少女たちの罪/五班

少女たちの罪
五班(ぬ・na・あきみ)

【起】ぬ

 巨大で複雑な駅構内。内外にある様々な店。沢山の路線に数分毎に来て大量の人間を呑み込み吐き出す電車たち。構内にも車内にも至る所に貼り出された広告。いちいち全ての規模が大きくて、大金の循環を感じて圧倒されてしまう。地元の電車なんて、一度は廃業の話も出たほどの財政難を押してなんとか走っているくらいなのに。やっぱり都会は金があるなぁとやりきれない気持ちになる。

 金があるのは大層なことだが、掃いて捨てるほどの大量の人々は、人間の集団が嫌いな私には辛かった。電車が大量の人間を詰め込んで走っているのを見ると、どうにも人間が運搬される物みたいに見えて気持ち悪い。

 ゴールデンウィークになってやっと、引きこもり精神に鞭を打ち、上京して初めて外に遊びに出た。どうにか待ち合わせ場所に着いたは良いものの、この人だかりの中からいちいち背格好や顔を確認してどれが友人か特定しなくてはいけないなんて、本当に勘弁してほしい。

『ついた』

 手元のスマホに打ち込んで送信したとほぼ同時、「優奈」と声をかけられそちらを向くと、里穂が立っていた。

「わお」

 意外にも即座に合流できて面食らいつつ、「よー」と気の抜けた挨拶を交わす。

 制服姿か学校ジャージ姿ばかりを見ていた里穂の私服姿を見るのは珍しいことだった。大学生になってお互いメイクも覚えたので、少し垢抜けて印象が変わっている。学校での里穂は、特段女らしさも男らしさも有しない独特な雰囲気があったが、今日の里穂の私服は女の子らしい服装だった。しかし、猫背が服の可愛らしさを台無しにしている気がする。

 私は地図アプリを立ち上げて、目的地である美術館の名前を打ち込み歩き出したが、「お昼食べよー」という里穂の要請を受けてどこかレストランを探すことになった。

 馬鹿でかい交差点の前で立ち止まり、既視感に首を傾げる。

「あれ? なんかこの辺、中学の修学旅行の自主見学で一緒に来たような。あれれ? 中学のとき、修学旅行、一緒の班だったっけ」

「そうだよ。え、忘れてたの? この辺の博物館と美術館と科学館、一緒に見たじゃん」

「え、あら。そう。そうだっけ。じゃあ、お昼は自主見のとき行ったフードコートでいっか」

「ん、いんじゃない」

 私が以前東京に来たのは、中学の修学旅行のときと、高校生の頃に大学のオープンキャンパスを見に来たときの二回だけだ。どちらもろくろく周りを見ることもなく、クラスメイトや親に道案内を任せてついて歩いていただけだったので、道のりに関しての記憶が薄かった。しかし、自主見学の最中、昼食をどこで食べるかが審議になって、周りを見回して自分の意見を言うことになったから、昼食を食べた場所だけはよく覚えていた。


 パスタを目の前にしてから、さして食欲が無いことに気づいてしまい、取り敢えず水を飲んだ。

「そういえば、大学はどう?」

 いつも会話はおしゃべりな私から始まる。

「スペック反則な人がいっぱいいる。帰国子女とか、英才教育半端ないのとか、いっぱい。経済学部入れるかなあ。」

 里穂にしては珍しく食い気味に答え、うんざりした顔を見せたので、これは相当思うところがあるらしい。

「マジか。そうだよなあ。君の大学、他は誰が受かったの? 確か、三人受かったって聞いたけど」

「佐野と、高木」

「え、へーえ。高木が志望してたのは知らなかったな。……珠理奈と紀子は仙台にいるらしい。通話してると、よく飯食おうって約束取り付けているのを聞く」

「通話?」

「うんそう、なんかよく通話するんだ。三時間とか五時間とか繋げっぱなしで、それぞれ好きなことしてるの。一人暮らしは寂しいからね」

 里穂はこういった馴れ合いは好きじゃなさそうだから、誘おうと思ったこともなかった。実際、「通話してみる?」と軽く聞いてみたら「いやいい」と即座に断られた。

「ね。そういえば、理子さんはどこの大学に行ったの?」

 里穂と理子さんの関係は気になるところだった。里穂と理子さんは中学生の頃に定期試験や県内模試の成績で上位争いをしていた。大体理子さんの方が勝つ。里穂はそんな理子さんを一目置いていて仲が良かった。里穂は移動教室や休み時間はほとんど私と行動していたが、放課後は里穂と理子さんは同じ演劇部で活動していて、なんだかんだ私といるときよりも、理子さんといるときの方が生き生きして楽しそうに見えた。その理子さんに対する里穂の感情を、私は気に入っていたのだ。

 しかし、中学三年生の秋頃から、二人はだんだん疎遠になったみたいだった。同じ高校に進学した後も、部活も塾もクラスも別になって、現在の里穂と理子さんの関係性がどうなっているのかが気がかりだったのだ。

「うーん、ちゃんと聞いたわけじゃないんだけど、理子は志望校落ちて浪人してるっぽい」

 ちゃんと聞いてない、ってことはやっぱり、もう二人はほとんど交流がないと見て間違いないようだった。ちょっと悪いこと聞いちゃったな、と気まずさで目を伏せる。

「そっか。奏はね、地元の大学に進学したみたい」

 里穂にとっての理子は、私にとっては奏である。中学生の頃同じ部活でお気に入りだった利発な女の子。奇しくも、里穂と理子さんが疎遠になる頃に、私と奏の関係も希薄になっていった。

「仙台の大学院に行きたいらしいんだけど、そのお金を考えると、学部は地元じゃないと無理なんだと」

「あー、そういえばそんな話ちらっと聞いたような」

「え? 里穂って奏と繋がりあったっけ?」

 疎遠になった私が奏の進路の話を聞き出せたのは、ほぼ奇跡みたいなものだったのに、どうして里穂が知っているんだ。思わずパスタから顔を上げて里穂を見ると、「あー、ほら、私、偶に合唱部の助っ人やってたから」と苦笑いしながら答えた。

「合唱部」

 嫌な単語に顔をしかめて黙り込み、パスタをくるくるとフォークに巻きつける。

 私も一年生の頃に一度、合唱部の助っ人でコンクールに出たことがあった。当時は正式な部員は奏ともう一人女子がいるだけで、あとはピアノ伴奏者として奏の彼氏が一緒に活動していた。私は中学生の頃に奏を殺意を抱くほど溺愛していたから、一度疎遠になった奏と再びどういう距離で関われば良いかわからず、高校に入って知り合ったばかりの部員と仲良く一緒に活動していることに嫉妬し、彼氏がいることをどう受け取れば良いのかわからないまま、合唱部に居場所を見出せずに助っ人を辞めてしまった。

 『愛してるよ』と確かに言った、熱の籠った奏の眼差しを思い出したところでその思考を追い払う。

 話題を身近な人間関係から大学の授業内容に転換してお喋りをしつつ、昼飯を食べ終わると里穂と美術館へ向かった。


【承】na

 五月の上野は初夏の様相をしている。コンクリートに囲まれて逃げ場を失った熱気が、車や人々の間で膨張しているの感じた。行き交う人々の多くは腕や脚を出していて、中には日傘を差したりサングラスをかけたりしている人もいる。隣を歩く里穂も半袖のワンピースをまとっていて、私はフードコートを出る際に薄手のアウターを脱いで腕にかけていた。

「あっつ……ねえ、もう美術館やめて、どっか涼しいとこ入ろうよ」

「だめ。ほら、頑張れ元合唱部」

「助っ人だし、里穂もだし……」

 甘えたことを言い出す私を突っぱねる里穂も、額や首にじっとりと汗をかいている。白く長い首に汗がひと粒浮いて、鎖骨へと流れてゆく。それを指先で掬おうとした時、すぐ近くを家族連れが横切り、我にかえって手を下ろす。一連の流れに気が付かなかった里穂は、あつい、とただ呟いた。

 ゆるやかな坂を人々にまぎれながら進むと、上野恩賜公園が見えてくる。入り口でみずみずしく生い茂る新緑が、辺り一面に濃紺の影を作っていた。おぞましく照りつける日光から逃れるように、人々はぞろぞろと木陰の中に入ってゆく。里穂もそれに続くので、後ろをついていく。

 一面のコンクリート・ジャングルに突如として出現した緑の森は、もはやバグのようだ。森。そう、公園というよりは森だ。巨大な森が、人々を飲み込んでいく。

「涼しい」

 隣の里穂が呟いて、そっと目を細めた。その姿が猫に似ている。

 美術館は敷地の中にある。里穂が場所を覚えているというので、私は何も考えずに横を歩き、気ままに景色を眺めることができた。敷地内にはカフェや博物館などもあって、時間があったらあとで寄りたいね、と話した。

 何度か道を曲がって歩いていると、緑の消え失せた開けた場所に出た。木々に侵食の余地を一切与えない、堅い石の庭。その中央に、ありとあらゆる丸みを削ぎ落とした、壮麗な灰色の建物が鎮座している。空を遮る木々が無いから、天からは陽光が一心に降り注がれていて、それはいっそ異様な光景だった。

 したたるほどの光の中に、国立西洋美術館は悠然と佇んでいる。

「いこ」

 ぼんやりとその場で立ち止まっていると、私が付いてきていないことに気がついた里穂が振り返り、私の手首を掴んで引いた。

 里穂の暗い茶髪が、光の下にさらされて亜麻色にきらきらと光っている。指先でひとふさ掬うと、それに気づいてまた振り返る。振り向きざまに指からすり抜けた髪が、踊りながら金糸のように輝いた。

「なに」

 少しはにかんだ里穂が、きゅうと眉根を寄せて目を細めた。

 外の受付でチケットを購入し入館する。館内は冷房が効いていて随分と快適だった。肌寒くなりそうだと感じ、腕にかけていたアウターを腕を通さずに羽織る。

「私も着てくればよかったな」

 半袖から伸びた腕をさすりながら、里穂が言う。里穂の腕は日に焼けておらず、病的なほど白い。昔からそうだったなと思いながら、「着る?」と肩から薄手のブルゾンを外そうとすると、いいよ、と止められる。その代わり里穂のすべらかな腕が私の肘をするりと通って、つまり、腕を組んで寄り添う体勢になった。その状態のまま黙って展示室へ向かおうとするので、私も何も言わず好きにさせる。冷めている癖に変にこういうところがあるんだよな、とばれないように少し笑う。里穂の腕は冷たくてきもちがいい。

「何から見る?」

「順番でいいんじゃない」

 さして興味のなさそうに里穂が言う。私も芸術に特別関心があるわけではないので、そうね、と賛成した。

 展示室は案外空いていた。あの膨大な数の人々はどこに行ったんだ、と思ったが、動物園や科学博物館に集まっているのかもしれない。その証拠に子供を連れた家族はほとんどおらず、若者や老夫婦、それから外国人観光客がちらほらと見えた。どうやらゆっくり回ることができそうだ。私たちは幸運だと笑い合った。

「なんか、よくわかんないけど面白いね。これほんとに人間が描いてんのかな」

「ね。機械が描いてんじゃない」

 そう言って、里穂が楽しげに笑いながらわたしの肩に寄りかかる。興味が薄いわりには、ふたりとも十分に楽しみながら展示室を回っている。里穂曰く、私も里穂もここを訪れるのは二回目だと言っていたが、私はほとんど記憶が無いので新鮮な気持ちで楽しむことができた。中学の頃だったし、記憶が薄れているのは当然かもしれない。むしろ忘れていてラッキーだとすら思う。

「そういえばこういうの、理子さんが詳しくなかった?」

 レストランで気まずい思いをしたことを忘れて、つい理子さんの話をしてしまった。確か理子さんが絵画とか彫刻とか、そういうものに関心があったことを覚えていたからだ。しまったなあ、と密かに思ったが、里奈はさして何も感じていないような表情で、「そういえばそうだったね」と、目の前の絵画を見つめたまま言った。

「……ねえ、理子さんとはもう連絡取ってないの」

 流れに乗じて尋ねながら、絵画に目を向けた。ひとりの女が腕に花を抱いて、たおやかに微笑んでいる。青みががったグレーの瞳が蠱惑的に細められ、ねめつけるようにこちらを見つめていた。

「あいしてるよ」

 それが、あの日の奏と重なった。


 奏のことが好きだ。

 それをはっきりと自覚した時、百花が乱れ咲くようなよろこびと、業火に身を焼かれるような絶望を味わった。十四歳の夏のことだ。

 恋愛というのは、さながら一種のバグだ。同性しか好きになれないというならなおさらか。例えば、コンクリートを飲み込む森のように、こころや体を飲み込んで滅茶苦茶にする。

 恋とは罪悪だと誰かが言う。そうですねと私は笑う。私の罪とは一体なんだろうな。列挙しようとすれば無数に思いつくのがおかしかった。同性を愛したこと。ふれたいと思ったこと。奏とのありえない未来を、あさましく夢みたこと。だけど私の最大の罪は、このおぞましい感情を奏に知られてしまったことだ。私は奏に知られることを一番に恐れていたから、当然細心の注意を払っていたし、完全に隠し切れていると信じていた。こころは操作できないが、体はそれができる。だからなぜ奏に知られてしまったのか、全くわからなかった。

 けれど、今ならわかる。笑ってしまうほど簡単なことだ。きっと、隠し切れてなんていなかったのだ。声やまなざし、ふれる指先から、奏への感情が滲み出て滴ったのだろう。だってどうしようもなく好きだった。ほんとうに、好きだった。

『私のことが好き?』

 そう尋ねる奏は、既に答えをわかっているようだった。返事を待たずに、ただ私にくちづけをした。

『愛してるよ、優奈』

 奏が男と寄り添って微笑んでいるのを見たのは、そのすぐあとのことだった。あのふたり、付き合ってるんだって。誰かの言葉が、今も耳に残って離れない。あの時、わたしは上手くやれていただろうか。ちゃんと、笑えていただろうか。ひどいな。こんなのは、ひどいな。

 地獄によく似た恋だった。或いは呪いだ。私の耳元で一生涯囁き続ける、呪いだ。


「優奈」

 里穂に呼ばれて我に帰る。気がつけば視界はぐらぐらと揺れていて、全身が汗ばんでいた。ゆっくりと顔を上げると、里穂がまっすぐにこちらを見つめていた。私の腕に絡んだままの里穂の冷えた腕に、ぎゅ、と力がこもる。ひゅ、と喉が鳴った。胃から何かがせり上がりつつある感覚がして、咄嗟に口を押さえる。里穂が微笑む。どろどろになったパスタは見たく無いなと、頭のどこかで思った。

「奏のことが好きだった?」

 里穂は囁く。唇が薄く笑っている。
「それとも、今も好き?」

 里穂のこの瞳が苦手だった。なにもかもを見透かしている。私のこころや、過去や、すべてを。


【転】あきみ

 未消化の食物が私のお腹を駆け巡っているのを感じる。正気の薄膜は一触即発だった。周りは酷く静かなのに、私はひっそりと半狂乱に陥っていた。

「大丈夫?」

 感情を誇張したような、茶番染みた声色で里穂が尋ねる。

「大丈夫」

 そんな訳ないって分かってるくせに。精一杯作った笑顔の端が引き攣っているのが、自分でも分かった。

 すると里穂は突然、私を熱く抱擁した。いつの間にか彼女の瞳から、あの暗い輝きは消え去り、今は慈母の様に優しい温かさが宿っていた。

「我慢なんてしなくていいよ……私が側にいるからね……」

 張りつめていたものが出口を求めるように、私は里穂の胸に顔を埋めた。甘い柔軟剤の香りが鼻腔を満たす。布越しの薄い脂肪から、里穂の落ち着いた心音が伝わってきた。私はただ里穂にしがみつき、泣き出してしまいそうなのを堪えていた。

 しばらくして里穂は、その細い指で私の髪を掻き分け、耳に唇を近づけて――まるでキスするかのような格好で――そっと囁いた。


「私が呪いを解いてあげるから」


 里穂は無邪気な声で笑うと、一連の出来事が無かったかのように「ほら、あっちも見に行こ」とはしゃぎながら、かつての調子で私の手を引いた。私は拍子抜けしたように唖然とした。一抹の不安を残して。


 里穂は「見て見て」「面白いのがこっちにあるよ」などと言いながら私を美術館のそこかしこに連れまわす。里穂のそんな様子を見ていると、先程の私は白昼夢を見ていたのではないかとさえ思う。今の状態が嵐の前の静けさに思えて仕方がなかったが、先程の件について問い質すことも出来ない。訊いてしまえば、きっと白昼夢は現実になってしまう。けろっとしている里穂を見ていると、このまま何も起こらないのではないかという全く無根拠な考えが頭を擡げる。そんな希望的観測が思考に麻酔をし、いつの間にか本来の予定通り二人で美術館を楽しんでいた。ただなんとなく里穂にペースを握られているような感覚だけが、喉につかえるようだった。

 私は花を抱いた女性の絵画の記憶を忘れようと、里穂に連れられる先々で美術品を子細に鑑賞した。そのうち、自分が芸術というものを何とはなしに楽しめているような気がした。

 里穂も「色使いがいいねぇ」とか「おぉ……これは深いよ」とかそれっぽいことを言い始めていて楽しそうだ。

 と、急に里穂が足を止め、壁に飾られた巨大な絵画に見入っていた。そこは宗教画を特集した展示場所だった。

「どうしたの?」

 私は里穂に声を掛けつつ、その絵画を見る。

 そこには入り乱れる男性の集団が描かれていた。彼らは阿鼻叫喚の大乱闘を繰り広げている。しかし、絵の中で最もスポットライトが当てられている男性二人は少し様子が違った。一人は髪を長く伸ばし、髭を蓄えた面長の男性で、双眸に諦観の色を浮かべ、周りの男たちのなすがままになっていた。もう一人は黄衣を纏っていて、これもまた髭を蓄えた男性だ。黄衣の男性は、先程の長髪の男性を抱き寄せ、その頬に口付けせんとしている。しかし、その表情には愛憎が入り混じったような、それでいて不敵な笑みのようなものが浮かべられていた。

「あー……うん。なんか、ね」

 里穂は曖昧に返事をする。

「気に入ったの?」

「……うん、まぁそんなとこかな! 次見に行こ、次」

 はぐらかすような里穂の態度に、彼女の奥底にある何かを感じたが、私は気が付かないようにして先を行く里穂の後を追った。

 宗教画の展示を後にすると、美術館の出口に着いてしまった。

「案外早く着いちゃったね」

 少し手持無沙汰に里穂は私に尋ねた。

「そうだね、里穂は楽しめた?」

「うん、まぁ概ね期待通りって感じかな」

「なにそれ」

 的のずれた里穂の返答を茶化すように言った。

「なんとなく私が予想していたものを超えることも下回ることもなかったかなって」

「つまり?」

 里穂は笑みを浮かべてこちらに振り返る。

「つまり、楽しかったってことだよ。優奈はどう?」

「私も楽しかったよ」

 あの一件さえなければ、素直にそう思えただろう。


 人、人、人。帰りの時刻でもまた、駅の中は人で溢れていた。汗、体臭、皮脂。そんなものに揉まれて帰らなければならない事実に気が滅入る。自分でも馬鹿らしく思うが、私は興味のない人たちを不潔だと感じる。無関心の代わりに強い拒絶感を覚えるのだ。私が主観的価値を見出せない人間は汚らしい肉人形でしかない。なんて幼稚で我儘だろうとは重々承知しているが、ほとんど強迫的に起こるこの感情は、いつも拭いきれず頭蓋の裏にこびり付いている。ハンカチを取り出す。いつも外出する時には御守りのように持ち歩いているものだ。消毒液を染み込ませてあり、私はその匂いを嗅ぐ。病院のような香り。自分が一時的に不浄なものから切り離され、どこか悪いところを治してもらえる気分になれる。これで少しは落ち着くことが出来る。

 里穂がいることもこの中では救いだろう。友人が一人でもいれば気が紛れる。知らない人間と密着するほどの距離による不快感を、よく見知った人間との心的繋がりで、なんとか打ち消すことが出来る。幸い、私の住むアパートの最寄り駅は、里穂より上野に近い。そのため、行きと違って、私はこの奴隷船のような電車に乗っている間、ずっと里穂にそばにいてもらうことが出来る。私が降りた後、一人でそれに耐えなければならない里穂に、ちょっぴりの罪悪感を覚える。

 電車が来るとホームに待機していた人々は、それまで作っていた列など建前に過ぎないように、我先にと車内へと這入る。その流れに乗るようにして、私も中へと乗り込む。しかし、電車が出発すると、側に里穂が居ないことに気付いた。

「えっ……あれ……」

 人の流れに押され、逸れてしまったのだろうか。慌てて周りを見渡すが、あまり高い方ではない私の身長では、人の壁に遮られて、到底里穂を見つけることは出来ない。

 いったいどこで見失ったのだろう。いや、そもそも里穂は電車に乗ったのだろうか。里穂のあの瞳を思い出す。電車に乗る前、不安で頭がいっぱいだった私は里穂がどうしているかを全く見ていなかった。里穂はそんな私を見透かして、この車内に一人取り残したのではないか。被害妄想は、里穂への不信感を餌にどんどん大きくなっていく。

 車体が大きく揺れた。車内の肉塊は醜く蠢く。私は急いでハンカチを取り出そうとするも、人に押されて落としてしまう。拾おうと試みるも、屈むことすらままならない。私は絶望とパニックに陥る。全身が一気に凍り付いたかのようで、手は汗でぐっしょりと濡れ、口は窒息しかけの金魚のように開閉する。

 死ぬのかな……。死ぬんだろうな……。混乱でいっぱいの頭の中、その片隅に僅かに残った冷静さがそんなことを口走っていた。まるで自分を俯瞰しているように感じた。そのまま意識だけがふっと飛び去って身体だけ残り、抜け殻の私はただの肉に……。

 私はほとんど気を失っていた。

 瞬間、強い引力を感じて、意識が身体に戻る。私の左腕を誰かの手が強く掴んで引っ張っている。もう一度、ぐいと引かれると、私はその手の主のもとに転がり込んだ。

 里穂だった。私を強く引き寄せると、空いた片手は吊り革を掴み、私を引いた手でそのまま私を抱きしめた。

「どうして……」

 喉をついて出た言葉が感謝ではなかったのが自分でも不思議だった。

「だって、優奈、人ごみ嫌いでしょ?」

 里穂の瞳にあの時の輝きはない。いつもの里穂だった。私は安心して、ここが人間の密集する忌むべき場所であることを忘れることが出来た。


「ねぇ」
 
 少し間が空いた後に里穂が呟いた。

「優奈はさ、なんで地元を出て東京に来ようと思ったの?」

 里穂から話題を振るのは珍しいことだ。

「なんでって……。行きたい学部がある大学のキャンパスが東京に多くて、家も経済的に余裕があったし、一人暮らしも経験しておきたかったし、親元も離れてみたかったから……」

「本当に?」

 踏み込むような口調に、私は咄嗟に自衛しようとした。

「じゃあさ、里穂は何で東京に来たの?」

「期待してたの」

「期待?」

「そう、期待。何かが変わるんじゃないかって、何か新しいことが見つかるんじゃないかって、そういう期待」

 里穂の目はどこか遠くに焦点が合っていた。

「どう? 東京に来て良かった?」

「まぁ、概ね期待通りだよ」


 そうこうしている内に、電車は私のアパートの最寄り駅へと到着した。

「ありがとね。今日は楽しかったよ」

 ありがちな言葉で別れを告げる。それが何も起こらないようにするためのまじないであるかのように。

 しかし、私の願望を打ち破って、里穂は降車しようとする私の腕を強く掴んだ。


 「逃げて来たんでしょ」


 血の気が引いた。振り向くと、里穂は吃驚するぐらい綺麗な顔で、それでいてその瞳は美術館の一件の時のように全てを見透かすようで、それもやっぱり美しく……。

「ねぇ、優奈?」

「何?」

 きっと今、私はぐちゃぐちゃでみっともない表情をしているんだろう。

「奏が今何してるか、知りたくない?」


 私は降りるのを止めて、里穂のアパートへと行くことになった。それが奏の行方を聴く為の条件だった。奏、私が聞いた話では地元の大学へ進学したらしいし、それを昼に里穂と話した時、里穂もそう把握しているようだった。しかし、あえて今、奏の話をするということは、里穂は私が知り得なかった奏の現在の更に詳細まで知っているのだろうか。私が辛うじて人づてに聞いた奏の情報も、里穂は知っているようだったし、十二分にあり得た。

 里穂の部屋に着くまで、私たちは一切の言葉を交わさなかった。お互いを牽制し合うようで、その実、私が一方的に手綱を引かれていた。


 アパートに着き、里穂が自室の鍵を開け中に入ると、私も後に続いて里穂の部屋に上がり込む。

 部屋は玄関からキッチンを抜け、その先が開けている典型的なワンルームだった。右に寄せたベッドと、円い食卓と勉強机の他に何も置いていないが不気味だった。ほのかに黴臭く、閉めっぱなしであろう雨戸も相まって、部屋には陰鬱な空気が漂い、独房のような、何かを閉じ込めておこうとする印象を私に与えた。

 里穂は食卓に向かい合うようにクッションを置き、座るよう私に促した。

「奏はね。今、東京にいるよ」

「え……? 仙台の大学院に行くために、地元の大学に行ってるんじゃ……」

「仙台の大学院に行こうとしているのは合ってる。奏にとって問題だったのは、院に進学するためのお金ってのは知っていたっけ?」

「うん……。だから地元の大学へ行ったって……」

「そう。それともう一つ、奏には問題があった」

 里穂は私に憐れむような視線を投げかけた。

「例の彼氏の上京を追うか追わないか、だ」

 ああ。彼か。合唱部でピアノの伴奏をやっていた彼。奏と付き合っていた彼。

「奏の彼氏は東京の大学に進学することになっていた。奏にとって、離れることは耐え難いことだった。だから、奏も都会の大学に進学し、彼氏と同棲しながらバイトに勤しむことでお金を貯めることにしたんだ。お互い大学を卒業したら仙台に行って、彼は就職、奏は院に進むと約束してね」

 私にとってはどうでもよかった彼。でも奏の隣はいつも彼の為の場所で、奏はそこまで彼のことを想っていたなんて。

「……そんなの……ずるいな」

 里穂は身を乗り出してきて、お互いの鼻が触れそうな距離まで近づく。

「だからさ、やり返してやろうよ」

「……え?」

 何かに取り憑かれたように、里穂は私の目を凝視した。

「優奈はさ、奏になんて言われたんだっけ?」

 全て見透かされている。私は声を振り絞る。

「『愛してる』」

 その言葉を聞いた瞬間、里穂は高笑いした。愉快故ではなく、その笑いを誰かに誇示するように。

「奏は選べなかったんだ! 優奈の好意を裏切る勇気もなかった。無責任な優しさを振りかざして、その結果優奈がより深く傷つくとしても。『さよなら』の代わりに『愛してる』なんて、そんなの自分勝手じゃないか」

 奏はあの時どんな顔をしていたのだろうか。私を惨めに思っていたのだろうか。

「悔しいじゃないか。黙っていたら馬鹿みたいじゃないか。やり返してやろうよ。奏に憎悪をぶつけてやろうよ」

「憎悪……」

「そう……。だから……」


「私が理子にやったことが間違いじゃなかったって証明してよ」


 辛うじて聞き取れる声で里穂はそう言った。

「理子に何をしたの?」

 里穂はいつの間にか涙を流していた。

「私も優奈と同じ、理子に選ばれなかった。だからといって拒まれなかった。そのために私は必要以上に苦しんだんだ。それが私には許せなかった。だから私は理子を憎んで、彼女に罵詈雑言をぶつけた。嫌がらせもした。人を拒む勇気のない人間は、人に嫌われることを異常に恐れる。だからこの行動が理子にとって多大な苦痛になることは分かっていた。次第に理子の性格は暗く、暗くなってしまった」

 愛していたからこそ、攻撃的になってしまう。その気持ちは痛いほど分かった。いつかの私も、奏を殺すことばかりを夢想していたのだから。

「その後久しぶりに理子に会った。その時に理子は私に言った。『愛してるよ』と。わざわざ『愛してる』なんていうもんか。言わなくたって分かってたんだ……。全く残酷な言葉だよ。自分が愛されているという自信が無きゃ言えないだろう!」


 里穂は決して涙を拭おうとはしなかった。まるで涙の存在を否定するように。

「優奈、やり返してやろうよ。これで良かったって証明してよ。ただ忘れられるなんてあんまりじゃないか」


『――私の罰は負いきれないほど重い。今日、あなたは私を地上から追放した』


 誰かが言っていた聖書の一節だ。もし私たちの苦しみが罰だとしても、二人なら負いきれるだろうか。

「ねぇ、優奈。奏が住んでいる場所はここからそう遠くない。やってやろうよ。私も付いていってあげる」

 それでも、私にはこれが正解だとは思えなかった。

 もう一度、あの時の奏の顔を思い出そうとする。私を裏切ることが出来なかった奏、その愛おしい目や鼻や産毛の一本一本までを。

 奏はあの時確か、泣いていた。


【結】あきみ

 昼間に夏の日をいっぱいに浴びた土からは、肥えた甘い匂いが立ち上っていた。日暮れの涼しい外気が窓から入ってうなじの汗を撫ぜる。音楽室の古い材木の酸っぱい匂いは、土の匂いと混じり合って柔らかなものへと変わる。

 合唱部員たちは皆帰ってしまい、私は奏と二人きりになる。その頃既に、私は奏に対する恋慕を拗らせ、周りと軋轢を産んでいた。今の自分が何だか邪な者に思えて、気まずくて、私も早めに帰ろうと支度の手を急がせた。

 支度を終えて顔を上げると、奏と目が合った。ぼうっと光る蛍光灯の下、奏の顔は儚げな色を湛えていた。数瞬、二人の間を満たす空気が凍る。外から聞こえる蛙の騒めきが、何かを急き立てているように聞こえた。

 奏が動く。私の側まで来て、私の前髪を掻き上げる。奏の眼差しが、熱の籠ったものになる。

「私のことが好き?」

 好き? 好きに決まっている。恋い焦がれている。自分だけの物にしたいとすら思っている。許されないのでしょう。知っている。本心を言おうか。あなたを抱きしめたいほど憎んでいて、殺したいほどに大好きだ。あなたのことを愛して、愛して、粉々にして、肉片にして、その上で耐えられずに泣き噦り、あなたの一片一片をよく噛んで食べてしまいたい。

 そんな考えのどれもが言葉として口から出る前に、奏は私に口付けした。

「愛してるよ、優奈」

 唖然とした。身体が芯から熱くなる。唇を外した奏は俯いて、顔を上げなかった。足元の絨毯が斑点模様に色濃くなっていく。
 
 奏は泣いていた。しばらくして顔を上げると、奏は誤魔化すように、でも顔はぐちゃぐちゃのままで、笑顔を作ろうとしていた。

「愛してるよ」

 確かめるようにもう一度。次は私を真っ直ぐ見て言った。私を、そして私の背後にある何かを見ていた。その何か、呪われた何かを慈しむような、涙を溜めた奏の目はそんな光を浮かべていた。

 奏が何かを言いかける。しかし、踏み留まって、奏は音楽室を出て行った。残された私は、泣くことも出来ず、そこに立ち尽くした。

 夜の学校、二人きりの音楽室、奏の口付け、そのどれもが現実から乖離していた。あるいはあの瞬間から、私の現実は死んでいるのかもしれなかった。

 ただ『愛してる』だけなら、奏はあんな顔しない。まして、保身のために泣いたり出来る子じゃない。奏は私の背後に何を見ていたのか、何故『愛してる』と言ったのか?

「ねぇ、優奈」

 里穂が真っ黒な瞳で私を見る。

「まるで私たちだけが世界から取り残されているみたいだね」

「きっと私たちが居なくても、世界はきちんと回る」

「世界も神も愛した人も、私たちを置いて行ってしまう」

「気紛れに与えるだけ与えて」

「飽きたらお終いなんだ」

 里穂は私に語りかけているようで自分に説き伏せているようだった。私も私でそんな里穂の姿に自分を同一化していた。里穂の言った言葉がまるで自分が言ったことのように、自分の中で何回も乱反射し、咀嚼する。

「もし」

「大声を上げて泣き叫んだら」

「誰か振り向いてくれるかな」

「知っている」

「誰も振り向かない」

「一人ぼっちだから」

「振り向くに値しない人間だから」

「悔しい」

「許せない」

「だから振り向かせる」

「首根を掴んで」

「無理矢理こちらを向かせ」

「思い出させるんだ」


「……違う」

 違う。

「誰も振り向かないかもしれない。でも、それが必ずしも避けられない運命でないことを、理子は里穂に教えてくれたんだよ」

「……どういうこと?」

 今日初めて、里穂は戸惑った表情をした。

「理子が『愛してる』って言ったのは……拒絶出来なかったからだって、里穂は言ったよね。拒絶出来なかったんじゃないと私は思う。拒絶しなかったんだ。理子は里穂を選ばなかった。けど拒絶しなかったのは里穂を愛していて、赦していたからだよ。理子は里穂のために振り向かないかもしれない。でももし、違う形で出会えていたら、里穂に振り向いていた可能性は十二分にあると、だから拒絶しなかったんだと思うんだ」

「そんなこと……分からないじゃないか! そんなもしもの話なんか信じられるか!」

「でもきっとそれがいつか、里穂を救うと信じてたんだよ!」

 私の大声に、一瞬、部屋の温度が下がったように感じた。

「悔しいよね……。ちょっとした違いで、私たちは愛する人に振り向いてもらえないんだ」

 私は同性というだけで、今まで仲の良かった奏の一番近くに居ることが出来ない。たったそれだけのことで、私と奏が二人過ごした時間と、私の奏に対する膨大な感情は何の価値も持たなくなる。それはきっと、理子と里穂にも……。

「奏はあの時泣いていたんだ。奏があの時見ていたのは、きっと未来の私だ。私が誰にも愛されなくなって、一人ぼっちになって……それでも誰かに『愛されていた』と事実が私を守ってくれるように、奏はしてくれたんだ」

「……」

 里穂は押し黙る。自分の中の何かと葛藤しているのだろうか、目を閉じて天井を仰いでいる。

「ねぇ、優奈。答えてくれ」

「何?」

「……今更赦されたいと思うのは痴がましいかな?」

「ううん。そんなことない。理子もきっとそれを望んでるよ」

「優奈」

「何?」

「これからも私は優奈と一緒に居ていいかな」

「勿論」

 それが里穂にとって、そして私にとっても救いになるのだから。例え、それが傷の舐め合いだとしても、きっと誰かを傷付けるよりずっと良いから。


 その日はもう遅くなってしまったので、里穂の家に泊まることにした。

「おはよう、優奈」

 朝起きると、里穂の態度は以前のものに戻っていて、昨日のことが夢のようだった。

 里穂はカーテンを引き、慣れない手つきで雨戸を開ける。朝陽は寝起きの眼には刺すよう痛いが、その暖かさには優しさがあった。新鮮な空気が里穂の部屋に流れ込む。初夏のじっとりした風だったが、それすらも心地よく感じた。

「優奈」

「何?」

「愛してるよ」

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