ひとときの窮愁/四班

ひとときの窮愁
四班(瞳七絵・皇拓斗・平凡吉・燦敬)

【起】瞳七絵

 金木犀の香りに吐き気を催しながら、有澤ユキは学校からの帰り道を黙々と歩いていた。秋風に舞った土埃が黒ローファーを汚す。見渡す限り田んぼと民家しか無い、典型的な田舎町。小学五年生まで都内で暮らしていたユキにとって、この町はなかなか居心地が悪い。以前までと生活様式や人間関係が大きく変わったのももちろんだが、それよりも母が出戻りとしてこの町に引っ越してきたこと、町の地主である本家の人間がそんな母を良く思っていないことの方がユキにとっては死活問題だった。出戻り母娘に対する当たりの強さは想像以上のものだ。本家の人間に限らず町に住む大人達は全員そのことを知っており、それはもちろん子供達の間でも噂になっていく。「訳ありのよそ者」というレッテルを貼られたユキは中学校でも孤立気味である。

  嫌な町だ。ユキは歩きながらつくづく思う。いじめられているわけでもないし、嫌がらせをされているわけでもない。近所の人だって「あらユキちゃんお帰り」くらいは挨拶してくれる。それでもよそ者として扱われていることは明らかだ。学校でもこちらから話しかけたら答えてくれるものの、クラスメイトの方から話しかけてくれるのは連絡事項を伝えなければいけない時だけ。ペアワークで二人組を作る時はいつも余り者になってしまう。初めての日直の仕事も誰も教えてくれなくて、先生に注意されながらどうにか終わらせた。始めの頃は転校生だから仕方ないと思っていたが、この町にやってきて半年経っても友達ができる気配は全く無い。もうあと半年我慢すれば高校生になる。町の外の高校に通えばきっと孤独感も感じなくなるだろうと自分に言い聞かせながら毎日を過ごす。

  ユキは「有澤」という立派な表札が掲げられた木製の巨大な門の前で深呼吸した。ユキの家はここ本家の敷地内にある一軒家だ。門をくぐればどこで本家の人間が見ているか分からない。これ以上いらぬ詮索を受けないように、門の前で深呼吸し微笑を作るのがユキの日課だった。

 重い木製扉を開けると、目の前に大きな日本家屋がそびえ建っている。その左手前側にある白く小さな洋風の一軒家がユキと母の住処だ。


「ただいま」

「おかえりなさーい」

  元気な声がリビングから聞こえる。ユキがリビングを覗くと、母の春香は頰杖をつきながらいつも通りパソコンに向かって在宅の仕事をしていた。春香は身綺麗な母親だった。車で一時間かけて行く美容院は毎月欠かさないし、三ヶ月に一回はわざわざ都内のデパートに行って服や化粧品を買う。家事にも手を抜かないので家はいつでも綺麗だ。ユキは新築特有の木の匂いを吸い込みながら、つるつる滑りそうな廊下をゆっくりと歩いて玄関に戻りローファーを磨き始めた。しばらくして仕事が終わったのか、春香がリビングから顔を出す。ユキは手を動かしつつ言った。

「お母さん、私、白いスニーカーが欲しいな」

「あら、革靴じゃダメなの?」

「でも、みんなスニーカーなんだよね」

「そう」

  春香の声が微かに沈むのをユキは敏感に感じ取った。娘の学校での扱われようを悟ったのだろうか、ただでさえ母の華奢な体がさらに小さくなったような気がして、ユキはこんな話をしたことを後悔した。

「あ、でも、革靴の子もちらほらいるから、別に良いんだけどさあ。とりあえず多数派に従っといた方が良いかなあって」

  嘘だった。二十数人しかいないクラスメイトは全員スニーカーで登下校している。

「じゃ、今度の日曜日は東京にお出掛けしようか」

「え、隣町のショッピングセンターでいいよ。そっちの方が……近いし」

「そう? 東京の方が品揃えが良いと思うけど」

「確かにそうだけどさ、そこら辺のもので十分だよ」

 この町で悪目立ちたくないし、という言葉は呑み込む。

「そう。じゃあ今週末一緒に行こう。お夕飯できてるから、食べないならラップして冷蔵庫に入れてね」

「うん」

「学校で何かあったら相談するのよ」

「分かってる」

 ユキは春香がリビングに戻ったのを確認してからため息を吐いた。靴墨で汚れた手をぼんやりと眺める。

 この町は冷たい。都会とは違う、いやらしい冷たさ。無関心を装いつつ一挙手一投足を監視してくる。ハンカチやペンケースのブランド、言葉遣い、私服のセンス、果ては下着のブランドまで、クラスの女子達が親に告げ口してあっという間に町に広がる。そんな噂を聞きつけた本家の大叔母はたまにうちにやってきて「身の程をわきまえるように」と母に釘を刺すのだった。母はいつもぺこぺこと頭を下げるが、私と二人っきりになると「あんなの気にしなくていいから」と笑いながら言う。私も無理矢理笑い飛ばす。

  ふらふらと立ち上がり、ユキは自室に戻ってベッドに倒れ込んだ。スマホを確認しても通知は無い。秋虫の音を聞きながら胎児のように丸まる。

  東京に戻りたい。 ミホやアユミと一緒に中学校を卒業して、同じ高校に通いたかった。高校生になったら都内のお洒落なカフェ巡りをしようとか、夏休みまでに絶対彼氏作ろうとか、そんな話をして盛り上がっていたのが懐かしい。二人とは転校した後も頻繁に連絡を取り続けていたけど、最近はあまり返信が返ってこない。そのうち私のことなど忘れていくのだろう。仕方のないことだけど、やっぱりたまらなく悲しい。

  明日の準備をしなきゃ。ユキはベッドから起き上がろうとしたが眠気に襲われて何もできない。もうどうにでもなれ、と呟きながら眠りに落ちていった。


【承】皇拓斗

 ぼんやりとした視界の中。深い闇に覆われた、歪んだ世界。一筋の光を追い、ユキは暗闇から抜け出すべく必死に走り続けていた。

 だが、どれだけ全力で逃げようと試みたところで、その禍々しい影はユキを取り込もうとするのをやめはしない。それだけではなかった。その影は、着実に距離を詰めてきている。どういう訳か、身体に重石のようなものを縛り付けられたような感覚に苛まれ、自身を望む方向へ思い通りに進ませることができないのだ。影に潜む、背筋の凍るような視線を感じながら、恐怖に支配されたユキは後ろを振り返ることもできず、影の正体を突き止めることさえ叶わない滑稽な状況へと追いやられている。お前は異端者だ、まがいものだ。消えてしまえ。そんな罵声を浴びせられているような錯覚に陥り、心が張り裂けてしまいそうになったユキは、このまま消えてしまいたいと————そう願った瞬間だった。世界は暗転し、目の前には見覚えのある光景が広がった。

 ここが自室の天井であることを認識すると、どうやら悪夢に魘されていただけだったということを理解した。荒い呼吸を整え、ユキは再び眠りにつこうとするも、幾度となく同じような夢を見てしまい、結局、寝不足のまま日曜日の朝を迎えることとなるのだった。


 この歳になってまで隣町のショッピングセンターへ向かうのに、わざわざ母親がついてくるというのは如何なものか。確かに、車で行く方が時間的にも金銭的にも効率が良いのかもしれないが、そんなことは今のユキにはどうでも良かった。よくよく考えれば、近場の方が顔見知りに出会す可能性は高い。それなら、東京でそこそこの運動靴を買う方が良かったかもしれない。いくら隣町とはいえ、ここも田舎の一角であることに変わりはないのだから。言わずもがな、客数は少なくふとした際に見つかってしまうかもしれない。恐らく、知り合いの知り合いくらいはいるのだろう。

 そもそも何故こんなにも敏感になっているかと言うと、心の底から母と一緒にいるところを誰かに見られたくなかったからだ。理由は単純、『訳あり母娘』だからである。ユキはなんて浅はかな提案をしてしまったのだろうと落胆した。尤も、あの時は母の顔色を窺っており、そこまで思考が回らなかったのだから仕方がない。そう何度も自身に言い聞かせることしかできなかった。

 さて、憂鬱な気分を紛らわせようと、ユキはお気に入りのプレイリストを開く。曲目を眺めながら、自分がまだ東京にいた頃、放課後はよくカラオケでミホやアユミ達とふざけ合い、盛り上がっていたことを思い出し、哀愁の風に吹かれてしまった。だがイヤホンで両耳を塞ぐと、どこからか安心感が芽生え始めていることに気づく。恐らく、母と余計な話をせずに済むからなのだろう。ユキは無意識のうちに、母である春香とはなるべく関わらないようにしようと、見えない壁を造り始めていたのだった。


「いらっしゃいませ」

「スニーカーが欲しかったのよね? これなんてどうかしら? ピンク色のラインが入ってて……」

「お母さん、私、これが良いな」

 言葉を遮り、春香が手を伸ばしたものとは全く異なった飾り気のないスニーカーを指差す。正直なところ、あまり長居はしたくなかった。もし知り合いに見つかってしまえば、色々と面倒なことになるだろう。変に気を遣われたり、どこか疑いを掛けられたくないと考えていたユキは、春香の返事を聞かず、その運動靴を店員に渡し黙々と試着をし始める。ユキには、とにかく早く帰りたいという気持ちでいっぱいだった。

 ————帰りたい。実家ではなく、東京に。戻りたい、楽しかったあの頃に。


「ありがとうございました」

 その後も何度か試着を勧められたが、店員と母には嘘をつき、少し大きめのスニーカーを買ってもらうことになった。ぴったりのサイズを探すのに何度も履き直せば、時間を要してしまう。その上、春香が次から次へとさまざまな種類のものを履かせようとしてくるのだ。ユキにはそれがうんざりだった。

「そういえば、ご飯まだだったわね。何か食べる?」

「お腹空いてないから、私は大丈夫」

「……そう」

 やはり多少は察しているのだろう、娘が母を避けているということを。春香は少し俯いた様子で返事をした。

「それじゃあ、お母さんはちょっと見たいお店があるから、少し待っててもらってもいい? もしお腹が空いた時の為に、お金、渡しておくわね」

 そう言うと、母はいかにも高そうなお財布から紙幣を数札取り出し、娘へと差し出した。

「ありがとう。用が済んだら、また連絡してね」

「ええ」

 ユキは受け取ったお金をしまうことなく、春香に背を向け、その場を後にするのだった。


【転】平凡吉

 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 ユキは母から渡された手の中にある数枚の紙幣をポケットに無理やり押し込んで考える。


 私の今までの十八年間の人生で大きな事件は二度起きた。



 一度目は小学五年生の時。朝起きると家から父がいなくなっていた。母に疑問を投げつけてみても、答えは返ってこない。

 おそらく当時の私は今よりずっと純粋で幼かったので、起きたことに対してそこまで深く考えることはなかったのだと思う。

 都内を出て少し田舎に引っ越したけれども、通う小学校だって進学した中学校だって周囲と同じだった。それにどこのクラスにも一人か二人、もしかしたらもっと多いかもしれないが、産まれた時から父親がいなかった家庭もある。元々仕事で遅くなることが多く、朝か日曜日しか見なかった父のことだ。今は仕事でどこか遠くへ行ってるだけでいずれ戻ってくるだろう。

 小学五年生の私はそう考えた。


 しかしそれから少しだけ歳をとった私は、二度目の事件で非情にも現実を突き付けられる。

 この日の事はもううろ覚えの部分もあるが、おそらく今後の人生で完全に忘れることは決してないだろう。


 中学校に進学した私は、ほぼ毎日放課後はミホたちと都内で遊んでいた。母親を説得し、都内の学校には何とか継続して通わせてもらえたが、引っ越した家の周辺には遊ぶ場所がほとんどなかったし毎日一人だったからだ。それに私の通った中学校では、近隣の学校とは違い部活動が強制されていなかった。そのため放課後のあり余った勉強に費やす者もいれば、自主的に部活動に参加する者、付近の娯楽施設で青春を謳歌する者と様々だった。今思い返すと生徒の自主性が尊重されたいい学校だったと思う。

 その日は定期試験期間ということで、私たちに遊びに行くほどの余裕はなく、テスト前くらい勉強しようという意見が仲間内で多数を占めた。

 家が学校に近い面々はファストフード店や喫茶店で勉強をしようと早々に学校をあとにしたが、通学に時間のかかる私は教室で皆と別れたあと早々に帰宅することにした。テスト前の学校の図書館など動物園に等しいし、ファストフード店や喫茶店にしても同様だ。それに母は在宅勤務ではあるが、日頃から喫茶店やファミレスで仕事をしていることが多かった上に、自宅の周辺は常に怖いくらい静かだった。

 私は家で一人であれば集中できるだろう考え、まっすぐ家に帰ることに決めた。


 通学路は余程遅くならなければ治安が悪くなることはなかった。数ヶ月前に一度だけ夜の十時すぎに帰宅した時には、酔っ払いの大きな声が補導されるかもしれないという不安を掻き立てて、とても心細かった。それに帰宅後、遅くなることを友人の携帯電話で連絡はしていたが、家の明かりは既に消えており一層の不安と心細さを感じた。

 中学校の正門から人通りの多い道を五分ほど歩くと、都心の中では小さめの駅に辿り着く。昼間の空いている電車には当校の学生よりも、隣駅にある大きな付属中学の学生の方が多かった。乗車後、たくさんの人が乗降者する賑やかな駅をいくつか通り過ぎ三〇分ほどすると、次第に人が少なくなっていき、私の乗り換えの駅に到着する。先程とはうって変わって、小さい駅の間を時間をかけて走行する列車はとても静かで教科書を読むのにうってつけだった。私は久々にこの時間に乗ったな、とどうでもいい考えに脳を使いながらも目線だけ教科書に落とし、また三〇分ほど揺られた。人気のほとんどない電車を降り、掘っ立て小屋のような駅舎で定期券を駅員に見せて住宅街を進む。

 不気味なほどに静かな家々を抜けると、小さくはないが陰気なアパートが見えてきた。少し古くなり建付けが悪くなったドアノブを回すとガチャリ、と静かに戸が開く音がした。

「あれ」

 私は不意に素っ頓狂な声を上げてしまった。母が家で仕事をしているのだろうか。それならば家に帰ってきたのでは仕事の邪魔をしてしまうことになる。そう考えながらもドアを最後まで開けた私は気付いた。

 水の音がする。

 キッチンか、洗面所か、お風呂場か。

LDKが一体になった二十畳弱の部屋へ入る。部屋の明かりは完全に消えており、カーテンも閉められて昼間とは思えない暗さだった。
 キッチンカウンターへ回り込み確認するが水は出ていない。であれば洗面所かお風呂場だろうか。

 それにしても家とはいえ、女性一人で鍵もかけていないのは不用心ではないだろうか。
 声をかけようと洗面所に歩みを進める。
 
 横に扉を開くが中には誰もおらず、水の一滴も垂れてはいなかった。

 おかしい。

 母はこんな昼間から明かりも付けずに、お風呂に入っているのだろうか。

 ここにきて私は大きな違和感を感じ始めた。 


 明かりは付いていない。

 服を脱いだ後も着替えもない。

 しかし水の出ている音がする。

 蛇口の水を出しっぱなしにしているのか。

 几帳面な母の性格から考えてもそれはありえない。


 私は風呂場の明かりを付け、ドアを開ける。

 なにかが引っ掛かりドアは途中で止まった。

 洗面所と浴室を区切るすりガラスからは母の小さくなった姿が見えた。

 そしてドアの下から見える浴室の床には赤黒い液体が側溝へと絶え間なく流れ出ていた。


 私は父に電話をしたのか。

 冷たくなりつつある母を浴槽から引っ張り上げたのか。

 救急車を呼んだのか。

 全部やったと思うが、最初にどこから手を付けたのか。正直ここから先のことはあまり覚えていないし、思い出したくもない。ただ真っ先に到着したのは救急車で、その後の病院で見覚えのない二人の老人が訪れてきたということは記憶にある。そして、私がどれだけ待っても父が来ることはなかった。



 回想に耽りながらショッピングセンターをぶらつくこと一〇分。ここで私は初めて、母がどこでいつまで買い物をするか聞くのを忘れたことに気付いた。かと言ってもわざわざ連絡をするかとなると、それも面倒だ。

 私はどうしたものかと考えていると、視界に見知った喫茶店が入った。今の近所には一軒もないが、少し前は季節の限定品が出る度に、ミホやアユミと足繁く通った店だ。僅かに肌寒さを覚え始めた私は、ポケットの中に母から受け取った紙幣があることを再確認し喫茶店に入った。

 店内は暖房が入っていたわけではなかったが、日曜日ということもありそれなりに混雑しており、人々の熱気で茹るようだった。店内の雰囲気に懐かしさを覚える。人々は会話や手元の端末に夢中になり、前後左右に座る人のことなど微塵も気にしない。都会特有の田舎では見られない空気だ。隣町とはいえここも十分田舎ではあるはずだが、それでも店内は別世界のようだった。私は母と落ち合う時に見つけ易いように、と両隣が空いている窓際の席を取りカウンターへ並ぶ。

 肌寒さを感じていたが、店内のディスプレイの『フラペチーノ』が目に留まる。シェイクやスムージーに似た冷たい飲料。今飲むには少し寒いかもしれない。しかしカップの上に盛られた生クリームや甘いソース、チョコチップに懐かしさを覚え、つい癖で注文してしまう。

 座席へ戻り、ストローを口した瞬間に広がる甘い香り。私は家へ帰りたい、ここではなく元いた場所へ。今までよりも一層強くそれを感じた。

 当時、高校生であった母もこの空気に当てられて、都会へ想いを馳せたのだろうか。



 母の搬送された病院に訪れた二人の老人は私の祖父母であると名乗った。

 腰は曲がっていないが、老齢している印象の二人は田舎で年金暮らしをしているおしどり夫婦というような感じで、私とは全く別世界の人間のように思えた。

 二人は母が目覚め、病院が面会を許可してくれるようになり、退院できるようになるまでの間の私の身の回りの世話をしてくれた。世話と言っても料理や洗濯、掃除は一人できるので、学校に行っている間の家の留守を任せていただけではあるが。そんな老夫婦は私の知らない、まるで別人のような母の話をしてくれた。

 本家の長女として産まれ、その一年後に産まれた長男へ嫉妬していたこと。

 年中反抗期と呼ばれ、親戚どころか家族にも好意的ではなかったこと。

 それでも成績だけはよく、単身上京し、高校生の頃は連絡を定期的に取っていたが、大学生になってからは全く連絡を寄越さなかったこと。

 一度は切れてしまったとの縁が徐々に復活しだすのは、現在から四年前、私が当時小学五年生だった頃だったらしい。それは母と本家との繋がりが切れてから実に十六年後のことであった。

 思うに母は一刻も早くここから抜け出したかったのだろう。赤の他人からだけでなく、身内からも監視されるこの社会から。幸いにも成績が良かったことから将来を理由に母はこの小さな牢獄から脱出することができた。しかし結局は失敗し、心の病を理由にまた牢に戻された。今度はその娘も共に。

 一つだけ幸いだったことと言えば、本家の敷地内とはいえ戸建てをあてがわれたということだ。本家を継ぐ予定の長男一家が実家に住み着いていること。そして出戻り娘が心の病を患い、子供がそれなりに大きくなってしまっているということを考えると納得できなくもないが。



 ユキが都会の空気を懐かしみながら、物思いに耽っていると窓越しに見覚えのある顔が喫茶店のガラス越しにこちらを覗き込んでいた。


【結】燦敬

 それは確かにミホとアユミだった。

 東京にいるはずの彼女らがなぜこのショッピングモールにいるのだろう。

 
 突拍子もないことが起きると人間は思考が止まってしまう。数秒の間、ガラスを挟んで三人は見つめ合う。

 とりあえず声をかけなきゃ、と口を開いた瞬間、二人は私から視線を外した。そして何か楽しそうに話しながら、店先から立ち去っていく。


 飲みかけのフラペチーノを持ったまま、喫茶店を飛び出した。二人に話したいことがいくつもあった。

 今自分が抱えている悩みのこと、それから逃れるためにまた三人で遊びたいという想いを伝えたかった。


 いつのまにかフロアを一回りしていた。すぐ後を追いかけたはずなのに、二人はどこにもいなかった。雑貨屋にも、CDショップにも、本屋にもいない。


 くたびれて休憩用のソファーに座り、しばらくすると買い物を終えた母がやって来た。

 また二人に会えるという期待が空回りして落ち込んでいる私とは対照的に、良いものを買ったというその顔には笑顔があった。


 周りののどかな景色に似つかわしくない灰色の建造物、立体駐車場から車が出る。そこから幅のある県道に入り、私たちは帰路につく。


 夕暮れ時、交通量の多い交差点で信号待ちをしていると、緑色の看板が茜色の空の中で映えていた。

「高速道路 東京方面入口 2km先」


 行こうと思えばいつでも東京には行ける。しかし、そこにはもう私たちの家はない。あの町で生きるしかない。
 
 ここから東京に、あの楽しかった毎日に戻りたいと思うあまり、私は白昼に旧友の幻覚を見てしまったのかもしれない。


 東京は多くの人々にとって目的地だ。故郷を離れ、夢を叶えるための。
しかし私は違う。私にとって東京は故郷なのだ。幸せな時間を大切な人と過ごした場所だ。


 簡単にあの町で生きることを諦めて故郷に戻ることはできない。あと数年耐えて、もう少し大人になったら故郷に、東京に戻りたい。陽が落ち、まばらに灯りがともり始める町を眺めつつ、そんなことを考えた。

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