ふたりの国/速水朋也
ふたりの国
速水朋也
ファンタの海を泳いでいる。溶けた二酸化炭素がしゅわしゅわはじける、透明な紫色。しんかのさせ方も知らずにくさむらを探し回ったゲンガーの色、はじめて小説を書いた日の、閉めそびれたカーテンを薄く通り抜けてラップトップに刺さった朝焼けの色。加奈子の舌が私の唇を割るとき、決まって目の前をゆるく染め上げるアルコールの色。動くたびに炭酸が浮き上がり、ぬるくなり、体がべたつく。海はじっとりと汗ばんだ手のひらに似ている。
お正月。おばあちゃんの家で、ミッキーがたくさんプリントされた目の前のグラスにファンタがなみなみと注がれたとき、私は自分がまだ十九歳であることに愕然とした。お金で買えない若さという資産が輝きのピークを終えようとしているこの歳に、私が反射的に欲したのは隣で五つ上の従兄が開けている缶チューハイで、キュートに歯を溶かす炭酸飲料ではなかった。おかしいな、いつからこうなってしまったんだろう。黙っていても自動的に失われる未成年という称号、いろんなことへの免罪符を自ら投げ捨ててとっくに大人になったつもりで得意気。でも親戚に囲まれた私は間違いなく大学一年生の彼らの孫で姪で従妹で、娘で、ああ、加奈子に会いたいと思う。血のつながった人間に囲まれて、自分が浮き彫りになる感覚が輪郭をはい回って気持ち悪く、衝動的に手元のグレープ味に口をつけた。飲みなれた甘ったるさに思わず顔がゆがみ、同時にスマホが震えた。
『いまなにしてる?』
思わず窓の方へ顔を向ける。私の鬱屈を見透かしたようなタイミングの良さに、まさかそこにいるの、と思ったけれど、重く閉じたカーテンは蛍光灯の光を吸ってぴくりとも動かない。少し離れた席で笑い声が上がった。母の兄、つまり叔父が大きな声で冗談を言っている。部屋の人間のほとんど全員がそれに答えるように笑ったが、私はそのなかにそっと息をひそめて、ここにいない彼女にメッセージを返す。
『親戚とご飯食べてる』
『こっちこれる?』
『今から?』
『今から』
私はそっと顔を上げた。まず叔父、彼はお酒が入るとしきりに冗談を言うようになるけれど、実際それは何かの悪口だとか文句だとかをみんなにそれとなく圧力をかけて認めさせているみたいでちっとも面白くないし、気に入らない。誰も反応しないときっと面倒なことになるからみんな笑っている。そんなつまらない、情けないことができるか、と会うたび無反応を貫こうとしている、そんな私が結局一番子どもで情けない、と目の前の炭酸飲料が叫ぶ。けれど今は、彼が私の動向を気にしていなければそれでいい。
次に祖母。あんた今何年生になったのかね、あんた今何年生になったのかね、という無限に繰り返される質問から逃れるために、今日はなるべく遠い席に座った。
最後は、私が認知症の祖母を避けたとき、視線だけで私を器用に非難した母。母は今、叔父の隣に座ってしきりに何かうなずいている。母も叔父のことが好きではないのにわざわざあんなことをして、かえって健気だ。母と私の間には透明な膜が張っている。薄くてやわらかいけれど、触ると金属のようにひんやりとしていて、どれだけ手を伸ばしても絶対に破れない膜。母はその向こうから私を見ている。今の私は机の端の席、もっとも部屋の出口に近く、母は叔父の相手。
『行ける』
三文字を素早くフリック入力し、こっそりと席を立つ。叔父の声とつまらないバラエティ番組のざわめきが共鳴する。従兄がちらりとこちらを見たが、昔から煙のように静かに空気に溶け込む彼は、すぐにテレビに視線を移した。それでいい。よし、誰も私を見ていない。が、
「どこに行くの」
十一人がそろって座れるようにローテーブルを二つくっつけた広い机の向こうから、冷えた声が響いた。やっぱりばれた。声と同じくらい温度の低い目で、母が私を見ていた。
「コンビニ」
「何をしにいくの」
「あー、支払いしなきゃと思って。ネットで本買ったけど、コンビニ払いだから」
「なぜ今なの」
「いってきます」
返事を聞かずに後ろ手で扉を閉め、駆け足で今日泊まる予定だった部屋に入り、上着とマフラーと財布を回収する。ああそうだ、と置き去りにしてきたミッキーマウスのグラスを思う。上辺ですら血のつながりを大切にできない、この家でひとりなにかがたりていない私を、私の生まれるはるか前からこの部屋にいる曇った仏壇が見ている。深呼吸。線香の匂いは好き。それ以外は全部気に入らない。
急いで靴を履いていると、後ろから従兄が追いついてきた。見ると彼もダウンジャケットを着て、マフラーを巻いている。布の端が片方だけ所在なさげに飛び出た、妙な巻き方をしていた。
「女の子ひとりだと危ない」
「って叔父さんが言ったんでしょう」
「まあね」
「もうそういうの古いよ。令和だよ」
令和にも変質者はいる。それもそうか。玄関を開けると、とがった冷気が頬にまとわりついて痛かった。
盆と正月、年に二回しか訪れない灰色の住宅地。知らない団地はいつも、古い布を喉元に押し付けられているみたいに息苦しい。年中ここで暮らしている従兄が、コンビニの方向へ案内するように歩き出した。慌てて後を追いかけ、しわのついたレシートや、まだ開いていないポケットティッシュが入れっぱなしの上着のポケットを探ると、小さな金属の触れ合う感覚。私は引っ張り出しただらしのない二二〇円を彼の右手に押し付けた。
「なにこれ」
「お礼。あと謝罪。それでハーゲンダッツでも買いなよ」
「いやいらないし、あと足りないから。まあいいけど」
「それで、駅ってどっちにあるの」
「駅に行くの?」
「うん」
彼女の名前を呼びたくなって、加奈子に会うの、と言おうとしたけれど、やめた。従兄は黙って方向を変え、何も言わずに進み始めた。外灯に照らされた目尻が困ったように下がっていてかわいらしく、年相応の表情。けれど彼の顔は叔父によく似ている。私も母に似ているのかしら、とふいに思い、ぞっとした。ああ、はやく逃げなくては。駅の方向も知らないくせに、早足になる。母の生まれた家から遠ざかって行く。
「それでさ、ファミレスってランチの時間だと人がいっぱいいるんだけど、午後二時を過ぎるとシフトを一人にされちゃうんだよ。もちろんお客さんが来るから大変だし嫌なんだけど、逆に何時間も誰も来なくて、よくわかんないBGMをひたすら聴かされる日が一か月に一回くらいあって、そういうときって、たまにだけどね、誰か私を見つけて、って思う」
見つけた。大学に入って間もないころ、クラスで会話するようになった女の子たちと、よく学食でお昼を食べた。毎回三人か四人くらいでひとつのテーブルに座っていて、その日は他の女の子たちを先に注文に行かせて、加奈子と私が席に残った。いつも相手との距離を必死に測って当たり障りのない、乾いた会話を広げていくのがお決まりの食堂で、私を見つけて、加奈子がそう言ったとき、私の口をついて出た言葉は、私も、のたった一言だった。
見ると、彼女の薄明るい茶色の瞳がきゅっと細められ、窓から差し込む静かな日差しに揺れていた。その日までおとなしくしていた心臓が、加奈子を見つけたとたんに自分の居場所を主張し始めていつまでもうるさく、女の子たちが帰ってきて自分の分のオムライスを買いに行ったときも、そのあとの他愛のない雑談の間も、私の声をかき消した。
授業で毎回隣の席に座るようになって、彼女が人と喋るとき、両手を机の下で祈るように組んでいることを知った。手の甲を白く圧迫する爪の、先端が少し剥げたトップコートと、クラスメイトに向けられる隅々まで整えられた笑顔。加奈子は高そうなリップを、ジッパーのかみ合わせの悪い、変な柄のポーチに適当に放り込む。きれいな格好をしているのに、足元のコンバースだけは暗くくすんでいる。そういうほころびを見つけるたびに私の視線はそこに吸い込まれて、それに気づいた加奈子は、自嘲めいた、けれどどこかうれしさの混ざったような、崩れた微笑み方をする。私はそれが好きだった。
私が加奈子を見つけたように、彼女もまた私をとらえた。生温かい雨の降る六月の朝、休講になった授業の教室で、加奈子は私の書いた小説を読んだ。二人で話題になった映画を見に行ったとき、思いがけず画面いっぱいに映し出された暴力的なシーン、その血と肉のリアルさに声を押し殺して震えていると、まるで平気そうな加奈子の細く涼しい右手が、私の左手の指と指の間におさまり、熱を吸い取った。スクリーンから左に顔を向けると、加奈子は身じろぎもせずに、じっとこちらを見ていた。大画面の中で少女が死んだ。そしてその翌日に、加奈子は付き合っていた男の人と別れた。カイロがぬるくなったから捨てました、といった気軽な調子だった。
この数か月で何度も聞いて、すっかり耳に馴染んだ駅の名前を合図に電車を降りた。人っ子ひとりいないホームを、寒さでこわばる身体で駆ける。改札の先には信じられないほど薄着した加奈子が立っていて、私を見つけるといつものように目を薄く細めた。彼女は他の人と話すとき、まずこんなふうにたりない表情はしない。改札をくぐって早足で近づく。
「あけましておめでとう」
ひとこと、まるでなにもおめでたくなさそうに加奈子が言う。
「で、なにをするの」
「うちのものを全部捨てようと思って」
「マジで?」
「マジだよ。美咲もやりたいでしょう」
加奈子のひとり暮らしをするアパートはものでぎゅうぎゅうになっている。ベッドと机とクローゼットでいっぱいになってしまう狭い部屋、そこにある、わざわざ実家から持ってきたのにほこりをかぶったままの高校の制服、壁じゅうにべたべた貼られた統一感のないポストカード、毎回一本は床に置かれている飲みかけのペットボトル、似たような色か、もしくはとても外につけていけないような色しかないマニキュアの瓶の山。全部ごみ袋に詰め込んで、なにもない静かな部屋に寝そべることを想像する。とてもお正月には似合わない、寂しい景色だ。けれど加奈子がいる。
「いいね」
でしょ、と加奈子が言う。いっしょに吐き出された白い息を、夜が静かに溶かす。
道の途中にはいつも二人で立ち寄るコンビニがあって、三回に一回くらいの確率で、ひとことも声を発さない男の人がレジに立っている。今日はその日だった。加奈子と私はそれをすっかり面白がっていて、二人で彼に聴こえないようにひっそりと笑う。適当なお菓子を選んで加奈子を探すと、店の奥、飲料コーナーに立つ彼女のカゴの中には缶チューハイが二本。それが数時間前に従兄が飲んでいたものと全く同じでくらくらした。
「ぶどう味嫌いだったっけ」
「全然」
視界の端には当然のように三ツ矢サイダー、なっちゃんオレンジ、ファンタグレープがいて、私が置いてきたものをひとつひとつ再確認させてくる。逃げるように加奈子についてゆき、彼女が慣れた手つきで年齢確認のタッチパネルに触れるのを見た。レジの男の人はいつまでも何も言わない。
部屋に着くと加奈子はさっそく電気をつけ、薄手のコートを床に放り投げた。暗闇が一転、加奈子のものにあふれた小さな部屋が浮き上がり、雑然とした箱のなかを、LEDライトの暴力的な光が照らした。台所から大きいごみ袋を二枚手にして戻ってきた加奈子は空いた右手にもう缶チューハイを持っている。私が袋を一枚受けとると同時に、彼女は缶に口をつけて大きく傾けた。うれしそうだ。飲んだら片付けの最中で眠ってしまいそうで、私は先に作業に取りかかることにした。
決して汚くないけれど、整理整頓とはまるで縁のない部屋で、手の伸ばせる範囲にあるものを全部袋の中に放っていく。カーテンが開きっぱなしだったので勝手に閉め、壁にかかったままの去年のカレンダーも外す、と同時に、そういえば今日は日付が変わって一月二日、
「加奈子、ごみの収集ってまだやってないんじゃない」
「……あ、本当だ」
落胆したように動きが止まった。これは一旦作業をやめるのかと思い、手にした袋を壁際に置いたが、まあいいか、ぽつりと呟いた加奈子は酔った勢いなのか、キャビネットの引き出しを思いきりひっくり返し、中身を床にぶちまけた。はたしていつ使ったのかわからない電池や傷だらけのキーホルダー、匂いつきのカラーリップたちが土砂崩れのようにフローリングを侵し、じゃらじゃらと派手な音が響く。
「ねえ音立てて大丈夫なの。上の階とか」
「みんな実家に帰ってるよ」
美咲もそうだったでしょ。そう言って土砂のなかからひとつ、薄紫の球体を拾い上げた。あ、これ、元カレがくれたスーパーボール。ああ、去年別れた人。渡されたそれを見ると、直径二センチくらいの小さい半透明のボールの中にはラメがたくさん入っていてきらきら、照明に透かすと小さな宇宙を思わせた。きれいだね、と口に出しながら、ふいに目の前の女の子を思い切り傷つけて、血の温かさを確かめたいような衝動と、それを冷めた目で見つめる理性が強烈に争った。自分で自分が思い通りに動かないことに対する苛立ちがふつふつと煮え、手の中のゴムを力任せに壁へと投げた。鈍い音を立てながらあちこちを跳ねまわり、最後は力なく床に転がる。上の階からの反応はない。やっぱり家族の住んでいるところに帰っているのだろう。体の力が抜け、ほんの少しほこりっぽいフローリングに座り込んだ。ねえ、と静かな声が聞こえ、振り向くと、加奈子がこちらを見ていた。例の崩れた微笑み。お酒が飲みたい。ジュースではいけない。
「そのままでいて」
それが今の姿勢の話なのか、それとも私自身の激情に言っているのかわからなくて、聞いてみようかと思ったけれどできなかった。加奈子が慣れた動きで私の唇にそっと口づけ、舌を差し込み、お酒で温まった彼女の手が首筋をなぞってぞくぞくした。口の中を舌でまさぐられる感覚はいまだに慣れず、口内に混じるぶどう味のアルコールにすがる。こうしているとき、私たちは名前を呼ばない。私たちは、好き、とも愛してる、とも言わない。
若さをないがしろにして惰性で絡み合って、そんな私たちを部屋の隅にころがったスーパーボールが見ている。紫色。ぼうっとしている私の手を、やわらかく湿った加奈子の指が捕らえる。ずっと遠くまで泳いで、岸がもうどこにも見えない。汗ばんだ手のひら。置き去りにしたもの、捨てたものも忘れたものもみんな、きっといつまでも私たちを見ている。そうしてファンタの海を泳いでいる。