褐赤の縁/六班
褐赤の縁
六班(山﨑陵河・卯月明真・上坂英・白糸台ゆゆこ)
【起】山﨑陵河
「俺、美咲さんに告白したいんだ。」
そう意気込んだ大塚の髪は、校則違反のワックスでべたべただった。
さっさと本人に直接言えばいいのに、なぜ僕にそれを言うのか。東京を襲う連日の猛暑で、僕の疲労はピークだった。こんなところで油を売っている暇はない。僕はこれから東京駅に行くのだ。
「大塚、お前の気持ちはよく分かった。応援してるよ」
僕は彼の肩を叩き、足早にその場を去ろうとした。
「お願いだ白河。美咲さんを俺のところに呼んできてくれないか?彼女、学校のマドンナだからさ。いつも人に囲まれてるだろう。これを逃すと夏休みに入っちまうんだ。お願いだよ」
だから自分で呼べばいいじゃないかと思ったが、大塚はいつも肝心なところで一歩踏み出せない男なのだ。断ったら長くなる。僕はそう確信した。
「ありがとう。頼んだよ! 白河に応援してもらったんだ。美咲さん、今日もかわいかったなぁ。俺、彼女に似合う男になるために、手を抜かないで本気で告白、頑張るよ!」
そう言いながら髪の毛をさらにべたべたにする大塚を背に、僕は土井美咲のもとへ向かった。大塚の髪型はともかく、大塚くらいの高身長の男子は、魅力的に映るだろう。特に土井美咲のような女子にとって、それは重要なことだ。
案の定、彼女は複数の男子生徒と一緒に国語の教科書を広げて、漢字の問題を出しあっている。わかりにくい漢字を前に、彼女は少しつまずきながら答えて、その答えがどうやら周りの笑いを取っているらしい。男子生徒が得意げに正解を教えると、彼女は舌を少し見せて照れ笑いをした。その姿に、みんな見惚れている。
「土井さん、ちょっといいかな」
土井美咲は今気付いたと言わんばかりに振り向き、僕のことを大きな瞳で見つめてきた。石鹸の香りがした。
「白河くん! もちろん、話って何かな」
驚きと照れがうまく混ざり合った女の子みたいな表情だ。周りの好奇の目が痛い。
ちょっと場所変えていいかなと聞くと、彼女はまた驚いた顔をして、すぐに頷いた。
大塚の待つ教室へと歩きながら、
「大塚が、土井さんに大切な話があるみたいなんだ」
そう切り出すと、彼女は固まった。
「大塚くんが? どうして? 白河くんから話があるわけじゃないの」
「僕じゃなくて大塚からなんだ。じゃあ、大塚はそこの教室にいるから僕はこれで。いい夏休みを、土井さん。大塚によろしく」
彼女の揺れる髪の毛は艶やかな黒で、まるで何もしなくてもそういうものであると言いたげだった。手を抜かないということは、そのやる気を隠す段階まで進むことだ。僕は大塚が彼女に追い付いていないのを感じた。
「待って、白河くん。私、白河くんに大切な話があるの」
彼女の目の端は赤くなり、長い睫毛にはいつの間にか水分が含まれている。
僕の目は衝動が肉体を動かすのと、作意が肉体を使うことの間にある差というものに非常に敏感だった。
なお引き留めようとする彼女を後目に僕は駅へ向かい、青色の総武線快速に乗り込んだ。メールボックスにはすでに一通、通知が入っていた。痛みを含んだ温かい何かが胸に走る。
『原敬の場所』
彼女らしいメールだった。高校一年生の夏から二年経った今でも何ら変わっていない。その事実に少しほっとする。返信はしなかった。彼女のことだからきっともうメールは見ていないだろう。
彼女――落合瑞穂は、京都に転校する前の高校一年の夏、僕にこんな言葉を残した。
「自然って媚、あると思う。純情って、純情に価値があると思い込まされているから純情でいられる。自然に振舞ってるけどなぜか人を引きつけてしまう、そういう位置に自分を置こうとしてる」
東京特有の暑さのせいか、溶けて混ざった感情がぶり返す。
僕みたいに生きるなら、光に焼かれた方がまし。二年前、僕にそう言い放った彼女。
その待ち合わせ場所に、僕は急ぐ。
【承】卯月明真
僕は東京駅の丸の内南口にある原首相遭難現場と書かれたプレートに向かってまっすぐ歩く。駅に着くまでの電車ではただ落合のことばかり考えていた。家の都合で引っ越すと言って突然転校してから二年間、僕は彼女のことをときどき思い出した。恋愛感情とは違った、何か特別で不思議な仕方で彼女に惹かれてきた。まるで生まれる前からそうなるはずであったかのように。
僕が落合をかすかに視界に捉えると、彼女はずっと前からそうしているかのようにこちらを見つめていた。久しぶりに会うというのにどこか深刻で不満を抱えたような表情だ。
「久しぶりだな、落……」
「白河! ちょっと来てほしい場所があるの。明日からの私たちの命運がかかった超大事なことだから! ついて来なさい!」
落合は強引に僕の手を引き歩き出した。僕たちの命運とは、いったい何事だ。
「おい落合! どこへ行くんだよ」
「中央線! 奥多摩に行くのよ!」
いったいどんな事情があって二年ぶりに会った友人を挨拶もなしにいきなり奥多摩に連れていくのか。全く意味不明だ。そもそも奥多摩までどれくらい時間がかかるのかも分からない。でもひとつ安心できることがある。それは落合が前と変わっていないということだ。知り合って間もないころから僕は彼女の強引で活発な行動に振り回されてきた。例えば、平日の放課後に美味しい焼き肉の店があるからと言って静岡まで連れられ、終電をなくして朝の電車で急いで戻って次の日学校に行ったことがある。
「よくあなたに夢の話をしたけれど、あれは夢なんかじゃない。別の時代の現実を見ていたのよ。よく話したでしょう。私はコンクリートに囲まれた部屋の中にいて、コンピュータのような機械に見たことのない文字が書いてあってって」
電車内で隣の席に座る落合は斜め下をまっすぐ見つめて真剣な表情で話す。落合の栗色のセミロングの髪は真夏の日差しで輝いている。そういえば彼女は夢で見た話しを僕に語るのが日常だった。
「さっぱり分からないのだが、仮にそうだとしてなぜ奥多摩に行くんだ?」
「決まってるでしょ。奥多摩にあるからよ! 私が頭の中で見ていたものは奥多摩に存在する遺跡だと分かったの。武蔵先生を覚えてるでしょう。先生の研究が私に見えたものの謎を明かす鍵になったの。現地で先生に会うことになっているから、詳しいことはその時にでも話すわ」
落合と初めて知り合ったのは高校入学の時だ。たまたま同じクラスで隣の席になったのだ。落合はどうも他のクラスメイトとは打ち明けていないようだった。彼女は周りと同じになりたくないと言っていた。僕は落合とは真逆で、周りの多数派に合わせるタイプだった。なぜユニークさを追求して周りと打ち解けない落合が反対の性格の僕とばかり話していたのかは謎である。この疑問を彼女に直接尋ねたこともあるが、なんとなくあなたとは話しておくべきな気がする、と答えられるだけだった。
中央線と青梅線を乗り継いで二時間くらい経ち、ようやく終点の奥多摩駅に到着した。高い電車賃を前にICをチャージしてから奥多摩駅を出る。十五分ほど歩くと落合に告げられた。猛暑のせいで道のりは十五分よりもはるか長く感じられる。無言でいるのも辛く感じさせる。
「ここには何度も来てるのか?」
「まだ二度目。この辺は武蔵先生が詳しいからこの後先生に案内してもらうのよ」
住宅が並ぶ路地を抜けてしばらく歩くと、開けた農地に分かりやすくたたずむ古風な一軒屋が見えてきた。定期的に手入れされている様子の綺麗な庭がある豪邸だ。僕たちは庭を貫く石畳を通って玄関に近づく。落合がドアのベルを鳴らす。ジー、という古い感じの音が出るインターホンだ。
カラカラと音を立てながら重厚そうな引き戸が意外と滑らかに開くと、頑強なシューズを履いて帽子を被った武蔵先生が現れた。いつもスーツ姿だった先生が探検家のような恰好をしていて新鮮味がある。武蔵先生は僕らが一年生の時に日本史の担当をしていた。単に高校の教員をやっているだけではなく、個人的に歴史の研究をしていたと聞いている。その研究内容はとても独特で、授業中に独自の歴史的知見を垂れ流すことがしばしばあった。それが一部の保護者から非難されて去年離職していたのだ。前は学校の近くのアパートに住んでいたはずだが、こんな辺鄙なところに移り住んでいたのは驚きだ。
「私の家計は代々地主でね。この家も長い間先祖が所有してきたんだ。二十年前に祖父が死んでから空き家になっていたのを改装して住んでいる」
先生は表情を変えずに堅苦しい様子で話す。体格の良さと厳ついが整った顔立ちは前と変わっていないようだ。
「実は私は奥多摩の歴史を研究していてね。ちょうど私が発見した遺跡が落合君の話すものと一致したんだよ。ここから車でしばらく行ったところに遺跡がある。私の車で案内しよう」
僕らは先生の車で遺跡に向かうことになった。
車を降りた僕たちはハイキングコースのような道を辿って山に入った。途中でコースを外れて道なき道を進んだ。所々に木に印のテープが巻かれていて、迷わないようになっているようだ。
「このテープは先生が巻かれたのですか?」
「そうだ。誰かに気づかれないように最初の一つ目は登山道から遠く設置してある。ちなみに君たちが歩いている下にも遺跡が埋まっている可能性が高い。もうすぐたどり着く遺跡はもっと広い範囲に及ぶ全体のごく一部に過ぎないということだ」
これから行く遺跡とやらが想像以上に規模が大きい気がしてきた。
先生が不意に立ち止まりしゃがんだかと思うと山の斜面の一部をはがし始めた。よく見るとはがしたのは土と草が付いた板のようだ。まるで忍者の技のようにカモフラージュされていた場所には穴が空いている。
「さあ、タイムトラベルの時間だ。落合君は二回目だね。君が来た時から二年が経つが、定期的に私が手入れをしているから状態はいいはずだ。そして白河君、初めて見ることになる君にはこう伝えたい。驚いて倒れないでくれたまえ」
僕たちは窮屈な穴を抜けて中に入った。入り口の狭さとは裏腹に、中は広い。しかも冷房でも入っているのかと思うほど涼しいのだ。
「白河君、何か気づくことはないかね?」
「気温が低いことでしょうか」
「確かにそうだね。だが、これは洞窟のような構造が物理的に可能にしているに過ぎない。他にも似た場所はいくらでもあるし、なんなら人工的に作り出すこともできる。もっと、あるはずのないものがあるだろう? だからこそ我々はこうして顔を見て話すことができる」
僕は少し考えてあることに気づきはっとした。
「そうか、なぜここは明るいのでしょう。まさか電気が通っているわけではあるまいし」
「その通り。この場所は電気がないのに明るい。壁の石が発光しているんだ。これは未知の素材だ。科学的に作り出したのだとしたら大発見だ。しかし、これらは非科学的な何かであると言いたい。この遺跡、いや、この文明には科学的には説明できない技術が存在していたと考えざるを得ないのだ。これから先の他の物を見ると納得いくことと思う」
奥の部屋に進むと、パソコンのキーボードのように文字がついたパネルが部屋の四方についていた。しかし、仮にキーボードのような役割だとしてもディスプレイと思われるものは見当たらない。壁が光って画面になったりするのだろうか。部屋の角に目をやると、仏壇のような装飾に囲まれて肖像画のような額縁が見える。近づいてみると、何と落合の顔ではないか!
「おい、落合! どういうことだ? この絵お前じゃないか」
「そうね。過去に私と同じ人が存在していて、この文明で何か重要な役割を担っていた、だったかしら先生?」
「私の考えではその通りだよ、落合君。君は過去に存在した別の自分の記憶を引き継いでいる。夢の中で見たのはその記憶の一部だろう。そして落合君は今も新たな記憶を受け取り続けている、そうだろう?」
「ええ。私がこの施設を見て以降、新たに分かったことがあります。この部屋の装置の起動に必要な鍵が京都にあることを知り、今回持参してきました」
落合は鞄から手のひらサイズの石の円盤のようなものを取り出した。中心は透明で青く輝いている。先生と落合の話すことはさっぱりだが、もはや理解に努めるのは徒労に思える。そういうものなのだと受け止めておこう。
落合は部屋の壁にあるくぼみに石をはめ込んだ。すると部屋に張り巡らされた文字が電源が入ったかのように青く光りだした。
「この部屋の装置は落合君の能力を拡張させる働きがある。もともと遠い過去から記憶を引き継いでいる落合君はさらに過去と未来を問わず様々な場所を見通すことができる神のような視点を得る。我々はこの部屋に仕組まれた機能の一部しか解明できていない。しかし、落合君は世界の事象にいくらか変化を加えることもできるのではないかと考えている」
「白河。私はあなたに家の都合で引っ越したと伝えたわね。実はあの時からこの施設のことが分かっていたのよ。私は装置の起動に必要なものが京都に隠されたことを知った。京都には私の父の実家があって、そこでさっきの鍵を見つけてきたのよ」
「白河君。なぜ京都に鍵を隠す必要があったのか、これから説明しよう。実は似たような遺跡が近くにもうひとつあるんだ。そこにヒントがある。」
僕たちは落合の遺跡を後にしてもうひとつの遺跡に向かった。
こちらの遺跡もさっきと同じく山の斜面から洞窟のような構造が伸びていた。しかし、大きく異なる点は壁の石などを含む建築全体の材質が普通の石であることだ。仮に先の施設に魔法のような力が働いているとして、こっちにそれと同じ力は備わっていないらしい。
「この施設は落合の施設を模倣して作られたと考えている。建築に使われている素材が劣るせいだろう、こちらは老朽化が進んでいる。部屋の間取りはほどんど同じだ。さあ、奥へ進んでみたまえ」
僕は落合の肖像があったのと同じ間取りの部屋へと足を運ぶ。落合の施設とは違って入り口から漏れる日光以外に明かりがない。僕らは武蔵先生に借りた懐中電灯で辺りを照らす。
部屋に入ると、落合の施設について書かれたと思われるメモがいくつも置いてある。装置の使い方などが図で示してあるように見える。先ほどあったコンピュータのような装置はここにはないようだ。しかし、部屋の奥には同じように肖像が立ててある。懐中電灯で照らしてみると、何と土井美咲ではないか!
「先生! これは……」
「うむ。君のクラスメイトの土井美咲で間違いなかろう。落合君、説明してあげてくれ」
「白河。この部屋に散らかっているメモを見て分かるかしら。この施設はさっき見てきた施設を真似して作られて、その技術も再現しようと試みた場所よ。肖像から分かるように土井美咲はその首謀者ね。この施設が作られた当時は技術を完全に盗み出すことは出来なかったみたい。だけど今の土井はそれを完遂しようとしてる」
「そうなのか。土井は落合側の技術を使って何を企んでいるんだ」
「どうやら土井の先祖の伝説を復活させることらしいわ。武蔵先生」
「そうだね。山の上に廃神社がある。そこから見つかった資料から読み取るに土井家が神社の職を世襲していたらしい。その神社には伝説があって、バラバラになった世界を再びつなぎ合わせると言われているようだ。世界と言うのがどのくらいの範囲を指すのかが分からないが、人々の神社の信仰は厚かったらしい。一番の謎はなぜ今は廃れているのか、だ。それが分かると土井家の企てもより明らかになるかもしれない。ともかく、土井が家の繁栄の再来を目指していることは確かだろう」
「そういえば今日学校が終わった時に土井は僕に何かを伝えようとしていたんだ。僕は落合との待ち合わせに急いだから聞くには及ばなかった。いったい彼女は僕に何を……」
「土井はあなたを利用しようとしているのよ。彼女の周りの人間で一番私と関わりが深いのはあなた。私の情報を聞き出そうとしているんだわ」
「いいか君たち、我々はこれから土井の横暴を阻止すべく全力を尽くさねばならない。しかし、ここまで見てきた事実を簡単に外に漏らすわけにはいかない。混乱を招くだけだ。落合の能力を制御して使おうとするくらいだ、土井が何らかの霊的能力を持っている可能性も充分考えられるだろう」
【転】上坂英
随分とオカルティック且つ戯画的な科白の連続に、只の学生である自分の脳味噌が付いて行ける訳がなく。迫り上がる頭痛は、自身がショートしたコンピュータになったと錯覚させる。いや、違う、このいやに規則的な痺れは。コンピュータはコンピュータでも、外部からのウイルスに蹂躙されているような感覚に、呻きを堪えることもままならず蹲る。先生と落合に揃って名を呼ばれるが、応える余裕さえ与えられない。空間は涼しい筈なのに、背筋には汗が幾筋も伝っていく。自我を攫わんとする電気信号めいた何かに、こめかみを激しく引っ掻いて抗うと、それは少女の声を成していった。
『可能性どころか、もう使ってるよ』
揶揄うような口調の中でも失われない清楚な音は、土井美咲そのものだった。痛みのせいで掠れ切った声でその名を紡ぐと、落合が「土井!? 土井がどうしたの、ねぇ白河!!」と詰め寄ってくる。平時の大人びた振舞いからは想像つかない剣幕には、僕への心配だけでなく困惑が窺える。彼女、及び先生には聞こえていないのだろうか。
「土、井さん……君は、一体」
『何者かって? さっき二人が話してたじゃん』
そうじゃない、と言う前に、『それとも何の能力かってこと?』と笑い交じりに続けられる。思考を読み取られるのはこんなにも気持ち悪いのか。
『自ら種を明かす手品師なんていないでしょう。あぁそうだ、折角君を媒体に仕立て上げたんだからこう伝えてよ…………』
数拍置いて、ふっと頭痛が消える。荒い息を吐く僕の背を、先生の骨ばった手がしかし労わるように摩ってくれる。落ち着いたか見計らっているのだろう、落合が控えめに口を開いた。「土井がテレパシーを?」
それに頷き先生の推理が大方合っていた旨を伝えると、「事情を知らない白河君に仕掛けるとは……君を巻き込むことこそが彼女の目的なのかもしれん」と苦虫を嚙み潰したような顔をした。何か引っかかる言い方だ。落合と顔馴染みである以上に、僕が彼女たちの因縁に関係しているとも取れる。幾ら推察しようが自身に覚えが無い限り、只管もどかしい。
「媒体ということはこちらの話、もとい場所は筒抜けだろう。土井は直に来るぞ」
「下手に喋れませんね」落合は首肯しつつ俺を立たせると、僅かに目を据わらせ、僕のそれを覗き込むようにして言った。「白河、制服脱いで」
先程以上に掠れた声が漏れた。僕だってそれなりに健全な高校生である、一瞬浮つきかけた思考を慌てて引き戻す。その様は落合にはただ固まっているように見えたらしく、学ランの釦を外そうとしてきた。言葉に成りきらない制止を絞り出しながら振り払い、襟元を押さえる。
「何考えてんのよ。幾ら土井だって何も無しに能力は使えないと思ったの。それが証拠に今日君は土井に直接関わった」
そういうことならば先に説明してほしかった。出会った時といい言葉足らずなところが傷だと言ってやりたかったが、倍どころか三倍返しにされるのが関の山だ。大人しく学ランを脱いでちらりと見やると、落合の目は据わったままだ。気まずさにもたつく手付きでシャツも脱ぐと、落合と先生はまたも揃って目を瞠った。これは、と先生が僕の背へ手を伸ばす。瞬間、青白い火花が散り、先生は慌てて指を庇う。今度は何だ、と血の気が失せる。体感温度のジェットコースターに眩暈がしそうだ。
「お、おい僕どうなってんだよ」
震える声にシャッター音が重なる。落合が向けてきた携帯に映る僕の背には、創作物の陰陽師なんかが使っているような人を模した紙が貼り付いていた。それだけでも不気味だったが、よく見ると前合わせの部分に黒い糸が挟まっている。
「これは……髪かしら。霊力の核はこっち、紙は結界ね。君が近付いた隙を突いて服の間から入れ、差し詰め操り人形にするつもりでしょう」
操り人形って。物騒な表現を鸚鵡返しすると、「テレパシーだけであの苦痛、何度も耐えられる?」とまた顔を近付けられる。「痛い目を見たくなければ、と命令を聞くよう洗脳されるかもしれないってことよ。そしたら私たちを妨害するだけじゃなく、君の命が危なくなるのも十分考えられる」
異常事態の連続でも衰えない推理力に舌を巻く。それを為す冷静さは心強いが、今においては超人じみていて怖くもある。
「そんなことには絶対させない、と言いたいところだけど。触れもしないんじゃもうちょっと辛抱してもらうしか無いわ」
だと思ってたよ、だから自分に責任があるような顔をしないでほしい。おっかなびっくり服を着直す僕の背後で、先生が「兎も角、君たちは今すぐ三百年前に飛ぶんだ」と声を挙げる。スケールの大きさに突っ込む間もなく、「先生は、まさか!」と落合が息巻く。
「落合君、土井がここに来るのは止められない。ならばタイムトラベルだけでも阻止しなければ。パーツを持って逃げる役が不可欠なのを、分からない君ではないだろう」
諭されて、彼女はぐっと唇を噛む。何か言いたげにそれを開いて、だがそのまま僕の腕を引っ掴んで踵を返した。
「離さないでよ!!」
それだけ言って、落合は石に手を翳す。岩壁中に脈が巡るように青い光が走り、際限なく広がるそれに視界を焼かれる。思わず目を瞑り、開いた時には、また遺跡に来ていた。いや、よく見ると違う。より岩肌が切り立っており、その分狭く感じる。何だかこの動作ばかりしている気がする、落合に上目遣いを向けると、首肯が返ってきた。信じ難いが、タイムトラベルは成功したらしい。遺跡は十中八九同じものだ、三百年の間に風化したのだろう。安堵と共に、飛んでいた疑念が浮上する。
「お前……というか、昔のお前に当たる人、か。土井……ややこしいな、昔の土井に何かしたのか」
目が見開かれ、何かを覆い隠すように伏せられる。
「さっき、土井がこう言い残してったんだよ」
『先に奪ったのは、あんたたちなんだから』
常とはまた違う、奇麗な声だった。だからこそ身の毛がよだった。
「今から解るわ」
落合は僕の腕を掴み直すと、遺跡の奥へと駆け寄る。が、岩とも鉄ともつかない重厚な扉が、その威圧感を以て阻んでくる。おまけに札がびっしり貼られていて、これも本日幾度目かの悲鳴を喉奥で上げた。隣の落合はといえば臆するどころか、扉に手を当て固く目を瞑る。秀でた頭脳が収まっているだろう広めの額に汗が滲むのを見て、声を掛けるべきか逡巡した刹那。手から波紋が広がるように、札が一枚残らずぐしゃぐしゃと醜い音を立て、朽ちた。落合と扉をむち打ちになるほど交互に見やる内、扉が見かけに違わぬ轟音と共に開き、光が差し込む。仄暗い景色に慣れた目には強過ぎて、眇めたせいで不明瞭だ。瞬きを繰り返すと、光の主が鎖、それも風変わりな星を象ったものであると知れた。六芒星、だったか。その中央に、白装束に身を包んだ少女が背を向けて正座している。その黒髪は艶やかで、白の中に異様に映えていた。どこかぎこちなく振り返った彼女の顔は、
「土井美咲!?」
「正しくは土井の先祖、土井美縁(みよし)よ」
驚嘆を継いだ落合が、僕を庇うようにして対峙する。土井美縁の整った顔が、凄まじく歪んだ。
「土井家は神事を司る血筋の家元で、落合はその分家なの」
「え、じゃあ」
「そう、私も彼女と同じ神子。血縁を違うに従って、武蔵先生の言ったように私たちの能力は大きく異なっていったけど。その上、霊力の大きさじゃ本家には敵わない」
それで僕の呪いを解けなかったのか。そんな状態で元凶と接触して、大丈夫なのだろうか。
「この頃、祈祷によって国の均衡を保つ役目は土井家に託されていたから、その能力は厳重に秘匿されていた。私たち分家にさえも」
僕の理解を待つためだろう、数秒留めて、落合は再び紐解いていく。
「これを怪しんだ落合家は隙間を縫うように情報を集め、土井家は世界を思った通りに塗り替えられるからこそ、その重い役を果たせているのだと仮説を立てる。そして、それは的中した。つまり、土井家にかかれば歴史を無かったことにも出来てしまう。当然危険視した私たちは、彼女たちと対立した」
落合の話は正しいのだろう。それが証拠に、土井美縁が怒声を上げて電流の如き衝撃波を放った。丁度、僕の呪いの結界が発したもののようだ。落合もすかさず薄緑の被膜に見える結界を張ったが、堪え切れず吹き飛ばされた。二人して扉にぶつかり、慌てて後退して岩陰に身を隠す。落合は、聞こえるか聞こえないかくらいの声を紡ぐ。
「争いの最中、土井美縁には気懸りが一つあった。とかく神聖でなければならない土井家は、配偶者も神託によって定められていた。しかし彼女には、密かに心を通わせている者がいた」
ゆるりと僕を見る双眸は、凛とした中に許しを請うような色を滲ませた。
「君の先祖よ、白河」
視界が一瞬白飛びした。ひとりでに口が開いたけれど、声が出てこない。先刻の引っ掛かりが、思わぬ形で更に頭を掻き回してくる。知恵熱が出そうだ。
「若いながらも当主であった美縁は誰よりも狙われ、遂に追い詰められた。そこに割って入ったのが、君の先祖だった。平民であった彼が霊力に打ち勝てる訳もなく、程なくして亡くなった。その怒りや悲しみ、綯い交ぜになった感情を抑えきれず美縁はここに閉じ籠もり、『彼を喪わない世界』に書き換えてしまった。邪魔者になる落合家は、そもそも存在を無かったものにされたの」
ここに閉じ籠もった。ということは、書き換えの儀式の最中に来たのか。自身へ降りかかった思わぬ因縁に驚き冷めやらぬ中、それでも疑問がまだ一つ。それなら、何で落合はここに――。土井よろしく思考を見透かしたように、彼女は「タイムトラベルが二度目、と言ったでしょう」と確かめてくる。
「一度目は、三百年前から現代に来た。私は落合家の一員として、争いに参加していたの。美縁が大人しく籠っている筈が無いと、私たちは能力によって未来へ逃げようとした。けれど、その瞬間に儀式が成立してしまい、私以外は皆飲み込まれてしまった。無我夢中で、自分がどれほど先の世に来たのかも分からず憔悴しきった私を見つけてくれたのは、武蔵先生だった」
「じゃ、あ。あの肖像画は、落合自身……?」
「そうよ。貴重な研究対象として私を信じてくれた武蔵先生と共に、遺跡を造り直すことにした。美縁の儀式を阻止し、落合家を遺す為に。その間、私は現代の学生として過ごしつつ、美咲及び白河の存在を確認した。美咲が家に遺された書物により、私たちの所業を知ったことも。先生の説明が一部食い違ってたのは、私を現代人として扱っていたからよ」
解ったでしょう、と念を押されるが、謎がまだ一つ。
「土井家がいた筈の神社が廃れていたのはどうしてだ。今の話の流れで行けば、廃れることは無いだろう。それに美咲が復興を目論む必要性だって」
「二度も『白河』を奪われたくないからよ!!」
清らかな音、だがテレパシーではなかった。鼓動が五月蠅い。振り返ると、美縁にそっくりな、しかし制服姿の少女が在った。その気迫は少女のものと思えなかったが。
「土井、美咲」
「それじゃあ、先生は」
「白河を喪ってから、我が家は散々なものだった。その恨み、晴らせてもらう!」
遺跡に反響する宣告に、美縁が気付いたようだ。迫る足音が示すのは、板挟み、万事休す。その時、場にそぐわない電子音が二人の土井の動きを止めた。電波など無い筈の空間で、しかし僕の携帯の液晶は確かに光っている。『大塚』という白文字を浮かばせて。
【結】白糸台ゆゆこ
それは一瞬の隙だった。
それまで空間を支配していた憎悪と敵意は奇妙な沈黙に溶け、代わりにかん高い電子音が薄暗い空間に反響していた。
僕は手元の携帯に表示された友人の名前に拍子抜けしつつ、ひと呼吸遅れて辺りを見回した。
開け放たれた扉の間、先ほどまで憎しみの炎を双眸に灯していた土井美咲は、僕の手元で光る液晶に向かって訝るような目線を送っていた。殺意と共にこちらに迫ろうとしていた身体は、見えない壁に阻まれたように動きを止めていた。
輝く星の中心に立つ三百年前の土井――白に身を包んだ少女、土井美縁――は美しく整った顔を必死の怒りに歪め、儀式を中断された焦りからか、荒い呼吸に肩を揺らしていた。しかし、その獣めいた、ギラギラした眼光は土井美咲と同じく、おそらく彼女がはじめて目にするだろう、奇妙な音を発する板に向けられていた。
二人は視線こそ外れていたが、いつでも落合に攻撃を仕掛けられるという余裕を感じさせた。しかし、この一瞬においては、圧倒するような殺意も突き刺すような敵意もその対象を失っていた。
そして落合瑞穂。逆巻くような憎悪と執着のうねりが途切れた一瞬の凪の中、彼女だけが敵の存在を忘れまいと、二人の土井を警戒していた。軽快なリズムを刻む電子音が場を弛緩させる一方で、呼吸音すら聞き逃さないという緊張を全身に巡らせながら。
だからはじめに動いたのは、当然――
電子音が二度目のループに入ったとき、彼女はごつごつした地面を蹴り上げ、猛然と飛び掛かった。が、落合が向かった先は美咲でも美縁でもなかった。
落合は、地面に膝をついた僕に向かって飛び込んできた。
数歩空いていたスペースはひと息の間に詰められ、彼女は僕の襟首をつかむと、その勢いのままに身体にのしかかってきた。携帯は僕の手から弾け飛び、どこかの岩肌にぶつかると、電子音はぷつりと途切れた。
視界はぐるっとひっくり返り、気が付くと僕は硬い岩のような地面に押し付けられていた。何が起きたかを考えようとしたが、背中に鈍い痛みを感じて思考がリセットされる。強烈な打撃は僕の背中を通して内臓を圧迫——苦痛から呻きが漏れた。
突如、狭く暗い空間に二つの怒声が響く。かん高い悲鳴にも似た敵意の叫び。唸る猛獣のような殺意の慟哭。視界の半分が地面に遮られていても、その声は間違いなく僕の背中の落合に向かって発せられているのがわかる——次いで二人からにじり寄るような圧力。
今まさに二人から攻撃が繰り出されようとする瞬間――またしても先に行動を起こしたのは――
「動くな」
冷徹な、しかし威圧を含んだ呟きが小さく響く。そして僕の背中には、彼女の声と同じくらい冷たい何かが、突き付けられるように触れていた。
視界の外から向けられる怒気と圧力が、さっと波が引くように静まり返った。
「土井、といっても二人いるな。まあどちらでもいいか」落合は余裕を感じさせる語調で彼女たちに話をはじめた。
「見ての通り、お前たちの大事な白河は私の手の内にあるわけだが……どうだい? 少しばかり冷静になって話し合う気はないかな」
落合が発したとは思えない、別人のような声に、僕は胸がびくりと跳ねるのを感じた。人格が一瞬で変化した――あるいは、元の気質に戻った、というのが適切なのだろうか。いずれにせよ、僕の中にある彼女のイメージと、現実の彼女の言動には大きな隔たりがあった。
「離れろ! 白河に手を出すな!」土井美咲は吠えるように叫んだ。しかしその強い言葉の端々には動揺の色があった。
「いいね、いくらか話ができるようになったな。そっちはどうだ?」落合は美縁に水を向けた。
「貴様は落合家の者か。血に汚れた一族の哀れな娘よ」
「その通りさ。落合家は汚れているんだよ。お国のため、代々継承される呪術でもって血の海を築いた。拷問、殺人、誘拐、なんでもやった。綺麗な血が流れている土井家の方々とは存在理由が違う」
「なら、どうしてその血を超えようとは思わないの」
「血は選べない。生まれた瞬間、同時に死ぬ理由まで定められる。力を持つ者の宿命だ」
そのとき、脳裏にある風景が浮かんだ。
学校の教室。カーテン越しに陽光を浴びた落合が笑みを浮かべて僕の方を見ている。
『キミみたいに生きるなら、光に焼かれた方がまし』
急にそんな過去が蘇り、一瞬のちに残像と化した。
「私達は血に刻まれた呪いを解放した! あなたもきっと――」
「話し合いを中断しようか」落合は美縁の言葉を切って捨てるように遮ると、僕の背中に突き付けた何かに力を込めた。
焼けつくような痛みが背中からその内部にかけて広がる。苛烈な痛みが一瞬遅れて全身に伝わり、不随意的に喉から叫びを捻り出す。
身体がびくりと跳ね、涙が頬を伝っていた。
二人の土井が再び叫んだ。
「たった一人の雄のために歴史を書き換えた馬鹿な女とその末裔でも、この場で彼の生殺与奪の権を誰が握っているか、それくらいは明白だと思っていたけど」
落合は僕の身体から得物をさっと引いて抜いた。痛みが電流のように走り、僕は情けない声をあげてしまった。
「次は眼を抉る」落合は流れ作業の工程を説明するみたいに、淡々とした調子で次の攻撃を予告した。そして僕の視界に切っ先のとがった短刀が姿を現した。その先端には、僕の血と思われる、赤くぬらぬらした液体が滴っていた。
生々しい体液を目の前にして、僕は不思議なことに落ち着きを取り戻していた。
僕はいつのまにか状況の中心にいて、事態を左右する重要な役割を与えられている。土井たちは僕——というか僕の先祖に当たる白河氏――のために歴史改変を行い、落合はそれを妨害するため、二度も時間を遡ってこの場に――歴史改変のまさにその時に——たどりついた。
「恋は盲目というが、そのために想い人の眼が潰れてしまってはあまりにも皮肉に過ぎる」
「外道め」土井美縁が吐き捨てるようにいう。
「恋人を二度死なせたいのか?」落合の放った言葉には嘲笑が含まれていた。
そのとき、門の間で立ち止まっていた土井美咲から、熱気のような殺意を感じた。僕の全身がそれを知覚した瞬間、彼女は獲物に飛び掛かる獣のように、数メートルの空間を飛び越えてきた。
僕の眼前に、美咲の怒りに満ちた顔が迫ってくる。僕は、この表情を観れば大塚の恋心はたちまちに霧散してしまうだろうな、なんてことを考えた。
彼女は僕の背に乗った落合に到達した――と思った、が。
「結界の力がなければこの程度か。お前の一族は殺しに向いていない」
僕の頭上で何が起きているのか。背中の痛みに耐えながら首を後ろに回す。
美咲は右手を落合の顔へ伸ばしながら、空中で静止していた。まるで見えない糸に操作されたマリオネットのように、彼女は苦悶に顔を歪めながら宙に縛られていた。
「土井美咲」落合が見下すようにいう。
「思えば、お前は必要なかったな」落合は不敵な笑みを浮かべてそういうと、身動きの取れなくなった彼女の額に、とん、と指で触れた。
「あの世で白河と幸せにな」
「やめろ!」美縁が叫んだ。
それは土井美咲の身体に一瞬で起きたことだった。
彼女の華奢で長い四肢の至る所が――右の二の腕が、左足の大腿が、下腹部が、眼球が――バルーンのように膨れ上がった。彼女の身体は瞬く間に球体に形を変えていった。
両腕は巨大化した肉の狭間に埋まり、綺麗な顔は血管の浮き出た瘤の一つに成り果てた。赤黒い肉の塊と化した学校のマドンナは宙に浮いた風船のようだった。そして、ぱんぱんに膨張した風船と同じ結末を辿ることになる――つまり――
破裂――彼女の身体のどこかが限界を迎えたのだろう。ぱんっ、と高い音を立てると、辺り一面に滝のような血飛沫が吹き散らされた。
すぐ近くにいた僕と落合は真っ先にその赤を浴びた。粘性を帯びた彼女の体液、細切れになった筋肉、へし折られた肋骨が、主体を失った彼女のパーツが僕の身体に付着していた。
地獄のような光景の中心にいながら、僕はそれでも正気を保っていた。というか、いつの間にか、何を見ても何も感じないようになっていた。それは一種の防衛本能だったのだろうか。狂気を呼び起こすような状況の中心にあっても、僕はそれを他人事のように眺めていた。
「道は二つに分かれている」僕と同じく血まみれになった落合が、その風貌が彼女の常態であるかのように、堂々と美縁に向き直った。
「お前の恋人が肉の球になって弾け飛ぶ様を見るか。あるいは、血のさだめを受け入れて歴史を元に戻すか」
「貴様の要求を受け入れるなら、どちらにしろ白河は死ぬ。そこの白河の子孫は歴史の改変によって生まれた子だろう。元の道をたどれば生まれるはずのなかった子だ。歴史の修正力が働けば、彼はきっと時間の渦に取り込まれ、永遠に時間の狭間でさまようことになる」
「そう、つまりそういうことだ。お前は自分の役割を放棄した報いを受けることになる。お前の望んだ恋人の死という形で」
「しかし、先ほどいった通り道は二つある。恋人が残酷な死を迎えるか、時間の無間地獄で死を迎えるか」
「同じことだ」怒気を含んだ声だった。
「いいや違う。道は大きく逸れ、全く意味の異なる結果に行き着く」
落合は自分こそが場を支配しているという風で美縁に言い放つ。
美縁は奥歯を噛みしめながらも、状況を落合に握られているという事実を受け入れるほかなかった。
「死は、目の前で起きるからこそ死といえる。我々が痛み、苦しむ他者の死は、その死が目の前で達成されることによってのみ生まれる」
「戯言を。眼前の死も、風聞で伝え聞く死も差はない。それが想い人なら一切の違いはない」
「美縁。お前は人の死にあまりにも疎いな」落合は含み笑いをした。
「殺しが生業の落合家が、死を熟知しているとでも?」
「匂いだよ」
全く予想していなかった答えだったのか、美縁は口を開くことができなかった。
「本物の死には匂いが付きまとう。焼け焦げた肉の匂い、腐敗した内臓の匂い、伝聞の死には決して伴わない匂いがある」落合は眼をつむり、天を仰いだ。「そして刻まれるのさ、全ての死が記憶にね」
「それで脅迫しているつもりか」
「いいや。選択権はあくまでお前にある。彼の死に何を望むか。お前が決めろ」
選択権。そのワードには聞き覚えがあった。それも、落合がかつていい放った言葉だった。
再び、脳裏に風景が蘇った。
ある夏の日の教室。風になびくカーテン越しに落合が微笑む。
『キミは、どうして何も選ばないの?』
僕は何も答えない。
『キミにはどんな道だって選ぶ自由が、選択権があるのに、どうしてそんな風に黙って立ち止まっているの?』
僕は彼女から顔を背ける。その問いの答えは持ち合わせていないと暗に示すように。
『私には選ぶ道がないんだ。だから』
彼女は呆れたように呟いた。
『キミみたいに生きるなら、光に焼かれた方がまし』
夏の風景は残像と消え、悪臭の立ち込める穴倉に立ち返る。
彼女たちは相対していた。
一人は血の定めを諦観でもって受け入れ、歴史の修正を望む。
一人は血の運命を否定し、恋人のために歴史を改変した。
彼女たちはいずれも道に踏み入った者たちだった。
思えば、僕の前には多岐にわたる道が伸びていた。選択を繰り返すことで道の分岐は増し、初めの一歩を踏み出す時点では想像もしなかった結果にたどりつく。道とはそういうものだ。それでも、僕にはその選択することも、道に踏み出す事すらできなかった。
僕には進む理由も目的もなかったからだ。
僕は生きるために生きていた。ただそれだけだった。
気が付くと、背中の痛みが軽くなっていた。焼けつくような痛みは小さな疼きに変わり、内臓を圧迫する鈍痛はすっかり消えていた。
それが僕の背に刻まれた結界の――落合に傷つけられた結界の――力なのだろうか。
ふと、美縁の方を見やった。
彼女はただじっと地面を見ていた。じっと、僕の方にある地面の一点を。
そこには、血に濡れた短刀があった。
再び美縁に目をやると、彼女は決意を込めた眼差しを僕に向けていた。
「お前が決めろ」
落合の声が暗く淀んだ空間に小さく響いた。
――了