迫る終末といつも通りの日々/志水ショウ
迫る終末といつも通りの日々
志水ショウ
ピピピピッという高い電子音が部屋中に響く。俺は意識を半ば覚醒させるとスイッチを押し、その音を止めた。
まだ眠りたいと訴える身体を強引に動かしベッドから出ると、完全に目覚めるために窓のシャッターを開けた。
ゴウ、という音と共に強風が部屋へと侵入する。少し驚いたが、この風は俺の意識にかかる靄も吹き飛ばしてくれた。ありがたい。
スッキリとした目で空を見る。空は分厚い黒雲に覆われ、その切れ目からはオレンジ色の光が漏れ出していた。
この奇怪な空模様には原因がある。小惑星が、地球のすぐそばまで迫っているためだ。この天体は明日にでも地球と衝突し、甚大な、いや、言葉では到底言い表せないほどの被害をもたらすと言われている。
そう、明日、世界は滅亡するのだ。
この小惑星が発見されたのは、わずか一週間前のことだ。
いくらなんでも発見が遅すぎる、と言いたいところだが、過去にも「小惑星が地球に極めて接近。発見されたのは接近の五日前で、その上発見者は天文学者でもNASAの科学者でもなくアメリカの大学生」なんてことがあったらしいので、天文学者たちを責めても仕方ないような気もする。第一、いくら彼らを糾弾したところで小惑星の激突を回避できるわけでもない。
まあそれはそれとして、「あと八日で地球が滅亡する」というニュースは全世界に大きな衝撃を与えた。
人々はパニックに陥り、様々なところで暴動が起こった。
しかし、それは最初の二~三日の間だけだった。どこでかはわからないが「滅びは不可避でどうしようもないものだから騒ぐだけ無駄、残りの日は平穏・平和に楽しく過ごそう」という風潮ができ、それが世界中に広がったのだ。
特に日本では、(無駄に)和や規律を守ることを重んじる国民性と風潮がマッチしていたのか、その広まりが早かった。
兎にも角にも、こうして世界は平穏を取り戻した。
だから、支度を終えて家を出た俺の目の前に広がっているのも、黒とオレンジのおどろおどろしい空模様を除けば、いつもの見慣れた街の風景なのだった。
さて、俺がどこへ向かっているかというと……大学だ。地球滅亡の前日に大学に通う。我ながらなんとも馬鹿らしい。
しかしなぜこんな時に大学がやっているのかというと、「万に一つの確率で世界は滅びないかもしれないから」だそうだ。
そんな〇・〇一パーセントほどのわずかな可能性に賭けないでくれ、と文句の一つでも言いたくなるが、やっているものはやってしまっているのだから仕方ない。一大学生にこの決定をひっくり返す力などありはしないのだ。
とはいえ実際問題単位はキツイし、それに、この実質地球最後の日に心の底からやりたいと思えることが、俺には存在しなかった。
駅に着いた。ホームで数分待つと、ダイヤを遵守して電車が来たので、乗り込む。
電車はやはり定刻通りに大学の最寄り駅に到着した。
こうしてあまりにもいつも通りに俺の生活が回っているのを感じると、明日世界が滅亡するのだという感覚が薄れてくる。そしてそんなことを考えた自分に、俺は心底落胆した。
小惑星発見及び八日後の地球滅亡のニュースを知ったとき、俺は驚き、困惑し――そして興奮した。だって「接近する小惑星、迫る地球滅亡へのタイムリミット」なんてまるで、小説か映画のストーリーみたいじゃないか。
今までの俺の人生は、お世辞にも面白いとは言えないようなものだった。それが、突然非日常的な、フィクション的な展開に放り込まれたのだ。気分も高揚しようというものである。
流石に「地球への小惑星落下を食い止めるヒーロー」なんかにはなれないだろうが、何かドラマティックなことの一つや二つ、俺の身に起こってもおかしくはないと期待した。
しかし、地球を破壊せんとする小惑星は、俺の日常を破壊することはしなかった。むしろ破壊されたのは俺の期待だった。前述したように「風潮」のせいで(おかげで)世界は平穏そのものだし、平穏の中にドラマティックの介在する余地はなかったのだ。
それでも俺は信じたかった。いつか、この退屈な日常を破壊してくれる「何か」が起きることを。
だが、その希望をも捨て去ろうとする自分がいるのもまた事実だった。先の瞬間、俺はそのことに気づき、落胆したのだった。
俺は一つため息を吐くと、改札を抜け、駅から出た。
大学の敷地内は閑散としていた。まあ小惑星発見のニュース以降、閑散としていなかった日はないのだが。
教室に向かい歩いていると、不意に後ろから呼び止められた。
「よお! 谷川」
振り向くと、一八〇センチメートル代後半の高い背をした、よく見た顔があった。
「……広田、お前かよ」
俺はわざと必要以上に顔を歪めて応答した。
今俺に話しかけてきた広田という男とは、高校が一緒だった。また、三年生の時に同じクラスになったこともあってか、向こうは俺のことを見かけると声をかけてくるのだった。
しかし、俺は彼のことが好きではなかった。むしろ嫌いだった。
広田は明るい性格で、皆でワイワイやるのが好きな人種だ。それだけならいいのだが、広田はその「皆でワイワイ」の中に俺を入れようとしてくるのだ。俺は賑やかなノリがどうにも苦手なので、彼のこの行動ははっきり言って迷惑だった。今声をかけてきたのさえ、鬱陶しく思っている。正直、広田とは関わりたくなかった。
俺は広田に背を向けると、教室へと急ごうとした。が、明るい長身野郎は俺を再び呼び止めた。
「待ってくれよ。そんな嫌な顔して逃げなくたっていいじゃんか。授業まではまだ時間あんだし」
これには少々驚いた。彼が去ろうとする俺を引き留めたのは初めてのことだったからだ。
「どうしたんだよ広田。悪いものでも食べたか?」
「いや、さ。こうしてお前と会うのも最後なんだなーって思ってさ。なんかこう……感慨深い? っていうかなんていうか……」
最後。言われて気づいた。そう、最後なのだ。どんなに好きな奴でも嫌いな奴でも、明日になれば二度と会うことはできなくなる。
最後の一回くらい、広田とちゃんと話をしてもいいかもしれない。俺はそう思った。
「……悪かったな、今までちゃんと話しなくて」
俺は広田に詫びた。
「いいよ、別に。明日で世界は終わりなんだぜ? それくらい水に流さなくてどうすんだよ」
「そうか、悪い……」
「なあ、谷川はどうして今日ここに来たんだ?」
「なんでって、特にやりたいこともなかったし……」
言いかけたところで、疑問が生じた。俺はともかく、なぜ広田が大学に来ているのだろう。
実に勝手な想像だが、広田のような人間は、今日この日に取りうる選択肢としての「大学に行く」という行動とは最も縁遠い存在だと思っていた。
今の広田が一人でいるのも気になった。これまで俺が広田の姿を見るとき、決まって彼は彼の友達であろう誰かと一緒にいたからだ。
「お前こそ、どうして大学来たんだよ。お前なら他にもあっただろ? 友達と遊ぶとか、彼女と過ごすとか」
俺が訊き返すと、広田は少し落ち込んだような表情になって、言った。
「……いなかったんだよ。今日、一緒に過ごしてくれる奴。皆、他の友達と過ごしたかったり彼女と一緒にいたかったりでさ。あと、俺は彼女いねーぞ」
広田は近くにあった椅子に腰かけると、続けた。
「自分で言うのもなんだけどさ、俺、人より友達多い方だと思ってたんだよね。でもいざこういうときになったら、皆俺よりも大事なものがあってさ。ああ、俺なんてこの程度だったんだな、って。こうなるかもしれないとは薄々思ってたけどよ……やっぱ、ヘコむよな」
広田の話を聞いて俺は、羨ましい、と思ってしまった。彼に起きたことは、友達を持つ者だけに起こりうる事象だったからだ。
俺には胸を張って「友達」と呼べる間柄の者がいなかった。多少話をするような奴は何人かいるものの、友達かと言われると怪しいところだった。
俺には、広田の気持ちがわからなかった。
「……なあ、やっぱ谷川ってさ、友達、いねえの?」
広田が再び俺に問うてきた。そうだと言い切れる奴はいない、と答えると彼は重ねて訊いてきた。
「じゃあ、一番仲がいいって思う奴は? それならいるだろ?」
俺は、ある人物の名前を思い浮かべていた。小澤。しかし彼は、俺のクラスメイトでも、ましてや俺が通う大学の学生でもなかった。
俺が小澤と知り合ったのは今から二年ほど前、SNSの中でのことだった。初めは多少挨拶を交わす程度だったが、次第に会話することが多くなっていった。
俺と小澤は同い年であったが、彼は俺よりもずっと深い知見を得ており、なおかつ、しっかりとした「自分の考え」を持っているようだった。
彼は小説と映画が大好きで、小さい頃からよく本を読み、映画を観ていたというから、その影響なのかもしれない。
俺も小説と映画はそれなりに嗜んできた方だとは思っていたが、小澤と比べれば全然だった。
言ってしまうと、俺は小澤に対して、憧れのようなものを感じていた。豊富な知識に確固とした自分の軸。彼のような人間になりたいと、今でも思う。
だからだろうか、小澤のことを「友達」と呼ぶのはなんとなく躊躇われた。しかし、俺が最も「仲がいい」と思えるのは、間違いなく彼だった。
「小澤って奴かな。ネットの知り合いで実際に会ったのは一回だけなんだけどな」
すると広田は、驚くべきことを言いだした。
「谷川、そいつに連絡してみないか? これから会えないか、ってさ」
この世の最後に、自分が憧れとする男と会う。確かに、魅力的な提案ではあった。しかしそれは、実現するのがはばかられる提案でもあった。
「いや、流石にまずいんじゃないか? だって、あいつも、小澤もやってると思うんだ。あいつ自身の『やりたいこと』を」
それに、連絡したところでどうせ断られるだろう、と俺は考えていた。
だってそうだろう。片や世界最後の日に自分がやりたいこと。片や仲がいいとはいえたかがネットの知り合い。どちらを取るかの答えは明白だ。
そんな俺の考えを見透かしたかのように、広田が言った。
「断られるかも、って思ってんだろうけどさ、いいじゃんか、駄目元で。だって、明日で世界は終わりなんだぜ? 失敗したって、ちょっとくらい迷惑かけたって、失うものはないんだからさ!」
この言葉に、俺は強く背中を押された。
俺はスマホでSNSのアプリを起動し、これから会いたいという旨を小澤に伝えた。
驚いたことに、返事はすぐに来た。
『わかった。一時三〇分に上野の西郷像の前で待ち合わせでいい?』
俺はすぐさま、それでいいと返した。
「どうだ? うまくいったのか?」
軽く興奮した様子の俺を見て広田が声をかける。俺は頷いた。
「ありがとう。広田お前……いい奴だったんだな」
「まさかお前からそう言われるなんてな。どういたしまして!」
約束の一時半は、講義が終わってから移動すればちょうどいい時間だった。
俺は講義を受けるために教室へ急いだ。
一時二五分。若干の余裕を持って上野公園の西郷隆盛像の前に着くと、そこには黒のシャツを着て眼鏡をかけた男の姿があった。かつて一度会ったきりだが、その顔は忘れていない。小澤だ。
俺と小澤は上野公園の中をぶらつき、どこか腰を落ち着けられる場所を探した。十分ほど歩くとベンチがあったので、そこに揃って腰かけた。
少し間があった後、小澤が口を開いた。
「谷川。谷川は、なんで僕を呼んだの?」
「なんだろう。やっぱりお前が、『凄い奴』だから……かな。色んなことに詳しいし、ちゃんと自分の考えっていうのを持ってるし。そうだ、それに小説も凄く面白いしな」
小澤は大学で文芸部と映画研究会に所属しているそうだが、去年小澤と会ったときに彼の書いた小説を見せてもらったことがある。SFものだったが、大変面白かったのをよく覚えている。
そしてこのことをきっかけに、俺は小説を書きたいと思うようになった。だが、どうにも時間が取れなかったりアイデアが浮かばなかったりで、結局これまでに作品を書いたことは、ない。
「お世辞じゃなくて、本当に凄いと思う。いつか俺もお前みたいになりたい、って思うくらいには」
「なれるよ。多分ね」
サラリと言われた言葉に俺は面食らった。小澤は言葉を続けた。
「僕が思うに、僕と君の一番初めの条件……スタートラインはほぼ一緒だったんだ。でも、差が付いた。それは――」
「――動くか、動かなかったか、だよな?」
小澤は首肯した。
「わかってるじゃん」
そう、俺だってわかってはいるのだ。小澤が『凄い奴』であるのは、そうなるように彼自身がこれまでに動いてきたからだと。対して、俺は動かず、そういった努力を怠ってきたということを。地球最後の一種間になっても無慈悲に俺に流れ続けた退屈な日常は、きっと俺への罰だったのだろう。
「結局小説も書かなかったよな、君。僕結構楽しみだったんだぜ?」
「ごめん……」
そして、「動く」ための時間はもうない。
「まあでも、希望くらいは持っていいんじゃないか? 君が『動く』ための時間はまだあるっていう希望」
「それは……明日地球が滅びないってことか?」
「そうなる可能性は否定できないよ。小惑星が激突したとしても、君が死なない可能性だってある」
俺が死なない可能性。俺が「動ける」可能性。
「万に一つの確率で世界は滅びないかもしれないから」として俺の大学はやっていた。俺も、〇・〇一パーセントに賭けてもいいのかもしれない。
このままの自分では駄目なことは、俺自身が一番よくわかっているのだから。
「なあ小澤。明日になってももし俺が生きていたら……小説を書くよ。お前のみたいに面白くないかもしれないけど、絶対に書く。そのときは、読んでくれるか?」
俺の憧れは頷き、そして、笑った。
「ああ、もちろん」
日暮れまで小澤と共に過ごした後、俺は自宅に帰ってきた。あれから上野公園の中を色々と歩いて回ったためか、身体はもう疲れ切っていた。
ベッドに大の字に寝転がる。このまま眠ってしまおう、と思った。眠った状態でなら、地球が滅んだときに楽に死ねるだろうからだ。
俺は目を閉じた。
そのとき少しだけ、明日になっても地球が無事であればいいな、と思った。
俺はベッドの上で目を覚ました。目覚まし時計の時刻は、午後十二時二八分を示している。
まさか、と思いテレビの電源を入れる。
映し出されたのはニュース番組。報道されている内容は、「小惑星が奇跡的に地球との衝突を回避し、通り抜けた」というものだった。
どうやら俺たちは〇・〇一パーセント、いや、それ以下の確率を引き当てることに成功したらしい。
俺が安堵していると、突然、頭に閃くものがあった。
それは、小説のアイデアだった。地球滅亡の前日に退屈な日常を送る男が、ほんの少しだけ前進・成長する話。
これが面白くなるかどうかはまだわからない。それでも、やってみようと思えた。
「よし、やるぞ」
俺は小さく呟くと、小澤との約束を果たすべく、ノートパソコンの電源を入れた。