自愛/構音障害ねこへび
自愛
構音障害ねこへび
退院当日の妹は、疲れた顔で窓の外を眺めるばかりだった。私は彼女が大好きだったカップケーキの詰め合わせをベッド脇の丸テーブルに置いてそっと声をかけた。
「退院おめでとう」
「ありがとう、華子お姉ちゃん」
驚くほど感情のこもっていない声だ。妹は入院して以来あまり笑わなくなった。それだけじゃない。声が低くなり、抑揚が消えた。青白く輝く顔や体も、ふとした拍子に見え隠れする目付きの鋭さも、以前までの妹には無かったはずだ。
「お母さんとお父さんがね、お寿司でも食べに行きましょうかって言ってるの。レーラはお寿司でもいい? 他に食べたい物があったら何でも言っていいのよ。あなたの退院祝いなんだから」
私が話しかけても、反応はほとんど無い。微かに首を傾けて、カップケーキ入りのファンシーな紙箱に視線を向けているようだが、目の焦点は不安定だ。乾いた唇から白い前歯が覗いて見える。
「そのカップケーキ、食べていいのよ」
「うん」
心なしか明るい声色だが、箱に手を伸ばそうとはしない。彼女はそれっきり目を固く閉じ、口を噤んでしまった。かと思うと、爪楊枝のように細い足がぶらぶらと揺れ始めた。薄ピンク色のスリッパがぱさりと床に落ちる。いくら話しかけても返事をしてくれない。私は諦めて彼女が落ち着くまで待つことにした。
妹の頰はこけ、鼻がさらにつんと高くなったようだ。髪は不思議と艶々しているが、体はすっかり細くなってしまった。
やがて妹は独り言を呟き始めた。疲れたとか暑いとか、よくある独り言だ。しかしその言葉一つ一つがいやにはっきりしているものだから、私は薄っすら恐怖を感じた。
「レーラ」
「暑い」
「暑いの?」
「疲れた」
「ねえレーラ」
「お家はどう?」
「え?」
「だめかも。幅狭いし」
「お家、嫌いなの?」
「コンクリートの家がいいでしょう」
「返事してよ、レーラ」
目を開いたレーラは鬼の形相でこう言った。
「うるさい。命令すんな、裏切り者」
息を呑む私のことなど気にもせず、妹は独り言を続ける。アナウンサーのように淀みなく、流れるようにはきはきと発音しているはずなのに、私には無数のスズメバチが低い声で唸り続けているようにしか聞こえなかった。
「でもね、疲れたならしょうがないんだ。人間だからね。しょうがないんだ。ふふ。ありがとうありがとう。ああ、でも気にしないで。わたしは頭良いから。心も強いから。宿題もきちんとやるつもりだし。ねえ。ああ。いいね。でもお家は嫌。殺されても知らないよ……」
私はヒートアップする妹を止めたくて、必死で口を動かした。
「ねえレーラ。お寿司屋さん、行こう?」
突如、足を揺するのをやめ、鈴のような声で妹はこう言った。
「カニのトマトクリームスパゲティ食べたいな」
「そう、わかった」
私は精一杯の笑顔を作った。医師や看護師への挨拶もそこそこに、ぼろぼろになったブランド物のトランクと妹を車に乗せてさっさと病院を出発した。森に囲まれた精神病院ともこれでお別れなのだ、と自分に言い聞かせてアクセルを踏む。母が急いで調べてくれたイタリアンレストランはすぐそこにあるらしい。
碌に整備もされていない林道を抜けて見えてきたのは、小洒落たロッジのようなレストランだった。妹と共に入って店内を見渡していると、母が奥のエリアから顔を出して「こっちこっち」と手を振っていた。窓際の席だ。木目調で統一されたインテリアに、私の心は落ち着いた。明るいオレンジライトのおかげで妹の頰から青白さが抜け、いくらか健康的に見える。
「久しぶりねえ、華子もレーラちゃんも。二人とも、まさか大学から一人暮らしになるとは思わなくて。お母さんたち寂しいのよ」
成人式以来会っていなかった母は、少しも変わっていない。首元で輝く真珠の首飾りを見るに、今日の食事を余程楽しみにしていたのだろう。
「退院おめでとう、レーラ。好きなもの食べなさい」
父の言葉のどこに反応したのか、妹の目がぎらりと光った。眼球はぎこちない様子でくるくると動いている。私は彼女の背中をさすってやったが服越しでも分かる骨の感触に驚き、一瞬手を止めてしまった。
「レーラちゃん、声が低くなった?」
「元からだよ、お母さん」
「嘘。ねえお父さん、前はもっと可愛い声だったわよね?」
母はさも可笑しそうにくつくつ笑いながら父に同意を求めた。
「さあ、どうだったかな」
私は一応口を挟んだ。
「レーラは疲れているのよ、お母さん。退院したばかりだし、あんまりお喋りする気分じゃないと思うわ」
妹の体からふっと力が抜けるのが、隣からでもありありと感じられた。出来る限り早く食事を済ませた方が良いのかもしれない。
「あら。せっかく退院祝いのためにここまで来たのに。でも、それにしてもレーラちゃんは入院してから痩せて美人になったわね」
私は思わず笑った。妹は目を閉じて落ち着きなく足を揺らし始めている。落ち着かせようと再び彼女の背中をさすろうとした時、唸るような声がテーブルに響いた。
「お料理を、決めましょう」
その声の低さに、両親は慌ててメニューを手に取った。「どれにしようかしら」「これがいいんじゃないかな」などと相談するのもそこそこに、私は呼び出し用ベルを鳴らす。店員は嘘みたいな満面の笑みで颯爽とやってきて、恭しくオーダーを取り、去っていった。
客が少ないからか、料理はすぐにやってきた。幸いなことに、妹の分が一番乗りである。
「先に食べていいんだよ」
父がそう言うより先に、妹はミートソーススパゲティを物凄いスピードで口に運んだ。その様子は、お上品とは言い難い。動物のようだ。おそらく、あと一分もかからぬうちに完食するだろう。他の家族の分はまだサーブすらされていない。両親は目を見開いて娘の行動をただ見つめている。明るく快活で品を気にする娘など、最早跡形もなく消えてしまったことに、やっと気付いたのだろう。隣のテーブル席のカップルまで、妹の食事風景を物珍しそうに見ている。
私はたいへん嫌な気分だった。妹が見世物にされているような気がした。しかしその一方で、この食事の仕方だと好奇の目で見られても仕方ないのかもしれない、とも思った。
家族全員に料理が配膳された時、妹は既にデザートまで完食していた。お腹をさすって苦しむ彼女を見て両親は笑った。急いで食べ過ぎだ、と。彼女も一瞬、へらりと笑った。そして、口を手で押さえ、出入り口にあるトイレに駆け込んで行ってしまった。隣席のカップルがあからさまに不愉快そうな表情を浮かべて席を立つ。私は小さく会釈した。
母はピザを切り分けながら、ぽつりと言った。
「レーラちゃんを入院させたのは間違いだったわね」
「どうしてよ」
「だって、変になって戻ってきたじゃない」
「自分の娘に何てこと言うの」
「でも、おかしいじゃない、あんなの」
「あれだけ酷い事をされたらおかしくもなるわ。それを病院である程度癒してから退院したのよ。完治したわけじゃないんだから、少しは理解を持って接してあげてよ」
「いや、確かにそうかもしれないけど、それにしても、あれはおかしいわよ……」
母を説得しようと文句を考えたが、上手くいかない。一切の感情をぐっと飲み込んで、私は味がまるでしないパスタをひたすら口に運んだ。
やがて妹が席に戻ってきた。何事も無かったかのように座って目を閉じる。足を揺らすこともない。大人しくなった娘を見て、両親は安心したらしい。くったりとして動かない妹を横目に、親子三人の会話はそこそこ盛り上がった。
料理の後はデザートを食べようという話になって、各々好きそうなものを片っ端から注文した。チョコレートケーキ、フルーツタルト、モンブラン。妹が目を開けたとき、テーブル上の食器は全て片付けられ、湯気の立つ紅茶とコーヒーが二つずつ並んでいるだけだった。
妹も紅茶を飲み始めたことだし、家族四人で会話を楽しもう。そう思って妹に話しかけようとした時、中年の男がテーブルに近づいてきているのに気付いた。誰だろうと思う間もなく、彼は妹の肩をぱしんと叩いた。
「よっ、レーラちゃん。久しぶり」
私たち家族は全員固まった。こんなに無礼な男がレーラの知り合い? 何かの間違いではないだろうか。
男は家族の訝しげな表情を気にも留めず、笑顔で仰々しく自己紹介を始めた。妹が以前働いていたバイト先の上司らしい。胡散臭い営業マンのような物腰の柔らかさ。嫌な奴だな、と直感的に思った。そのしょぼくれたワイシャツも、安っぽいチェック柄のスーツも、くたびれた合成皮の革靴も、悪趣味な高級時計も、全てにおいて残念な男だ。気色悪い猫なで声が定着しているあたり、自分は誠実で優しい人間だと思い込んでいるに違いない。妹の肩を何の遠慮もなく叩く男だ。想像力の欠如した自己中心的な人間なのだろう。
「随分へらへらしていらっしゃいますね。つくづく不愉快です」
母はこういう時に強い。男は笑顔をさっと引っ込めて「はあ?」と威圧したが、父の表情を伺うなり、すぐに目を逸らした。妹は男など見向きもしていない。ただし、少しでも男から離れようと、体をこれでもかというくらいに反り返らせている。数少なくなってきた他の客も、何事かとこちらを気にし始めた。男は顔を歪ませたまま、入り口近くのカウンター席の方へ、苛立ちを隠そうともせずに歩いて行った。
「気にしちゃだめよ、レーラ」
「分かってるよ、華子お姉ちゃん」
彼女は珍しく笑っていた。その笑顔は、私の疲れを吹き飛ばしてくれた。そう、妹はここで幸せそうに笑っていたらそれでいい。ただ、それだけでいい。
私はキャラメルアイスクリームを一つ追加注文した。妹の分だ。しかし、妹は運ばれてきたアイスクリームを見ても無表情だった。がっかりしている私を母が笑った。腹の底がぷすぷすと燻ぶったけれど、じっと我慢した。自分の行いは確かに滑稽だったからだ。
皆が見ている前で黙々とスプーンを往復させていた妹は、半分も食べきらないうちに「限界」と呟いてうつむいた。
「レーラ、お腹いっぱいになった?」
「なったよ」
「本当に?」
「わたし、あんまり嘘とか吐かないよ」
私の頬は緩んでいた。レストランでの滞在時間が長くなるにつれ、妹の口数が多くなってきたことが、ただ嬉しかった。両親も穏やかな表情で微笑んでいる。
「レーラは可愛いなあ」
「お手洗い行ってくる」
妹が立ち上がった。椅子がぐらりと揺れ、危うく倒れそうになったが、気にせず大股で去っていく。
「元気になったようね」
母はコーヒーカップ片手にくすりと笑った。父も満足気に頷く。
「やっぱり、美味しい物を食べれば、人は幸せな気分になるんだよ」
私は外の景色を眺めた。白い柵で囲まれた無人のテラス席には、洒落たテーブルセットの他に、黒い目をした白ウサギや真っ赤なベリーを頬張るリスの作り物がそこら中に転がっている。その向こうは涼しそうな雑木林が見えた。木漏れ日が反射して眩しい。
窓の端には、コンクリートの駐車場がちらりと覗いている。そこに立っているのが妹だと気付くのに時間はかからなかった。外の空気を吸いに行ったのだろうか。しかし、その手に握られている白い物は一体何だ。
私はカトラリーを確認した。大丈夫、人数分ある。そして念の為、トートバッグに取り付けられた外ポケットを恐る恐る確認した。護身用のナイフが無い。
「あっ」
「どうした」
父が目を丸くして問うた。
「いや、何でもない」
隠さなくてはいけない気がしたのだ。
「ちょっと、外の空気吸ってくる。私も食べ過ぎちゃったみたい」
私は走らなかった。店の人間や客に知られてはいけない。それだけが頭にぐるぐると巡った。深呼吸しながら、出来るだけゆっくり歩いた。
出入り口のドアを開け、階段を数段降りると、左側に小さな駐車場が見える。私の車と両親の車、それから白いセダン。妹はいない。
「レーラ?」
小さな声で、私は呼びかけた。セダンの後ろ側辺りから、きいきいと音が聞こえた。動物の声だのようだ。鳥だろうか。近づくと、あの男が車に寄りかかって座り込んでいる。体全体がかくかくと揺れ、靴は脱げていた。何かの発作かもしれない。私は携帯電話を握り締めた。
「あの、すいません」
きいきい音はさらに高く耳障りな音となり、ひゅうひゅうという苦しそうな息遣いまではっきりと聞こえてきた。私は勢いに任せて車の裏に回り込み、音の正体を確認した。そこにはあの男と、彼の肩にナイフを刺し続けている妹がいた。きいきい音は彼女の口から涎と共に漏れているようだった。
「あ」
妹は私を見遣ったが、何も言わない。目を見開き、口をぐいーと横に広げ、きいきいと呻きながら、ただ私を見つめている。怯えているようにも見えた。
「人を殺しちゃ、だめなんだよ」
辛うじて絞り出した私の声に反応した妹が、突然立ち上がった。私は死を覚悟した。殺される気しかしなかった。ところが彼女は、立ち上がってから何をするでもなく、そこにいるだけだった。涎がだらだらと服に垂れている。小さくなってしまった妹のために買ってあげた、花柄のワンピースだ。
どのくらいの時が経っただろうが。頭がくらくらしてきた。吐き気がする。私は胃の内容物を喉に止めておくために、斜め上に顔を上げた。
太陽光が眩しい。青い空に入道雲が居座っている。いつの間にか夏になっていたらしい。そういえば、後ろの林から蝉の音が尋常でないほど響いている。深呼吸すると、夏の匂いが鼻孔に充満した。肌に日光が当たって、じんじん熱い。夏を認識した瞬間、私の身体中から汗が吹き出た。
その時、妹が血塗れのナイフを持ちこぼした。カシャン、と乾いた音が鳴った。
「わたしだって、好きで生きてるわけじゃない」
レーラは悲鳴に近い声でそんな事を叫び、灼熱のアスファルトに崩れ落ちた。あーあーと酸欠の金魚のように口を大きく開け、力一杯泣いている様子だったが、蝉時雨のせいで声はよく聞こえない。
私は耳をすませた。蝉の声に紛れて聞こえるのは、自分の呼吸音のみであった。レーラの泣き声は、その悲痛な表情を介してしか、聞くことが出来なかった。