偽生/一班

偽生
一班(多ヶ谷・並木・美桜・狄嶺)


【起】多ヶ谷

 俺は東京に住んでいる。東京は世界でも有数の経済力を誇る都市であり、天を衝く長方体の城が、霜柱のように密集して並んでいる。日本トップクラスの頭脳が集う研究機関や、日本トップクラスの企業が、この地に多く集まっている。道に出て辺りを見渡せば、目に映るのはエリートばかりだ。そんな東京で俺は生まれ、育ってきた。俺は八年間エリートを見て、肌で感じ続けたのだ。俺の将来は瞼を閉じてなお、目が焼けてしまいそうなほどに眩しい。俺は恵まれた日常を、余すことなく謳歌していた。


 十一月の暮。雲一つない、爽やかな快晴の空を望める今日の日に、一人の転校生がやってきた。

「菊池幸太郎って言います。埼玉から来ました。よろしくお願いします」

 丁寧に挨拶をして、菊池は小さな体を折った。

「菊池君の席は、後ろの空いてるあそこね」

 担任の山岡先生が菊池に微笑みかけながら、菊池の背中に左手を添え、右手で一番後ろにある空いた席を指さした。

 菊池が近くを通る。丸みを帯びた輪郭に、のろのろした歩き方。第一印象はあまり良くなかった。

 その後、朝の会を終えて、一時間目の算数の準備をしている時だった。前から二人の少年が後ろへ走っていく。

「幸太郎、幸太郎、お前、サッカー好きか!」

「昼休みにさ、一緒にサッカーやろうぜ!」

 早くも幸太郎呼びするのは、クラスメイトの藤井海だった。もう一人は南久人。よく藤井と一緒にいる奴だ。

「う、うん」

 唐突に話しかけられた菊池は、動揺しながらも頷いた。

「よっしゃあ! じゃあ、約束な!」

 藤井の嬉しそうな声が響く。俺は机の上に出した算数の教科書とノートを見下ろしながら思う。のんきな奴らだと。小学生とはいえ、俺らは学生なのだ。学生の本分は勉学である。サッカーなぞにうつつを抜かしている暇は一秒たりともないのだ。

 菊池を含め、三人はその後、嫌いな野菜の話や、好きな漫画の話、今やってるゲームの話をして盛り上がっていた。俺はといえば、算数のドリルを進めていた。彼らの、毛ほども将来役に立たないであろう話を耳にして、俺はそうなるまいと、いつも以上に集中できた。この休み時間中に二ページは進められそうだ。

 それからすぐ後のこと。

「もうそろそろ授業始まるよー。ほら、海君も久人君も。お友達が増えて嬉しいのはわかるけど、今は席について」

 後ろから投げやりな返事が二つ聞こえた。視界の端で二つの影が駆けるなか、俺は自分のノートに目を向ける。結局、二ページどころか、五問しか解けなかった。理由は簡単だ。後ろで奴らが騒いでいたせいだ。思わず鉛筆を握る手に力が入る。チャイムが鳴り、号令がかかる中、鉛筆を握る力は緩まぬままだった。


「菊池幸太郎って言います。埼玉から来ました。よろしくお願いします」

 初めて見る顔。初めて入った教室。初めて吸う空気。僕の心臓は、目の前の生徒たちの喧騒をかき消して、僕の聴覚を独占していた。総勢四〇余名の視線の全てが僕に集まる。少しでも皆から目をそらしたくて、僕は思わずお辞儀をした。

「菊池君の席は、後ろの空いてるあそこね」

 頭を上げると、担任の山岡先生は、微笑みながら優しく背中を押してくれた。僕の背中を押す先生の手が、背中から生えた翼のように思えた。今なら目の前の空間に羽ばたいていけそうだ。僕は勇気を出して、一歩を踏み出した。

 僕が席に着くと、朝の会が始まった。呼名の時、噛んでしまって耳を赤くしたが、それ以外は前の学校と同じで安心した。朝の会が終わり、一時間目の用意をしようと、ランドセルに手を伸ばした時だった。二人の男の子が僕の席に駆け寄ってきた。驚いたことに、二人は初めて会った僕を、サッカーに誘ってくれた。昨日まで、友達ができるか不安だった。けれど、僕の目の前で笑顔を浮かべる二人を見て、霧が晴れるように不安は消えていった。

 その後も、嫌いな野菜の話とか、好きな漫画の話とか、今やってるゲームの話とか、短い休み時間を目一杯使って、沢山のことを話した。

「じゃ。次の休み時間も話そうぜ!」

「また後で!」

 先生の呼びかけがあって、二人が席に戻っていく。次の休み時間が待ち遠しい。僕は胸を躍らせつつ、算数の教科書とノートを机の上に並べた。そうして、東京に来て最初の授業が始まる。


 日は家屋の屋根に半身を隠し、街灯が目を覚ます。

「やべえ、門限めっちゃ過ぎてるわ。ママに殴り殺される」

 海がおどけて言った。

 海、久人、幸太郎の三人は、放課後、家に帰ることなく学校近くの公園で、今に至るまでサッカーをしていた。

「僕も晩御飯抜きにされちゃうよ」

 幸太郎がおなかをさする。

「また明日遊ぼうぜ。じゃあな、幸太郎」

「帰り道気をつけろよ」

 久人と海が手を振りながら去っていく。

「うん。また明日」

 幸太郎も手を振って、二人が公園を走って出ていくのを見届けた。二人が見えなくなってから、幸太郎は振り返り、小走りで公園を出ようとした。その時、公園の出口の脇にある茂みから、枝が折れる音と共に何かが現れた。

「ひっ」

 幸太郎は小さな悲鳴を上げて、しりもちをついた。茂みから現れたのは、幸太郎と同じか、それより小さいぐらいの背丈の少年だった。

「だ、誰なの」

 幸太郎が震えた声で少年に問う。

「お前のせいだ」

 少年は幸太郎の言葉を無視して言った。その声には怒りが混じっていた。幸太郎は、なぜお面の少年は自分を恨んでいるのか分からなかった。謝りようもなく、幸太郎は混乱した。

「お前が来てから、俺の毎日、めちゃくちゃだ」

 少年は、先ほどより強く言った。幸太郎は混乱する中、あることに気が付く。少年は右手を自分の体の後ろに隠していた。そして、彼の太ももの間から、何かが光った。幸太郎は嫌な予感がした。

「お前さえいなければ!」

 少年が、しりもちをついたままの幸太郎にとびかかる。次の瞬間、幸太郎は胸に鋭い痛みを感じた。幸太郎は自身の胸に目を向ける。目に映ったのは、自分から果物ナイフが生えている光景だった。にたりと満足げに笑う少年に見下ろされながら、幸太郎は静かに倒れ、目を閉じた。

 ・・・・・・・・・・・

 目を覚まして初めに目に飛び込んだのは、見たことのない天井だった。自分がなぜここにいるのか、自分が意識を失う前に何をしていたのか、まったく思い出せない。瞼をこすりながら、上半身を起こす。当然ながら、目に映るもの全てが、記憶になかった。

 戸惑っている中、ふと、部屋の外から女性の声が聞こえた。

「朝ごはん出来たよ。降りてきなさい」

 初めて聞いた声だったが、不思議と安心感を覚えた。ここにずっといても埒が明かないし、試しに会ってみようか。そう思って、布団を除け、ベッドの下にあったスリッパに足を通した。

 先ほどの女性の口ぶりから、ここは彼女の子供が使っていた部屋なのだろう。ある朝突然、その子供が初めて会う人物に変わっていたら、どんな反応をするのだろう。気が触れないか、心配だ。慎重に自己紹介をしなければ。そう思ったとき、ようやく気付く。自分が誰か、分からなかった。

 嫌いな野菜は何か。好きな漫画は何だったか。どんなゲームをしていただろう。記憶のどこにも、答えは見つからない。汗が噴き出す。恐怖と不安が渦を巻いて、足元が揺らいだ。

 自分がどんな顔をしているのかが気になって、部屋に鏡のようなものが無いか見まわした。顔を確認できるような反射物は見つけられなかったが、部屋に置かれた勉強机に目線が向いたとき、奇妙なものを見つけた。机の上に置かれた、刀身が赤く染まった果物ナイフ。なにか頭に引っかかるが、それが何なのか、分からなかった。

 自分一人だけでは、どうすることもできなさそうだ。先ほどの女性に自分が今置かれている状況を正直に話し、助けを求めることが、今できる最善のことだ。意を決し、扉に手をかけた。


「おはよう。今日は学校休みだって。近所で事件があったみたいで」

 階段を降りると、先ほど聞いた声で、エプロンをした女性がこちらを向いて言った。初対面のはずなのに、妙に親し気だ。

 女性の言葉を聞いて、先ほど見た果物ナイフが脳裏に浮かんだ。

「事件って?」

「あんたと同じ学校の生徒が、殺されちゃったんだって。犯人が捕まるまで、外、出ないでね」

 自分が殺したのか。そう思わずにはいられなかった。不安が大きくなっていく。耐えられなくなって、自分のことを打ち明ける

「記憶がない」

 女性は口を開けて固まった。何を言っているのか分からないといった表情を浮かべている。

「ど、どういうこと?お母さんに分かるように説明してくれる?」

 半ば、薄々思ってはいたが、女性が母親であることに驚く。

「自分が誰か分からない。ここがどこかも分からない」

 女性はよろけて、壁に肩をぶつけた。目をあちこちに回しつつも、女性は何とか体勢を立て直す。そして、身をかがめてこちらの体に手を伸ばしてきた。

「どこか痛いところある? 気分はどう?」

「どこも痛くない。気分も平気」

「、、、そう。お母さん、ちょっとお父さんと話してくるから。そこに洗面台あるから、とりあえず顔洗ってきなさい。そしたら、そこ部屋にご飯用意してあるから、食べてね」

 部屋の場所を指さしながら言うと、お母さんは階段を上がっていった。問題は山積みだが、とりあえず、顔を洗いに行こう。


 洗面台の前。鏡に映る顔に覚えがあった。意識を失う直前、この顔を見た記憶が、確かにある。街灯の明かりの陰の中で浮かぶ満足げで、歪な表情。だが、なぜそれが鏡の向こうにあるのか。似ているだけかもしれない。その望みにかけて、洗面所を出た。

 また鏡の前に立つ。今度は、机に置いてあった果物ナイフを持ってだ。記憶の再現をすることで、完全な解決はできないだろうが、気休めにはなるかもしれない。

 両の手で、親の仇を前にしたように、鏡の向こうの自分を突き刺すようにナイフを構えた。鏡に映る自分は、記憶にある映像とほぼ一致している。しかし、なぜ刺される側の記憶があるのか。それが不思議でならない。

 結局得られたものは無く、これ以上は不毛だと、構えたナイフを下す。だが、鏡から目を話そうとしたとき、言いようのない違和感を覚えた。鏡に映る自分が、こちらを睨んだ気がした。それに、握ったナイフから、何かが流れ込んでくるように感じた。劣等感、憎しみ、孤独。負の感情が、ナイフを握る手を中心に、体を侵食する。

 突然、胸が痛みだす。まるでナイフで刺されたかのような鋭い痛み。胸を見下ろしてみるが、外見はナイフを構えていた時と何一つ変わっていない。突如訪れた二つの脅威に、成すすべなく床に倒れた。

 激しい苦しみの中、息絶え絶えに、二人の少年の影を見た。闇に消えゆく二つの影は、自分にとってかけがえのない存在であると、根拠などないのに確信した。そして、それを皮切りに、まるでドミノ倒しのように記憶が蘇る。沈みかけた太陽が。起き抜けに、瞬きをするように二三度点滅した街灯が。次第に記憶が鮮明になっていく。そして、自分の存在を捉えた。ようやく自覚する。俺は菊池幸太郎だ。


【承】並木

 目を覚ます。またもや見たことのない天井ではあったが、今は理解できる。これは病院の天井だ。

「あ! 起きたのね! 大丈夫?」

 不安そうに顔を覗き込んでくるのはお母さんだ。

 そう、お母さんこの人は確かに自分の母親だ。それはわかる。ここが病院ということも。そのほか常識的な知識はある。だが記憶がない。自分がどこで生まれ、どんな生活をしてきたのかの記憶がまるでない。そして、あのナイフ。あれから流れてきた感情を確かめたい。
 
 と、そこで父親が病室に入ってきた。

「大丈夫か? ……っと、そうだ、お父さんわかるか?」

「え? うんわかるよ?」

 あえて何で知らないのかわからないような言い方をした。朝のことはなかったことに、かみ砕いていうと記憶喪失にはなっていないふりをすることにした。理由はもちろん早く家に帰って、ナイフについて調べるためだ。

「あ、もしかして朝言ったあれのこと? あれはこないだ読んだ小説に出てきたやつの真似をしただけだから!」

「あなた普段小説なんて読まないじゃない。」

「ま、漫画だった。」

 じゃあなんで小説読んだ記憶があるんだ?

「じゃあ記憶はあるんだな? ほかに痛いところとかないか? お前、洗面台のところで倒れてたんだぞ。」

「大丈夫だって。」

 頭打ったのか俺。

 そのあとは、軽い検査を受け、すぐ退院になった。

「でも本当に、何事もなくてよかったわ。」

「心配しすぎだって。」

「……」

「やっぱりちょっと変じゃない?」

「ど、どこが?」

「……」

「なんか雰囲気というか急によそよそしくなったというかねぇ、お父さん」

「家、ついたぞ」

……これ、俺よりお父さんのほうがよっぽど様子おかしくないか?

「お、お父さん?」

「幸太郎はいまから私の書斎に来なさい。」

「え、うん」

 そんなこんなで、お父さんの書斎。

 ナイフについて調べたかったんだけどな。というかナイフって今どこにあるんだ? 倒れたとき持ってた気がするんだけど。

「おまえ、倒れたときこれ持ってたんだがなんでこんなもの持ってたんだ?」

 思わず顔が引きつる。お父さんが出したのは件の真っ赤に染まったナイフ だ。最初は果物ナイフのように見えたがよくよく見てみると少し特殊な小刀のようなもののように見える。

「そ、それは……」

 思わず言いよどむ。

「こんなもの持ってたら危ないじゃないか。これ、どこから持ってきたんだこんな赤い趣味の悪い包丁なんて」

 そう赤い。遠めに見ると血に染まっているようにも見えるが、まじまじ見るとただの塗装だ。

「それおもちゃだよ?」

「こんな物騒なおもちゃで遊んじゃだめだろう」

 ぐうの音もでなかった。

 ピンポーン。

 インターホンの音が鳴りお父さんがいったん席を外す。

 非常にまずいことになった。このままではナイフが没収、最悪棄てられてしまう。それだけは防がなくては。だがどうする? 今こっそりとってもすぐにばれる。どうしたものかと思案しているが妙案はなかなか浮かばない。浮かばないうちにお父さんは戻ってくる。

「山岡先生がお前をお茶の間で待っているから行ってきなさい。」

 ナイフは当然没収された。

 お茶の間に行くと先生が俺に向かって挨拶をしてきた。

「こんにちは。転校したてでちょっと緊張してたのかな? 今日は学校休みだからお家でゆっくり休んでてね。」

「はい。」

 先生の話し方はとてもやさしく、安心させてくれるものだった。

「ところで幸太郎君。昨日の事件について何か知らない?」

 昨日。

 記憶という記憶は残っていないが、今朝のナイフを握ったときにフラッシュバックしたあの光景はいつのことなのだろうか。おそらく昨日のことなのだろうが、なぜ被害者の自分があのナイフを持っているのか。

 しかし、実際に昨日死人が出ており、ナイフが我が家にある。とてもではないが、先生に打ち明けられる内容ではない。

「すみません、知りません。」

 しらばっくれた。

「ふーんそっか。何かわかったら教えてね。ああ、あとそうだ、何かお面みたいなの見つけたら教えてくれる?」

 お面? そういえば今朝みたあの光景にもお面の子がでていなかったか。

「お面、ですか?」

「そう、私教師のほかに神主というか巫女のようなものをしているのだけれど、その儀式に使うお面が、なくなっちゃってね。」

 先生は昨日の事件のことどれくらい知っているのだろうか。

 下手な探り合いは避けたいので、ストレートに聞いてみることにした。

「昨日の事件、先生はどれくらい知ってるんです?」

「私の知っている情報はほかのみんなとそう変わらないわよ。ただ、その被害者の生徒が私のお面を勝手に持ち去っちゃったらしいのよね。」

 先生は今までの雰囲気とは打って変わって陰鬱そうな顔を見せる。

「なんか家の伝承ではかぶったものをのろう?とか言われているらしいけれど正直眉唾モノだし……本当にどこにあるしら。」

 と、そこでお父さんが、お茶の間に入ってきた。

「先生少々お話があるのですがよろしいでしょうか?」

「ええ、かまいませんよ。」

「じゃあ幸太郎ちょっと二階に上がってなさい。」

「うん。わかった。」

 言われるがまま、お茶の間を出て、二階に上がる。そして自分の部屋に入ろうとした、その時一階から大きな音が聞こえた。

 何かと思い、こっそり一階に戻ってみる。

 するとそこには先生が驚いた表情で例の小刀を凝視している所だった。

「これを幸太郎君が?」

「ええ、何か知っているんですか?」

「……とりあえず幸太郎君を読んでもらっていいですか?」

 先生の声は先ほどの陰鬱そうな雰囲気をまとっている。

 その後、お父さんに呼ばれ、再び先生と対面する。

「幸太郎君。君、仮面もってるでしょ?」

「な、なんですかやぶから棒に。」

「これ、君が持ってたんでしょ」

 そういって先生は赤い小刀を取り出した。

「これ、儀式のときに仮面と一緒に使う大事な道具なのよ。」

「え?」

「これも一緒に持ち去られていたのだけれど、小刀見つけたら教えてねなんてとても聞けないから、そっちは自力で探そうと思っていたのだけれどまさか君が持っていたなんてね。」

 まずい。

 昨日に関して知っている情報なんてほとんどない。強いて言うならあの光景は昨日のものなのかもしれないが、被害者側の視点であることも含めておよそまともな記憶とは言えない。

 小刀含め、今では情報が足りなさすぎる。そもそも仮面? なんて俺の部屋にはなかったと思うんだが……。

「幸太郎君。仮面、返してくれる?」

 先生はいつもどうりの笑顔で仮面の返却を用意する。

「少し待っててください?」

 とにかく時間が欲しい。その後自分の部屋に戻り、自分の世界にこもるように、壁に背を密着させながらゆっくりと占める。

 さて、まずは仮面を探すか。

 押し入れなどを探りながら物思いにふける。

 というか、今朝みたあの光景はなんだったのかあれが昨日の記憶だったとしてなぜ刺される記憶があるのに俺には外傷が一切ないのか、そもそも、あれが本当だったとして、そのあとどうなったんだ? あれから今朝までには時間差がある。あの後普通に家に帰って夕食を食べたのか? 今朝の母親の態度からして、昨晩の態度はそうおかしいものではなかったと思われる。じゃあなぜ今朝になって急に記憶がなくなったのか? 普通に考えて、殺す殺されるといった場面に遭遇したからそのショックで記憶を失ったわけではないのか? さっき先生が言っていたことから察するに俺は転校したてのはずなのにあの光景の中で少年は、「お前が来てから毎日無茶苦茶だ。」とかいってなかったか。

 そして、俺自身そろそろ気づいている。


 ……俺、なんでこんなにいろんなことに頭が回るんだ? 明らかに普通の小学生の域を超えている。まるで同級生の二倍の人生を歩んできたくらいにいろいろなことに気が回る。そもそも、昨日までの自分と人格にギャップがありすぎる。そんなことを考えつつ、押し入れ、机と探すが、それらしいモノは見つからない。

 最後にベッドの毛布をめくると何となく不気味なお面がでてきた。今朝みたあの光景に出てきたお面だ。

 それをもって下に降りる。先生にそれを見せると先生は喜んでそれを受け取った。が、受け取ったまま表情が凍り付いている。

「先生? どうかしました?」

「壊れてる……」

「え?」

「幸太郎君。もしかしてこのお面かぶったりした?」

「いや、かぶってないです。」

 反射的にそう答えたが俺が失った記憶のなかでかぶっていたかもしれない。

「かぶっていたらどうなるんです?」

「幸太郎君が二階に上がっている間に実家に連絡して分かったことなのだけれど、この仮面、私の家で数十代も受け継がれてきた由緒ある仮面らしくてね。かぶるとその人の未来が見えるお面らしいのよ。ただ、これ一人使うと一年間使えないらしいから、その状態で使うと、その前に使っていた人と意識がまざる?  とかなんとか」

 なるほど。

 …………。

 おおよそ合点がいった。

 ただひとつ、まだわからないことがある。

「先生」


 幸太郎君の家を出ると同時に思わずため息が出る。

 自分の生徒が死んだ理由に自分が関係しているとは思わなかった。しかも内容が内容なので、自首もできない。というか、しても意味がない。

 ふとかばんを見る。この中には例のお面と小刀が入っている。今となってはもう使えないが。

 それと、本人は隠していたが、

「幸太郎君、絶対かぶっちゃってたよねあれ。」

 幸太郎君の態度は明らかに小学生のそれではなかった。

 あれは、被害者の生徒と意識が混ざったものだろう。

 被害者の子は良くも悪くも頭が良すぎた。それゆえに周りを見下している。そう言う子だった。そのつっけんどんな態度をみてこの子は将来苦労しそうだと、内心苦笑していた。それに対して、菊池君は東京出身ではないのがどこまで関係しているのかは知らないが純朴そうで、昨日も転校初日なのに友達ができていた様子だったし、彼とも仲良くできたら、そんなことを考えていた矢先の出来事だった。

 再びため息が出る。東京の空は低い。


【転】 美桜

「さてと、どうしたものかな、これ……」

 帰宅した私は一人自室で頭を抱えていた。事の顛末を推測する限り、菊池君は被害者を刺した加害者……そうでなくとも現場に居合わせた可能性が高いわけである。しかし動機もわからなければ、そもそも被害者がお面と小刀を盗んだ理由もわからない。それを菊池君が持ち去った理由もわからない。

「はあ……」

 本日三回目のため息が出る。机にべたんと頬を付けじっとお面と小刀を見ていると、ふとあることに気づく。てっきり小刀の赤い色はペンキか何かで塗られたものだと思っていたが、どの角度から見ても塗装の際に出来るであろうわずかな凹凸がない。まるで内側から染まっているかのように色の境目が自然なのだ。

「いや、刀が染まるなんてそんな……染まる刀……赤い小刀……?」

 頭の中を何かがよぎる。呪いの類いに詳しかった祖父が昔そんな話をしていなかったか。幼い日の記憶を辿るが途切れ途切れにしか思い出せない。

「そうだ、おじいちゃんのノートを見れば……!」

 祖父が遺した生前の研究をまとめた資料があったはずだ。そこにきっとこの事件の真実がある。


 少し埃っぽい倉の中で裸電球の灯りの下、祖父のノートを片っ端から読んでいく。そこに書いてあることはどれも眉唾物だったが、こんなことが起こっている以上本当の話かもしれないと思ってしまう。達筆な字に苦戦しながら探すこと早数時間、ようやく目的の文献に辿り着く。ごくん、と唾を飲みそこに書かれている文章を読む。

「……我が神社に数百年もの間受け継がれている面と小刀。面は被った者に己が未来を見せる力を持っている。それぞれは害のないものであるが、二つは結びついており、面を被った者が小刀を振るった時、そこにかけられた呪いは人の子の運命を狂わす。小刀が人の子の血を吸い赤く染まった時、面を着けた者と刺された者の顔は入れ替わる。刺された者の絶命から半日の間はそれぞれの人格も入れ替わるが、それを過ぎると刺された者は刺した者として死に、刺した者は己が記憶が消え刺された者として生きなければならない……」


 俺はイライラしていた。原因は今日転校してきた菊池幸太郎とかいう奴である。見るからに鈍臭そうで特に取り柄が無さそうなのにも関わらず、来て早々友達が出来たらしく、休み時間中ずっと騒いでいた。おまけに放課後も公園でサッカーをするらしい。本分である勉強をそっちのけに遊び呆けるなど言語道断である。しかも俺は菊池のせいで1日勉強が捗らなかったというのに。あまりの癇癪に周りが見えていなかったらしい、気づけば知らない道へと迷い込んでいた。足下を見るとこの辺りでは珍しい石畳の道が続いている。顔を上げると大きな社殿が建っていた。どうもここは神社らしい。

「うおっ、どこだここ……○○神社?」

 どうも聞いたことのある名前である。記憶のページをめくると以前図書館で読んだ地域の伝承に辿り着いた。確かこの神社に、はるか昔から伝わる人の未来を見せるお面があるとかいう話だったか。

 ……そのお面があれば。自分の未来を見れば。遊びに精を出している菊池よりも誰よりも自分が優れていることを証明出来るのではないか。ふとそんな考えが俺の頭をよぎった。そう思うと居ても立っても居られなくなり、社殿に続く階段へ一歩踏み出した。この際伝承が嘘か本当かなんて全く気にならなかった。ただ頭には自分こそが優秀で成功する人間なのだという自信を証明することしか無かった。当然ながら社殿には鍵がかかっていたが、裏口に少し建付けが悪くなっている場所を見つけた。ランドセルをその場に置き、人一人がやっと通れる隙間からそっと中に入る。

 社殿の中はあまり日が入らないのか時間の割には薄暗かった。ぐるっと辺りを見渡す。何かの儀式に使うものだと記載があったから祀られているものに違いない。祭壇のような物はないのだろうか。あらゆる戸棚を開けていると所謂隠し戸の様なものを見つけた。ちょうど人の顔くらいの大きさである。

「……ビンゴだな」

 開けたそこにあったのはお面と果物ナイフのような小刀だった。本に載っていたイラストともよく似ているから探していた物で間違いないだろう。小刀については読んだ記憶がなかったが同じく儀式に使う物なのだろうか。刀身が剥き出しになっているそれに触れぬようそっとお面を取り出す。

 手が少し震えていた。何を恐れているのだろう。自分の未来が約束されているものであることは紛れもないことで、それを確かめるだけなのだ。自分が今まで他のものを失っても続けてきた努力が間違いであるはずがないのだ。ふぅ、と一息ついた後に俺はそのお面を自分の顔へと充てがった。


 視界に母との会話が流れ込んでくる。

『あなた最近成績が下がっているじゃない。ドリルも進めるのが遅いしどうしたの』

『最近転校してきたやつがいて、そいつに他のやつらが話しかけてて休み時間中うるさいんだよ』

『そんなのただの言い訳でしょう。あなたの集中力が足りていないだけよ。もっと必死にやりなさい』

 また別の映像が流れ込んでくる。

『では□□君、この問題の答えは何でしょう?』

『……わかりません』

『そう……では幸太郎君わかるかな』

『えっと、○ だと思います!』

『正解! 難しいのに良くできました!』

 また別の映像。

『今日は委員を決めたいと思うので誰かやりたい人はいますか?』

『はい!先生! 幸太郎君がいいと思います!』

『私も幸太郎君がいいと思います!』


 ……見ても見ても似たような未来ばっかりだった。自分は落ちぶれていき幸太郎は皆の人気者になる。学力だっていつの間にか幸太郎に抜かされていた。自習が捗らないせいで親には毎日のように怒られ、決められたノルマをこなすために夜遅くまで勉強した結果授業中に居眠りをする始末で成績は落ちる一方だった。

 何故俺が? ずっと誰よりも努力してきた俺が? 同級生達が当たり前のように享受する楽しみや喜びを全て投げ捨ててまでしてきた俺の努力はなんだったんだ? 原因は明確にわかっている。幸太郎だ。幸太郎が来たから俺の人生は狂い始めたんだ! 全て何もかもあいつのせいだ! あいつさえ居なければ……!

 正気を失っていた俺はお面を被ったままそばにあった小刀を掴み社殿から飛び出した。

「どこだ、どこにいる! 菊池幸太郎! お前を! お前を殺してやる…!」

 日が落ちるのが早い十一月の東京の空はすでに薄暗くなっていた。ぽつりぽつりと街灯が灯り始めた街をただひたすらに駆け抜ける。途中で何人か人に会った気がしたが人目なんて気にならなかった。頭にあったのは幸太郎という憎い存在を消すことだけ。しばらく走った後、学校からほど近い公園で呑気にサッカーをしている幸太郎を見つけた。やつが一人になるまで待とうとじっと茂みに隠れ幸太郎達を見ていた。その間にもお面を通じて未来が流れ込んでくる。何度見ても忌まわしきそれに恨みや憎しみが増す一方だった。

「やべえ、門限めっちゃ過ぎてるわ。ママに殴り殺される」

「僕も晩御飯抜きにされちゃうよ」

 やっと。やっとこの時がきた。

 幸太郎は今から自分が死ぬなど露知らず二人と明日の約束を取り付けている。ご丁寧にも二人が見えなくなるまで見送った幸太郎はくるりと向きを変え家に帰ろうとする。

 今だ。俺は茂みから勢いよく飛び出した。

「ひっ……だ、誰なの」

 小さく悲鳴を上げ尻もちをついた幸太郎は俺を見上げながら問うた。誰か?そんなもの教える必要などない。お前は今から死ぬのだから。そもそもお前の中の俺の存在などあって無いようなものだろう?

「お前のせいだ。お前が来てから、俺の毎日、めちゃくちゃだ」

 怒りを顕にし目の前の幸太郎を睨む。混乱した様子の幸太郎は俺が後ろに隠した小刀に気づいたようだった。

「お前さえいなければ!」

 尻もちをついたままの幸太郎に飛びかかりその胸に小刀を思いきり突き刺した。激しい痛みに顔を歪めた幸太郎が地面に倒れ込むと、俺はその胸から小刀を抜き去る。やつが目を閉じようかというそのとき、俺の視界に映ったのは、にたりと笑って見下ろす自分の姿だった。……何故俺が目の前にいるんだ?俺が刺したのは幸太郎で……それで……。答えが見えぬまま俺の意識は暗闇へと沈んでいった。


 気づけば僕はお面を被り小刀を持ったまま立ち尽くしていた。目の前には胸から血を流して倒れている少年がいる。辺りはすっかり日が落ち街灯の影になっているせいか顔はわからなかった。

「え……? 僕は一体何を……?」

 確か先程まで海や久人とサッカーをしていて、それでお面を被った知らない人が飛び出してきて、それで……

「僕、刺されたんじゃないの……?」

 途端思い出したように胸を激しい痛みが襲うがどこを見ても傷はない。

「どういうこと?あれは何だったの? 夢? ここにいる人は誰なの? ……まさか僕が殺したの?」

 状況が全くわからなかった。通報する? いや、でもそんなことをして逮捕されちゃったらどうしよう。僕は何もしていないはずなのに。それに暗いから早く帰らないとお母さんにも怒られちゃう。慌ててお面と小刀をランドセルの中に突っ込み、家へと走った。

「た、ただいま……」

「おかえりなさい、遅かったじゃない、心配したのよ」

「ご、ごめんなさい。友達と公園でサッカーしてて……」

「あら! もうお友達が出来たのね! でも早く帰ってこないとだめよ?」

 良かった。怒られることは無さそうだ。先程の動揺もうまく隠せている。あとはお面と小刀が見つからないようにしないと。

 晩御飯を食べお風呂に入り、自室で一人今日のことを思い出す。本当にあれは一体何だったんだろう。お風呂の時に確認したが自分の身体には何も変わった所はなかった。ランドセルからお面と小刀を取り出してまじまじと観察する。お面はどこかの部族がお祭りに使っていそうなデザインで小刀はよく見ると血ではなく赤い塗装のようなものが付いていた。

「もしかしたらあの人は血を流していた訳じゃないのかな? ペンキとかをこぼしただけだったのかな?」

 自分が刺したわけではないのかもしれないと思うと急にほっとして眠たくなってきた。もし本当にあの倒れていた人が死んでいたのなら明日にはニュースになるだろう。今日はもう休んで明日確かめよう。勉強机に小刀を置き、ベッドに体を横たえる。一日サッカーをしていたはずの体はまるで運動などしていないように軽かったが、きっと転校初日で気持ちが高まっているんだろう。小学生と言えど早く寝て疲れを取らないと明日起きれなくなってしまう。少し冷たい冬の空気から逃れるように布団にくるまって、僕は深い深い眠りに落ちていった。


【結】狄嶺

「……東京は世界でも有数の経済力を誇る都市であります……」

 今日のモーニングショウもこんな文句で始まった、相変わらずテレビは東京が大好きだ。

「……みてください、この見渡すばかりの高層ビルの数々、見上げているだけでも首を痛めてしまいそうです……」

 旬はそろそろ終わってしまうのだろう女子アナは、年齢に似合わず首をさすっていかにも可愛げのある仕草をとって見せる。きっと来年には降板だろう、そろそろ可愛い女の子路線を改めるべきなのではないかと、このごろ心配になる程の色あせ様だ。

「……ここ東京では、皆さんご存じの通り、日本でも、いやアジアでもトップクラスの頭脳が集う研究機関が、多く集まっております。本日は、その中でも一二を争う東都大学理学研究所を紹介したいと思います……」

 見覚えのある真鍮の門が、朝からさわがしい共演者とともに画面に映し出された。なぜこの門が紹介されるときは、決まってこうキラキラとしたエフェクトになるのだろうか、まるで取り決めがなされているように思える。そして、光るものが大好きな私の母は、寝起きにも関わらず無邪気に液晶に飛びついてくる。

「あら、幸太郎の学校がでてるよ。知り合いの人映ってるんじゃない?」

「まあ、そうかもね」

 母の会話を受け流したい一心で、私はリモコンの一番のボタンを押した。バラエティ番組が大好きな彼女は、頬をフグのように膨らませて、すっかり黙り込んでしまった。やはり朝の母をおとなしくするという立派な役割があるので、この放送局はぶっ壊してはいけない、そう身に染みる。

「あなたって、まるで私の子じゃないみたい。」

 母の一言に、背筋が凍った。

「……そんな堅物なところは、だれに似たのかしらね、あなたが東都大学に入学したときなんて、親戚中からハゲタカが鷹を生んだぞって、いっぱい冷やかされたんだからね。」

「……そうだね、お母さんみたいに禿げたくはないから、鷹でよかったよ。」

 次の瞬間、豪速球と化したクッションが顔面に飛んできた。綿ものがこれほどまでに激痛をもたらすものなのだろうか、また無用な知識が一つ増えてしまった。さて、このまま不機嫌にしているとまた今夜の晩御飯が危うくなってしまう。機嫌をとらないといけないので、私は二階で半べそをかいているであろう、母に向かってこう叫んだ。

「ごちそうさま、今日もおいしかったよ。」

 返事はない。少しかわいそうになってしまったので、外出する直前に付け加えるように叫び上げた。

「あと、僕はお母さんの息子に生まれて、とても幸せだったよ。いつもありがとう。」

こうして私は、また一つ「仮面」を重ねた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「悩んでいるね、少年よ。」

 私の沈黙を止めたのは彼女であった。

「……先生、どうしたんです?」

「いやあ、鬱々とした顔で不気味にうつむいている教え子を見かけたら、声かけるのが先生ってものなんじゃないかな?」

 大学へ向かう道すがらに、あの神社はある。私はこの十数年間、いつもこの場所を避けるようにして足早に通り過ぎてきた。今日もまたそうするつもりである……はずだったのだが、今朝は妙にこの石段に奥ゆかしさを覚えてしまった。母を名乗る彼女をまた欺いてしまったことに、言い表すことのできない罪悪感を覚えてしまっていたのかもしれない。神社の境内に腰をかけて、もんもんと思い悩んでいるところに、彼女は声をかけてくれた。

「久しぶりですね……高校卒業以来でしょうか、先生。」

「もうそれくらいになるのかなあ、君はあの事件から毎週のように相談に乗ってほしい、と駄々をこねてくれたからなあ。先生はいつまで君の担任なんだろうね。」

 彼女は、あの事件の顛末を知る数少ない関係者だ、両親にすら話せないようなことでも、彼女になら気兼ねなく相談できた。

「……それで“幸太郎君”の大学生活は充実しているかな?」

 彼女はナイーブなことを無邪気に聞いてくる、こういう鈍感なところは変わらない。

「……第二の大学生活ですけどね、講義もレポートもどれも十年前と変わり映えもしないですから、単位に心配はありません。」

「そうかそうか、東都大学の時の記憶はまだ健在なんだね、それはよかった……。」

 幸太郎君の体を借りるにも関わらず、私は幸太郎君ではない。それでは、私が誰なのかといえば、とても形容しがたい存在であるから、少し説明に戸惑ってしまう。しかし、あえて私を形容するのであれば……

「それでも君は、承継された記憶にすぎないんだね……」

 彼女は寂しそうに、私をこう呼ぶのであった。

「幸太郎君たちは……さっぱり消えてしまったのかな?」

「……僕はこの十年間、ずっと彼らの片鱗を僕の中に捜してきたんです、しかし、さっぱり……。」

「……そんなに思いつめなくてもいいんだよ、だってあの子たちは間違いなく死んだんだから、あなたはあの人の記憶を承継しただけ、ただそれだけなのよ」

 木枯らしが痛んだ石畳を撫でていった。鳥肌から身を守るように、先生はコートの襟を固く結んでいた。

「……先生、でも最近こんな感じがするんです。」

「僕の中には確かに承継された記憶があります。しかし、それとは別に、異質な二つの感情が僕の中に居座っているように思えるんです。」

「……二つの感情?」

「……はい、一つは、都会への憧れというんでしょうか……、東京に暮らす自分の姿にワクワクしている、そんな感情です。」

「……あなた、昔から東京に住んでるでしょ……何言ってるの?」

「ええ、そうですね何だか変ですよね……そしてもう一つというのが東京に見捨てられてしまうのではないかという焦燥感、あるいは……自分帰るべき場所が他にあるのではないか、という望郷の念……でしょうか?」

 彼女があんぐりと開けたその口の奥には、頭がおかしくなってしまったのか、という疑問符が垣間見えた。が、相談には最後まで付き合ってもらおう。

「先生にお伺いしたいのは……、このどちらが“あの人”の記憶なのかということなんですが、思い当たる節はないでしょうか?」

 彼女は空いた口をふさいでみたかと思うと、下唇を軽くかみしめていた。

「……どっちも……違うと思うけど……。」

「……では、先生のおっしゃる“あの人”はどんな風に考えるのでしょうか……、知識や記憶はおおむね分かるのですが……いかんせん彼の感情がわからず……。」

 彼女は口をへの字に結んで、厳しい目つきで私をにらんだかと思うと、そのまま僕を捨て去るように目を背ける。

「……やっぱり、君は違うんだよね……」

 こう言って腰を上げた彼女は、石階段の方へ向かう。

「……先生、待ってくださいよ」

 僕は逃げるように立ち去ろうとする彼女の腕をつかんだ。

「先生いつもそうです……僕の“記憶”の話になると……全然話してくれないじゃないですか。先生はあの人と親しい方だったんですよね?それなら……少しぐらい教えてくれたっていいんじゃないですか……?」

 僕の言葉に突き刺さるものがあったのだろうか、彼女は肩をすくめて驚いたが、恐る恐るこちらを振り返えった。

「……しらない。」

 彼女は仮面のような笑顔を僕に向けてこう言ったと思うと、僕の腕を振り払って駆け下りていった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 しばらく石段の上から、東京の街並みを遠望していた。

「先生」を振舞っていたはずの彼女が、急に私を拒絶したのは、いささか理不尽に思えるところがあった。例え、私の“記憶”との間にただならぬ関係があったのだとしても、先生として最後まで振舞っていてほしかったとも思わなくない。

 しかし、不思議と安心するように思えたところもあった。彼女が振り払う直前に見せたあのひきつった笑顔、あれはまさに何か得体のしれないものを隠蔽すべく、彼女なりにひねり出した精いっぱいの「仮面」だったのだろう。そんな彼女を見て、「仮面」の身を借りて生きるのは、私だけではなかったのだと、不思議と身が軽くなる思いがした。


 しかしこの「東京」という街も、こうして目をこらしてみると、実に「仮面」にあふれていることがよくわかる。確かに、わが国のいわゆるエリートと呼ばれる人々がこの街には集まっている。しかしその本質をただしてみよう。ある者は居場所を失った郷里からの逃避としてこの街にやってきたのかもしれない。あるいは、別の者は自らの劣後する性格を郷里の後進を言い訳とすべく、やって来たのかもしれない。いずれにせよ、まるで夜の街灯に引き寄せられる羽虫のように、考えもなく単に光あるところに魅せられたにすぎないような者もまた、この街には少なくないのだろう。そんな羽虫ような田舎者であったとしても、「東京」の面をつければあら不思議、エリートの仲間内に早変わりというわけだ。いずれにせよ、郷里における何らかの劣等感をごまかすにあたり、大変都合の良い仮面が、この街「東京」なのであろう。

 では、こんな愚かな羽虫どもの仮面を、“小刀”をもってはぎ取ってしまおうかと思うのかといえば、そういう気分にもならない。なぜなら、かようにももろくて薄い仮面をつけてなお、必死に生き延びようとする彼らの生きざまもまた、どことなく可哀そうに思えるところがあるからである。結局のところ、彼らには帰る場所などないのである、そうだとすれば「東京」の面にすがらざるを得ないとしても致し方ないのだろう。

 そして、かく言う私もある意味ではその一人である。東京に憧れていた優等生も、東京に固執するしかなかった劣等生も、はたまた仮面に残留していた彼ですら、「自分の本当の姿」というには腑に落ちない点が多すぎる。結局のところ彼らもまた、母や先生と接する上において、便宜がよかった「仮面」に過ぎなかったのであろう。

 そうだとすると、皮肉にも、私にとって一番真の姿に近い「仮面」とは「東京」ということになってしまうのである。なぜならば、この東京という仮面の海に溺れていること、この事実は、いくつもの人格を失おうともゆるぎないからである(あるいは、最もゆるぎなく感じさせるものである)。結局のところ、私もまた「東京」の面にすがるしか、自らを保ち得ないのである。

 小刀のように鋭い秋風が、ひゅうと境内に差し込む。私は、この最後の一枚がはぎ取られてしまわぬよう、しっかりと、しっかりとその面をおさえた。

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