エンドロール/石浦めめず
エンドロール
石浦めめず
わたしのさびしさはどこからやってくるのだろう。
大学からの帰り道、友人と別れてひとりぼっちになったときにそんなことを考えた。
週の半分以上は遅くまで講義が入っているので、アパートの最寄駅を降りたときの空は藍色を過ぎて黒に近づいている。この街に住んで二年が経つ。それでも、ぼんやりした街灯の頼りなさと背後から近づいてくる革靴の足音にはまだ慣れない。被害にあったことはまだないが、いつ遭遇しても不自然ではない環境が警戒心を解かせない。
十月の夜風が道路沿いの歩道に吹いて街路樹の葉を揺らす。
冷たい風が髪をなびかせ、襟と首の隙間に入り込むと、胸のどこかから疼くような違和感が喉もとにせり上がってきた。鋭い何かが喉を締め付けるようで息苦しくなる。
最近、この疼痛じみた不快感を経験することが多い。それは退屈な講義の最中だったり、友人とお喋りをしている間、キャンパス内を移動しているときなど、場所と状況を選ばずやってくる。ただ、この不快感はゲリラ的に生活のあちらこちらに顔を出しては、滲む感覚を残して消えるだけだ。わたしはこの出所のわからない疼痛を、とりあえず「さびしさ」と名付けた。
さびしさはきっと何かを伝えたいんだと思う。だから唐突に現れては、耳障りな警句を残す代わりに不快感を置いていくのだ。はやく気づきなさいと、自分で考えなさいと説教をする。ものを教えるのが下手な小学校の無能教師みたいに。そういうわけだから、わたしはこのさびしさの正体を自分で見つけなくてはならない。
やっぱり「こーちゃん」が原因だろうか。
わたしにたくさんの嘘を、そして嘘の見破り方を教えてくれた彼。男は好きでもない相手に平気で「好き」といえることを、その身をもって証明してくれた彼。こちらがどれだけ信頼しても、決して自分の心を開いてくれなかった彼。
「こーちゃん」は過去の人だ。あれだけ長い時間を共にしていた彼とは、別れて以来すっかり縁が切れてしまったようで、姿を見かけるどころか噂すら聞かない。もっとも、わたしが彼の話を耳にしないのは友人たちが気を使ってくれているからだ。もし、彼の近況や何かを知ったとすれば、わたしはきっと面倒な状態になってしまう。友人たちは絶対にそれを望まないし、わたしだってそれは避けたい。だから彼はこれからもずっと過去の人だと思う。街でばったり出会うなんてことがない限りは。
率直に言えば、「こーちゃん」はわたしの時間と感情を搾取した男だ。
彼はわたしの一年間を奪った。正確には、彼と過ごした一年間を、何もない方がマシだった一年間に変えた。その間ずっと地面を眺めてアリの通った数を数えていた方がよっぽど有意義だったといえるくらいに。
塩を撒かれた不毛の地みたいになったわたしの精神が再び情緒の芽を取り戻すには、彼と一緒だった時間の倍を費やす必要があった。そのおかげでわたしと彼を取り巻く環境はすっかり変わっていて、気が付くと彼の存在は空間的にも精神的にも遠ざかっていた。
「こーちゃん」は過去にいる。もう彼のことを衝動的に思い出すこともなくなった。それでも彼の存在はいまのわたしと無関係ではない。
彼のおかげでわたしは恋愛に夢をみなくなった。というより、これまで思い描いていた理想の恋愛というものが、いかに現実から遊離している妄想だったのか思い知らされた。
恋愛から夢を取り除いて残ったもの。
それに名前を付けるとすれば。
それとも「さくちゃん」にさびしさの一端があるのだろうか。
動物の置物みたいにじっとしている彼。話をいつまでも聞いてくれる彼。タイミングを見つけては丁寧に感謝の言葉をかけてくれる彼。わざとらしくない程度に好意を伝えてくれる彼。寛容な彼。でも、それだけの彼。
「さくちゃん」はいまの人だ。彼はいつのまにかわたしの世界に定着していた。
彼は友人の知り合いだった。キャンパス内で友人を見かけて挨拶するとき彼と一緒にいることがよくあったので、名前は知らないがお互いに顔だけは知っているという関係だった。
「さくちゃん」はそのときから既に動物っぽかった。わたしと友人の話が長引いている間、彼はわたしたちから数歩離れてじっと会話の終わるのを待っていた。身体を傾けてこちらの様子を伺いながら、たまに思いついたように空の一点を見つめたり、意味もなく眼鏡を外して、また着けたり。その所在なげな姿は、コンビニの前のポールに繋がれた、飼い主の帰還を待つ犬を想起させた。
すぐ寄ってくる人懐っこい犬ではなかったが、やたら敵意を向けて吠えてくる警戒心を持ち合わせた番犬でもない。相手から来るのを待つ、消極的だがそれなりに社交性を持った犬。餌をちらつかせたら簡単についてきそうなタイプ。端的にいえば、騙されやすい感じ。
第一印象はこうだった。そして恋人になった今でもあまり変わらない。
彼は静かな人だ。静かすぎるといってもいいかもしれない。一緒にいると、そこがどこであろうと、病院の待合室にいるような気分にさせられる。とはいえ、わたしは黙るわけではない。彼は安静にする必要のある病人ではないし、また既にわたしは病院に通わなくなっていたから。
声を荒げることなんてあるのだろうか。想像するのは難しく、彼の表情が曇った姿すら見たことがない。だから何度か試してみたことがあった。後ろから蹴っ飛ばしたり、淹れてくれたコーヒーを受け取りそのままシンクに流したり、苦手な虫を彼の鞄に詰めたり。彼は一瞬困った表情をするが、すぐに元の温和な顔に戻る。そうして「どうしたんですか?」とわたしに話を促す。わたしの期待した反応は望めなかった。
彼はすべてを受け入れる。目の前で起きるあらゆる出来事を、他人事のように眺めて生きている。ときどき、彼の眼にはなにも映っていないんじゃないか、と思う事がある。わたしの姿さえその深い黒に飲み込まれて、何もなかったかのように。
「さくちゃん」は諦めてしまったんだと思う。何を望んでいたかわからないが、きっと大きな何かを失った。それに耐えるために、それから二度と傷つかないために、胸の中に大きな穴を穿った。大事なものを失わないために、彼は大事なものをしまうスペースを消し去った。
「さくちゃん」は世界に何も期待しない。
もちろんわたしにも。
過去と現在からさびしさの理由をみつけてみようとしてみたが、やっぱり答えは判然としない。いずれの男にも原因はあるように思えたが、どちらにも原因がないともいえる。二人の男は霧のようにつかみどころがない。
肌寒い風が吹き抜ける暗い夜道を歩いていく。わたしは自分の身体を抱くように縮こまって、ゆっくり歩を進めていった。
運動に向かないパンプスの硬い足音が、心もとない街灯の照らす静けさの中で弱弱しく響いた。
「相川さんって普段何やってんの?」
その男はにやにやと気味の悪い表情を浮かべながら話しかけてきた。口元は醜く歪んで、おおよそ笑顔とは形容しがたい、小学生の作った出来損ないの版画みたいな顔だった。おまけに彼の羽織ったパーカーから煙草の悪臭が漂ってくる。机に置かれた紙製のネームプレートには「宮野」と汚らしくいかにも育ちの悪そうな字で書かれていた。
気色悪い。
月曜の一限からこんな憂鬱な目に合うなんて。勘弁してほしい
少人数授業のための教室——おそらく三十人も入れない——が学生たちの話し声でいっぱいになっている。グループワークとプレゼンが主な内容の授業だが、今回から学生たちは新しい班に組み入れられる。そのため、今は班員同士の自己紹介がてらの雑談タイムとなっていた。
わたしの隣に座った女と斜め向かいの女が朝から元気に話し込んでいる。どうやら二人は既に知り合いだったようで、班分けの際に同じグループに入ったことをいたく喜んでいた。そのため手持無沙汰になったわたしは真向かいに座る男に目を向けざるを得なかった。そして軽く名前や学部を伝えたところ、奴はいきなりわたしのプライベートに侵入してきた。
「勉強してます。頭が悪いので」そっけなく、会話を楽しむつもりがないと伝わるように言い放つ。
「いやいや、それはないでしょ。だって英語でしょ。おれなんて法だから。被差別民だから」
彼はどういう意図で言ったのだろう。自虐のつもりなのだろうか。それにしても自虐の範囲が広すぎる。自虐は自分自身にするもので、自分の所属する集団に向けてするものではないはずだ。それとも、わたしをたかが入学時の偏差値の違い程度で人間の種類を区分けするような、狭い価値観の持ち主だと決めつけたのだろうか。あるいは、奴は劣等感の慰めが欲しくて、わたしに無償の精神的労働を要求したのだろうか。
宮野という男はへらへら笑って、こちらの嫌悪感を察知することもない。自分は今日も楽しく生きていると、満足げに顔を歪めていた。
もしかしたら、奴はいままで他人の表情の変化だったり、言外に示唆される情緒というものを理解せずに生きてきたのだろうか。
こんな人間でも成人になれるのか。心の底から呆れる。
「相川さんって」
奴はわたしの名前を過度に強調して呼んだ。まるで自分のものだと宣伝するようで甚だ不快だった。それはいままでに何度か経験してきたことでもあったので慣れてはいたが、その慣れ自体に嫌悪感があった。
どうしてこんな不快感に慣れているんだろう。どうして慣れなければいけないんだろう。
「小説とか読むんだ」
心臓に一瞬、ぎゅっと掴まれるような閉塞感を覚えた。
奴の顔を見ると、薄く開かれた嫌らしい目が、床に置かれたわたしの鞄に向けられていた。荷物を取り出すときに面倒なので開け放しにしておいた口から、図書館で借りた小説が顔をのぞかせていた。
「はい」
奴は、へぇ、と間の抜けた声を身体から出した。どうせまた、自分は本を読まないから云々の自虐が始まるのだろう、とうんざりしていると
「書いちゃったりもするの」
予想外の質問がきて、ほんの少し面食らってしまった。鞄に目を向けて、少し考える。
そうですね、書きますね。でもその話はあまりしたくないです。それに、書いちゃったり、ってなんだ。書くんですか、だろ。
「しますけど、何か」さっきより強めに威圧感を込め、睨むようにいった。
「すごいじゃん! 将来は小説家になるの?」
言うべきでなかった、と激しい後悔の念が襲ってきた。それと同時に、胸の奥から喉にかけて締め付けてくる、酷い閉塞感を覚えた。
授業は残り三十分近くあったが、机の上の荷物をすべて鞄に放り込む。立ち上がって椅子を元に戻すと、呆気にとられた班員を尻目に教室の出ドアに向かった。
こんなカスみたいな男に期待なんかしたわたしが一番の馬鹿だった。
講師は正反対の位置で別のグループに指導をしていたので、咎められる前に教室をあとにすることができた。
息苦しさに身体が前のめりになって転びそうになるのを堪える。
通路は冷たく静かな空間で、両側の教室からはまだ人の気配が漂ってくるが、途方もないさびしさを感じる。それは胸の奥からやってきて、わたしをつかんで決して離そうとしない。
泣きたい。
叫びだしたい。
モノを破壊して大声でわめきたい。
そんなことができる自分だったら、もっと楽に生きていけるだろう。
階段を降りながら、ポケットから携帯を取り出す。液晶を操作して、おそらくまだ授業中だろう彼に通話を掛けた。
数回のコール音が階段の踊り場に響くと、すぐに相手から反応があった。通話は切られたが、間髪入れずにメッセージが入ってきた。
『ぼくが必要ですか?』
彼の返事を目にするだけで、ほんの少し胸が暖かくなるのを感じた。
わたしは彼にメッセージを送る。
『あなたが必要です』
十月の後半にもなると、キャンパスの中庭は閑散としている。春から夏にかけて人でごった返していた風景はどこへ行ってしまったのか、今ではあちこちに空っぽになったベンチが目立つようになり、連中の喧騒は小鳥のさえずりに成り代わっていた。
そんな静かな午前の一角で「さくちゃん」はベンチに座って空を見上げていた。
彼はいつもそうやって空ばかり見ている。まるで地上には何も見るべきものがないという風に、雲の流れに身体を任せているみたいに。
彼は既に視界の端にわたしを捉えている。それでも気づいていないふりをして、声を掛けられるのを待っている。だから、彼が先に何かを仕掛けてくることはまずない。いつもわたしからで、そうでないと何も始まらない。
「こんにちは」とわたしが声を掛ける。彼の横に座って、軽く肩を叩く。
「こんにちは」と彼が答える。
意味のないやり取りを介して「わたし」は「わたしたち」になる。こうすると、ちょっとだけ胸の痛みが和らぐ気がする。
「講義だった?」わたしが聞く。
「はい。とっても退屈な」
「そうなんだ。ならいいか」
彼は口元を斜めにして顔を傾ける。その控えめな感情表現が安心を持ってきてくれる。さっきまでの醜い軽薄なやり取りが記憶の中で薄れていくのを感じた。
「糞みたいな話を聞いてください」
「さくちゃん」は黙って頷いた。そして、口元を少し締めると、こちらをじっと見つめてもう一度頷いた。
わたしは自分がいかに酷い目に合ったかを語って聞かせる。
どうしてああいった男は自身が気味の悪いコミュニケーションをとっていることに気が付かないのか。自虐と他虐の違いについて考えたことがない人間の稚拙さ。自分を大きい主語に入れることで劣等感を共有しようとする浅ましさ。気味の悪い笑顔は仕方がないにしても、あの嫌らしい目つきはどうにかならないものか。人の鞄を覗くうえに、その中に入っている物を口に出すことに狂気を感じた事。そして一番嫌気のさしたこと。
「あいつ、わたしが小説書くっていったら、それだけで、それだけでだよ、わたしの将来を勝手に決めつけたんだよ。五分前に知り合った、というか名前を知っただけの相手の将来を、勝手に知ったふりしてんの。糞、糞糞糞。あー、なんであいつが生きててほかの人が死んだりしているのか理解できない。ほんとに理解できない」
「困っちゃうね」彼は穏やかな声でそういった。
「そうなんだよ」
本当に困った。でも一番困ったのはもう一つあって。
「わたし、奴に、あの気色悪い男に一瞬期待しちゃった」
「何をですか」
確かにそうだった、わたしはあのとき僅かに期待を持ってしまっていた。
「小説読むのって聞かれた後、書いたりするのって聞かれて、そのとき、こいつも書くのかなって思っちゃった。わたし以外にお話を書く人なんて会ったことないから、もしかしたらって」
彼は黙って頷く。機械みたいに同じ動きで。
「でも駄目だった。やっぱり小説書くイコール小説家志望っていうカスみたいな考えの持ち主だった。絶対お話を書いたことなんてないだろうし、それにお話に興味を持ってすらいないんだ。カスだった。人の将来を勝手に決めて、それを雑談の叩き台にするような人格破綻者の屑野郎だった。やっぱり人は第一印象で決めるべきなんだよ、きっと」
「大変だったね」
「うん。大変だった」
言いたいことを一通り吐き出すと、ひと息ついて、彼の顔に目を向けた。
「さくちゃん」はわたしの手に自分の手を乗せた。そうして顔を斜めに傾
けて微笑んだ。
わたしはなんとなく彼に危害を加えたくなり、ぺしぺしと額や頭部を軽く叩いた。
彼は避けるそぶりも見せず、ただ俯いてわたしが飽きるのを待つ。彼はいつもそうやって、事態の経過を見守るように、微笑んでじっとしている。
空虚だな、と自分でも思う。彼と一緒にいても、時間の浪費とさえ考えることもある。
それでも、わたしは彼と一緒にいたいと思った。
一緒にいる間は「わたし」は「わたしたち」でいられるから。
「さくちゃん」と久しぶりに休日に会うことになった。
わたしが彼に会いたいといったわけでなく、もちろん彼が会いたいといってきたわけでもない。ただ、メッセージのやり取りをしているうちに、自然とお互いの休日の予定が空いていると知って、なんとなく会うということになった。
学校の外で一緒になることはあまりない。わたしたちは基本的にお話をすることしかしないので、場所はどこであろうと構わないし、通話をすれば事足りるので会う必要すらない。
だから外で会ったとしても、やることもないので、静かな場所を求めて散歩をする以外の事がない。
約束の時刻より数分早く待ち合わせの駅に着くと、既に彼が待っていた。
やっぱり、犬みたいだなって思う。
彼は大きな柱に身体を預けて、やっぱり手持無沙汰になっていた。理由もなくコンクリートの天井を見上げていたり、ロータリーの喧騒に目を向けていた。
首輪をつけているわけでもないのに、彼は約束の場所に縛り付けられているように動かない。わたしはそんな景色をみるのが好きだった。わたしを待つ彼を遠くから観察する瞬間は、なんとなく嬉しかった。
彼に近寄ろうと一歩踏み出したとき、懐かしい香りがした。
なぜだろう、懐かしさと共に締め付けるあの痛みがせり上がってきた。
その香りにはさびしさが伴っていた。「さくちゃん」のものではない。それは過去からくるさびしさだった。
わたしは足を止めて辺りを見回した。どこかにいる彼を探して、胸の高鳴りを気にしないようにして。
電車の到着を知らせるアナウンスが駅構内に流れ、人の動きがやけに活発になる中に、彼の後ろ姿を見つけた。
あの頃と同じ髪型、同じ趣味の服、同じ香りを漂わせる、過去がそこにいた。
彼は急ぎ足にホームに向かって階段を上っていく。
わたしは「さくちゃん」に目も向けずに、彼の方へ走った。それほど胸は痛まなかった。
彼の目的の電車は今にも発車するところだった。彼は一つ奥の車両に入り、わたしはぎりぎりで近くの車両に滑り込んだ。
人でいっぱいになった空間に、汗と臭いの混じった不快な空気が流れている。車両間の扉の窓から彼を覗こうとしたが、彼の姿はおろか窓に近づくことさえできなかった。
次の停車駅でわたしは降りた。そして彼の乗った車両を確認しようと、開いた扉から顔を差し入れた——高まる鼓動を抑えながら。
肌寒さを紛らわすために乗った車両で、眠るように考えに耽った。
電車は同じ区間を行ったり来たり、何度も何度も同じ行程を繰り返す。
車両から見える景色も変わらない。変わるのは背景に映った空の色くらいのもので、ついさっきまで上っていた太陽はもう地平線の向こうへ隠れてしまって、空はすっかり藍色になっていた。
過去はやっぱり過去だった。
「こーちゃん」は過去にいて、わたしは現在にいる。二人は平行線にあって、決して交わることはない。それがどんなに望んでいることであろうと、一度離れてしまったものは、一度失ってしまったものは、もうどうにもならない。
あの車両の中を目にしたとき、彼の姿を見つけられなかったとき、そして電車が去っていくと同時に激しいさびしさに襲われたとき、わたしはもうどうしようもないと思った。
わたしはずっと囚われ続けて生きていくのだろうと確信した。
約束の時間から六時間が経ったころ、わたしは待ち合わせの場所に戻っていた。
もちろん「さくちゃん」はそこにいた。
彼に近づくと、軽く肩にパンチを打ち込んだ。そして彼は、今がちょうど待ち合わせの時刻だというように、微笑みを浮かべて顔を斜めに傾けた。
「おまたせしました」とわたし。
「いいえ」と彼。
昼頃に着いたときは構内も少しは暖かかったが、夕方になり十月の夜風が入り込んでくると、すっかり寒さが目立つようになっていた。
「糞みたいな話をしていいですか」
「はい」
わたしは昼頃に起きたことのすべてを話した。つまり、約束の場所にいるあなたを放って置いて、過去の男に似た人を追いかけていったこと。
「さくちゃん」は穏やかな表情をしながら黙って聞いていた。それがいつもの彼だった。こんな話の最中でも彼はいつものままだった。
「という、みっともない話でした。以上。ちゃんちゃん」わたしはおどけるように手を広げると、両の足を叩くように勢いよく手を下ろした。
彼は笑っていた。そしてこういった。
「困ったね」
「どこにいきますか?」彼は尋ねる。
考えるまでもなく、わたしたちに向かう場所なんてない。
諦観と寂寥の渦に飲まれた二人は同じところをぐるぐる回って、回って、ただ回り続けるだけ。そこに未来はないし、希望なんて期待すらしていない。
彼と恋仲になった時からこうなることは感じていた。
わたしが彼を受け入れたとき、何かが始めるなんて考えもしなかった。失われたものは失われたままだし、新たに得られるものもない。
あのとき、二人がはじめて抱き合ったとき。僅かだけど通じ合っていた心が確かに聞いたのは、二人のスタートを祝う鐘の音じゃない。ほんの少しの緊張と、妥協と諦観からくる落ち着きがないまぜになった心臓の鼓動だった。
わたしたちがお互いを見つめて「好き」といったとき。カーテンの隙間から通り過ぎる車のヘッドライトが暗い部屋に細い線を引いたとき。「わたし」が「わたしたち」になったとき、既に物語に発展する余地などなかった。あとに残されたのは、二人のどちらが先に席を立つか、という選択だけ。
だから、恋人になって経験したあらゆる出来事に影が差しているのは当然だ。物語はあの夜の暗い部屋で完結していたのだから。
「相川さんが望むなら、どこまでも付いていきますよ」彼がいう。
「お、素敵なこと言いますね」
わたしたちにお似合いの軽薄なやり取り。空っぽの関係に空虚な言葉が行き交う。
わたしは彼の手を握ってさっさと歩きだした。もちろん向かうあてなんてない。だってわたしたちはもう終わっているんだから。
暗い夜空を背景にわたしたちは街を流れていく。
ゆっくりと。
同じスピードで。
さよならがくるまで。
エンドロールみたいに流れていく。