【現代文化1】展望のためのノート*新海誠を巡る問題体系/石原劉生

【現代文化1】展望のためのノート*新海誠を巡る問題体系 
石原劉生


【哲学者の千葉雅也曰く

「90年代までは、文化のデータベースをつくっていく時代で、まだまだコード(筆者注:お約束/常識)の外に新しいものがあると期待することができました。しかし2000年代を経て、あらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大体の物事はパターンの組み合わせだと見切りがついてしまった。そういうわけで、脱コード化して新しいものを求める活力がなくなってしまった」(THINK ABOUT 2018.11.28インタビューより)。

「外側」を失った私たちの複雑な世界は現在、性急にculture――英語源による所の、精神的土壌を「耕す」ということ――を遠ざけ、civilizationつまり物質的土壌ばかりを膨張させている。その弊害については割愛しよう。
しかし、なおも氾濫し続けている「娯楽文化」。私たちは未だその想像力たちをメタに捉える言葉を十分に持ち合わせていない。

 様々なジャンルを含めた国内の「現代サブカルチャー」を俯瞰する時、3年前、2016年は国内アニメーション史における「転換点」として位置付けることができる、という声が多い。先に述べれば、それを根拠づける高い評価を受けた主な作品群として「君の名は。」(新海誠)・「シン・ゴジラ」(庵野秀明)・「この世界の片隅に」(片渕須直)・「聲の形」(山田尚子)が挙げられる。特に「君の名は。」はこの中で最も市場を刺激した作品であり、批評界で、そこへの面白い反応が見られた。

「外側」を喪失した、もしくは喪失し続けている現在の世界ではどのようにcultivated/耕されているのだろうか。

 さてこの「ノート」の冒頭では、サブカルチャー分析のうちの「アニメ」に的を絞る。今では著名人となった新海のあの達成から見ることができる「転換点としての2016年」を投射し、「現在」につなぐために状況を整理し、紹介してみるとしよう。「君の名は。」はなんとなくであるが、新海作品の履歴にかかわらず、かなり「ミーハー」な感のある作品だ。しかしあの大衆的支持に内在しているものは何か、というところに論点が浮上する。このような視点を第一の切り口として展開したい。】


 今年の夏に新海誠の新作「天気の子」が公開されるらしい。国内アニメ・シーンから宮崎駿、高畑勲などを筆頭とした巨匠たちが徐々に撤退していく中、新海は今や現代サブカルチャーの代表的作家の一人として称しても良いクリエイターだろう。これに関連して、彼の現在の作品状況を整理するため、私が注目した彼の出世を決定的なものとした「君(*1)の名は。」に反応した批評家たちの意見を参照してみたい。


*1 東京に住む男子高校生立花瀧と岐阜に住む女子高校生宮水三葉の身体がいつの間にか入れ替わる。この超常現象がやがて大規模な厄災と結びつき、二人は協力していくことになると同時に心を通わせ合う。――新海誠の映画作品としては6作目。新海個人にとどまらず、国内アニメーション史に残る興行成績を残した。

 プロデューサーに「電車男」・「モテキ」・「バケモノの子」などの企画、著作としては「世界から猫が消えたなら」などで知られるやり手作家・映画プロデューサーの川村元気が添えられているところは、着目すべき点としてあげるべきだろう。新海特有の文芸表現やフェチズム(本作だとヒロインが口噛み酒を行うシーンに見受けられる)を水で薄め、エンタメ性を大胆に新海映画に注入した川村の判断が、あの成功に結びつけたと思われる。


 まず、端的かつシンプルな同作の批評として荻(*2)上チキの分析が挙げられるだろう。


*2 81年生まれ。批評家・編集者・TBSラジオ「荻上チキ・Session22」パーソナリティ。早大文化構想学部で講師経験。大学在学中から00年代のブログ・ブームに乗じ、名をあげる。のちに脱サラし、現在に至る。批評家の宇野常寛などとともにネット発独立型メディアの本格的な形成の中核を担った。特に近年では名古屋大准教授の内田良らとともに「ブラック部活動」問題・「いじめ問題」における既成教育界の対応不全を告発するなどのジャーナリズム仕事が目立つ。かなりの早口だが不思議と耳に馴染む滑舌と声の持ち主である。 

『男女の身体が入れ替わる古典的なモチーフに、もうひとひねりSF要素を加えることで「主人公が、それまで無関心だった『被災地』への想像力を獲得する物語」となっています。この点で『シン・ゴジラ』同様「3.11以降の映画」として位置付けることができます。』
東京新聞2016年9月30日・紙つぶて


 この指摘の通り「シ(*3)ン・ゴジラ」と「君の名は。」の物語の機転となるモチーフは「震災」である。前者は東京を襲うゴジラが「震災」で、後者はヒロインの故郷岐阜の田舎を襲おうとする隕石が「震災」だ。この「震災」とは3.11――これらの公開より5年前の2011年に国内のメディアを斡旋した東日本大震災による破壊イメージの比喩としてみることが可能だ、ということだ。



*3 東京湾に巨大生物の影を見た内閣官房副長官矢口、対策本部が立てられ自衛隊が出動するも不測の事態が立て続けに起こる。やがて国外機関をにも巻き込み、東京はパニックに陥る――「新世紀エヴァンゲリオン」・「不思議の海のナディア」などの生みの親として知られる名匠庵野秀明による特撮映画。極度の特撮オタクである庵野が満を期して特撮を撮る形となった。


 荻上は「君の名は。」において「震災」が物語を駆動させる装置として機能していることに着目し、評価している。その用語の詳しい解説について長くなるで省くが、主人公周辺の人々の小さな関係性(恋愛関係のもつれ、など)が世界全体の大きな問題(世界の滅亡、など)に直結する――という特徴を持った「セカイ系」というジャンルの代表的作家である新海誠が「ただのスペクタクルな妄想・絵空事」になりがちなセカイ系に「震災」という重大な社会的状況のイメージを練り込む。そこに「身体の交換」が組み合わされ「これは重大な社会的状況だ」と提示するだけでなく、「あなたもこういう目にあうかもしれない」という「入れ替わり可能性」が働くことで重大な社会的状況が起きているという認識が強化されるという構造が生ずるわけだ。

 つまり、「君の名は。」は「ささいな個人の出来事」に「重大な社会的状況」への回路が繋がれている「公共的な」想像力に支えられた映画だ、ということである。

 一方、この震災・イメージ説が通った場合の「君の名は。」に疑念の声を上げた論者に藤(*4)田直哉、宇(*5)野常寛などがいる。


*4 83年生まれ。批評家・二松學舍大、和光大で非常勤講師。90年代以降、国内で情報社会論およびオタクカルチャー論の大きな基盤を築いた哲学者東浩紀のもとで活動していた時期があったが、3.11直後の混乱期を経て、12年に「思想地図β」で示された東の方向転換宣言を巡って、思想的に決裂。サブカルチャー批評を粘り強く続ける多くない批評家の一人。「メタルギア」シリーズの大ファンで、その存在感に反してビデオゲームが評論の対象になりづらくなっている現状を批判している。

*5 78年生まれ。批評家・総合誌「PLANETS」編集長・立教大、京都精華大で講師。荻上チキなどとともにネット発独立型メディアの本格的な形成期に中核を担う。哲学者東浩紀の理論を批判的に検証した情報社会・サブカルチャー分析で特に世に知られた。のちに東と共闘を経験するも、3.11直後の混乱期に方向性を巡って、決裂。政治・文化を横断する幅広いジャンルをカバーしているが、10年代初頭から前半にかけてのAKBブ ームに乗じた仕事で知られている横山由依推しでもある。近年は特に都市文化・現代ビジネス論に重きを置いている。余談だが筆者は彼に会って話したことがあり、かなり背が高いことがわかった。

『『君の名は。』はあれから5年、現実の日本国民がそうしたように震災の記憶を安全に消費できる悲劇の記憶――恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶――として提示するのだ。

 後ろめたさを共有するがゆえに、それを安全な過去として終わらせてしまいたいという国民の欲望の追認――同作のメガヒットの背景に存在するのは、こうした国民的無意識へのアプローチであるように思えてならない。震災に対するぼんやりとした後ろめたさしか共有するもののないこの国の人々に、それは遠い場所で起こった、もう終わった悲劇なのだから安心していいのだと言い聞かせる。』
宇野常寛「母性のディストピア」(集英社・2017)
『隕石が落ちて消滅してしまったクレーターの周りを立ち入り禁止にする必然性は作中でなかったけれども、原発事故の立ち入り禁止区域を想起させるフェンスがあったりしたので、震災を連想させる断片を散りばめたように作っていると考えて良いのだと思うのですよ。そう考えると、仰るとおり、結末の甘さはあまりにも「願望充足」すぎて、違うと僕も判断しました。(中略)あの隕石が落ちる事故の悲劇をそもそもなくしてしまうわけですからね。潜在的に、それは、過去に戻って震災をなくしてしまいたいという幻想に近い。(中略)最後にもっと残酷な結末があれば、映像などの「美しさ」は許せる範囲になったと思うのですが…… ぼくも、会えない、救えないほうがいいと思ったんですよね。』

https://www.excite.co.jp/news/article/E1472797135219/?p=4 飯田一史・藤田直哉対談「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している」(exciteニュース・2016)


 ここで指摘されているのは「君の名は。」における「震災≒隕石」の役割を厳密を見ていくと「ただの舞台装置」になっているという視点だ。「メロドラマ≒ボーイミーツガール」に付随する形で「震災」が存在し、そしてごく自然と物語の進行とともに「震災≒過去に起こった厄災」というイメージが修正/消滅する。

 この解釈をそのまま意訳すれば同作は「都合の悪い過去をいい話風にカバーディングしている」ということになる。これが通るならば、同作を藤田は「ニュータイプの歴史修正主義」とすら形容しているわけも確かにわかってくる。

 新海誠はデビュー作「ほ(*6)しのこえ」(2002)以降一貫して「背景美術」によるリアリティーの上書きを志向してきた。その到達点として同作で獲得されたのは「公共性への回路」とも言えるものであり、しかしまた、「『過去』の消去未遂と言える現実の昇華」とも言えるものだった。


*6 長峰ミカコと寺尾ノボルは互いに淡い恋心を抱いている。しかし二人が生きるのは地球外生命体の脅威が叫ばれていた戦争の時代だった。やがて時が経つとミカコはその潜在能力を見込まれ、国連宇宙軍の調査員に抜擢され、ノボルと離れ離れになる。電子メールで通信し合う二人だが、地球へ遠ざかっていくミカコとのメール通信の時差は徐々に大きくなっていく――新海誠の事実上のデビュー作である短編映画。徹底してミカコとノボルの関係性しか描写していない実験作だが、宇宙戦争という大きな問題がそれに隣接している構造になっており、「セカイ系」の典型といえる。


2019.5 

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