みにくい蛙の子/三文柴犬
みにくい蛙の子
三文柴犬
その喫茶店は、チープな彩を放つダイオード光看板で内装を飾っていた。一昔前のネオンサインを模したそれらは、店全体の懐古趣味な様相を代表しているようだった。
蛍光色の飲料を片手に、窓越しの街並みを眺める。喫茶店のそれとは違い、現代的な風景が広がっている。ナノマシン入りダイエット飲料のホログラフィック広告は、ミケランジェロ的肉体美を持つ一組の男女を映していた。『ナノのチカラで大和民族らしい健康的な身体を』などという見当違いでお節介なキャッチコピーまで添えられていた。それら様々な広告をそれぞれに据えたビル群が、俯くようにして行き交う歩行者と黒々としたアスファルトに覆いかぶさるかのように乱立している。その間を縫うように飛ぶ蛍火は、ホバーカーが放つライトが正体だ。
上にも下にもその間にも、何かが満ちていて忙しない。
街の中心に位置する一際高く聳え立つ建物は、日覚党の本部会館だ。建造物の大きさで権力を示そうとするのが、ピラミッドや古墳のような旧時代的な発想に思えて滑稽に感じられる。本部会館には巨大なテレスクリーンが取り付けられていて、常に党員による鬼気迫る演説が流されていた。
この街はきっと私を拒絶している。今の社会の居心地の悪さが、この風景に寄り集められているように感じた。
「お前がマキザワか?」
男の声が、私の集中力を断ち切った。
振り向くと、私の相席に手を掛けながら、こちらを伺うスーツ姿の男がそこにいた。エリート風な物腰に、ぴったりと後ろに撫でつけられた髪、整った顔立ちが目を引く男だ。
「如何にも、私がマキザワです」
男は髪を神経質に撫でつけ直して、私の相席に腰かけた。
「ハシモトからの紹介だ。彼から聞いているとは思うが、私はタグチ・シンヤという者だ。早速だが、君には調査を依頼したい」
タグチ氏は近づいてきたウェイトレスにカフェイン入りのソーダを注文すると、こちらを探るように見つめてきた。
「聞いた話だと、高い秘匿性で調査を行ってくれるそうだが……」
「はい。私は社会的体裁を保ちたい顧客たちの要望に応えることが出来ます」
蛍光ドリンクを少し口に含む。
「普通の警察や探偵は、彼ら自身の社会的立場が調査を難しくさせることがある。しかし、私にはその心配がない」
タグチ氏が神妙な顔つきになる。が、私は構わず続ける。
「誤解の無いように先に述べておくと、私は所謂〝特Ⅱ〟だからです」
「〝特Ⅱ〟……!」
タグチ氏は嫌悪感を顔いっぱいに広げた。
「国の恥さらしな遺伝子劣等者か。我らが民族の血を穢さぬよう去勢された蛆虫ども!」
この手の罵倒にはうんざりしていた。もはや言い返すことには飽き飽きしている。
「貴様ら〝特Ⅱ〟は、本当は生きていることも罪なんだ。生殖能力を差し出してまで社会にしがみついていたいなんて、プライドは無いのか」
「そのプライドというのがコイツのことであればとっくに……」
自らの股間を指差しながらそういうと、恥辱からか憤りからか、タグチ氏は顔を真っ赤にした。
「まぁいい。貴様が〝特Ⅱ〟だろうが〝特Ⅰ〟だろうが私の依頼を受けてくれればそれで構わない」
タグチ氏は深呼吸しながら、今一度髪を撫でつけた。
「頼みたいのは妻の浮気調査だ」
「詳しくお願いします」
「数年前に妻との間に長男をもうけた。貴様らと違って、私のような遺伝子優等者は子孫を残すことが義務だからな。だが、その肝心な子供は成長するにつれ、私とは似ても似つかない醜い容姿に育っているのだ! 未だ小学生ではあるが、学業の成績も芳しくない。声や性格までまるで他人だ」
〝特Ⅱ〟の我が身には考えられないが、エリートに多くいる熱心な日覚派の人間は、血筋を潔癖なまでに気にする。
「隔世遺伝だとは言えませんか? そうでなくとも子供の皆が皆、親に似るとは限りません」
「私だってその可能性は考慮した。何も考えずにここへ来た訳ではない。これを見て欲しい」
タグチ氏が取り出したのは、自身の一家の血液型検査結果に続柄をメモしたものだ。
私 タグチ・シンヤ:AO
妻 タグチ・ミズホ:AB
長男 タグチ・ケイ:BO
「これといって疑う箇所はありませんが」
「このままであれば、だ」
「というと?」
「最近、会社で健康診断が行われた。私はその血液検査に引っかかってしまい、更に精密な血液検査を受けることになったのだが、私が幼少期に検査され、言い渡された血液型とは異なっていたことが分かった」
「ほう」
「AA型だ。私の父ヒデアキがAOで、母ユキがAAであるから、私のAOとAAでミスがあったことは分からないではない。しかしそうなると、息子のケイがBO型であるのは辻褄が合わない」
一度、軽い溜息をつきながらタグチ氏は続ける。
「勿論、血液型検査に全幅の信頼を置いているのは馬鹿らしいというのは分かっている。大体、私の血液型が今になって覆ったほどだからな。しかし、先に述べたように、拾ってきたような息子と、齟齬が生じた血液型とがあれば、疑うには足るだろう」
「なるほど。それで私に奥さんの浮気調査を頼みたいという訳ですね」
「ああ。もし妻に不貞があったとしたら、私は赤っ恥だ。タグチの表札を汚すことにもなる。うちは武士の家系を祖先に持つ、歴史ある名家なのだ。絶対に他人に知られてはならない。だから内密にお願いしたい」
「承りました。明日にでも動きますよ」
「それでは失礼するぞ。なにぶん、私は忙しいのでね」
貴様と違って、と言いたげな顔で再三髪を撫で付けて、タグチ氏は喫茶店を後にした。私はその後ろ姿を笑顔で見送り、彼が見えなくなると、消えた方向に向けて中指を立てた。
日覚党の本部会館から等高線のように建造物群は立ち並んでいる。そこから少し外れた裏手には、都市からあぶれた者たちが蠢いている。そんな裏手の一画にある古アパートが、私が所属する〝特Ⅱ〟のコミュニティ〝自宮座〟になっている。
〝特Ⅱ〟とは、日覚党の民族浄化政策により、遺伝子的落伍者のレッテルを貼られた者たちだ。彼らの多くは、障碍者、LGBTや在日朝鮮人の子孫たちだ。国粋プロパガンダという名の、国を総じてのナルシズムに巻き込まれ、不当にも人権を剥奪されてしまった者たちである。普通、彼らは〝特Ⅰ〟として、隔離施設での一生を余儀なくされるが、政府の譲歩的措置により、生殖能力を断てば、つまりは去勢及び避妊手術を受ければ、〝特Ⅱ〟として社会生活に復帰することが許されている。
しかし、日覚党が日々プロパガンダを流す社会では、世間から人として扱われることは稀で、就職すらままならない。国から最低限の補助金こそ出ているが、糊口を凌ぐことすらままならないのが現状だ。そう言った〝特Ⅱ〟たちが集まり、肩を寄せ合っているのが〝自宮座〟だ。
アパートの一階の共有スペースで人心地ついていると、向こうから知った顔が寄ってきた。
「よう、マキザワ。儲かってるかい?」
ドレッドヘアーにジャージ姿の男、友人のオオトモだ。
「ぼちぼちだ。〝特Ⅱ〟というだけで客が離れていきやがる。今じゃ紹介でしか依頼が来ない」
私は商売の愚痴を言いながら、オオトモに格安の擬似タバコを差し出す。
「おっ、悪りぃな。お前も金回りは良くねぇだろうに」
「あぁ、金って言えば、ツゲは帰ってきているか? 最近一つ調査依頼が入ってきて、その調査の為に金が入り用でな。蓄えがあんまし無いからアイツに借りたい」
「闇医者のツゲか? アイツならこの前出てったよ。知らなかったのか?」
絶句した。多分、目もまんまるくなっていたと思う。
「じゃあこれから誰に金を借りりゃいいんだよ……」
「そういうのが嫌で出てったのかもな!」
オオトモは声を出して笑いながら言った。
「まぁ正味な話、アイツ、ヒロエ興業お抱えの闇医者になったらしい。もともとヤクザもんの治療ばっかやってたしな。どっかでコネクション作ったんだろ。このご時世、ヤーさん相手でも〝特Ⅱ〟が定職に就けるのは羨ましいよ」
「……まぁ、元気にしてるといいな」
「金の件については、オレが〝長老〟に話しといてやるよ。リターンが保証されていれば、利息なしでも貸してくれるかもな」
「あぁ、助かる」
私は自分の擬似タバコにも火を点けて、暫しの間、ツゲとの思い出を一人振り返っていた。
あいつは自分の夢を語るのが好きだった。金持ちになりたい、外国を旅行してみたい、遠い宇宙へ行ってみたい……などなど、あげればキリがないほどだ。〝特Ⅱ〟は国に夢を断たれた者達の集まりだから、その中でめげずにいるツゲを変なヤツだと思っていた。
一度大笑いしたことがあるのは、ツゲが『ぼくはいつか子供が欲しい』と言ったときのことだ。その場に居合わせた全員が大爆笑した。〝子供を持つこと〟それは〝特Ⅱ〟には夢のまた夢だ。逆立ちしたって赤ん坊は作れないし、〝特Ⅱ〟では養子縁組だって受けられないだろう。
「ぼくはいつか伴侶を手に入れる。そしたら精子バンクに依頼して体外受精を行うんだ。これなら行けるでしょ!」
「はいはい」「言ってろ言ってろ」と馬鹿にしていたが、ツゲの目は本気だった。
「次会えたら、子供が居たりして……」
私は子育てに苦戦するツゲの姿を想像して、可笑しいような嬉しいような気分に浸った。
翌朝、いつもより早く起きて他地区の〝自宮座〟を周ることにした。ここの〝自宮座〟は第八地区の〝自宮座〟となっている。ここから少し離れた所にあるいくつかの地区の〝自宮座〟へと赴き、張り込みの人間を雇うのが目的だ。〝自宮座〟同士は複雑な関係を構築している。日覚党への恨みから団結することもあれば、縄張り争いを仕掛けることもある。今回は他地区でも友好的、日和見主義的な地区の〝自宮座〟へと声をかけにいく。
タグチ夫人の活動範囲の至るところに、ホームレスの振りをして、彼女の動向を監視してもらう。流石に〝特Ⅱ〟の身では、建物の中まで探ることは出来ないが、彼女が何処に行ったのかは分かる。
一時間半ほど歩くと、小汚いラーメン屋が見えてくる。そこはいくつかの地区の〝自宮座〟の社交場となっている。
もとは非干渉主義で有名な第六地区の〝特Ⅱ〟の有志たちが始めたラーメン屋だったが、誰もが察した通り客足は芳しくなかった。しかし、〝特Ⅱ〟や堅気でない人間たちの常連がいる為に何とかやっていけてる。〝特Ⅱ〟の中でもこのラーメン屋に来れるような経済的余裕がある人間は多くない。しかし、そういった少し羽振りのいい〝特Ⅱ〟たちが常連ということで、〝自宮座〟の代表メンバーが集まることが多く、情報交換が行われることが多い。
暖簾をくぐると、そこには中心からコの字を描くようにして並んだカウンター席と、奥のガラス越しに見える台所が特徴的な店構えが広がっている。壁に貼り付けられたメニュー表には【ラーメン 600円】としか書いていない。なのに、その横に付け加えられているトッピングは【アブラ】【ニンニク】【ウマミ】【ステロイド】【ナノ】などと豊富だ。
台所には、頭にタオルを巻いている脂ぎった中年男がいて、彼はこちらを視認すると満面の笑みを向けた。
「おぉ! マキちゃんじゃんかぁ。久しぶりぃ」
妙に間延びした喋り方が、男に剽軽な印象を与えている。
「久しぶりだな、アカツカさん」
アカツカはこのラーメン屋を建てたメンバーの一人だ。メンバーは全員で五人居て、彼は一番のおっちょこちょいだ。他のメンバーからはよく怒鳴られていたが、客からは慕われていた。
「アカツカさん、今の〝自宮座〟同士の関係性を知りたいんだが……。情報通のフジさんは何処に……?」
フジさんは、アカツカ同様、このラーメン屋を切り盛りしていたメンバーの一人だ。
ここで、店内の違和感に気づいた。前に来た時は、あんなにキッチンが広かっただろうか。いや、違う。いつもは五人で動き回っていたのに、アカツカ一人しか居ないから広く感じるのだ。開店前と言えど、この時間帯にキッチンに一人しか居ないのはおかしい。
「あれ、アカツカさん。みなさんは?」
その言葉を聞いて、アカツカは泣きそうな顔になりながら語り始めた。
「聞いてくれよぉ……。アイツらよぉ、アイツらったらよぉ、オレを置いてみんな出ていっちまったんだよぉ」
「出てったですって? このラーメン屋はそんな資金繰りの良いイメージはありませんでしたが」
〝特Ⅱ〟にとって、一度構築した信頼関係を抜け出すのは簡単なことではない。闇医者であったツゲのように、特定の技術があったり、蓄えがあったりしない限り、大事なコネクションを切るのは考えられないことだ。
「失礼なこと言うなぁ、オメェもよぉ。なんでもな、アイツらオレに内緒で上手い話を手に入れたらしくてな、あ、コレは常連客から口伝いで聞いたんだよ、でな、オイラってアイツらよりちょっとばかし間抜けだろ? だからハブられちまったらしくて、アイツらだけで何か良い計画を立ててたらしいんだ。それでこの前、夜逃げされたんだよ。全く、ひでぇヤツらだよ」
「そうですか……」
彼らの臓器が新鮮な状態であちこちに飛び回ったり、コンクリート詰めにされて海に沈んでいる様を想像して、身震いした。
結局その日は、自分で暇な〝特Ⅱ〟を探し、金を握らせて計十人ほどの人間監視カメラを設置するに至った。
二、三週間はかかるだろうと考えていたが、変化は早くも五日後に起きた。監視を頼んだ〝特Ⅱ〟の一人がわざわざ第八地区まで私を探しに来た。
「例の女が、あるアパートによく出入りしているのが分かったんだ。単に友人宅の可能性もあるが、気になったもんだから張り込み場所をそこに変えてみた。そしたら昨日、遂に見つけたよ。そのアパートから女が出てくる時、付き添いで男がいたんだ。そいつは女を家まで送ったりせず、アパートの出口で見送っただけだった」
「そいつが間男である可能性は高いな、とりあえずご苦労」
監視の依頼料とは別に、礼金を渡そうとするが、彼は私の手を遮った。
「それは後でいい。大事なのはここからだ」
そういうと彼は、一枚のメモ紙を取り出した。
「その間男、オレの存在に気付きやがったんだ。女が帰るのを見届けた後、まるで誰かに見張られているのを知っているように辺りを入念に探し回っていた。そしてホームレスの振りをしているオレを見つけて近寄ってきた。オレはここで逃げたら逆に怪しいと思って、いっちょまえに物乞いのフリでもしてみたよ。そしたらアイツ、小銭と一緒にこの紙を渡してきたんだ」
メモ紙を見ると、住所と今日の日付が記されていた。
「そいつこう言ってたよ。『依頼主によろしく』って」
謎と不安で頭がいっぱいになった。
ここに来い、ということだろうか。しかしノコノコ行けば何か仕掛けられているのではないだろうか。いやそもそも、何故監視されていることに気付いていた。不倫していることへの負い目から来る他人への不信感故の、間男の奇行だろうか。たかだか浮気調査だ。きっとそうに違いない。
「おい、マキザワ」
監視役の男の声が、思考に割って入る。
「この住所、ヒロエ興業の事務所があるビルだぞ……」
「え?」
あの闇医者の顔が、ぼうっと脳裏に浮かんだ。
壁に『仁義』と書かれた和紙が飾られた待合室のソファで、私は情けなく縮こまっていた。扉の向こうで行き交うのは、妙に改まったその恰好に強面を携えた男たちであった。
彼らは思いのほか〝特Ⅱ〟には優しい。構成員にも何人か〝特Ⅱ〟がいることは珍しくない。これは偏に〝特Ⅱ〟と裏社会の距離が近いからだ。社会的なしがらみに関して身軽な〝特Ⅱ〟は、運び屋などの危険な仕事で重宝されている。〝自宮座〟や例のラーメン屋に顔を出し、そういった汚いバイトを募集しているのを見かけたことも実際にある。
それでもヤクザはヤクザだ。下手に機嫌を損ねるようなことをすれば、指やら首やらが跳んでしまってもおかしくない。
しばらくして、少し若いが落ち着いた雰囲気のある青年が入ってきた。目鼻立ちが整っていているのが印象的だ。
「待たせて申し訳ありません。マキザワさん。ツゲの友人と伺いましたが、足を運んでいただいてありがとうございます」
およそその手の人間とは思えないような腰の低さであった。ここまでへりくだられたのは、〝特Ⅱ〟、いや〝特Ⅰ〟に認定されて以降初めてかもしれない。違和感すら覚える不気味な態度だ。
ここで最悪のパターンは、例の間男がここの構成員であることだ。そうであれば、ヤツに何か言いがかりをつけられ、良くて口封じ、悪くて殺害されるだろう。きっとここに来ても来なくてもオレの身はかなり危ない。しかし、ここに訪れてツゲの名前を出しておけば、もしくは他の構成員が間男を止めてくれるかもしれない。
「あなたのところの〝長老〟にもお世話になってます。ツゲは今出払っておりまして、代わりに要件を伺っておきたいのですが」
男の声はどこか懐かしさを感じる優しさすらあった。
「ちょっとある男にこんな紙を渡されたんですが、この筆跡に見覚えが……」
と自分で言いかけて、あることに気付いた。この男の声は懐かしいんじゃなく、確実に聞いたことがある声だ。唾を呑む音が内側から聞こえた。
「失礼を承知で尋ねますが、あなたがツゲではありませんか?」
「はぁ?」
男は眉間を限界まで引き結んでいた。二人の間に沈黙が訪れる。
が、数秒後、男はいきなり吹き出し、腹を抱えて笑い出した。その笑い声は確かに聞いたことがあった。
「ツゲ! 騙したな!」
「ははは。やっぱり声で分かっちゃうかぁ」
ツゲは改めて姿勢を正すと、手を差し出してきた。
「久しぶりだな、マキザワくん。ぼくは確かにツゲだ。しかし、そうでないとも言える」
ツゲは引っかかるような物言いをする。
「おう、その顔はなんだ。もっと丸っこくてイノシシみてぇなツラだっただろ」
今はその面影もない、小綺麗なまとまった顔をしている。
「あぁ、ぼくは自分の顔と名前を捨てたんだ」
ツゲは自分の顎を手持無沙汰にさする。
「ヤクザになって顔に刀傷じゃなくメス入れちまったってか。シャレじゃないんだから」
「今はフジワラと名乗らせてもらっている。ぼくはもうツゲじゃないし、〝特Ⅱ〟でもない。股間の傷が特徴的な、ただのヤクザの衛生兵だよ」
「顔は自分でやったのか?」
「流石にそんな器用なことは出来ないよ。同じくヒロエ興業の闇医者をやってるやつが執刀してくれたよ」
ツゲ、もといフジワラは出口を指差した。
「少し外で話そうか。この整形とそのメモ、そして君が今受けている依頼について、ここ以外の所で話したい」
私はフジワラの誘いで、事務所から離れたとこにある個室居酒屋にやってきた。
店内は薄暗く、静かであった。ちょくちょく行き交う客たちは、私たちをジロジロ見返していた。きっとこんなホームレス然とした男が来るようなところではないのだろう。正直、ヒロエ興業の事務所にいた時より肩身が狭い。
私とは対照的に、フジワラは慣れた様子で、物腰は柔らかく背筋も伸びているように感じた。本当にツゲという人間は変わってしまったようだった。
個室へ案内されると、私は緊張から解放されて脱力した。
〝特Ⅱ〟になってからよくあることだった。常に人目が気になる。些細なことでも緊張する。〝自宮座〟や路地裏、行きつけの店にいる時は平気だ。大変なのは、複数の堅気の人間や、人々が行き交う広場に出くわすと、汗が吹き出し手が震える。ヒロエ興業の事務所で感じていたのが身体的苦痛及び死への恐怖とするならば、これは社会的苦痛への恐怖だ。集団となった人間の目はアレと重なる。〝特Ⅰ〟と診断された時の周りの目。強制収容所で暴言と暴力を放つ職員たちの目。
この街はきっと私を拒絶している。
「すまない。表の人間がたくさんいるところに連れてくるべきではなかったね。忘れていたよ」
フジワラは感傷的な面持ちになる。私は自分で自分が情けなくって仕方がなかった。
「ぼくもその症状にはよく悩まされた。〝特Ⅱ〟には少なくない病気で、パニック障害の一種だ」
店員が入ってくると、フジワラは二人分の飲み物を頼んだ。
「ぼくたち人間は一人では生きていけない社会性動物だ。群れを作ることで生活が成り立つ。だからこそ、他の個体との関係に一喜一憂する。群れの中の立ち位置を守ることに苦心する」
だいぶ動悸も落ち着いて、私はフジワラを見つめる。
「いつも誰かの上に立っていたいというのは、当たり前の欲求だ。他人より劣っているとみなされるのは耐え難い」
黙って聞く私を、フジワラは一層鋭い眼差しで見つめ返す。
「だから〝特Ⅱ〟になったんだろう。ぼくも、君も。プライドを捨てても、誇りは捨てたくないから。〝特Ⅰ〟として檻の中で一生を終えるくらいなら、玉でも竿でも叩き売りだ」
ああ、きっとこれだ。フジワラ……そしてツゲが、温厚にすら見える彼が、時たま得体の知れない怪人の様に感じられることがある。それはこの哲学と野心の強さ故なのだろう。
「ぼくは〝特Ⅰ〟どころか〝特Ⅱ〟だって耐えられない。欲しいものはどうしたって欲しい」
フジワラの目は焦点がぶれ、ぎらついてきていた。私を見ているのではなく、中空の幻影をみているようだった。
「だからツゲからフジワラになったのか」
重い口を開くと、フジワラは私を再び強く見つめる。
「そうだ。どうせ性器だって捨てた身だ。顔も名前も、愛着なんてないさ。ぼくは行けるとこまで行ってみたいんだ」
「他人の妻に手を出してるのもそれが理由か?」
今日、フジワラに会った時からあった一つの推測は、例の間男がフジワラではないか、というものだ。オレのやり口を知っているフジワラなら、ホームレスもとい〝特Ⅱ〟を監視に使っているのを察知し、そいつを使ってオレと連絡を取ることは可能だろう。
去勢している身であるから可能性は低かった。プラトニックに不倫していることも万に一つあるかもしれないが、それはあまり現実的ではない。しかし、先程聞いたような野心が彼にあるのなら、〝エリートの男から妻を奪うこと〟そのものに悦楽を感じているかも知れない。動機として充分だ。
「君は何か勘違いをしているようだね」
事務所で私を騙した時のように、フジワラは悪戯っぽい顔をした。
「君は恐らく、そのメモを書き、タグチ夫人と仲良くしているのはぼくだと思っているね。それは正解だよ。だけどぼくは彼女と特殊な関係を結んではいない。ただの相談相手だ」
私のキョトンとした顔へ当てつけるように、フジワラは溜息をつく。
「タグチ夫人はぼくに『最近、ホームレスに見られていることが多い』と漏らしていた。直ぐに君と分かったよ。君と落ち合う為に、アパートを見張っていたヤツに例の紙と端金を渡して走らせた。その後、彼女の職場や自宅周辺を捜索して、他の何人かの監視役にも出会ったよ。君が受けている依頼についても聞いた」
店員が飲み物を持ってきて、フジワラは一度口ごもるが、店員が出ていくと、話を戻す。
「ぼくは君が受けた依頼の内容を知った時、ぼくらは協力するべきだと思った。だから君を呼んだんだ。ぼくらは恐らく同じ謎を追っている」
「同じな訳がないだろう。私がやっているのは浮気調査で、その対象は夫人だ。お前は夫人本人と接触しているんだろう?」
「ああ、だが彼女が浮気をしていないことはほとんど明白だ。少なくとも、彼女とタグチ氏の長男のオメデタが、彼女の不貞によるものではないことは確実だ」
「何故そこまで言い切れる?」
「タグチ氏は君に、長男があまりにも自分に似ていないから、浮気調査をお願いしたんじゃないか?」
「なんで知っているんだ? 監視役にはそこまで話していないぞ」
「そうか、それは飽くまでぼくの推測だったが、これで確実になったな。いいかい。ぼくも今、タグチ夫人からある依頼を受けている。『長男があまりにも自分たちに似ていないからおかしい。夫の整形疑惑について調査して欲しい』とね」
「私たちは互いに、妻の不倫、夫の整形という形で『タグチ長男が親に似ていない理由』を探っている訳だ」
しかしなんと惨いことだろうか。子供に罪はないのに、両親ともどもから煙たく思われ、あまつさえその責任を互いに擦り付けあっているなんて。
「こうなると、嘘を付いているのはどちらか、という話になるが、ぼくはもうタグチ氏が美容整形を行ったという証拠をいくつか手に入れている。つまり嘘をついているのは、夫人ではなくタグチ氏の方だ」
しかし疑問が残る。
「タグチ氏が美容整形を行う前の姿は、本当に子どもに似ているだろうか」
「何?」
「もし仮に彼が美容整形を受けていたために、長男が今のタグチ氏にも夫人にも似ていないのなら理解出来る。しかしそれでも顔以外で何か似ている部分があるもんじゃないか?」
「そりゃあるかも知れないが、そんな曖昧なものじゃあ納得できないだろう」
「それを言ったら顔だってそうだろう。目や鼻のパーツが似ていたって、配置によっては全く違う雰囲気の顔になる」
「それを言い始めたらキリがないだろう」
「ここまで来たらキリをつけよう。DNA鑑定だ」
「君はまだ夫人の不貞を疑うのか?」
「いや、私の中では今はどちらとも信じられない。もし彼が美容整形をしている身であるなら、何故、妻の浮気調査を依頼したんだ? 今の自分に似ていないのは百も承知だろ? それでも妻を疑ったということは以前の自分とも似ていないということじゃないのか?」
「なるほど。タグチ氏か夫人のどちらかが何か隠し事をしている可能性大だね。分かったよ。DNA鑑定の件はぼくが調べておこう。ツテがあるからね。君はタグチ氏の過去について調べてみてくれ。さて、今後の方針は決まったな」
フジワラは席を立とうとする。
「待て」
「どうしたんだい?」
「さっきお前、タグチ氏には美容整形を受けた証拠があると言ってたな。詳しく聞きたい」
フジワラは席につきなおす。
「知り合いの闇医者の中に、格安の整形手術を行っている者をあたった結果、彼を執刀した張本人と出会うことが出来たんだ。彼は執刀した覚えこそあれ、以前の顔は覚えていなかったようだがね」
「闇医者同士のネットワークでもあるのか」
「ああ、だが以前は無かった。その医者を見つけることが出来たのは、今、ヒロエ興業が大勢の医者を集めているからだ。ぼくはその繋がりで彼と知り合った」
「近いうちにどっかと抗争でもやんのか」
「いや、ぼくがヒロエ興業に雇われた理由は、実は治療の為だけじゃない」
「じゃあ何の為に……」
フジワラの表情が物々しくなる。
「なぁマキザワくん。ぼくが生まれ変わった理由は、さっき言った通りだ。〝少しでも他人の上に立っていないと気が済まない〟からだ」
フジワラは少し遠い目をして続ける。
「この国は少し前、列強からの圧力に耐えかね、強硬的な体制に切り替え始めた。列強へのコンプレックスな感情は、そのまま民族浄化政策に姿を変えている。強くあろう、美しくあろう、という感情が爆発している。でも強いってなんだ。美しいってなんだ。その基準やモデルは今、この国を牛耳る日覚党により、プロバガンダの形で示されている。国粋主義とも言えるな」
フジワラはまた私を見つめる。
「日覚党の台頭に代表されるように、この国は今、強いナルシズムに満ちている。多様性より優等者の選別というのが、この国の人間のドグマだ。だから、プロパガンダによって、優等者の基準やモデルが定められ、人々は他人を騙してでも自分を良く見せようとしているんだ。そういった価値観から、自分の容姿を改善する整形外科の需要が増し、格安で執刀するモグリの整形外科が闇市場に現れ始めた。ヒロエ興業は、今まで個人で活動していた彼らを組織化することで一つのビジネスを立ち上げようとしているんだ」
「仲介業者でもやるのか?」
「概ね合ってるよ。客と医者の信頼関係の保証であったり、紹介や宣伝などをやっている。先程、君は手術を受ける金が無いと言ったね。そういった客に金を貸したりもしている」
「でもよ、そういうやつらは〝特Ⅱ〟だったり、そうじゃなくても限界ギリギリで生活している奴らだろ? 回収なんて出来るのか?」
「そうだな……」
フジワラは唐突にシャツを脱ぎ始めた。
「お、おい。何やってんだ」
「これを見てくれ」
フジワラの脇腹に、禍々しくミミズ腫れした縫い跡があった。
「ぼくには今、腎臓が片方しかない。手術代を全額は入れられなかったからね。あと数年働いたら、その金で返してもらうけどね」
フジワラはそう言うと、そそくさと服を着なおす。
「臓器を担保にしているのか。正気じゃねぇ」
「ぼくはまだいい方だ。死なないギリギリまで臓器を取られた挙句、出世払いで返すヤツもいる。それも見込めないヤツは蟹工船送りか、全身提供だな」
フジワラは軽い調子で言った。
「マキザワくん。さっきも言ったけど、ぼくらはなんで〝特Ⅱ〟になった? 社会に出ても野垂れ死んでいくのを知っているから〝特Ⅰ〟でいるヤツも少なくない。ぼくらが自由を得る時に支払った代償は、生殖器だけじゃない。迫害の中、生きていくというリスクもだ。そこまでしても、他人から見下されることは耐え難い。だからぼくはそこまでして、〝特Ⅱ〟であることから脱却した。きっとタグチ氏も似たような心理で、元の顔を捨てたのだろう」
フジワラは手元にあったおしぼりを、目に当てる。
「少し熱くなってしまったね。つまり、今この国に満ち満ちている隣人に対する感情は、負けたくない、という感情だ。その感情から美容整形に走る人間も少なくない。それを知っているから、タグチ夫人も簡単に夫の顔を疑うことが出来たのだろう。そしてぼくもまた、執刀医を見つけることが出来た」
「そこまでして……」
……何になるんだ、という言葉は呑みこんでしまった。誰かに虐げられる屈辱を知っているのは、自分もまた同じだからだ。
やりきれない感情が、自分のうちに渦巻いているのを感じた。
数日後、私はタグチ氏の実家を訪れた。少しでも外見を繕う為に〝長老〟からスーツを借りて、都市部から離れた場所まで足を延ばした。
実家の情報については、フジワラに調べてもらい所在地は分かっていた。タグチ氏の過去の姿と比べるために、フジワラ経由でタグチ氏の長男タグチ・ケイの顔写真まで持参してきた。
「どちら様でしょうか」
インターホンを押すと、腰の丸くなった老婆が出てきた。タグチ氏の母親だろうか。
「……マキタと言います。シンヤの友達です。彼に貸しっぱなしのものがあったのですが、ここ最近連絡が取れなくて……」
私はタグチ氏の母親から情報を聞き出しやすくするために嘘をついた。
「シンヤの友達ですって? あの子に友達なんていたのね……。悪いけど私もシンヤとはもうだいぶ前から連絡が取れていないの……」
なるほど。どうやらタグチ氏は、親と既に縁を切っているようだった。
「そうですか。もしお母さまさえ良ければ、シンヤがどういう子供だったか教えてくださいませんでしょうか?」
「え……?」
「彼とは仕事で出会って仲良くなりました。プライベートでもよく遊んだ仲です。だけど、彼は自分の過去について喋ったことは一度だってなかった。友として、彼がどう育ってきたか気になるんです」
こんな臭いことを真顔で言えた私はきっといい俳優になれると思う。
「いいですよぉ。私もシンヤがどんな仕事をしているのか、友達とどう過ごしたのか、知りたいんです。ささ、上がって上がって」
タグチ氏の母親に促され、客間へとあがる。彼女はお茶を用意すると言って、奥へと消えていった。その後ろ姿を目で追っていると、リビングと思しき部屋の壁に大きく飾られた、頑固そうな老年男性の写真が見えた。二人分のお茶と菓子を持って戻ってきた母親に尋ねる。
「アレは……」
「主人のヒデアキです。数年前に亡くなりました」
彼女は私がお茶を飲むのを確認してから語り始める。
「主人はシンヤにはとても厳しく接していました。あの子が過去を語りたがらないのは、それが理由でしょう。いいえ、主人だけのせいにしてはいけないわね。私たちはシンヤに酷いことをしてきました。あの子は私たちの次男で、長男のケンタとは違い勉強も出来なければ運動もダメ、器量も良くありませんでした。そしてあの子は、私たち二人のどちらにも似ていませんでした」
母親の話は、そのまま今、タグチ氏とその長男の状況と重なった。
「長男のケンタばかり可愛がっていました。これが自分たちの子かと思うと、自分たちまで祝福されている気分になるほどよく出来た子だったんです。シンヤはいつもケンタと比べられ、卑屈になってしまいました。私はそんなシンヤを心配するばかりか、余計に冷たく接してしまいました」
彼女は懺悔するような口調だった。
「ある日、主人が深酒をして帰ってきました。何か仕事で嫌なことでもあったのでしょう。その日はいつもよりシンヤに強く当たっていました。そして遂に言ってしまったのです。
『お前のような出来損ないがオレの倅だなんて虫唾が走る。お前はこの家族の穀潰しだ』
そういうと台所から包丁を取り出し、あの子の前に放りました。
『お前は劣等者だ。その血を残せば、必ずお国の足を引っ張る。この場で去勢せよ』
と言い放ったのです。あの子は震えた手で包丁を持ちました。それを自分の股間に向けると涙を流し始めました。そこからどれほどの時が経ったでしょうか。主人は何も言わずにただあの子を見下ろし、あの子は切っ先を見つめたまま動きませんでした。その間にあの子の中でどれだけの葛藤があったでしょう。気付けばあの子はその切っ先を主人に向けていました。あの子はそれまで、腹の内では黒いものを溜めながら、主人や私に反抗したことはありませんでした。あの時にあの子の中で何か切れたのだと思います」
「それで、どうなったんですか?」
母親は今にも泣き出しそうになりながら続けた。
「シンヤはそのまま突進しました。しかし、主人はその突進をわけなく止めてしまい、手に握られていた包丁を奪い返しました。主人は激高して、あの子の頭を打って動けなくさせると、主人自らあの子の睾丸を何度も刺しました」
母親はここで泣き出してしまった。
「わたしは……ただそれを……だまって……」
彼女が泣き止むのを待つ間、新たな謎について考えていた。
このエピソードを聞く限り、タグチ氏は完全に生殖能力を失っているはずだ。なのに子供がいて、その子が似ていないから妻の浮気を疑っている。これはタグチ氏が狂人であるということで説明がつくだろうか。いや、確かにムカつくヤツではあったが、気が触れているようには見えなかった。
母親は落ち着きを取り戻して、話を再開した。
「痛みからでしょうか、あの子はすぐに我に返り、絶叫していました。その声を聴いてやっと私の身体も動き始めました。すぐ近くの病院へ連れていき、緊急入院しました。そして退院した次の夜、家には帰りませんでした。これがあの子に関する最後の記憶です」
「そうですか……」
「今は連絡が取れないと仰っていましたが、あの子はそれまで楽しそうにしていましたか? 幸せそうにしていましたか?」
「彼は……愉快なヤツで……いつも幸せそうでしたよ」
「そう……。良かった……。ホント、何処行っちゃったのかしらねぇ……」
自分の嘘に強い罪悪感を覚えたが、ここで事実を言ったところで意味はない。私は私の仕事をしなくてはならない。
「あの、彼の若いころの写真、見せてくださいませんか?」
母親はその言葉を聞くと、ポケットから端末を取り出した。
「現像したものはみんな主人が捨ててしまいました。今はこの端末のカメラ機能で撮ったものが全てです」
そこに映っていたタグチ氏は、醜悪だが、決してタグチ・ケイには似ていなかった。
「どういうことだ!?」
フジワラのアパートに赴き、事の一部始終を話すと、やはりフジワラも困惑したようだ。
「以前のタグチ氏とその長男タグチ・ケイは似ていなかった。それだけでなく、私たちと同じように生殖能力がなかったんだ」
フジワラは阿保みたいな顔をしてショートしていた。
「なぁ、マキザワくん。DNA鑑定の結果を見るか」
「見なくても明らかだろ。相談してきた理由は分からないが、夫人の浮気しかないだろ」
「それがな……。タグチ・ケイ、タグチ・ミズホとパターン一致あり。そしてタグチ・シンヤとも一致あり、だ。つまり夫婦ともに長男ケイとは血縁関係にある」
「はぁ!?」
もう何が何だか分からなくなってきた。顔が似てないだけならギリギリ〝みにくいあひるの子〟ということで済ませられるが、タグチ氏には生殖能力がなかった。しかし、DNA鑑定では血が繋がっているという……。
「子供はどっから出てきたんだ!」
「マキザワくん、こんがらがってきたぞ。今一度整理しよう。タグチ氏は生物学的に言えばケイくんと血が繋がっているが、夫人と出会う前に生殖能力を失っている。しかし何らかの理由で妻の浮気を疑っている……。確定的な事実だけ見ればこうなるか」
「もうこれチューしたら子供出来ちゃった、で辻褄があうだろ……」
「駄目だ。チューして子供が出来るのをあらかじめ知っていなければ、妻に浮気の容疑などかけない。流石に口づけで子供が出来ると思っている狂人ではないでしょ」
「つまり、自分の生殖能力に頼らずに血の繋がった子供を作る方法を知っていて、それを実行したけど子供が出来たら似てなかった。だから不安になって……」
じゃあこれもう妻の浮気は無かったです、タグチ氏の心配は杞憂です、で良いのではないだろうか。そもそもなんでタグチ氏は浮気を疑ったんだっけか……あっ。
「あっ」
自分の脳内で発された言葉と同じ言葉を発したのは、私自身ではなくフジワラだった。
「なぁ、ぼくが昔言った夢を覚えてるか?」
「どの夢だ? タイムスリップしてマリリン・モンローとヤりたいってやつか? それともハチ公像を改造してサイボーグ・ハチ公にしたいってヤツか?」
「違う。『ぼくはいつか子供が欲しい』ってヤツだ。そしてタグチ氏とケイくんは、血が繋がっているだけで親子とは限らない」
「……お前の言いたいことは分かる。今のところそれが一番正解に近いだろう。つまり、タグチ氏の親戚の誰かから精子を譲り受け、それを夫人に気付かれないように体外受精させて子宮に戻した。しかし既に受精卵が着床していたなら、つまりは間男との間に子が出来ていたなら、別の子が生まれてくる可能性が高い。タグチ氏はそう考えて浮気調査を依頼したってことだろ。だが無理だ」
「どうして? 完璧だろ?」
「私もこれは先程思い出したんだが、タグチ氏は自分の血液型と息子の血液型が違うことを理由の一つとして、私に浮気調査を依頼してきた。確かに、自分じゃなくて親族の精子を使ったのなら血液型が合わないのは分かる。でもそれはタグチ氏も承知のはずだ。やっぱり浮気を疑った理由にはなり得ない」
フジワラは口をあんぐり開けて左上を見つめる。
「止めて。また阿保ヅラしないで」
「……もしタグチ氏が、そうとは知らずに親族の精子を使っていたなら……」
フジワラの顔は真顔に戻っていた。そしてそれはすぐに得意げな顔に変わった。
私とフジワラがお互いのコネクションをフル活用して探し出したのは、タグチ氏が利用したであろう闇の精子バンクだ。
着いてみると、そこは他のモグリの診療所より一層劣悪な環境であった。低所得の移民労働者向けの集合住宅の一室だ。
「闇整形事業と同じく、闇精子バンクにも需要があるんだろう。だが、ぼくがやってたような外科と違って、精子バンクは必要な器具が少ない。こんな狭いところでも上手く工事すれば収まりきる」
フジワラの解説を横耳にインターホンを押す。
「アポを取った第八〝自宮座〟の者だ。ウチの〝長老〟から話は聞いてるはずだ」
裏社会や非合法の場になると、ある程度強く出られることは有難かった。例の居酒屋やタグチ氏の実家の時より横柄に振舞える。
中から出てきたパンチパーマのアフリカ系の男は、私たちを中へと案内した。
「単刀直入に訊こう。タグチ・シンヤという男が最近ここに来たな」
男は流ちょうに返す。
「ああ。前に提供した精子の血液型を確認しにきた。ウチの精子は全てデータを残しているから、彼に教えることが出来てよかった。精子のデータは宣伝材料になるから大事ね」
「その血液型はなんだった?」
フジワラが食い気味に質問する。
「AAだったよ。でも少しトラブルがあってAOってことになってた。タグチ来る前に分かって良かったよ」
「トラブルについて詳しく聞かせてくれ」
「その精子のドナー、少しおかしな奴で自分の素性をところどころ出鱈目に書いてた。どうやら精子をいろんな業者に売ってたみたい。他のバンク経営者と話して分かったよ。他にもバンク当たってみたらAAのとこ多かったからAAに訂正しておいた」
「そいつの本名は知っているか?」
「知らない。でもそいつ、最初は合法のバンクでドナーやってたらしいから、そこまで遡ればいいよ。精子サンプルを貸してあげるから、そいつに照合するドナーの名前聞けばいいよ。もちろん、レンタル料は貰うけど」
「どうだった?」
公共の精子バンクに入れない私は、外でフジワラの帰りを待っていた。帰ってきたフジワラは胸糞悪そうに眉を潜めていた。
「ドナー名、タグチ・ヒデアキ。タグチ氏の父親だった。因みにAO型だったぞ」
「なるほど。じゃあ、タグチ・シンヤは自分の整形がバレないように、子種をバンクの物に取り換え、それがたまたま父親のだった」
「ああ、そして恐らくだが、父親も整形手術を受けている。多分、経歴詐称もやってるな、親子ともどもね」
「親子二人とも、自分を殺して顔を変え過去を変え、偽の自分を作り上げ、それで地位や伴侶を手に入れた。しかし父親もタグチ氏も自分の子供に悩まされた訳だ。その結果、自分の妻に父親の子を孕ませることになってしまったわけだな」
「結局、蛙の子は蛙ってことだな」
「まだまだ叩けば埃は出てきそうだけど、大筋はこれでほぼ決定だな」
「ああ」
「マキザワくん、君はそれをタグチ氏に教えるのか」
そう、私の依頼はタグチ氏に結果報告しなければ終わらないのだ。
「……止めておく。浮気は無かったとだけ伝えるよ。納得してくれなければDNA鑑定を見せる。タグチ氏は正直どうなってもいいが、子供がかわいそうだ。お前はどうするんだ?」
「……ぼくが夫人に近づいたのは、ヒロエ興業の差し金だ。ヒロエ興業と親しい人間がタグチ氏の同僚で、タグチ氏を目障りに思っているらしい。彼にはもともと美容整形の疑惑があったから、外科に詳しいぼくが夫人に近づいて疑念を植え付ける役を担ったんだ。そしたら君と出会い、思いがけない情報を手に入れてしまった。ぼくはこれをまるまるヒロエ興業に報告する。ぼくは彼らにいたく評価されるだろう」
フジワラが私を見る目が、何処となく悲しげに見えた。
「ぼくは君みたいに自分の利益を差し置いて、他人の為を思えない。ぼくは他の全てを捨ててでも夢を叶えたいんだ」
「私だって、そんな大層な哲学を持っているわけじゃない。ただ、罪悪感を味わいたくないだけだよ」
「そっか……罪悪感か。罪悪感なら……」
ブツブツとフジワラは独り言ちた後、急に天を仰いだ。
「なぁ、マキザワくん」
「ん?」
「君も〝マキザワでいること〟を辞めないか? 金なら貸してあげるし、ヒロエ興業に紹介して職場も提供してあげる。ぼくみたいに待遇の良い専門職には就けないかもしれないけど、経験を評価されれば諜報員くらいにならなれると思う。このまま〝特Ⅱ〟として生きていくよりずっと良いと思う。折角、股に傷を負ってでも娑婆に来たんだ。チャンスは掴まなきゃ損だよ」
フジワラは顔を下げない。それでも、私の答えは決まっていた。
「この社会では、奪われた私たちやタグチ氏だけでなく、普通に生きている人間すらが自らの顔を殺し、過去を殺し、挙句に自分の遺伝子すら絶やそうとしている。自分を殺しに殺し尽くして、一片すら残さないようにしている。こんな世の中はあんまりじゃあないか」
「ああ、しかしぼくたちはこの時代のこの場所に生まれ落ちてしまったんだ。自分でどうにか出来ないことを嘆くより、自分がやりたいことをやりきらなくちゃ駄目だよ。ぼくはどんな状況でも、最善を尽くして、悔いの無いようにしたいだけだ」
「でも、お前の生き方は狂ったイデオロギーに迎合しているだけだ」
「君はことを大きく捉えすぎだ」
「そのイデオロギーを破壊しないことには、次に繋がらないだろう? 私が楽しめたとしても、次の人間が同じようにチャンスを掴めるとは限らない」
「……君はつくづくお人よしだね」
「私は自分に嘘をつきたくないだけだ」
「そうか、じゃあ、さようなら」
フジワラ、もといツゲはこちらを振り返ることなく歩き続けた。こちらがさよならを言う暇は無かった。
道端には、コンクリートジャングルには不釣り合いな、綺麗な真紅の花が咲いていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?