身拡張者を生み出す技術開発を公に認め、事態の収拾をつけるために被害者や遺族への生涯の金銭援助を約束し、また全身拡張技術の研究開発を中止、関係者を当局に引き渡すことで幕引きを図った。

 全身拡張者アダム、探求者、梟部隊。これらの言葉は都市の惨劇を呼び起こす禁句となった。


 ドクター・アーヴィングはエリオットの無言の追及に耐えられなくなったのか、突き放すようにいった。

「つまり君のやるべきことはシンプルに説明するとこういうことだ。『彼女の傍から離れるな』たったこれだけ! いいかい? 詳細は本部から送られたデータを熟読してくれたまえ。では失礼」

「ちょっと待ってください」

 立ち去ろうと背を向けたドクターの肩に手をかけると、白衣に包まれた男は腕を振り回して身を翻した。

「僕に触れるなよ! あんまり親しげにすると撃つからな。僕にだって支給された銃はあるし、第一に君の上司なんだぜエリオット君! 次の就職先はもう手助けしてやれないかもしれないぞ」

 エリオットに指を差して、最後の警告をするみたいに叫ぶドクター。言うことを聞かなければ無職になる、そういう警告だった。また無職という状態はこの街では別の意味を持った――何が身に降りかかっても誰も手を差し出すものはいない、ということ。

 普遍都市では利益を生み出すものを中心にコミュニティが築かれ、無職という何ら価値の無い人間を受け入れるのは表に笑顔を貼り付けて、後ろ手に血に錆びたナイフを隠し持ったアウトローくらいのものだ。

「そう騒がないでくださいよ。俺は質問がいくつかあるだけで、それに答えてもらえればすぐに自分の部屋に行きます」転職初日に上司の機嫌を損ねるのは上策ではない。しかしどうしても聞かねばならないことがあった。

「しょうがないな。しかし、質問は一つだけだ。僕はこれから、というか毎日(24-7)だが、他人とのお喋りに費やす時間なんてないんだ。簡潔に言ってもらおう」乱れた衣服を正すと、ドクターは一歩身を引いてからそういった。どうしても身体に触れられたくないのだろう。

「ドクター・アーヴィング。あなたは探求者と関係があるのでしょうか」

 ドクターは予想していた悪い出来事が起こったときのような、諦めに似た溜息を吐くと身を翻した。エリオットを背中に、さっきまでのヒステリックな調子と異なる低く震えた声色でいった。

「僕をあんな連中と一緒にするな。次にそのワードを出した瞬間、きみはスラムでの生活をどうしのげばいいか始終考えるはめになる」

 ドクターは両手を白衣のポケットに入れたまま、背中を丸めて通路の向こうへ歩いていった。
 
 エリオットは青白い光が小さく灯ったロビーに佇み、三ヵ月前のことを思い出していた。


 
 サイダーハウスの地下にあるメンテナンスルームで、ドクター・アーヴィングは任務から帰ってきたプリシラから戦闘データを収集/分析していた。

 三方を壁に囲まれた薄暗い空間の隅――複数のモニターが放つ青白い明かりにドクターの顔が照らされる。乱れた長髪の間に収まった頬の浮き出た不健康そうな顔+口元から突き出たロリポップの棒+眉間に皺を寄せて口を真一文字に結ぶ=カリカチュアライズされた科学者めいた容貌。

 ドクターはモニターに表示されるバイオグラフや戦闘中に計測された数値データにざっと目を通すと、一仕事済んだという風に背もたれに寄りかかった。両手を頭の後ろで組み、表情を緩める。

 素体/各器官共に異常無し。プリシラに適合した拡張器官はまたしても最高のパフォーマンスを発揮した。

 数キロ先の地点を精密に把握する眼。対物ライフルの大口径弾がもたらす強力な反動にビクともしない強化骨格。身体に張り巡らされた、あらゆる電気的感応を高速化する伝導細糸。最先端技術の結晶は今回もまばゆい輝きを放った。

 素体――彼女を法律上人間と定義できる唯一の器官、生前の彼女から受け継がれた大脳/間脳/中脳/菱脳/脊髄の総称、中枢神経系も正常(オールグリーン)。

 ドクターは薄暗い部屋に差し込む光へ、大きなガラス窓に仕切られた向こう側へ目をやった。

 病院の手術室のような無菌の空間の中央、施術台に仰向けになったプリシラがいた。眼を閉じて人形のように横たわる彼女の一紙纏わぬ身体に、無数のケーブルが接続されている。それらのケーブルは施術台から垂れ下がると、真っ白いタイルの上を這い、あらゆる種類の計測/測定用端末に繋がっていた。

 ドクター・アーヴィングは巨大なガラス窓に歩み寄り、穏やかな表情で眠る少女を少し眺めてから傍らの扉に設置されたパネルに触れてロックを解いた。音もなく扉はスライドしてドクターが施術室に入るとともに閉まった。

 拡張技術専門技師である彼は業務の機密性から――シティのタブーである全身拡張体の管理/運営――単独で全身拡張者のメンテナンスを行い、収集したデータを本部に送る。孤独な仕事は人間関係を厭うアーヴィングの気性に合ったうえ、最新の拡張技術研究に従事するのは科学者として最高の喜びだった。しかし彼がこれまで研究してきたのはもっぱら拡張器官であり、九龍の研究所にいたときはデバイスの開発が主な業務だった。それ故に拡張器官を換装した人間と出会うことは殆どなく、見かけたとしてもそれは液晶の向こうであり、拡張者そのものには興味がなかった。

 アーヴィングは拡張器官という未来のデバイスに魅かれたが、これまで通り人間に対しては一切の無関心を決め込んでいたからだ。

 施術台のプリシラからケーブルを取り外そうとしたが、差し出した手が宙で一瞬止まる。眼下に眠る少女は止まったように動かない。呼吸の必要がない彼女は胸を上下させることもないし寝息を立てることもない。

 ――人形。まさにその言葉こそ正確に、彼女の本質を表しているように思われた。
 

 ドクターが施設にはじめて足を踏み入れた日、この場所でプリシラと対面した。ガラスの向こうで仰向けになっていた少女を見たとき、やはり人形という印象を持った。生きている物に特有の生々しい精力が一切欠けている、魂の抜けた人形。

 整いすぎた容姿と肢体に、あからさまな意図を感じ取った。偶然性の抜け落ちた、全てが必然性に基づいて造られた身体。

 しかし、本部の者がアーヴィングにプリシラを引き渡したとき、彼の中に高揚感や好奇心なんてものはなかった。目の前の少女がほとんど機械から成る全身拡張者――闇に葬られた先端技術の宝物庫――だとしても、彼の人嫌いでメカにしか興味がない根っからの冷淡さでもってしても、眼下に眠る少女を本部の者がいうところの『道具』や『マシン』とは決して認められなかった。

 人形という印象を抱いたのにもかかわらず、少女に対する様々な逡巡が彼の脳内を駆けた。

 ――彼女はいったいどういった経緯でこの身体になったのか。事故か。事件か。この少女は自分の身体がいじられることに同意したのか。眼を覚ましたら彼女はなんというだろう。家に帰りたいというのではないか。いや、そもそも生前の記憶などあるのだろうか。そんな厄介なものを残しておくなら『道具』や『マシン』と形容しないだろう。

 施術室に二人きりにされたアーヴィングは少女の身体に手を触れた。強化された身体を包む柔肌に触れると、途端に苛烈な罪悪感がやってくるのを感じた。

 『探求者』。彼らの行ってきた所業に今まさに足を踏み入れるのではないか、という恐れがアーヴィングの脳裏をかすめる。慌てて手を引っ込め、後ずさるドクター。

 そして、少女はゆっくりと眼を覚ました。長い睫に閉じられていた美しい眼が世界に開かれた瞬間、音が消え去ったような感覚がした。

 彼女は何もいわずに天井の照明へ眼を向けていた。ブラウンの純粋な瞳が光に反射して輝く。

 ドクターが及び腰に近寄ると、視界に現れた彼を真直ぐな瞳が捉えた。

 機械が作動したのか、あるいは子供が眼を覚ましたのか。いずれにせよ、アーヴィングは胸の中に判然としないものが生まれるのを感じていた。それはいうなれば、彼にはじめて訪れた、他者に対する繋がりの感覚だった。

 幼い眼はほかでもない自分自身を見つめている。それに対して何か反応をしなければ、という焦りが彼を動かそうと躍起になっていたが、それでもドクターはただ見つめることしかできなかった。

 ふと、違和感が生じる。身体の端に小さな感覚。

 視線を動かすと、白い腕が伸びてドクターの白衣の袖を掴んでいた。

 そのとき、アーヴィングに確信が降りてきた。何よりも自分を納得させるだけの理由がそこにはあった。胸の奥深くに生まれた、暖かな感情。

 ドクター・アーヴィングは少女の手を両手でゆっくり包みこみ、ブラウンの瞳に優しく微笑んだ。


 プリシラの処置を終えると、アーヴィングは彼女をそのままに部屋を後にしようとした。

 ――数分もすれば少女は目を覚ます。自分で服を着ると部屋から出てくるだろう。

 ふと、プリシラの持参したお菓子の紙袋が視界に入った。

 机の上に置かれたそれに手を突っ込み、適当に封を開けて口に放り込んだ。舌で溶けるチョコレートの甘ったるさにコーヒーが欲しくなった。

 少し考えて、引き出しからポストイットを一枚めくってペンをすらすら這わせる。

 チョコレートの箱にそれを貼り付けると、プリシラの服の入った籠にそっと置いた。ドクター・アーヴィングは腕組みをしながら頷くと、たんまりお菓子の入った紙袋を抱えてさっさとメンテナンスルームを出て行った。

 『食後は必ず歯を磨くように』

 ポストイットにはそう書かれていた。

 
 エリオットは自室で今回の任務についてのレポートに目を通していた。
 
 日が落ちて施設の周辺――棄てられた工場跡や雑草に覆いつくされた空き地が目立つ――が暗闇に包まれた頃、本部からメールが送られてきた。送付されたファイルには昼に起きた事件の処理が記録されていた。

 プリシラの狙撃によって鎮静化した現場はすぐに都市の治安維持局の管理下に置かれた。建設現場には規制線が張られ、ばらばらになった拡張者の破片と拡張器官が回収されると、その場は都市警察に管理が移った。中断された作業を再開するために現場の開放を要求する建設業者に応じて二時間後には撤収、午後八時には建設作業が再開された。

 片腕を切断された女性は中央病院に搬送されたが一命を取りとめたという。

 発生から四時後に事件は終わった。今回も迅速に全てが処理され、エリオットとプリシラによる四度目の任務も完遂された。

 本部と治安維持局の間には取り決めがあった。それは民間の福祉施設であるサイダーハウスに拡張犯罪に限定した治安活動を認めるというものだ。増加する拡張犯罪と維持局員の不足から外部の協力機関に権限を譲渡する、というのが名目だが、実際は九龍公使の影響下にあるのは本部も治安維持局/都市警察も同じであり、公使の圧力の下で締結された取り決めなのは明白だった。

 また、彼らに提供される拡張器官ももちろん公使の製品であり、新しい製品開発に協力する事には彼ら自身にも利益になる可能性が高かった。

 エリオットは部屋を出ると、共用スペースに向かった。テーブル/ソファ/椅子/キッチンがあり、食事や飲み物がほしいときは大抵そこへ向かう。

 通路を抜けると、角の向こうから暖色の明かりが漏れていた。

 部屋の中央にあるロングテーブルにはチョコ/クッキー/スナックの類の残骸が食べかすと共に放置され、傍のソファにドクターが横になっていた。

 床に転がったチョコレート箱をテーブルに置くと、エリオットは声をかけた。
「ドクター」

 エリオットの声に身体をびくりと動かすと、ドクターはソファから半身を起こした。

「なんだエリオットか」左目を半分閉じたドクターは口をもごもごさせてそういった。

「少し話があるんです」

「珍しいな。君のほうから話なんて」

「何か飲み物でも?」寝ぼけた表情のドクターに気を使うエリオット。

「ああ、頼むよ。口の中が甘ったるくてこれじゃあろくに話もできない」

 キッチンでコーヒーを淹れ、カップをテーブルに置く。ドクターはコーヒーを啜ると、一息ついて対面に座るエリオットに向き直った。

「で、なんだい? 給与や待遇なら僕ではなく本部に直接交渉して」

「ドクターはプリシラについてどう考えているんです」遮ってエリオットはいう。

 ドクターは腕を組み、少し考えていった。「彼女は最新技術の結晶だ。従来の副脳を通じた拡張器官ではなく、脳と直結した拡張器官――すなわち、全身拡張だね。なによりあれだけ小さな身体に収められるほど軽量化された拡張器官は――」

「そんなカタログに書いてあることを説明して欲しいわけじゃないんです。それに、今ドクターが話していたのはプリシラではなく、プリシラに換装された拡張器官のことでしょう」

 ドクターは身体をソファに預け、何が言いたい、という表情を向ける。

「俺は素体としてのプリシラについて聞きたいんですよ」

 エリオットは何の確証もなく、この男もきっと同じことを思っている、と感じていた。

 コーヒーを啜り、ゆっくりテーブルにカップを置くとドクターは「てっきり君も本部や天空の眼の連中と同じ類だと思っていたが、なんだい? 彼女に同情でもしたかい」

 さぁ、とエリオットは肩をすくめる――相手に感情を悟られないための装い。「ただ、彼女と組む支援員として上司にアドバイスをと」

「それなら僕からいえることはただ一つだ。支援員はいつ如何なるときも彼女から目を離してはいけない。今日の失態から学びたまえ」

「さっき本部から送られた資料に眼を通しましたが、今回の作戦は無事に処理されたようで、少なくとも今回のような安全な場所からの狙撃は俺が不在でも構わないのでは?」

 ドクターは露骨に顔をしかめた。それは部下に反論されたからではなく、エリオットに議論を誘導されていることに気が付いたからだろう。

 エリオットは話を続ける。

「本部から送られたマニュアルによると支援員の役割は、プリシラの戦闘データおよび全身拡張が素体に及ぼす影響を本部に報告する、というドクターの仕事の補佐だとあります。どこにも彼女と生活を共にしろなどという文言は見当たりません。むしろ道具と強調されていると読み取れます」

「それは……僕の判断さ。ろくに現場を知らない本部の連中じゃ気が付かないボトルネックを僕が解消しているだけだ」

「具体的にどんな場合でしょうか。俺がプリシラの傍にいないと任務に支障が出る場合とは。今回もはじめから天空の眼の監視ドローンで遠隔地から指示を出せば済むことでしょう」

「……万が一、プリシラの身に何かあったらどうするんだ」

「そうですね、もし彼女の身に危険が迫ったとします。先端技術の塊であるプリシラの――ナイフや銃弾を軽く弾く装甲、体性感覚の加速による身体機能――そんな彼女が危機的な状況にいるとしましょう――果たして俺に何ができますかね?」

「エリオット! 君は仕事をサボりたいがためにこんな話を僕に吹っかけてきたのか?」

 ドクターはソファから立ち上がり、語気を強めてそういい放った。

「まるで時間の無駄だったよ。コーヒーは美味かったがね」エリオットの前を通り過ぎて立ち去ろうとするアーヴィング。

「俺がドクターから指示を仰ぎたいのは」声に力を込めていう。これが一番重要なことだとアンダーラインを引くみたいに。

「プリシラを戦闘データ収集のための道具として扱うべきか、それとも、山盛りのお菓子を前にして食べたくてもそういえない内気な女の子として扱うべきなのか、ということです」

 ドクターが立ち止まり、振り返って尋ねる。

「エリオット。君はどうしたい。どうすべきかではなく、どちらを選びたい?」

「それがわからないから上司である貴方に聞いているんじゃないですか。しかし、この問いが浮かんできた時点で、ある程度自分の中に答えはあるような気がします」

 ほんの少しの沈黙。それが破られる。

「なら、自分自身に従いたまえ。上司として僕からいえることは変わらない。彼女の傍にいるんだ。そして――」ドクターは間をおいてこういった。

「自分の有用性を証明することでしか生きられない女の子に、少しでも生活の喜びを与えてやってくれ」

 エリオットは支援員の職について以来、ずっと胸につかえていた違和感がようやく取れた気がした。

「ええ、分かりました。アーヴィング」

 初めて名前を呼ばれたことに気恥ずかしくなったのか、ドクターはエリオットを背中に手を振り足早に退出しようとした。そして何を思い出したのか、不意に歩みを止める。

「ああそうだ、君の心配は杞憂だよ。僕がプリシラに一つばかりチョコレートの箱をプレゼントしたからね。気に入るといいが」

 そういい終わると、ついにドクターは部屋からいなくなった。

 橙色の灯りの下、エリオットはひとり満足げにソファに身体を預けた。




  

 施設の地下一階――射撃訓練場。
 
 奥行き百十メートル/窓のない長方形/全面コンクリート張りの棺桶めいた空間。
 
 少女の周りに硝煙が漂う。足元には三十五発分の薬莢―頭上の僅かな照明に反射する金色のまだら模様。

 銃身のように細長い射場の奥まった位置、薄暗い場所に僅かに視認できるスクリーン。人型が射影されたそれにはすでに風穴が穿たれていた。左右両肩/両肘/両手首/そして頭部に一つずつ穴が開いているように見える――が、実際のところは穴は七ヶ所ではない。七つの部位に五発ずつ空けられた穴が、まるで一発で穿たれたように寸分違わぬ精密射撃で貫かれているのだ。エリオットは手元のタブレットに表示された詳細な記録に思わず口角が上がる――ほんの少しの悪寒と共に。

 顔を上げて射撃位置に立ったプリシラを見る。彼女は取り外したマガジンに一つずつ弾薬を装填する。幼い手の繊細な指先が金属に触れ、しなやかな関節の動きでそれをつまみ、弾倉に押し込む。

 五十口径/十二,七ミリ弾の装填される音が小さく響く――カチリ、カチリと洗練された動きで給弾が行われる。

 プリシラは弾倉を拳銃本体に送り込み、遊底を引く。スプリングに押し出された薬莢が本体の薬室に装填=準備完了。

 少女は両手に持った黒光りする巨大な象狩り拳銃を目線まで持ち上げると、なんのためらいも見せずに引き金を絞った。

 轟音/閃光――空間が逆巻くような衝撃がエリオットのイヤープロテクター越しに伝わる。数メートル離れていても感じられる身体中に襲い掛かる圧力。滞留した煙を吹き散らし、その後鼻をつく刺激臭――硫化カリウムが空気と反応して出来た硫化水素の臭い――が辺りに立ち込める。

 プリシラの黒髪が衝撃に吹き流される。が、気にせず二発目/爆音/閃光/衝撃。

 三発目――五十口径弾の反動で僅かにぶれた腕を瞬時に修正。スクリーンの空洞をすり抜ける精密射撃――リピート再生のような正確無比の再現性。

 四発目/五発目/六発目/足元に落ちた空薬莢の奏でる小気味良い金属音。

 そして七発目。マガジンから押し出された最後の弾丸は高速回転しながら射影された人型の額を突き抜けた。

 吐き出された薬莢がプリシラの頬を掠めて落ちていく。硬いコンクリートの地面に四十二発目の薬莢がかん高い音色を響かせ、射撃訓練のフィナーレを飾った。

 少女は射撃位置から振り返り、こちらを向いた。両手に持った銃はもちろん斜め下に向けられたまま。

 エリオットはイヤープロテクターを外して彼女に近寄った。

「すごいな」足元に転がった空薬莢に目を向け、立ち込める硝煙を片手で払う。

「ありがとうございます」プリシラは丁寧にそういった。

 黒いスカートから伸びる白いソックスに包まれた脚。丸まった靴先のローファーが彼女の幼さに磨きをかけるように内側を向いている。足首のでっぱりでかわいらしい白い丘が浮かぶ。

「毎回こんな調子なのかい」

「最近になってこの成績を維持できるようになりました」

 少女は先生に向かって報告するように、小さな身体を反らせてエリオットの顔を見上げた。

「ということは、あまり上手に撃てなかった頃もあるのか。いや、想像がつかないな」エリオットは先ほどの硝煙を吹き散らしながら射撃を行うプリシラの姿を思い浮かべる。改めて目の前の少女との現実離れしたギャップに驚く。

「はい。強化された身体でも射撃技術は後から身につけなければ役に立てません」

 ――強化された身体。役に立てない。

 プリシラの口から発せられた言葉に染み付いた重み――錆付いた少女性。

「そうか、今回は急に悪かったね。射撃訓練を見学したいだなんて。迷惑じゃなかったかい」

「いいえ。問題ありません」事務対応のような返答――問題はない。相手がエリオットだろうと誰だろうと。そんな無機質さを感じさせる。

 エリオットは朝食を済ませて自室に戻ろうとした際プリシラと通りがかった。昨晩のドクターとのやり取りから、声をかけてみようという気になる。朝の挨拶を交わすと、射撃訓練に向かうと話したプリシラに同席を申し出た――快諾。

「プリシラは、普段何をしているんだい?」間を持たせるための質問。我ながら会話が下手糞だ。

「ドクターの作成した行動表に基づいて生活しています。今日は午前中に射撃訓練で、お昼の後は読書です」

「読書か、今は何を?」

「人体の図解や科学についての本を読んでいます。ドクターが薦めてくれました」

 ――アーヴィングめ。もっと物語らしい本を薦めればいいものを。あの男は自分の趣味を押し付けたな。かといって俺に薦められる本なんて皆無だ。こればかりはろくに読書をしてこなかった自分を恨むしかない。

「楽しいのか? いや、俺は図鑑を読む趣味がないから」

「楽しい、というより、有用性のある本です。人間の構造と、それに関連する科学技術はどちらも任務に役立ちます。ドクターは素晴らしい本を与えてくれました」

 ――有用性。任務。

 その通りだった。ドクターはプリシラをよく理解している。彼女は何のために生きているのか――それは娯楽や生活のためではない。自らの有用性の証明のためにほかならない。彼女に必要なのは物語ではなく任務達成に役立つ知識や経験だ。エリオットは自分の浅慮さに舌を打ちたくなる。

 プリシラは自分自身の役目について自覚どころか、それこそが存在理由だと信じている。全身拡張者として任務に従事し、戦闘データを提供する事――彼女の起源であり、最終目的地。生まれた理由と生きる理由があらかじめ定められている者の単純で過酷な一本道。

「そうか」エリオットの口からようやく出たのはその一言だった。

 ――生活の喜びを与えてやってくれ。

 上司からの指令が頭をよぎる。実行してみてはじめて分かる無理難題なミッション。軽く引き受けた自分をぶちのめしてやりたい。

「でも」少女は小さな声を出した。これだけはいいたい、と胸の奥からこみ
上げてきた想いを吐き出すような調子だった。

「ドクターは、私の有用性を任務の外にも向けるべきだといいました。そのために読書をしたりや音楽を聴いたほうがいい、と。でも、私にはそれがわかりません」どこを見るでもなく、目のやり場を探して横を向いたプリシラがいった。直接目を合わせていいたくはないが、しかし話したいことがある――『道具』にはできないためらいの感情の発露。

「ふわふわした考えをするのは、とても難しいです」

 彼女が抽象的な思考をするのに苦労するのは当然のことに思えた。プリシラは与えられた具体的な行動を達成するために存在しているのであり、自分で意味を掴み取るという思考には不慣れなのだ。

 プリシラのブラウンの瞳が揺れた。どこにも行き場のない迷子の眼差しがエリオットに向けられる。

 不意に、衝動に駆られた言葉がエリオットを突き動かそうとした。

 ――俺は支援員として、君だけの有用性を見つけだす手助けをしたい。

 その言葉は喉の手前で止まり、やがて引っ込んでいった。

「俺は」口から漏れたその言葉が意味を持つ前に、地下訓練場にドクターの声が鳴り響いた。

『地下訓練場の諸君。天空の眼のお客さんだ。今すぐ会議室に集まりたまえ。もちろん二人共だ』

 スピーカーから発せられる音がエリオットとプリシラを引き裂いたかのように、お互いが後ろに身を引いた。

 少しの間目を合わせていると、プリシラはドクターの言葉に従い訓練場を後にしようとした。拳銃を射撃台に置くと、エリオットの傍を通り過ぎて出口に向かっていく。

 背後で扉の開閉音がすると、エリオットは誰もいない空間にため息をついた。


 
 まどろみを吹き消したのは、頬を伝う金属の冷たさと鼻をつく鉄の臭いだった。

 アニー・ファインゴールドは瞼を開いた。薄暗い空間/四方を囲む壁/中央に垂れ下がった電球の瞬き。僅かな灯りに照らされたタイル張りの床には赤黒い錆びのような染みが広がっていた。

 部屋の中央には手術台のような一人が横になれる程度の台が地面に固定されていた。その上に薄緑色のシートが重ねてあり、何か大きな物を覆っていた。

 タイルに直接腰を下ろした状態の彼女は強張った身体を動かそうとするが――両手に自由が利かない。両手首は後ろ手に縛られてパイプのような鉄の棒に繋がれていた。

 ――ここは……? この状況は、いったいなに?

 アニーは目覚めて間もない意識の中で状況を把握しようとした。が、不意に酷い吐き気に襲われる。喉下をせり上がってくる未消化物の逆流――堪えようとするも身体を搾りあげるような勢いは止まらず、首を前に突き出すと彼女の薄紅色の唇の隙間から生温かい液体が飛び出した。びしゃり、とタイルに撒き散らされた黄色い膜に覆われた嘔吐物から湯気とむせるような酸の臭いが立ちこめる。

 粘りつく酸味の液体が口元から長い糸を引いて床に垂れ落ちる。次いで涙が鼻梁を沿って流れ落ちた。両手を縛られた彼女は流出する体液を倦怠感あらわな目でもって見下ろすほかなかった。

 頭の中に疑問が満ちている。が、考えようとしても異様な状況に麻痺したように頭が働かない。霞がかった思考は行き場もなく、ただ呆然と思考が晴れるのを待った。

 アニーはしばらくそうしていると、やがて銅鑼で鳴らしたような苛烈な頭痛が起こった。脳を左右に揺さぶり続けられるような感覚と経験したことのない強烈な痛みに身を縮めようとするが、両手がパイプに引っ張られて身体のバランスが崩れた。顔の側面がタイルに叩きつけられ、ブロンドの長い髪が吐瀉物にまみれる。

 ささくれのようにせりあがった赤黒い錆びで頬が切れ、血が滴り落ちた。

 身体を起こそうとしたが、急に力が抜ける。その代わりに訪れたのは全身の震え。指先が、腕が、腰が、脚が、連動する機械のようにブルブル震えはじめた。

 身体に重くのしかかる倦怠感/鈍痛/立ち込める臭気/痙攣に意識を撹拌され、頭の中が混乱に陥った。そして彼女は当然の反応を見せた――絶叫。狂気の発散によるすべての思考のリセット。

 狭い空間に彼女の金切り声が反響する。が、狂気はそれだけには収まらず、アニーは震える身体を制圧しようとして全身をバタバタ振り回した。

 叫びながら足は空を蹴った。涎を左右に垂らしながら頭をやたらめたらに振り回した。後ろ手に縛られている両手を引き抜こうとして身体ごと前に押し出す。手首を縛りつける金属が関節に食い込み、そのままべろりと肌が裂けて肉が露出した。

 電流のように痛みが走る。アニーはびくりと勢いよく身体を起こして、振り回した頭の側頭部が金属のパイプと衝突した。

 恐慌に汚染された精神に閃光がきらめき、一瞬彼女の脳内はすっきりと晴れ渡った。遅れて衝撃による鈍痛――彼女の頭部に重い衝撃/意識が遠のく。

 吐き気/頭痛/全身の震えと悪寒。うすれゆく意識の中、彼女は自分の状況を説明できる一つの回答にたどりついていた。

 スペシャルK――彼女の通うトリニティ・ハイスクールに蔓延しているスマートドラッグ。服用者に強力な集中力/高揚感/多幸感をもたらす、勉強の捗る薬として流入。一錠で半日の集中力持続。そしてその後に必ず訪れる副作用―—嘔吐感/倦怠感/頭痛/全身の震え。

 唾棄すべき薬物/都市の腐敗の象徴/その作用を身をもって知る。

 ――でも、どうして?

 ハイスクールを侵食するドラッグはもはや試験やスポーツ目的にとどまらず、その多幸感と高揚感からセックスドラッグとしても使用されていた。また、重度の薬物依存者はスペシャルKに飽き足りず、更に強い薬へと手を伸ばしていき、薬物市場は拡大の一途をたどっていた。

 アニーは自分を取り囲む状況を黙認してはいたものの、使用者には常に軽蔑の視線を送った。

 震える体を両手で抱きしめるように抑え、瞳孔の開いた目でテストに臨む女生徒。体育館で汗を流すアニー達に気味の悪い笑顔を浮かべ、ハーフパンツに突っ込んだ手を激しく上下に動かす男。唐突にイマジンを歌いはじめる教師。

 スペシャルKの流入から一年足らずでトリニティ・ハイスクールは生徒/教師を問わず奇行を働く異常者が跋扈する精神病院めいた空間に変容していた。普遍都市に渦巻く強欲と快楽のうねりは、性別、人種、宗教、身分に関わらず全ての人間を飲み込もうとする。

 彼女はそんな街を出ていくため、途方もない負のサイクルから抜け出すために勉学に励んだ。奨学金を得て法曹の道へ進むことが彼女の夢だった。その夢のためには持てるものすべてを犠牲にする覚悟があったし、むしろこの街で得られるものには何の価値も無いと考えていた。

 幼馴染は薬を奪うためにディーラーを襲い、数日後、悪臭を放つ濁った水路に浮かんでいた。無職で酒浸りの父に愛想をつかした母はアニーを置いて知らない男と一緒に街を去った。父はますます酒に頼るようになり、近頃は薬物にも手を出しているようで、アニーに向ける視線は雌を狙う盛った獣めいたものに変貌していた。

 彼女は母を恨むことはなかった。むしろ正しい選択をしたとさえ思っていた。母親は必要なものとそうでないものをはっきり分けただけなのだ。自分は母にとって必要なものではなかった、ただそれだけのことだった。

 家族も友人も等しく価値を持たなかった。唯一価値があるといえるものは自分の意志だけだった。目的のために必要/不必要を判別し続ける意志――シティの外への片道切符。

 ――それなのに。

 薄暗く、錆と吐瀉物の臭いが満ちた部屋。遠のく意識の中で、アニー・ファインゴールドは何かが頬を滑り落ちていったのを感覚した。


 彼女が再び目を覚ましたとき、吐き気や倦怠感はいくらか和らいでいた。だから自分に視線を向けている何者かの気配に気づくことができた。

 アニーは身体を起こして部屋を見渡した。僅かに灯った明かりを頼りに狭い空間を把握しようと努める。

 薄汚いタイルの床――変化なし。赤黒い錆と乾きつつある嘔吐物。

 四方を囲む壁――それまで壁だと思っていた場所から光が漏れている。縦に伸びる光の筋。それは恐らく扉だった。僅かな隙間から向こう側の明かりが入り込んでいるのだ。

 中央に鎮座する台――変化なし。相変わらず台の上にはこんもりと膨れ上がっている何かがあり、薄緑のカバーがそれを覆っている。一人なら十分隠れられるだろう大きさの膨らみだったが、アニーは本能からそこに視線の主はいないだろうと確信していた。

 側頭部の鈍い痛みに顔をしかめながら上を見上げる――そして、見つけた。

 天井――頭上に張り巡らされた配管の間に灯った二つの赤い光点。非常ランプのように暗闇の中で存在を主張する光はそれぞれがコイン程度の大きさで、地上に腰を下ろす彼女に警告をするように無言の圧力を掛けている。

 気配と視線はその二つの赤い光から発せられている――アニーは直感し、そして背筋が一瞬寒くなるのを感じた。まるで闇に身をひそめる獣がその鋭い眼光でもって相手を威嚇するようだった。

 ――動くな。

 ――声を出すな。

 アニーに向けられた視線は鋭いナイフのように喉元に突き付けられ、彼女はしばらくその赤い光から目を離せないでいた。

 突如、乱暴な音とともに壁の扉が開く――向こう側から明かりが差し込み、それに照らされて大きな人影が部屋に足を踏み入れた。

 シルエットの腕や肩の部分が異様に膨れ、その主が恐ろしい筋肉質の肉体であると主張している。

 無遠慮にタイルを踏み鳴らす、傲慢な足音。その影は大股で施術台に近寄り薄緑の覆いに手をかけると、ひと息にカバーを剥ぎ取って放り投げた。

 筋肉質の人影が電球に照らされると、露出した頭皮が見えた。その男の頭部には髪や眉毛などの体毛が確認できず、浮き上った太い血管が毛髪の代わりに頭部を覆いつくしていた。

 大男は台の上に乗る何かを一瞥するや否や、咆哮をあげた。

「スシボオォォォイ!」

 全身の筋肉を震わせて力の限り叫ぶ。股間にぶら下がったものを切り取られてもこんな叫び声は出ないだろう絶叫。

 耳をつんざくような轟音が狭い部屋に反響し、アニーは反射的に身を縮める。腕輪が露出した肉に食い込んで全身に痛みが走る。叫び声をあげそうになるのを唇を噛んで堪える。痛みに涙が流れ落ちた。

 男は辺りを見回した。その鋭く怒りのこもった目で誰かを探しているようだった。アニーの方を向いたと思えば、彼女には関心がないという風に違う方向へ目をやった。まるで人間扱いなんてしていないみたいに。路上に吐き捨てられたガムに向けるような視線。

 しかし、筋肉男は口元に気味の悪い引きつった笑みを浮かべていた。ぎらついた眼で見るものすべてを威圧する一方で、その下についた分厚い唇は裂けたように両側に引っ張られて内側のピンクの歯茎と真っ白な歯を露出させている。ピエロのような笑い。

 肉食獣の眼と道化師の口元。二つの表情を上下に分けて配置したような顔と目が合った瞬間、アニーは生きた心地がしなかった。一瞥して分かる。この野獣の興味を引いたらそれで終わりだと。

 筋肉男は不意に静止する。さっきまで荒くしていた機関車のような鼻息が一瞬止まった。何か思い出したという様子。そしておもむろに頭上を見上げると、例の赤い光点に気が付いたようだった。

 そして、「スシボオォォォイ!」再び絶叫。衝撃波を放つような、音響兵器めいた一撃。

 天井の光点が動く。赤い眼は音もなく天井の隅へと移動した。忌み嫌われる害虫を連想させる素早い動き。そして、部屋に響きわたるかん高い音――ブラックボードを引っかいたような不快な高音。それが笑い声だと気が付いたのは赤い光の主が大男に話しかけてからだった。

「キェキェキェ。おでが何かしただか?」

 配管の密集した暗がりに潜んだ光点からその声はした。文字通り、見下すような嘲笑。

 大男は無言で笑い声のする方向を向いていた。表情は見えないが、後頭部に走る血管が一層深く脈打つように感じられた。

「何かしたか、だって?」脈打ち頭から発せられたのは意外にも穏やかなバリトン・ボイスだった。空間に染みわたるような渋い低音は、少し前の獣じみた咆哮の主と同じ人間だとは思えない。「おいおいスシボーイ、そりゃあないんじゃないか?」

 アニーは再び襲いかかるだろう轟音に備えて身構えていたが、予想外の穏やかな声色に呆気にとられた。そして、こうも思った。

 ――この大男、普通に話せるのか。

「前にいったはずだ、次のブツは俺のやり方に任せるってな。誓ってもいい。確実に、絶対に俺はいったんだ。忘れたとはいわせないぞスシボーイ」

「キェッキェッ。そんだことなら、ちゃんと覚えてるだよ」暗がりからの声。そのかん高い田舎訛りの声の主の姿は未だ不明だが、きっと不気味な笑顔をしているだろう、とアニーは思った。筋肉男と同様の奇怪な笑顔。

「だからちゃんと、バラシの最中で、ブツが起きぢまわねぇように、先に仕込んどいただ。おでの自慢の一発を」

 キェキェ、と嘲る声が響く。

「ああそうか、成程。殊勝な心掛けだなスシボーイ。気が利く奴だ、本当に……」落ち着いた声でそういい、そして天を仰ぐ大男。「本当に……」

 アニーはその光景を目にすると、嫌な予感がした。

 激怒する男がよく見せる傾向――大噴火前の、一瞬のクールダウン。父親もよく怒鳴り散らしたが、彼もその傾向があった。

「本当に……クソみてぇな先走り野郎め!」大男は施術台に乗っているモノを掴むと勢いに任せて赤い光点に向かってぶん投げた。

 モノが持ち上げられた瞬間明かりに照らされ、その姿がはっきりと見えた。それは人間だった。

 一糸纏わぬ白い肌。アニーと同じブロンドの長髪。だらりと垂れ下がった細い手足。開かれた眼に収まった、生気を感じさせない青い瞳。

 弾丸のように放たれた彼女は四肢を振り回してパイプの間に突き刺さった。赤い光点は高速で近づく物体をさっと避けて別の場所に移動した。

「怒っだ怒っだ。キェキェキェ」

 アラームのようにけたたましく響き渡る。大男に降り注ぐ嘲りの雨。

 筋肉男は身体を上下に揺らせて呼吸を荒くする。「ブッ殺してやる……おめぇも消し炭みてぇに燃やしてやる!」

「おもぢれぇなぁ。お前は本当におもぢれぇぞホットガイ。女のけつの穴にヤクをぶち込むよりおもぢれぇ」

 アニーは連中が幼稚な喧嘩に気を取られている隙にどうにか逃げられないかと思案した。大男はこちらに背を向けているし、天井に張り付いた金切り声の奴も眼下で怒る筋肉男を煽るのに夢中になっていた。

 大男はそこら辺のがらくたを拾っては天井の隅に投げつける。赤ランプ野郎はそれをさっと避け、嘲笑。その繰り返し。「おもぢれぇ! おもぢれぇ!」「ブッ殺す! 燃やしてやる!」リピート映像を見せつけられているかのように状況は変わらない。

 明かりの差し込む両開きの扉の向こうは狭い通路で、奥まったところに階段が見えた。使い込まれたコンクリートの無骨な壁。扉の少し先に電灯が点いている。踏み幅の狭い急な階段が上に伸びていて、自分のいる場所がおそらく地下に位置するのだろうと予想する。

 ――もし、あの階段が地上に通じていたら。奴らが気が付かないうちにそろそろと通路の方へ移動出来れば助けを呼べるかもしれない。

 しかし、パイプに繋がれた両手首はどうにもならない。身体を動かすだけで金属が手首の露出した肉に触れて激痛が走る。

 ――どうする? パイプを外す? どうやって? 手首を外そうか? 馬鹿らしい。肌が裂けただけで叫ぶほど痛いのに。

 目の前の好機と、それに対して何の行動も起こせない自分に腹が立つ。連中が自分を放って置くのは拘束されているからだ。そして奴らがこちらに興味を持たないのは、きっと何の抵抗も示さない人間には興味がないからだ。

 ――駄目だ……身動きが取れない以上、助けを待つしかない。でも、いったい誰が私を助けてくれるの? 

 父親は今頃酔っぱらってふて寝しているか、近所の犬に残飯をやってのだろう。動物としか触れあえない、自尊心を失った中年――いないものとして扱う。積み上げられた廃棄物のひとつ。

 ハイスクールに上がるまでは一緒だった幼馴染はもういない。彼が薬に手を出していた事を知ったのは彼が死体になってからだった。体中に空いた銃弾の風穴。襲撃したディーラーから返り討ちにあい、下水にプカプカ浮かんでいた。まだ幼さの残る少年の開かれたグリーンの眼――思い出の放棄。彼のことはもう思い出さないようにした。

 母親――自分を捨てた。その代わりにシティを抜け出す道を示してくれた。

 捨てた。必要ないものは全て放り投げて見向きもしなかった。そうすることで自分も母親のようにシティを出られると思い込んでいた。

 思い浮かぶ顔は既に自分と関係ないものばかりだった。母親が出て行ってから、シティで新たに得ようとするものなんてなかった。それはアニーの人間関係の構築にも影響した。ハイスクールには休日に遊ぶ友人なんていなかったし、それを願うこともなかった。

 すべての価値あるものはシティの外にある。そう信じていた。

「助けて」声が漏れた。「パパ……ママ」

 どうしようもなく涙が頬を伝うのを感じていた。

 自分の声に耳を貸すものは誰もいない。この場所だけではなく、シティにも。そしておそらくは、シティの外にも……。

 彼女のすすり泣く声は地下室を満たす怪人たちのうねるような狂気の渦に巻き込まれ、はじめから何もなかったかのように消えていった。




 アニーが入り口に立つ男の存在に気が付いたのは、地下室に突如若いテノールの声が響いたからだった。筋肉男のバリトン・ボイスでもゴキブリ野郎の金切り声でもない。鉄臭い空間に染み渡る清涼剤のような青年の声。

「あまりにも騒がしいもので降りてきたが、これはいったいどういう状況かな」

 彼の声を聞いた大男と虫男は途端に動きを止め、二人して光の漏れる扉に立つ男に顔を向けた。

「聞いてくれよチェリーズ! この天井に張り付いてやがる気味の悪い奴がブツを台無しにしちまったんだ!」

「キェキェ、それは違うだ。ホットガイの野郎が獲物をぶん投げて壊しちまっただ。おでは何もしちゃいねぇ」

「まあ待て。ただでさえ陰気臭い場所なのに、こうも薄暗くてはかなわないだろう?」

 落ち着いたテノールの声を発する男は地下室に足を踏み入れると、薄暗い壁に手をやった。パチリ、と音がして狭く薄暗い空間に明かりが満ちた。

 四方に付いた電灯に明かりが灯り、部屋の詳細が見てとれた。

 天井に張り付いた男――配管パイプの伝う天井に潜んでいた赤い眼の正体。ニンジャめいた黒装束に身を包み、逆さになって天井を這う男。胴体から延びる異様に長い手足を器用に操り、虫のように自在に這いまわる。そして更に異様なのはその頭部だった。

 身体は逆さになっているが、顔は正面を向いていた。逆さになるはずの頭部だけが重力に従うように眼下の男たちの方を見下ろしていた。普通の人間なら首が折れているはずの、異様な角度。

 黒装束は身体だけでなく顔全体を覆っていたが、目の部分だけが裸になっている。眼球があるはずの場所は暗視スコープのようなレンズが換装され、明かりのついた今でも赤いランプが灯っている。

 虫男の真下――剛健な筋肉の鎧で威圧する上半身が裸の男。相変わらず怒りを抑えられない目元と、道化師のように口の裂けた笑い顔が同じ顔に収まっている。

 頭皮に脈打っていた血管は体中に網を張ったように巡らされ、男が力を入れると血管が弾け飛びそうなほど膨らんだ。

 そして――入り口付近に佇む、トレンチコートを纏い、目深にフードを被った背の高い男。痩せ型で、スラックスを履いた長い足が伸びている。僅かに見える口元は薄い唇が真横に引かれ、連中のなかでは唯一感情を表さない男だった。

 大男と虫男は喧嘩の理由を説明したが、それぞれが自分は悪くない、相手の責任だと主張――フード男は黙って二人の弁明に耳を傾けていた。癖なのだろうか、痩せぎすの男はしきりに自分の側頭部を撫でていた。

 繊細にして、しなやかに伸びる指先。まるで愛撫するような手つきにアニーは背筋の凍る思いがした。

「大体のことは分かった。要するに、お前たちは次の仕事のやり方について意見の不一致があったというわけだな」

 男は腕組みをして二人を交互に見た。まるで問題を起こした生徒同士を仲裁する教師といった振る舞い。連中が騒ぎを起こす事が日常なのか、慣れた様子で二人を嗜める。

「スペルマン」まず男は天井に張り付いている虫男に向かっていった。それに反応して、スペルマンと呼ばれた男は身体をピクリと痙攣させると、凍ったように動かなくなった。

「お前は最高の麻酔医だ。それだけはホットガイも認めなくてはならない。その技能のおかげで俺達の仕事は円滑に運ぶ。喧しいスクールガールの身体を傷つけずに黙らせられるのはお前がいてこそのことだ。チームの誰よりも素早く仕事をこなす腕はあの無口なヴァンプですら認めている。だが、その天井に張り付いた姿勢から嘲笑を浴びせるやり方。それはノーだ、スペルマン。相手を煽りたくなる気持ちは分からないでもないさ。しかし俺たちはチームなんだ。仕事に貢献しているのはお前だけじゃない。ホットガイもヴァンプも、お前からすれば重要性の薄い仕事かもしれんが、奴らがいてこそ仕事が成り立つんだ。スペルマン、もう一度いうぞ。俺たちはチームだ。それだけは忘れるな」

 男はいい終えるとフード越しに側頭部へ指を這わせる。いやに洗練された気味の悪い動き。すると、天井で硬直していたスペルマンがその長い手足をパイプから離した。当然――落下。タイルの床に叩きつけられた男の口から鈍い唸り声がした。

「ギュギュ……。分かっただ、チェリーズ……おでが悪いことした」

 チェリーズと呼ばれた男は踏み潰された虫のように床に這いつくばるスペルマンを見下ろすと、再び側頭部に触れた。今度はとんとん、と軽く叩く。人差し指と中指で、交互に、リズムをとるように。

 大男が逃げ出そうとした。じりじりと扉の方へ後ずさり、連中のリーダー各らしい男の傍を離れようとした。すると、急に頭を抱えて膝から崩れ落ちた。

「ホットガイ。今回は少しやり過ぎたな」チェリーズは穏やかに、誰もいない空間に独りごちるような調子で話し始めた。

「俺たちは何のためにこんな錆臭い地下室にいる? 何のために危険を冒してアンフェタミン狂いのあばずれをさらう? 何のためにアンダーグラウンドのいかれ野郎共すら眉を顰めるバラシなんかやっているんだ? 頭がぶっ飛ぶような痛みを耐えて手に入れたこの身体は、こんな屠畜場の作業員になるためだったのか?」

 男は矢継ぎ早に疑問文を投げかける。ゴキブリ野郎の嘲笑とは異なる類の、無感情の冷徹な声の雨。威圧し、屈服させようとする――相手を人間扱いしない態度。

 背中に網上に覆った太い血管がどくどく脈打つ。異常な脈拍。

「這いあがるためだ。このろくでもない街を駆け上がって、奪われたものを取り戻すためだ。そうだろ? ホットガイ」男は蹲る大男に身体を向き直すと、フードの奥から見下ろした。僅かに覘いた男の青い眼。感情を読み取れない、凍りついた眼。

「ああ……そうだ、お前のいう通りだ。だから、だからこれをどうにかしてくれ」錆付いたタイルに伏せるホットガイが全身を痙攣させながら、弱弱しい声でそういった。

 だらしない格好で這いつくばるゴキブリ野郎と筋肉男。彼らはチェリーズの何らかの力によって自由を奪われているようだった。

「シティのアンダーグラウンドでクズ同然だった俺達に与えられたチャンス。人間として死ぬか、クズとして生きるかの二択。生まれてはじめて手に入れた、選択の権利。そして俺達は選んだ。今度は搾取する側に回ると」

 フード男は指を這わせる。次いで呻き声が地下室に響く。苦痛に顔を歪めるホットガイ――口元は相変わらず道化師の裂けた笑顔。

「組織のいいなりになってまでこんな仕事をこなさくてはならないのは、それが必要なことだからだ。シティの頂上に辿り着くには、まず組織をのし上がらなければならない。ホットガイ、お前は俺達を殺す気なのか? またドブ臭い生活に舞い戻るつもりなのか? 夢を諦めたのか?」

「違う! 俺は」肉男は言葉の途中で悲鳴をあげた。奴を見下ろす男の冷たい眼――黙れ、というメッセージ。

 チェリーズは続ける。

「与えられた仕事を完遂できない奴に存在価値はない。用なしと判断されたなら、それっきりだ。スペルマン、今回の仕事は何だ?」

「ブロンドの乳臭ぇガキをさらっでバラす。アーノルド署長と一緒に」くぐもった声で害虫男はいった。

「単純な仕事じゃないか。ブロンドの若い女なんてシティには腐るほどいるだろう? 見つけるのも、さらうのもイージー。そのへんのチンピラでも出来ることさ」

「悪かった……本当に俺が悪かった」

「だが、これは何だ? 俺は夢でも見ているのか? 何故捕まえた女が死んでいる。作業台に横たわっているはずの女が、何故尻を晒して天井のパイプに突き刺さっているんだ? 明日の本番を目前にして、どうして女優の首がへし折れているんだ?」

 ホットガイが痛烈な叫びをあげた。耳をつんざく絶叫にアニーは身体を硬直させる。

「チェ、チェリーズ、もう勘弁してやっで」

 スペルマンの介入は奴自身の金切り声の悲鳴によって止められた。チェリーズは側頭部に指を添える。

「俺達は仕事を着実にこなしていく。階段を一歩ずつ登るように。それを阻む奴がいれば、誰でも始末する。例え仲間であってもだ」

 地下室に静寂が訪れる。タイルに顔をつけた二人の男が呼吸を止めたように動かなくなった。恐怖が奴らを支配している、アニーはそう思った。

「とはいえ、幸運の女神はまだ俺達を見放してはいないようだ。ヴァンプという名の、俺達だけの女神」

 チェリーズは側頭部から手を離した。そして、思い出したように身体を動かす二人の男――手足が動くのを確認。

 不意に、フードの陰に覗く青い眼がアニーを見つめた。そして、口元を斜めにした。女をモノ扱いする男がよく見せる、見下すような嘲笑。

 アニーは心臓を鷲掴みにされたように動けなくなった。奴の注意がこちらに向いたことで、遠のいていた恐怖が再び傍に寄ってきたのを感じた。

 それまで冷静に状況の把握に努めていた彼女が急に現実に引き戻される。拉致され、錆の臭いが満ちた地下室に監禁された自分。すぐ近くに、自分と同じようなハイスクールガールが性器を晒して天井にぶら下がっている。奴らのいうことが正しければ、薬漬けにされたうえ、首をへし折られて死んた。

「そこで彼女の出番だ」チェリーズはアニーの方向へ手をかざす。次いでゴキブリと筋肉が彼女を見た。「予定は狂ったが、ここでヴァンプの機転が功を奏したというもの。彼女の堅実な性格と確かな観察眼が今回の失態をまさに予期していた。これこそがチームワークだと思わないか?」

 男は天を仰いだ――まるで指揮者のように両手を捧げて。

 奴は目深に被っていたフードを取る。現れたのは恍惚とした表情。自分の演説に満足したという風。絶頂に達した男の漂わせる、気味の悪い万能感。

 そして――アニーはそれを目にしたとき、自分はもう助からないと確信した――自分の股に温かい液体が流れるのを感覚。

 チェリーズの側頭部にある、もう一つの顔。サクランボのようにくっついた二つの頭――完全に分化されなかった双子。

 金属で封印された瞼/口唇の存在しない剥き出しの歯茎/鼻梁は削がれて二つの黒穴が開いている。

 チェリーズはその瘤のように浮き出た顔を撫でる。愛しげに。運命の恋人を愛撫するように。すると、もう一つの顔が動いた。露出した歯がゆっくりと開くと――

「たあぁぁのぉしいいぃぃぃぃぃ!」

 狂った叫び声が反響し、空間をミキサーで攪拌するように響き渡る。

「アハ! 兄貴も喜んでる!」チェリーズは心底嬉しそうに歯を見せて笑った。まるで少年のように無垢な笑顔。

「たあぁぁのぉしいいぃぃぃぃぃ!」

 アニーは悲鳴を上げた。眼を限界まで開き、全ての力を振り絞って叫びをあげた。

「助けて! 誰か! 誰か助けてよ!」

 その願いが叶わないことを理解していても、そう叫ばざるを得なかった――生きたいという願望と目の前の現実の折衷。

「パパ! ママ!」

「たあぁぁのぉしいいぃぃぃぃぃ!」

「兄貴! 楽しいな!」

 怪物どものパレード。異形の者たちの行進が彼女の精神を蹂躙する。

 狭い地下室に悲鳴と笑い声が反響する――狂喜と恍惚、絶望と後悔が渦巻いて何もかもを飲み込んでいくようだった。


 
 ヴァンプ・ブレードランナーは漂う。全身から力を抜いて、液体と同化するように。

 たゆたう湯水に身体を委ねて、水面に揺れる光を眺めていた。

 光は絶えず形を変えた。形を持つことに意味はないというように。認識することに価値はないと嘲笑うように。ここから先に確かなものはないと、手を伸ばしても無意味だと自分を諫めるように――

 彼女は眼を閉じて、意識を深い所へ沈めた。

 潜水――深く潜る。光の届かない暗闇へ。

 潜水――流されるままの身体を脱け出して、もっと深く。

 潜水――意識さえ、自分の存在さえ忘れるほどの深淵へ。

 底にたどり着く。何者でもなくなった彼女の、唯一の居場所。

 柔らかなベッドより優しく、無垢な笑顔のように清浄。はじまった場所のように温かく、揺れる安寧のゆりかご。

 ただ消滅を待つ。無限のまどろみの中で。

 そして、ゆりかごが止まった。

 起きろ。誰かがいう、彼女の声で。

 従え。誰かがいう、彼女の声で。

 殺せ。誰かがいう、彼女の声で。

 彼女は何かに引っ張られるように浮き上った。上昇していくにつれて、感覚が戻る。

 浮上――お前が選んだ。誰かがいう、彼女の声で。

 意識が戻る。自分を思い出すとともに、脳裏をよぎる残像――自分を見下ろし、囲む白衣の男たち。

 浮上――お前が望んだ。誰かがいう、彼女の声で。

 たゆたう自分の身体に還るとともに、脳裏をよぎる残像――手足の代わりに胴から伸びた、血に錆び付いた刃。

 浮上――お前は、拒否しなかった。誰かがいう、彼女の声で。

 水面に揺れる光に近づき、手を伸ばす。脳裏をよぎる残像――暗く狭い空間にうち捨てられた、おびただしい数の死体たち。

 手に入れたと思いたかった。

 掴んだ手のひらを開く――

 虚無が、彼女を嘲笑うように存在していた。


 ヴァンプは水面から身体を起こした。

 バスルームに満ちた湯気の奥で、ちかちかと電灯が瞬いた。浴槽に注がれる湯の叩きつけるような音が窓のない空間に響いている。

 彼女は身体を確かめるようにじっと眺めた。

 白濁した湯の中から突き出した白い脚はすらりと伸びて、浴槽のふちに置かれたつま先からお湯がすらすらと這い落ちる。防水コーティングされた肌に弾かれた液体は脛を通り過ぎ、膝まわりに走る細長い溝を避けるように水面へ流れていった。

 立ち上がり、浴槽から出る。

 バスルームを抜けて、脱衣所の壁に引っ掛けられた厚手のタオルを手に取る。手足以外の身体――鼠径部から上、肩口から内側を丹念に拭きとる。防水仕様でない、生身の身体――形を持った過去の残骸。

 傍らの、ところどころがひび割れた姿見に映る自分の身体に目をやった。

 濡れた銀髪を軽くタオルで撫でつける――水気を纏って重くなった髪が首筋に垂れて、鎖骨の浮いた華奢な肩に毛先を乗せた。

 鏡に映った彼女の瞳が電灯の鈍い光を反射する。エメラルドの瞳。

 滑らかな腋を拭うと、面倒な乳房の間を通り抜ける汗を厚手の布で吸い取る。

 白い腹から腰にかけて、内側に曲線を描く。健康を周囲に示して憚らない柔らかな胴。

 水分を吸い取る肌を拭き終わると、彼女はすらりと伸びた自分の手足を鏡越しに眺めた。水気を弾く肌――防水加工された生体部品。そして、四肢にか細く刻まれたレールのような溝。

 ゴシック調の洋服に彩られた球体関節人形よろしく、関節の周辺や内外両側の腕の表面に細い筋のような溝が穿たれている。刃の格納された兵器庫の口元。

 追憶――白衣の男たちが囲む見知らぬベッドの上、目覚めたばかりの彼女へ一方的に説明する。自作の玩具を母親に見てもらうような幼稚さで。

 曰く、電熱を利用した刃でコンクリートの塊をチーズケーキのように切って落とす、切断面を焼き切って出血を防ぐことのできる、人道的な片刃刀。それが彼女に与えられた拡張器官だった。

 彼女は無意識の内に自分が得た武器を取り出した。音もなく右手に穿たれた溝が開き、透明な刃が周囲に満ちた湯気に太刀筋の痕を残す。

 不可視の刃。肘から手首にかけて伸びた筋から、獰猛な牙が獲物を求めて突き出ていた。彼女の手先が向く方向へ、そこに切り刻むべきモノがあると指し示す方向へ、刃が伸びていた。

 ――手に入れた。

 彼女は心の中で独りごちた。愚かな自分に向けた皮肉の牙――とうに錆び付いて、自分すら傷つけられやしないなまくらの刃。

 彼女が手に入れた刃は白衣の男たちがいうような人道的な使われ方はしなかった。チェリーズは演出のためといって、彼女のブレードに電熱の発生を禁じて、純粋な刃物として少女たちの四肢を刈り取らせた。

 追憶――タイルの上に取り残された少女の手足。切断面に覗く動脈の管からどぼどぼと零れる赤黒い血液がタイルの上をのたくって彼女の足先に辿りつく。透明なはずの刃は少女たちの薬物に汚染された血液に塗れ、その刃先からは殺人鬼が次の獲物を待ち遠しく思うように鉄臭い涎が糸を引いて垂れていた。

 ヴァンプは刃を音もなく収納した。一瞬のうちに空気が裂かれる。

 姿見に映る自分の眼が緑色の鈍い光を放つ。

 吐き気を催す男の悪臭に身を曝し続けることでしか生きてこれなかったアンダーグラウンドでの生活。そこから抜け出せるなら、何でもやると心に決めた。

 身体をいじられることには慣れていたから、組織の連中のいう拡張技術とやらの詳細はわからなくても問題はなかった。要するに、アンダーグラウンドを脱出する対価として自分の身体を売れ、ということだと理解した。問題はなかった。問題はなかった。

 シティの頂上には興味などなかった。ただ、選ぶことができる人間になりたかった。

 口の中に入れるものの自由。

 手に持つものの自由。

 身体を預けるものの自由。

 それがあれば自分の人生を手にすることができると思っていた。

 結果――手に入れたのは殺人のための身体と、少女の身体を切り刻む仕事。そして、いつでも湯の張った浴槽に浸かれる自由。たったそれだけだった。

 手に入れたもの――口の中はいつでも血の匂いがした。

 手に入れたもの――仕事がくると、腕から突き出た刃を命令されるままに振るった。

 手に入れたもの――自分の身体が自由になるのは、浴槽の中だけだ。意識の底の底。彼女が自己を失う間際に自由があった。

 ヴァンプはじっと覗いていた姿見から目を離した。タオルを放って自分の衣装に着替える。

 黒光りするラテックスのスーツ。弾力性と伸縮性を備えた薄いラバーが手足を除いた全身を締め付ける。股下/大腿/腰/腹/胸/腋に圧力をかけて胴体を明白にかたどる。

 身体中を締め付けられる感覚。これだけで彼女はいくらか安心感を得ることができた。自分で自分を束縛することの心地よさ。先んじて自分を縛り付ける――防衛。

 世界はいつでも彼女を閉じ込め、自由を奪ってきた。アンダーグラウンドでも、ハイ・ライズの中でも。

 世界は理だ。誰かを縛り付けるために存在する。

 せめて最後に残された自分の身体だけはこの手で縛り付けてやろうと思った。

 それでも――チェリーズの顔がよぎった。

 一つの頭部に二つの顔。ハイ・ライズの主を気取った、狂った双子の電子操手。

 奴の力の前では、自分の意志など無に等しかった。

 ヴァンプはスーツを着込むと、心の中で呟いた。

 ――抗うな、従ってさえいればそれでいい……。


 
 ヴァンプは薄汚れた低所得者向けのマンションの部屋を出る。

 シティの片隅、肉体労働者/不法移民/犯罪者のたむろする地区に彼女の住居はあった。組織にあてがわれた、屋根付きの部屋。

 マンションの回廊――三階の通路から繁華街が見える。ろくにインフラの整備されていない貧困地区に、周囲の薄暗い建物群とコントラストをなすきらびやかな一画があった。極彩色の光が際限なく輝き続ける下卑た光景。

 電飾に彩られた店の看板は多様な表現で客を誘惑するが、そのどれもが消費を促すものばかりだ。酒/薬/女――貧困地区の必需品の提供を訴える看板たち。曰く、安い! 安心! 安全! 欺瞞の言葉が蛍光色に彩られる。

 欲望を掻き立てるネオンの明かりに引き寄せられて、違法薬物を求めるジャンキー/過激な性的嗜好の実現を夢見る男/どんな仕事でも引き受ける求職者たちが、誘蛾灯に群がる羽虫のように繁華街へやってくる。

 ヴァンプは酔っ払いが壊したエレベーターの傍を通り、階段を降りた。踊り場に出ると、積もったゴミ袋から注射針の先端が突き出ていた。それを避けて一階へ向かう。

 玄関ロビーに着くと、郵便物入れのある隅の方から女の声が聞こえてきた。覗くと、薄汚れたコンクリートの床で若い男女が絡み合っている。白目をむいて横たわる男に跨り、狂った嬌声を上げてひたすらに腰を振り続ける裸の女。

 二人の側を通り過ぎるとき、僅かに漂う甘い香りがした。近頃シティに流行りはじめている、極限の快楽物質と引き換えに脳の一部機能を著しく損なうドラッグの特徴的な香りだった。

 建物の外は薄暗く、周囲の明かりは点滅する街灯と、ホームレスがドラム缶にくべた得体のしれない燃料が燃える炎の光。そして――

 ヴァンプは頭上を見上げる。分厚い雲の向こう側に垣間見える月が彼女を見下ろしていた。

 打ち捨てられて中身の抜かれた廃車を通り過ぎる。

 彼女は仕事場へ――ハイ・ライズの作業場へ歩みを進めた。


 外壁が剥がれて骨組みだけになった廃墟の黒いシルエット。かつてはスクラップ車の解体が行われていた工場の残骸がヴァンプの眼前にそびえる。

 彼女が砂利を踏み鳴らす音が静まり返った周囲に小さく響く。工場跡の敷地に一台の見慣れたバンが停めてあった。連中の何人かは既にいるようだった。

 長い間放置された錆び付いた鉄骨の廃材でできたバリケードの隙間を縫って、彼女は小さく明滅する蛍光ランプのほうへ向かった。

 地面に散らばった先住ホームレスの放置した酒瓶や注射器の破片が照らされる中に、地下へと続く黒い穴があった。そこが、ハイ・ライズの作業場への入り口だった。

 どこまでも続いていくような黒穴。実際はすぐに扉のある突き当りに行き着くが、踏み入れるときはいつでも吸い込まれるような感覚が彼女を襲った。

 たった十数段のステップを降りて暗がりの壁を探る。手に触れたスイッチを点けて通路の天井に明かりが灯った。すぐ目の前に分厚い鉄の扉が待ち構えている。何も通さないというより、誰も逃がさないという風に狭い通路の先に鎮座していた。

 扉を開き、重い鉄が床を擦る不快な音が響く。

 扉の向こうには、さらに奥へと続く通路と、もう一つ階段が伸びていた。

 大きな音を立てて閉じる扉を後にして、ヴァンプは作業場へ向かう。

 少女が眠り、明日に催される変態共のパーティーを待っている。彼女は自分がその変態に加わっていることに自嘲気味に笑った。

 もう一つの階段を降りるところでようやく連中の声がした。

 不快な金切り声――スペルマンの嘲笑。体内で薬物を生成する能力を得た、異様に長い手足で所構わず這いまわる害虫人間。

 唸るような低い声――ホットガイの憤怒の炎に燃えた眼と口元の嫌らしい表情。肥大化した筋肉で両腕をぶん回す怪物。

 狂喜の叫び声――チェリーズの兄、奴の側頭部にできた肉腫のような顔。幼児程度の知能しか持たないが、電子機器を自在に操る能力を得た兄弟の片割れ。

 そして――若い女の泣き叫ぶ声。「パパ! ママ!」喉を枯らしたような、ほとんどノイズのように響く少女の声。

 ヴァンプは訝しんで階段を降りる足を止めた。

 仕事は明日行われる予定だった。組織のスポンサーの一人である警察署長の接待。強欲な変態男の趣向に合ったブロンドのハイスクールガールは過剰な薬物の投与で昏倒しているはず。明日の署長の到着をもって仕事の開始となるとチェリーズは前もってグループに伝達していた。

 床に着くと、奥の扉が開いていた。そこから連中と少女の声が響いてくる。

 所々が錆び付いたタイルの床に足を踏み入れる。

 鉄臭い地下室を見渡し、四人と一つの死体を確認した。

 グループの三人は部屋に入ってきた彼女に気が付いた。そしてもう一人――自分が捕らえたもう一人のブロンドの少女がこちらに気が付くなり「助けて!」と叫んだ。見開かれた目に涙が溢れ、とめどなく流れては彼女の鼻梁をつたう。

「ヴァンプ! 我らが幸運の女神の御登場だ」

 チェリーズに目を向け、状況の説明を請う。双頭の男は彼女の視線に答えた。

「君の予想が的中だよ、ヴァンプ。アート志向のホットガイと、よりエンターテイメント傾向の強いスペルマンはお互いのやり方を許せなかったようでね。詳細は省くが、つまり芸術の方向性の違いによって、青い眼の少女は天に召されてしまったのだよ」

 チェリーズは天井を這うパイプに挟まった少女に手を差し向けた。胸から上が配管の隙間に挟まって、下半身がこちらに向けてだらりとぶら下がっている。

 ヴァンプは死体に興味はなかった。天井からタイルの床へ、視線を動かす。彼女を見上げて助けを懇願する、琥珀色の眼。

 自分の肩にチェリーズが触れるのを感じた。奴の白く痩せた指が彼女のラバースーツを撫で、身体の形を検めるように沿っていく。ラテックス越しに感じる気味の悪い感触に吐き気がした。それでも、直接肌に触れられることに比べたらこれでもまだマシだった。

「ヴァンプ。君のおかげでハイ・ライズの危機は乗り越えられた。女性の持つ神秘的な観察眼がチームの不和を誰よりも早く察知して、その沈黙をたたえた慎ましき唇の向こうから奏でられる女神の一声が――」

 要するに、煽り屋のスペルマンと瞬間湯沸かし器のホットガイの、いつもの喧嘩で少女の一人が犠牲になった、ということだった。そして明日に控える、スポンサーを迎えた大仕事に支障をきたす一大事を救ったのが、自分の捕らえたアンバー・アイの少女だった。

 薬物ディーラーから手に入れたブロンドの少女の顧客情報を頼りに、顧客の条件に合うターゲットの拉致に向かった二日前。スペルマンが標的に薬物を投与して昏倒させた現場に居合わせた、もう一人のブロンド少女。

 組織の連中との用事云々でチェリーズが不在だった現場を取り仕切るのは彼女の役目だった。仕事の早いスペルマンは視野が狭く、自分の事に集中しすぎるきらいがあるため、ホットガイは頭が悪いため、消去法で彼女が選ばれた。

 ターゲットの顔写真を目にしたとき、ホットガイの眼の色が変わった。運命の相手を見つけたように、目をきらめかせた巨体の男。そしてスペルマンはその表情の変化を見逃さなかった。この時点でヴァンプはターゲットの変更をすることが最善だと考えていたが、数日後に控えた署長の来訪に間に合わせるためには目標を変更する時間的余裕がなかった。

 彼女は現場に足を踏み入れた彼女に気が付くと、すぐさま大地を蹴って琥珀色の眼の少女の口を封じようとした――が、ブレードを出す間際に気が付く、彼女の美しく光るブロンドの長髪。

 こちらに反応する間もなく意識を失った少女に投薬するようスペルマンに命じて、本来の標的と一緒に地下室へ閉じ込めた。

 神秘的な観察眼などでは決してなかった。単に仕事の失敗を恐れたからに過ぎなかった。みすぼらしいまでの生への執着――アンダーグラウンドへ戻ることへの絶対的拒否感。

 少女の死体がいくつ増えようと関係はなかった。ヴァンプは既に数えることを止めていた。

 チェリーズは顔を斜めに向けて、側頭部の顔をヴァンプの乳房に押し付ける。彼女の身体に抱きついて、兄貴の顔を胸の谷間に上へ下へこすりつけた。「兄貴、これがいいんだよな?」

「マンマ、マンマ、マンマ、マンマ」目を塞がれ、鼻梁を削がれた男の口から、気味の悪い猫撫で声が歌うように囁く。そして乳をせがむ赤子のようにラテックスに口を吸い付けた。ぶちゅ、粘りつくような音がした。

「兄貴、美味いか?」

「マンマ、マンマ、マンマ、マンマ」

 分厚い革製のスーツに心の底から感謝をした。喉元にせり上がってきた胃液と生理的嫌悪感を押しとどめながら。

 ホットガイの野郎が横目でこちらに注視している。奴は事あるごとにヴァンプに接近しては身体を舐め付けるような視線を向けた。身体に触れるでもなく、声をかけるでもない奴の態度にはチェリーズらに匹敵する気味の悪さを感じていた。

 そんなホットガイを観察するスペルマン。眼の赤いランプが怪しく灯る。

 再び少女に目を向けた。枯れるほど叫び声をあげた喉から風を切るような、ひゅうひゅう、という音がした。少女はじっとヴァンプを見上げる。琥珀色の瞳が明滅する電灯をの明かりを受けて弱弱しく光る。助けて、と視線は訴えていた。

「スペルマン」ヴァンプが冷たい声でいった。「どうして目覚めている」明日の仕事に合わせて投薬され、今頃は昏睡状態にあるはずの少女。

 彼女の語調に自分が責められていると感じたのか、スペルマンは長い手足を器用に操って壁に張り付き、パイプの向こう側に隠れるように移動した。
「ぢらねぇよ……、おではいつも通りの量をぶち込んだだ」

 ヴァンプは何の感情も見せないよう自分にいいきかせてアンバー・アイを覗き込む。両手を後ろ手に縛られ、疲れ切った表情で息を切らせる。それでも少女はヴァンプという存在に一縷の望みをかけているようだった。

「……もじかぢたら、急にヤクをぶち込めって命令されたもんだがら、少しばかり手元が狂ったがもぢんねぇ」

 ホットガイがいう。「確かに。あそこでけつを披露してる女は俺がぶん投げた時もぐっすりだった。スペルマンがやっちまったってことだな」

 ホットガイの意趣返しにスペルマンが金切り声を上げて抗議した。

 再び騒がしくなろうとしていた地下室に、ぱん、と破裂音がした。音の方を見る。チェリーズが両手を合わせて、冷徹な目を二人に向けていた。 

「おいおい。もう一度騒ぎを起こそうなんて考えてはいないよな。過程がどうであれ、我々の仕事は明日の署長の到着を控えて全てが完了している。署長の望む、ブロンドのハイスクールガールをこうして元気な姿で確保しているじゃないか」

 三人の男が一斉に少女に視線を送った。少女はそれでも、と涙を浮かべてヴァンプを見上げる。

「……ぅけて」蚊の鳴くような声が耳に届く。「ぁぅけ……て」

 チェリーズが大げさに足を踏み出して天を仰いだ。いつもの、演説めいた大仰な身振り。

「明日はハイ・ライズの偉大な一日になるだろう。組織のスポンサーであるアーノルド署長を満足させるだけの成果をあげれば、おのずと我々の組織における地位も向上する。そして、明日の一歩こそが、このシティの頂上へと繋がる栄光の道を切り開くのだ!」

 地下室に男たちの怒声に似た叫びが反響する。

 スペルマンは不快な金切り声で喜びを示し、ホットガイは身体中に脈打つ血管を一層激しく跳ねあげて叫んだ。チェリーズの側頭部が気味の悪い狂喜の叫びを響かせる。

 ヴァンプは一人、取り残されたように黙って立ちすくんだ。

 そして自分が殺してきた少女たちを思い浮かべた。

 追憶――少女たちの身体が切り刻まれる。骨と神経と血管が行き場を失った切断面から赤黒い血が吹き散らされる。

 それでも、彼女たちは声を出さなかった。ヴァンプは意識の無い少女を刃で切り裂いてきたからだ。

 少女たちは何も感じず、何も見ず、投薬された快楽物質の中で死んでいくはずだった。

 目の前の少女が助けを懇願している――地獄のような光景の中から、一筋の光に救いを求めるように。

「……ぇて、ぁ……ぇて」

 ヴァンプ・ブレードランナーは頭上を見上げて、目を閉じた。そして意識を飛ばそうと集中する。

 底の底へ。彼女自身すら消失する、無我の領域へと深く潜るように。


 

 潜水――暗く、深い水の底へ。 

 潜水――深く、より深く。安寧のゆりかごへ。

 潜水――身体が解き放たれる感覚。痛みも快感もない世界へと跳躍する。記憶と感情が泡となって抜けていく。何もかもが身体を脱けていく――必要のないもの。記憶。感情。自己。

 辿りつく――底の底。穏やかに消失を待つ。

 彼女はそこで妙なものを感じとった。外ではなく、内に。全てが無くなったはずの彼女の内側から、異物が脈打つような奇妙な感覚。 

 鼓動は着実に大きくなっていった。彼女を内側から攻撃するように。

 膨れ上がる何かに圧迫される。身体を駆け巡る不快感の奔流。自分が何かに取り込まれ、一体化するのを感じる。手も、足も、思考さえ持っていかれる。

 束縛されたように動かない四肢。黒い靄が張ったように視界を狭めていく。

 声を出そうとしたが、凍り付いたように全身が硬直して動かなくなっていた。

 自分が消えていくのではなく、奪われていく感覚。異物の侵入によって自分が書き換えられ、自分の形をした何かが勝手に動く。ヴァンプはそれを遠くから眺めるように、他人事のように俯瞰する。

 景色が変わる。いつのまにか自分はあの薄暗い地下室にいた。

 両手の先に伸びる、赤黒い血の滴る刃が明滅する明かりに妖しい笑みを浮かべている。

 一面に広がる死体の山。四肢を絶たれた少女たち。

 そして、血に塗れて真赤に染まったタイルに横たわる、琥珀色の眼の少女。後ろ手に縛られたブロンドの少女はこちらを見上げて何かを叫んでいる――何も聞こえない。

 ――私が腕を振り上げた。刃から垂れた血が床に落ちて少女の頬に跳ね返る。少女が叫ぶ。声を嗄らして、喉を震わせて。

 何も聞こえない。

 ――私が刃を彼女の首に突き付けた。剣先が喉の皮膚を撫で、一筋の血が落ちる。それでも、少女は叫んでいた。恐怖に震える身体を勇気で押さえつけて、絶望への抵抗をはっきりと表明する。

 何も聞こえない。
 ――私が刃を刺して、引き抜いた。鮮血が喉笛から吹き上がる。シャワーのように降り注ぐ深紅の雨。少女は身体を血の海の落とす。が、それでも少女はこちらに意志の灯ったアンバー・アイを向けていた。引き裂かれた喉の穴から鮮血と風の音が漏れる。ひゅうひゅう、ごぼごぼ、と。

 ブレードが再び天を仰ぐ――もう一度。抵抗する獲物を楽しむように。横たわる彼女の頭部に向けて振り下ろされる獰猛な獣の血に塗れた牙。刃がその小さな身体に達するそのときまで、少女は黄金に光る眼でヴァンプを見上げていた。

 その時、私が凍ったように硬直した。彼女の身体に突き立てられる寸前にブレードは動きを止め、やがて崩れ落ちるように私が鮮血の湖に倒れた。

 不意に自分の感覚が私に吸い込まれるように戻った。遠くから見ていた自分が、私の視線に帰る。視界は黒ずみに侵されて、身体は相変わらず他人の物のようだったが、しかし、胸の奥から何かが込み上げてくる感覚がした。

 這いつくばっていた身体がびくりと跳ねるように動く。次いで、喉元に何かが――自分の中からせり上がってきた。

 奔流が身体を起こす。そして、身体は耐えきれず口元から黒々とした何かを吐き出した。

 それが勢いよく床に吐き散らされるとともに、ヴァンプは身体中にいき渡っていた、自分を縛るものが消えていくのを感じた。

 視界が広がっていく。黒い霧が晴れる。そして、目の前に佇む少女と目が合った。

 絶命を間際にして、少女は最後の力を振り絞って叫んだ。

 ヴァンプはその叫びを、確かに聞いた。
 

 粗末なベッドの上で、ヴァンプは身を翻すように起き上がった。

 心臓の跳ねるような鼓動。肌に纏わりつく不快な汗。ぼろきれのようなシーツに染みがついている。彼女はシーツを掴むと振り払うように投げ捨てた。

 身体の右側にオレンジの光が差す。コンクリートの床に自分のシルエット。

 窓の向こう側には夕陽に照らされる貧困地区の廃墟が影となって浮き上っていた。骨組みばかりで中身がすっぽり抜けた黒い影。食い荒らされて放置された巨大な獣の死骸のよう。

 カーテンが風に揺れる。薄暗い部屋に差す明かりが大きくなる――脇や胸の隙間に溜まった玉のような汗がひんやりと冷え、思わず身体を縮ませた。

 子供のような足と腕を畳んだ姿勢。両の膝頭に頭を乗せて、眼を閉じて窓の向こうの喧騒に耳を傾ける。

 退廃した街の鼓動。

 どこかで硬いものが割れる音――おそらく酔っ払いが酒瓶か何かを投げたのだろう。

 狂ったような男の叫び声――薬物中毒者。薬物の種類が安価なものだろうと高価なものだろうと結果は同じ。禁断症状に襲われて暴れたところを撃たれるか殴られるかして終わり。

 子供の泣き声――親を亡くしたか、親に捨てられた子供であふれた街。シティから捨てられた地区には彼らを救う手立てなど無い。孤児院が開かれたとしてもそれを信じるものはいないだろう。きっとその施設の門をくぐったが最後、部品として出てくるか商品として出てくるか、その二択だ。女の怒声とともに泣き声は止まった。

 不意に「助けて」という声が頭に響く。

 幻聴――頭の中から聞こえた少女の微かな囁きに、思わずヴァンプは耳を塞いだ。無意味だと気が付いても、両手で押しつぶすように穴を塞ぐ――そうすれば聞こえなくなる、という願いとともに。

 頭痛が起るほどの強い力で圧迫する。痛みに注意を向けて何も考えないようにした。

 それでも、塞いだ耳の向こうから少女のか細い叫びが聞こえる。絶望の暗闇の中でもがこうとする少女の、助けを求める声。

 耳とともに塞いだ瞼の裏側、真暗の視界に顔が浮かび上がる。そして彼女は見た。その双眸に灯る意志の光を。

 薄暗い地下室で命の火を燃やし続ける少女の、琥珀色の眼を。

 ふと、胸の鼓動がゆっくりと静まっていくのを感じた。平時の自分に戻っていくように、あるべき自分の元に帰っていくように、心臓はその鼓動を徐々に落ち着かせていった。

 ヴァンプは膝から顔を上げた。そして、薄暗い部屋に差す唯一の光源に向く。 

 沈む太陽が退廃の街を照らす。その罪を見逃さないという風に、強欲と狂気のうねる都市に燃えるような断罪の明かりを容赦なく降り注ぐ。

 しかし、その明かりもすぐ燃え尽きるように消える。そして退廃の都市に暗闇と、嘲笑うように見下ろす月の妖光が満ちていく。

 窓の向こうで輝く陽光。彼女はそれを惜しむように目を細める。

 ヴァンプはベッドを降りると、壁に掛けたスーツを手に取った。

 束縛される前に自分を拘束する。それが自分を守る唯一の手段だと信じていた。

 街に差す光は一瞬だ。すぐに影が覆いかぶさって、何もかもを黒く塗りつぶす。それが正しい在り方だと、本来の姿だと主張するように。

 夜はさらに黒く、狂気は欲望を加速させて人を駆り立てる。願望の成就こそが何よりも正しい真理だと信じて疑わない。

 暗闇が世界に満ちていくのを防ぐことはできない。

 人間そのものが光にならない限りは――
ヴァンプは窓を蹴り、陽光の沈みゆく街に駆け出した。


  
 砂利を踏み鳴らす。自分の意志を確かめるように。

 廃材と鬱蒼とした背の高い雑草をかき分けて、骨組みだけになった廃工場に足を踏み入れた。

 明滅する電灯が眼下に穿たれた黒穴に光を差し込ませる。地下へと続く階段。退廃と強欲が渦を巻くように、穴を覗き込むものを誘う。

 ヴァンプは降りる。一歩ずつ。自分に問うように。

 降下――漂う死臭が身体を囲むように纏わりつく。四肢の飛び散った少女たちが彼女に囁く。「どうして助けてくれなかった?」「怪物の仲間」「退廃の毒婦」

 ――知らないふりをした。見ていないふりをした。何も感じていないふりをしていた。

 降下――錆び付いた鉄の臭い。腕の先へ伸びる殺戮の刃。剣先から滴り落ちる赤黒い血。それは枯れることがないという風に、いつまでも、ぴちゃぴちゃと床に落ち続けた。跳ね返り、自分の身体に赤い点描を重ねる。

 負荷を感じる。全身に圧し掛かる重圧――目を覚ました罪悪感が、これ以上は耐えられないというように自由を奪おうとする。足を踏み出すことを押しとどめる。その場で崩れ落ちることもできた。が、それでも彼女は歯を食いしばって身体を起き上がらせようともがく。自分にいい聞かせながら。

 ――墜ちろ! 底の底へ!

 そして辿りつく。全ての根源を塞ぐ扉。

 分厚い鉄の向こうにうねる欲望と罪/快楽と罰/退廃と絶望。

 ゆっくりと扉を開き、そしてすべてがヴァンプに降り注いだ。赤黒い嵐が部屋の中から飛び出して彼女を犯す。

 ヴァンプは相対する――手に入れたものの代償と。

 叫び――少女たちの慟哭。金切り声の嘲笑。地響きのような唸り声。狂喜の絶叫。そして、ヴァンプの沈黙――心の軋む音を必死に押さえつけた。

 嵐の中に足を踏み入れる。身体が切り裂かれ、意識を飛ばす程の激痛が彼女の顔を歪めた。

 追憶――幼い自分が眼前に現れる。ぼろきれでやせ細った華奢な身体を纏い、乱れた銀髪の隙間に収まった泥のように腐った緑の瞳。硬い地面に押し倒され、男たちの思うままに弄ばれた。

 濁ったエメラルドは何も見ていないというように、宙の一転を見つめて事が終わるのをただひたすらに耐えた――底の底へ、自分を傷つける者のいない世界へ潜る。世界に犯される身体を脱けて、安寧のゆりかごに揺られた。そうすることでしか自分を守れなかった。

 強欲と退廃から抵抗するためにできるのは、自分を殺す事だけだった。

 暴風の中心へ。感覚のなくなった身体を動かす。鮮血に塗れた視界の中で、歩みを進めていると確信できたのは、胸を軋ませる痛みのおかげだった。

 痛みだけが彼女を導く。自分が捨ててきた感覚を拾い集めて辿りつく。彼女の根源へ――産声を上げるとともに確かに見たはずの景色。彼女を迎えた世界の、眩いまでに光輝く可能性の炎。

 右腕からブレードを吐き出す。吹きすさぶ鮮血の嵐の中に灯った光の刃。そして、振り上げる。全ての悪徳を散らすため、暗闇を引き裂く火花が嵐に突き立てられた。

 嵐が吹き飛ぶ。絶望と強欲が叫びをあげて散り、快楽と退廃が嘲笑うように弾け飛び、罪と罰が巻き起こる炎となって消えた。

 視界が晴れた。地下室に足を踏み入れた自分に気づく。

 一歩踏み出す。錆びた血液のこびり付いたタイルと靴の鳴らす硬い音が狭い部屋に小さく響いた。

 明滅する電球に照らされた少女。ブロンドの長髪を床に垂らして蹲る。後ろ手に配管に繋がれた手首の肌がべろりとめくれ、血に染まった白い骨が見える。

 少女は瞼を閉じ、弱弱しく胸を上下させていた。

 胸が痛んだ。それとともに、自分に痛みを感じる資格があるのだろうか、と思った。

 目の前の惨劇から顔を背け、視界の隅に追いやったのは自分自身だ。それが身を守る方法だったとしても、それが世界の理だとしても、胸に訴える痛みだけがヴァンプに真実の在処を教えてくれる。

 刃を吐き出す。沢山の少女の血を吸ってきた、死神の鎌。

 彼女は腕を振り上げた。歯を食いしばり、もう逃げられないと自分にいい聞かせる。これで遂に行き止まり――底の底へ墜ちる、と。

 そのとき、少女の眼が薄く開かれた。僅かに垣間見える琥珀色の瞳。焦点の定まらない眼は何かを求めるようにヴァンプを見上げた。

 きっと、少女は自分を認識してはいないだろう。ただ、誰でもいいから、と救いを求めているに過ぎない。

 彼女はふっと息を吐いて、そして刃を振り下ろした。

 ――絶望の中で僅かに瞬く火花。

 ――私の、唯一の光。


 
 軽快な音を立ててステップを降りる。黒いトレンチコートを揺らして、チェリーズ・ディスクジョッキーは地下室への階段を降りた。

 鼻歌を歌いながら、側頭部の兄に指を這わせた。歯茎を優しく撫ぜて、ゆっくりと歯の隙間に指を入れる。ちろちろ、と生暖かい感覚が指先をくすぐった。

 口元に自然と笑みが浮かぶ。自分の仕事への自信と約束された未来を思うと、大声を出して叫びたい気分になった。しかし、それは我慢する。本当の快感は極限までに膨張した亀頭のように、溜まった欲情をイク瞬間まで押しとどめることで得られるものだ。

 しかし、それでも男にはどうしても我慢できないときがある。チェリーズはコートの内ポケットから包みを出した。かさかさ、と袋を揺らして中身を確認した。再び、笑みがこぼれる。

 糞のような世界で生きていくための必需品――酒/女/薬。チェリーズは中でも薬物を好んだ。

 酒は不味くて楽しさを感じなかった。基本的に甘い物しか摂取しない彼は酒やコーヒーを嗜む連中を舌の狂った連中だと見下げていた。酩酊状態になりたいならアルコールを直に注入すればいいとさえ思っている。

 一時期、女に嵌まったこともあるが、兄貴の顔を前にしては女どもは悲鳴を上げるばかりで、ろくな遊びもできなかった。だからニット帽を被るか、公害で視力を失った娼婦と犯るかの二択だった。薬漬けにして犯る事も考えたが、それなら薬を自分の打ったほうが安上がりで気持ち良かった。

 女は割に合わない。それがチェリーズの結論だった。

 小分けされた透明のビニールを取り出す。最近アンダーグラウンドで流行っているドラッグ。純度の高いやつだと三日間は勃ちっ放し、イキっ放し。パッケージを開けて手のひらに粉末状のそれを落とす。粘膜摂取/経口摂取/静脈注射でキメる違法薬物。

 手のひらに積もった白い粉末を、袋から取り出した紙に乗せる。兄貴の歯茎をとんとん、と叩く。いつもの合図。

 唇の無い、歯茎だけが露出した口が開く。そして、斜めに紙を傾けて口の
中に山盛りの粉末を投入した。ぴちゃぴちゃと舌を這わせて舐めとる音がする。

 しばらくすると、高揚感が身体に溢れる。兄貴に入った薬物を二つの脳で共有――快楽物質を自分が得て、快楽の代償として兄貴の脳が破壊される――最高のチームプレイ。

 口に重ねた手のひらに滴る温かい液体。拭って見ると、それは大量の血液だった。いつもの光景。兄から弟に贈られる、無償の愛。

「兄貴。今日も沢山出てるな、健康の証拠だよ!」はにかんでチェリーズがいう。

 唸り声が側頭部から聞こえる。苦痛に歪んだ獣のような遠吠えが狭い通路に響く。

 下層に降りると奥の扉が開いた。出てきたのはヴァンプだった。

「ヘイ、幸運の女神よ。そこで何をしている?」

 変態趣味のラテックススーツに身を包んだ銀髪の女。肩で切りそろえられた後ろ髪。長めの前髪の隙間から緑の眼が煌めいていた。奴にしてはやけにぎらついた眼だった。普段の、死んだような腐った藻の鈍い緑ではなかった。

 彼女は何も答えなかった。つかつかとチェリーズの側を通り過ぎようとしたヴァンプは階段に足を踏み入れたところで悲鳴をあげた。

 高い声の悲鳴。背後で床に這いつくばるヴァンプが目に浮かぶ。

 チェリーズは兄貴の眼を撫ぜた。いつもの合図。

 瞬間、チェリーズの視界が黒と緑の線に刻まれた、グリッド線が縦横に走る空間に変貌する。自分を中心にして、円形のドームが展開する。

 空間から壁や床の色や形が失われ、等間隔に刻まれた線で距離と位置を把握する。中央に立つ自分の背後に、床に倒れたヴァンプのシルエット。そして彼女の四肢の付け根に光る、拡張器官を制御する副脳を示す赤い光点。それに向かって手を伸ばす――瞬時に放たれる光の線。そして、赤い光点の一つ、ヴァンプの右肩に埋め込まれた副脳に接続。

 電子機器と接続し、そして操作するチェリーズの能力――片方の脳の一部を拡張器官に換装。人格と思考を犠牲にして、最高の演算能力を得た兄。もう一方の脳に仕込まれた、共有感覚をもたらす拡張器官――兄の能力と外部を接続する弟。兄弟で能力を発揮する、対拡張者戦を想定した電子操手。

 チェリーズは彼女の副脳――脳から発信される信号を書き換えて義肢を動かし、また義肢が得た感覚を脳へ送る役割――を操作。副脳から脳へ、改ざんされた激しい痛みの情報を送る。

 空間を裂くような叫び声にチェリーズは笑った。

 ――最高の能力。支配の喜びを教えてくれた。泥水を啜って生きてきた自分に贈られた、白衣の男たちと組織がラッピングしてくれた素敵なプレゼント――誕生を祝うバースデーケーキ。

 視界を戻してヴァンプを振り返った。床に横たわる黒革のレオタードを着た女。四肢に刃を格納した拡張者が、小鹿のように震えている。再現された痛みは、指先の爪を一つずつ剥がすもの。できれば生きている間は感じたくないものだ。だからこそ与える価値がある。

 自分の嫌なことを他人にしてはいけない、とガキの頃誰かに教わった気がする。それは真実だ。弱い人間は手を組むことでようやく生きていける。そのためには結束と共感が必要だ。だが、支配する者はそうでない。むしろ、自分の耐えがたい痛みこそ相手に植え付けるべきものだ。自分が恐怖する物にこそ鍵がある――頂上に通じる扉の鍵が。

「ヴァンプ。署長がお前と会いたがっていてね。一目惚れだそうだ。なに、相手もお前の能力は知っているさ。だからそれほど酷い目には遭わないだろう」

 地に這う女は痛みに顔を歪め、涙を床に流しながら震える体を抱きしめるように支えた。そして、潤んだエメラルドの輝きをチェリーズに向けていた。

「来いよヴァンプ。仕事だ。お前にしかできない、な」

 チェリーズは声を上げて笑った。兄貴がそうするように、限界まで口を開けて身体をのけ反らせる。

 ――最高の気分だ! 生きるってのはこういう事なんだよ!

 薬物で股間の盛り上がった男がさらに絶叫を上げる。自分が支配者だと主張するように。自分こそが退廃の街の頂上だというように。


 荒れた道が舗装された道路に代わり、車の振動も緩やかになってきた。

 貧困地区を脱けると、街灯やレストランの明かりがストリートを照らすようになる。ちらほらと信号機が屹立しはじめ、大きな通りに面した路地には薬物中毒者やホームレスの姿はなかった。

 運転席の空っぽの車が道を進む。ときに赤信号で停まり、ときに路地から飛び出す若い男を避けながら。

 後部座席でふんぞり返るチェリーズが電子操作で運転する。目を閉じて、人や機械のシルエットでいっぱいのグリッド線の世界を器用に縫っていく。

 傍らに、だらりと身体を前方に傾けたヴァンプが座っている。四肢を操る副脳に絶えず操作の糸を伸ばして彼女の自由を奪う。前屈みになって前髪が垂れ下がり、その表情を伺い知ることはできなかった。

 あまり見栄えの良くないスペルマンとホットガイを仕事場に置いたチェリーズはヴァンプを操作して車に乗せて、ユニヴァーサルシティ警察第三分署長アーノルドマクダネルの居場所へ向かった。

 金と性欲に従う、シティの権化のような男。でっぷりと太った腹を揺らし 、口を大きく開いて金歯を見せつけ笑う中年男。貧困地区とその周辺の薬物市場に加わり、大金を稼いではアンダーグラウンドの連中に資金を流して、自分の地位を確固たるものにする。支配する側の男だ。

 仕事場を出て十数分、貧困地区に隣接したアーノルドの牛耳る地区の目的の場所に到着した。

 だだっ広い公園の駐車場。防弾仕様の高級車の周りに数台の黒塗りの車両。危険を恐れてお供の連中を持参ときた。

 チェリーズはバンを停めて降りる。遅れてヴァンプがよろめくように出た。すると、数台の車に囲まれるように停まっていた高級車から男が降りた。そして彼を取り巻くように周りの車から黒服の男たちが現れる。

 私兵。署長の手が回った悪徳警官で構成された、私設の兵隊。

 アーノルド・マクダネル。ハイ・ライズを頂上に連れていく、金に刺繍された特急券。ハンプティ・ダンプティのような卵型の体形をした男に近寄る。すると、向こうから声をかけてきた。

「いやぁ待ちかねたよ。玉袋君」口元に下卑た笑みを浮かべていった。

 腸の煮えくり返るような挑発にチェリーズは唇を噛んだ。

 ――殺す。頂上に上ったら、真っ先に殺す。

「アーノルド署長。お迎えに参りました」慇懃な態度を見せるチェリーズ。それが試練だと、頂上へ向かう者の戦いだと自分を納得させて。

「ご苦労だね。それで、今夜は期待してもいいのかね? 本当に十代の少女と好きなだけ遊べるのかい?」

「ええ、署長。今夜に限らず、貴方の望むブロンドの少女をいつでも提供できる用意があります」

 アーノルドは非常に満足したというように笑みを浮かべた。口の中の金歯が妖しく輝いた。

「楽しみだよ、本当に。私も今夜が待ち遠しくてね。いや、最近はこういう非合法な手段じゃないとかわいらしい少女たちと戯れる事さえできないだろう? 愛がないよ、全く。ここのところ、司法の連中も未成年との性行為をとりわけ重犯罪のように扱う気運があってね。だから君たちのような玩具の兵隊に頼むほかないのだよ」

 歯を食いしばり、耐える。表情を崩さずに、じっと耐える。

「それでは行こうか。君たちの仕事場とやらに」

 肉達磨は自分の車に戻ろうとする、が。振り返っていう。

「そこで静かにしているお嬢さんは、ひょっとして例の変態娘かい?」

 チェリーズは振り返り、ヴァンプを睨みつけた。

 ――絶対に失敗するな。この親父の相手をすればお前も頂上に連れて行ってやる。

 ここに来る前、彼女にいい聞かせた。挑戦するような目つきをしたヴァンプに、苦痛と恐怖を十分に与えた後に命令した。

「ええ。何でもやりますよ。従順で、従うことだけが生きがいのような女です」

「そうか、では君は私の車に乗りなさい」

 少しの沈黙の後、ヴァンプは自ら歩き始めた。チェリーズの側を通り過ぎざまに、電子操作を加える。右腕をへし折る痛みを再現。女が痛みに顔を歪めて苦痛の声を漏らす。

 駐車場に小さな悲鳴が響いた。

 アーノルドが近寄ろうとするのを側近の男たちが遮った。ヴァンプが拡張者だということは十分に知れ渡っているらしい――おそらくは自分の能力も。

「おや、どうしたんだい。彼女は具合でも悪いのかい」

「いえ、ただその女は自分から離れると、どうも気分が悪くなってしまうようで。根っからの奴隷気質とでもいうのでしょうかね」

 署長が腕を組んで難しそうな顔をする。そして側近の男に耳打ちをした。

「あまり気は乗らないんだがね。君のような下品な趣味の男とはできるだけ距離を取りたいのだが、しかし今回は特別だ。彼女と一緒に乗ってもらうよ」

 ――マヌケめ。

 チェリーズは口元に浮かべた笑みを隠して彼らに近寄った。ヴァンプを操作してひょこひょこと自分の後を追わせる。

「では、美しいお嬢さんからどうぞ」肉達磨がドアの手前でヴァンプを手招く。奴隷のように従い、女は車両に入った。そして続いてアーノルド。

 チェリーズが乗り込もうとしたとき、黒服の一人に遮られた。

「俺も乗るはずだと、署長の話を聞いていないのか」

 苛立ちからチェリーズは男に凄むような調子でいった。

 車両の防弾ガラスが開いて、署長の丸い顔が出てきた。

「玉袋君。キミはトランクに乗ってくれ」

 黒服は事前に承知していたという風にチェリーズを車両後部に誘導した。そして、トランクがかぱっと開く。黒くて狭い、アンダーグラウンドの生活を思い出させるような空間。

 黒服に身体を押されて急かされる。その顔には笑みが浮かんでいた――お前の居場所はここがぴったりだろ? 

 チェリーズは身体をたたんで狭いスペースに入れた。頭上でトランクが閉まる。意図的に大きな音を立てる――恥を与える連中のやり方に血が沸騰しそうになった。

 ――ぶっ殺す。頂上に上がったら、第三分署ごとぶっ飛ばしてやる。絶対に、支配してやる!

 身体が振動する。

 チェリーズ/ヴァンプ/アーノルドを乗せた車両が静かなエンジン音を震わせて、貧困地区の廃工場へと向かった。


 
 後部座席の柔らかなシートに身体を預け、手足から送られる苦痛の情報に顔を歪めた。チェリーズからの警告――関節を逆方向に捩じられるような痛み。

 傍らのアーノルドが彼女の様子を訝しみ、顔を近づけてきた。脂ぎった肌と、体臭を隠すための強烈な香水の匂いがする。男は痛みに苦しむヴァンプをしばらく観察しているようだった。そして、口元に笑みを浮かべていった。

「どうした? 何に悶えている?」男が彼女の身体に触れる。

 ヴァンプは黙って耐えた。二人の男から受ける苛烈な痛みと羞恥に。

 前の助手席から黒服の男がバックミラー越しにこちらを見ていた。見慣れた風景だとでもいうように、感情のない表情で中年男の横暴を眺めていた。

 太く短い指。品性のかけらもない手つきで彼女の身体を検めるようにまさぐる男。奴はラバースーツと大腿部の境に手を差し入れる。生身の肌に変態が侵入するのを感覚する――酷い吐き気と嫌悪感に身体が震えた。

「怖いのか? そんな格好で男を誘惑しているというのに」金歯をむき出しにして下卑た表情を見せる。

 ――何を着ようと、お前たちにそれを評価される筋合いはない。

 ヴァンプは抵抗した。身体の自由を奪われ尊厳を犯されていても、連中を否定するという意思は決して手放さないと誓う。

 彼女を乗せた車両が貧困地区に入った。途端、整備されなくなって久しい道路の凹凸に車が振動した。辺りは街灯が極端に少なくなり、高級車と署長を護衛する車両のヘッドライトが自らを誇示するように光を放っている。

 道の両側を廃墟のような建物の影が覆う。放棄され、今ではホームレスの住処になった、明かりの無いコンクリートの塊。暗闇の中に屹立する黒い影の群れ。

 その景色の中に奇妙な人間を見つけた。

 ぽつんと立った街灯の下、明滅する弱弱しい明かりに照らされる、女の子の姿。

 ローティーン、あるいはもう少し幼いか。黒いスカートから伸びる白いソックス――足元には可愛らしい、先の丸まったローファー。幼さを強調する太い眉の上で水平に切りそろえられた前髪。

 貧困地区にそぐわない整った身なりの女の子。そして、ヴァンプが自分の目を疑ったのは、その子の輝かせる光。

 車両が子供の側を通り過ぎる際、窓越しにヴァンプと少女が確かに目を合わせた。

 瞳に刻まれた、蒼く煌めく螺旋模様。

 時間の止まったような感覚――一瞬の邂逅。

 少しの間、彼女の見えなくなった窓の向こうを眺めていた。傍らのアーノルドが声を掛けてくるのも気にせず、しばらくそうしていた。

 だから後方から高速で接近する車に気が付くのに一瞬遅れることになった。

 黒光りするバンが自分たちの乗った車両の側面に並走させると、その勢いのままに大きな鉄の身体を衝突させた。

 スペルマンは苛立ちを隠さずに悪態をつく。自分たちを軽視する指導者気取りの男に対しての怒り。

 身体が熱くなるのを感じる――体内で沈静剤を生成。掌に空いた穴から白い、どろりとした液体が零れる。だが、それを一瞥すると、眉間にしわを寄せて床へ投げ捨てた。びしゃり、と音が響く。

 地下作業場のもう一つの部屋、休憩室という名の物置でホットガイと共にチェリーズへの不満を発散させていた。

「あの玉袋野郎! 俺達よりヴァンプのがええっでのが!」

「奴は抵抗しない女が好きなのだろう。自分に自信がないからな」ホットガイがいう。それが真実だというように、何の根拠もないことを胸を張っていう。馬鹿故の万能感に浸った巨体の男。

 チェリーズは自信に満ち溢れているように見える。与えられた強力な能力を使いこなし、そして野心的な男だ。それ故に周囲を見下し、操ろうとする。自分とは違う人種、スペルマンはそう評価していた。

 この苛立ちも単純な、奴に対する劣等感に過ぎないことも分かっていた。

 ホットガイが立ちあがり、唐突に吠えた。

「俺こそがハイ・ライズのリーダーにふさわしい! あんな生っちょろい奴は人の上に立つ者にふさわしくない! このでかい身体が証拠だ」

 スペルマンはため息を吐いて席を立つ。

「どうだこの筋肉! リーダーに必要な素質がここにある!」

 黙って部屋を出た。何の気なしに地下室へ足が向いた。あの空間が自分を癒してくれると信じて。

 不法移民の群がるシティの地下水道でスペルマンは生まれ育った。汚物と有害な化学物質が垂れ流される暗がりで薬物に頼りながら退屈な日々を送っていた。小さな身体を生かして暗がりに潜み、不法移民の人間狩りを楽しむ金持ちを後ろから襲い、金品を奪う。それが彼の生業だった。

 ある日、スペルマンは薬で吹っ飛んだ意識の中で金持ちを襲った――当然、返り討ち。四肢を切断され、全身の肌を焼かれ、最後に眼玉をくり抜かれた。芋虫のように這って助けを呼ぼうとしたが、彼を相手にするものなど存在しなかった。

 そして、組織の連中がやって来た。

 異様に長い手で扉を開ける。重い扉が軋む音を立てて開くと、通路から差す明かりで血の錆びたタイルに横たわるブロンドの女が目に入った。

 どこから漏れたのか、辺りに数ミリほどの高さの水が溜まっていた。

 ――もじ、ごの女を殺じたら。チェリーズの野郎はどんな顔するだろうが?

 スペルマンは子供じみた考えに自嘲気味に笑った。相手を嘲笑うような金切り声ではなく、薄明りに小さく響く低い音で。

 少女に近寄る。今まで何の苦労もしてこなかっただろう、シティのあばずれ。アンダーグラウンドの恐怖を知ってこの世を去る。ハイ・ライズがのし上がるための生贄。

 少し後ずさり、手を伸ばす。離れた場所から少女の髪を掴んで引き上げた。ブロンドの長髪の下、ぼやけた半開きの眼の中に収まった――黒い瞳。

 スペルマンに電撃が走るような感覚。すぐさま天井を振り返った。配管の間にいるはずの、もうひとりの少女の姿――どこにも見当たらない。

 身体が小刻みに震える――腕から力が抜けて、掴んでいた少女の頭を床に落とす。そして、スペルマンの眼に換装された暗視スコープは確かに見た。

 薄明りの届かない暗闇の中。少女の背後にある配管――破れたように空いた穴からちょろちょろと水を漏らす、切断された鉄のパイプを。


 両側を黒い影になった建物に覆われた道路。交差点にさしかかったとところに横たわる高級車。そしてその周りには白い煙が立ち込めている。

 壊れた信号機の下で横転した車両。その鉄の塊が音を立てて跳ね上がった。

 月明りが差す交差点に突如響き渡る爆音と、辺りを照らす、轟々と吹き上がる炎の輝き。突如煌めいた閃光に周囲の建物の形が浮きあがった。

 その光景を、暗がりに隠れたアニー・ファインゴールドが覗いていた。

 身体を壁に預けて、剥げた爪と足の裏に食い込んだガラス片の刺すような痛みに耐える。

 地下室で目を覚ましたとき、見上げた先にいた銀髪の女。振り上げた刃物を勢いよく下ろし、後ろのパイプを裂いた。

 彼女は何かを話そうとしていた。薄暗い明かりに照らされた顔に垣間見えた、唇を噛んで何かを堪えるような表情をしていた。泳いだ眼は――決して自分と合わせようとしない眼には、強い逡巡の色が帯びていた。

 自分も言葉を発そうとしたが、枯れた喉からは風を切る音しかしなかった。

 銀髪の隙間に覗くエメラルドの綺麗な光は、何かに感づいたというように扉の向こうへと視線をやった。そして彼女は地下室を出ていこうとした――扉を開く間際にこちらを振り返り、そして小さな声でいった。

 ――信じて

 地獄のような地下室を脱出したのは、女性が出ていってから数分後だった。意を決して重い扉を身体で押しのけ、裸足で冷たい階段を上った。途中、通路の脇の扉からかん高い怒声がした。彼女は恐怖に足が竦んだが、両手を後ろに縛られた状態でゆっくりと、音を立てずに上った。

 最後の扉を肩で押しのけ、暗い階段に躓いて顔を打ち付けながらも外の世界に脱け出した。

 そして駆け出そうとしたとき、足裏の裂けるような痛みに悲鳴をあげた。崩れ落ちた背中に、針のように硬い何かが突き刺さった。

 それでも立ち上がった。アニー・ファインゴールドは全身に響き渡る苛烈な痛みの中、遠のく意識を必死で押さえつけて走り出した。

 行く当てはなかった。しかし走るしかなかった。それだけが自分に降りかかった退廃と悪辣から身を守る唯一の手段だった。

 炎上する車両から離れたところに数台の車両と数人の男がいた。彼らは地面に座る太った男をなだめていた。中年の卵のような体型をした男は叫び声をあげた――恐怖に支配された者の絶叫。

 一人の黒服が中年男に触れると、でっぷりと腹を膨らました男は突如翻り立ち上がると駆け出した。何かから逃げ出すように。両腕を振りしながら――否、男には右手がなかった。

 肩口から鋭利なもので切り落とされたのか、男の右腕は根元から絶たれ、その断面から白い骨が見える。しかし、不思議なことに血は出ていなかった。その代わり、露出した肉は焼かれたような黒ずみとなっていた。

 男は辺りをひょこひょこと駆け回ると、こちらに向かって走りはじめた。

 アニーは急いで逃げようとする――が、じっとしていた体勢から急に動こうとしたために素足と背中から電流のような痛みが全身を駆け巡った。悲鳴と共に、身体がバランスを崩して倒れる。

 そして、奴らの眼前に身体を曝した。

 中年男が一瞬立ち止まるが、後ろに駆け寄ってきた黒服に身体を抑えつけられた。狂ったように男は片腕を振り回して叫ぶ。

「どこだ! 私の右腕はどこに消えた!」見開かれた眼をあちらこちらに向け、太った男の腕が彼を支える黒服に当たった。

 中年男は引き摺られるように路肩に停まった車両の方へ移動した。そして、その黒い車の中へ消えた。

 横転した車両の吹き出す炎が一層激しくなる。交差点に灯った明かりが周囲を照らす。地面に這うアニーの身体に熱風が吹き、喉の中が焼けるように熱くなる。

「ぁ……ぇ」叫んだはずだった。地獄から脱け出した。だから、外には助けがあると思った。あの地下室で自分を救ってくれた銀髪の女性のような誰かがいると信じていた。

 それでも、声が出ない。救いを求める声がなければ誰も気づくことはない――助けは求めない限りはやってこない。

「ぁう……て」喉に痛みが走る。そして、再び熱風が彼女に降りかかった。

 ――熱い。痛い。苦しい――

 苦痛に思考が支配され、だんだんと身体に悪寒が迫ってくるのを感じる――絶望が、もう一度彼女を取り込もうと近づいてくる足音。

 それでも、視界だけははっきりとしていた。

 月の光を必要としない、業火に照らされる地上。男達が集まってこちらを眺めていた。

 支配するような眼で。人間と認識しない――凍った眼で。

 近寄ってくる黒服の男――片手に銃を携え、冷徹な視線を向けてくる。

 叫びだしそうになるのを堪える。叫ぶのではなく、求める――誰かの耳に届くことを信じて――自分はここにいると、世界に響かせるように。

 男が銃口を向けた――引き金に指をかける。

 炎がまた吹き上がり、男の顔を照らす――口元に笑みを浮かべて、全てを手にしたような傲慢な眼で。

 求める――ただ一人でいい、自分を、人間扱いする誰かに――まだ死んでいないと、この世に抵抗する意思を見せつけろ。

 言葉は出なかった。ただ、思い切り喉から自分を世界に主張した――私はここにいる。

 少女が夜に響く――絶望の街に火花が散った。

 燃え上がる車両から轟音が響く――そして、アニーは見た。

 地獄のような炎の嵐から飛び出す、銀色の風を。その眼に灯る翠玉のきらめきを。

 火花が一線に走る/硬い地面を削り取る刃の輝き――それは一瞬の内にアニーの元へ到達/男の胴体が上下に分断/別々の方向へ吹っ飛ぶ。

 そして、自分が信じて願ったものの正体を知った。

 声が出ない代わりに、涙がこぼれた。確かなものの存在を、世界で唯一の、価値あるものを見つけた。

 彼女はこちらに背を向ける。両手の先に伸びる、強烈な電熱を放出させる刃が夜に輝く。

 彼女はアニーと男達との間に立ちはだかった。熱風に/悪辣に/悪徳に/強欲に/暗闇に/絶望に対して、明確な抵抗を示すように、すらりと伸びる両足は大地にくいこむように屹立していた。

 ここから先は通さないと、彼女のブレードが唸るような威嚇の声を走らせる――電熱が空気を焼き切り、羽虫のような低音が響く。

 熱風に銀髪が揺れる。

 彼女は再び風となった。

 大地の縦横に火花が走る。

 退廃を、暗闇を暴く牙となって彼女は男達を引き裂いていった。

 薙ぎ倒されていく。全ての闇が、その罪を暴かれるように光に照らされる。

 銀色の風が火花を刻んで縦横無尽に走る。自由を得た鳥の如く軽やかに。檻から放たれた猛獣の如く獰猛に。

 ライフルを両手に抱えた男が、肩口から銃身ごと引き裂かれる。

 巨大な腕を振り回す大男が下半身と上半身を切り離される――しばらくのあいだその男は訳もわからず拳を宙に突き上げていた。

 スキール音を響かせて急発進する車両が縦に分断される。空中で二つに分かれたそれらは大地に落下するとともに轟音を響かせて爆発炎上――中から焼け焦げた男が狂ったように叫んで這い降りた。

 全てが暴かれた。支配しようとする者たちがその傲慢さに焼かれて死んでいく。

 再び爆発が起きる。燃え上がる車両がもう一度跳ねるように宙に上がる。思わず目を閉じる。そして、巻き起こる熱風が道路に横たわるアニーに降りかかろうとした――が、アニーは肌を焦がす風を受けなかった。目を開くと、彼女がそこに立っていた。

 彼女は熱風を背に受け、アニーを覆うように守った。

 顔と顔が近い。

 彼女の息が自分の頬を撫でた。

 相手の眼と見つめ合う――エメラルドの、真実のようにきらめく綺麗な緑。その瞳の中に自分の琥珀色の光があった。

 翠玉と琥珀が溶け合って煌めいている。何もかもを絡み合わせて、一体化したようだった。その色が最も美しいというように爛々と光り輝いていた。

 彼女が口を開こうとした。薄い桃色の唇が開かれると――悲鳴が辺りに響いた。

 銀髪を散らしながら、彼女は大地に倒れて苦痛に叫びをあげた。薄く開かれた瞼から涙が零れ落ちる。

 アニーは胸に突き刺すような痛みを感じた。縛られた両手をほどいて、今すぐ抱きしめたかった。

 枯れた喉は何の声も発せず、ついに風を切る音すら聞こえなくなった。

 そして、あの男が姿を現した。

 炎上して黒焦げになった車両の後部が、がたんと音を立てて崩れ落ちる。炎の中に映る、二つの頭を持った男の影。

「たあぁぁのぉしいいぃぃぃぃぃ!」炎の嵐を吹き飛ばすような狂喜の叫びが響き渡る――地獄から蘇った男の愉悦が、退廃と強欲が渦を巻いて全てを飲み込もうとした。

 恐怖がアニーの心臓を鷲掴みにする。悪寒が身体を包み込み、手足が震えだした。

 炎の中の影が濃くなり、そして男がその身を曝した。

 黒こげの肌――燃えた衣服が肌に焼き付いて一体化している。そして、赤黒い、溶けたような頭部。二つの顔はもはや見分けがつかず、両方の顔に鼻腔と口腔の穴が開き、黒焦げの中身を露出させていた。皴の寄ったような跡があり、そこに眼球があったのだろうと思わせる。

 全身が溶けた男――それでも自分こそが退廃の街の王だというように、大地に足を突き立てていた。

「ヴァンプゥ!」男が叫ぶ、天を仰いで空に叫んだ。

「ハイ・ライズは地に墜ちた! イカロスみてぇに高く飛び過ぎちまったようだ!」

 人の形をした溶岩が歩みを進める――こちらに向かって。

「でもよォ! 俺も! お前も! 生きている! まだ俺達は飛べんだよなぁ!」

 痛みに悶える彼女が奴を見上げた。そして悲鳴を堪えていった。

「地獄に墜ちろチェリーズ! お前はもう頂上には上がれない!」

 狂喜の叫び声が再び空間をつんざくように響いた。

「お前も同じだろうが、切り裂き魔! 俺達が生きてんのは地獄だろうが!」

 男が腕のようなものを頭部に近づける。

 ――やめろ!

 声が出ない。音も、風も、何もかもが枯れたというようにアニーは自分の中から何も見出すことができなかった。

「ここには退廃しか存在しない! 愛も! 正義も! 枯れ果てた! 神に見放されたこの街に咲く希望はない!」

 男がもうひとつの顔に、指が溶けて一本の棒となった手を近づけた。

 銀髪を揺らして身体を震わせる。そして、立ち上がろうとした。

 苦痛に歪んだ顔で膝を立てる。硬い大地にブレードを突き立て、身体を起こして奴を見上げた――欲望の街の権化を否定するように。

「私は見つけた! お前は街に抗わなかっただけだ!」

 彼女は叫んだ。アニーの信じるものを、彼女も信じていた。

 アニーは涙を流して彼女に身体を寄せた。絶対に一人にしない――彼女がそうしてくれたように。

 ハイ・ライズの笑い声がする。全てを掴もうとして斃れた男が、絶望すら笑う退廃が、世界を嘲笑うように凶暴な嘲笑を響かせる。

「墜ちろ! ヴァンプゥ!」

 そして、男はこめかみに手を触れた。


 爆音が轟いた。

 炎の嵐も、焼け焦げた男の嘲笑も吹き散らす轟音。

 ハイ・ライズの二つの頭が首ごと消し飛んだ。

 跡形もなく、世界に何も刻まずに、男は虚無に帰した。

 静寂が二人を包み込む。音が消えたように静かだった。

 彼女は無事だった。身体が動くことを確かめると、刃の引っ込めた両手でアニーを抱いて物陰に伏せた。

 彼女の胸に抱かれたアニーはたなびく銀髪が頬を優しく撫でるのを感じた。この世で一番価値のあるもの――それに抱かれていた。

 ふと、静寂が引いた。代わりに、かつかつ、という硬い音がした。

 自分を地面に横たえると、彼女は立ちふさがるように音の正体に相対した。

 倒れて斜めになった視界に、それは姿を現した。

 少女――自分より小さな、まだ幼さに身体を任せている子供の姿。

 そして、片手にぶら下げた巨大な鉄の塊。

 彼女はアニーを見下ろし、ほほ笑んだ。
 
 ――まるで別れを惜しむような悲しい笑顔だった。

 名前も知らない銀髪の救世主。

 彼女が両腕から音もなくブレードを出した。それがさよならの合図だった。 

 少女が口を開く――あまりにその場の状況にそぐわない子供が、誰よりも冷静にいった。虚無が口を持ったように、無機質な声で。

「治安維持組織サイダーハウス所属、プリシラ・ネビル。法の下に貴女を処分します」

 蒼い螺旋の光を暗闇の中に灯して、少女は巨大な拳銃を彼女に向けた。

 ここから先は行き止まりだ、というように。

 銀色の風が大地を蹴るとともに、空間を歪ませるような轟音が響いた。

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