日を記す/韻俳
日を記す
韻俳
今日は昼が短いな。
窓の外に広がる世界を見て、デバイスを操作する手を止めた。午後四時三十分。だんだんと世界が暗くなっている。すぐに夜になってしまいそうだ。どうして昼が短くなる代わりに、夜が長くなるのだろう。空の調子が悪いのだろうか。誰かその理由を知っている人間はいるのだろうか。
自我をもってから十余年。私が疑問に思ったことに答えをくれた人はいなかった。学校に行っていた時も、こうして労働している時にも。だから自分の中で考えて答えを探してきた。けれどそれが見つかることは一度としてなく、いつも深く二酸化炭素を口から吐き出すことで中断した。
昼が短くなればその分勤務時間が短くなるからいいか。
終わりのない疑問を抑え込み、デバイスの画面に向き合うと、いつの間にかメールが来ていた。受信音にも気づかないとは。また上司に怠慢だと怒られてしまう。文面に目を通したところで終業時間を知らせるベルが鳴り、同僚達がぞろぞろとオフィスを出ていく、私もその列に遅れないように駅に向かう。その途中、ふと空を見ると、いつもの通り、白い電球のようなものがいくつか浮いていた。支給された制服では少し寒い夜だった。
夜が終わり、朝になった。最低限の支度をして家を出る。昨日のメールは、私たち職員に召集をかけるものだった。東地域行きのモノレールに乗り、集合場所に向かう。
私たち『生存省』が持つ役割は、その名の通り人間の生存に必要な物資を集めることだ。この世界に住むおおよそ百万の人間に水や食料、電気通信などを生産し、供給するまでを任されている。そんな生存省の重要な施設が壊れた。正確には世界の『果て』にある山岳地帯から都市に水を送るパイプが多くの地点で破損した。このままでは、中央に住む八十万の人間に水を送れない。そのため職員総出で修復作業を行うことになった。何しろ円形の世界の半径に当たる距離を結ぶものである。もしかしたらそれでも人が足りないかもしれない。
私の担当することになったのは、世界の果てに近い東部の山地であった。ここには有史以前より巨大な湖があり、その水がこの世界を支えている。
モノレールの終着駅には数十人の職員が集まっていた。そこから大型の車に乗って現場を目指す。途中でまとまった数の人間を降ろしつつ山を登り、中腹にある広場に到着した。指揮官に下車を命じられ、地に足をつけると、中央都市のものとは異なる感覚があった。気温は低く、大気も勢いよく循環している。
ここから先は車が入れないほどの狭い道が続くそうで、我々は徒歩で目的地を目指すしかなかった。傾斜のある山肌をひたすらに上っていく。業務中であるため、誰も声を出すことなく歩く。少し周りに目をやれば、都市では見たことのない植物が自生している。そして顔を上げれば緑や灰色が続く世界が、はるか遠くまで見渡せるのに。
なんだかいい気分だ。アラームより早く起きた朝みたいに、頭の中がすっきりとしていく感覚。今まで忘れていたものが、蘇ってくるような。
ふと我に返ると、私の周りには誰もいなかった。おそらく先に進んでしまったのだろう。焦らずに追いつけばいい。ゆっくりと一歩を踏み出した瞬間、鼻先に冷たいものを感じた。それが何かも理解できないうちに、轟音とともに大量の水が降ってきた。雨だ。都市ではここまでの雨が降ることはない。急いで屋根のある所を探す。しかし山中に家があるだろうか、と考えていたところに丁度手ごろな岩穴を見つけた。
上着の裾を絞ると、なんというか、ごつごつとした床、地面に水の流れができた。身体が冷えてしまい、このままでは活動不能になってしまうかもしれない。岩穴の中は暗く、どこまで続いているのか分からなかった。ただ、奥のほうから暖かい空気が流れこんでいることを感じた。雨は止まず、この場にとどまっていても意味がないように思えたので、私は奥のほうへと足を踏み入れた。
驚いたことに、この中には電気が通じているようだ。奥へ奥へと進むたびに、その少し先の明かりが灯るようになっているらしい。そして、この道のりがかなり長いものであると予想できた。どのくらい歩いたか分からないが、未だにその終わりは見えない。そのうち私の足が動きにくくなってきた。そろそろ引き返すべきかと思い始めたとき、岩の道は終わった。
そこは、大きな空間だった。こんな山の奥で誰が使うのか、都市のオフィスにあるようなデバイスや機械がたくさんあった。他にも見たことのないものがたくさんある。何に使うのかも分からないものが。人間の語彙では到底表現できないものが。刺激の強い色をした床は、土でも金属でもなく、柔らかかった。そのうえに散らばる白く薄いものたちには、様々な種類の記号が並んでいた。中にはこの世界の地図が一緒に並ぶものもあって、好奇心からそれを手に取って探索を始める。
大きな壁には世界が映し出されていた。高速で動くモノレールも、そして都市で働く人たちも、そして今私がいるこの山も。この世界のあらゆる場所の映像が流れていた。
ここはどのような目的で作られたものなのか、皆目見当がつかずに途方に暮れる私の頬を、何かがなでた。風だった。私の前髪を少し揺らす程度のものだが、熱を帯びている。温度調節に用いられる機械が生み出すそれとは異なり、人の体表面のような、心地よいものであった。この部屋にはどこか外に繋がる出口がある。それを探すために、部屋の奥へ進む。それが見つかるまでにあまり時間は掛からなかった。
壁に穴が空いていた。私の体長よりやや大きく、その中には何も見えない。真っ暗だ。恐る恐る手を伸ばすが、なにかに触れることは無かった。次に穴の縁に足を掛けた。硬い感触があり、この先が通路であることが分かった。道があれば進む他ない。ゆっくりと闇の中へ足を踏み入れる。地に足を着ける度に大きな音が反響する。通路はどこまでも真っ直ぐで、終わりが見えない。もう引き返そうかと思い始めた頃、目の前に小さな光の点が見えた。
それは歩みを進めるごとに大きくなって、それが外への出口だと分かるまでになった。だんだん周囲が明るくなってきて、暖かい風が強く吹き付ける。そして、その先に見たことのない景色が広がるのを見て、私は今までにないほどに速く前へと進んでいき、ついに外へ、暖かな光に包まれる。
一月……たぶん五日。
今年のカレンダーを用意するのを忘れていた。まあ日付なんか気にしているやつはいないだろう。今日もいつも通りの一日になるはず、だった。山麓に積み上がった旧文明の落とし物、大量のゴミを集めて集落に売りに行く。そのルーチンワークをこなせば良いはずだった。
しかし今日の収穫は金属や、今となっては生産できない化学物質だけでは無かった。生身の人間だ。意識は無かったけど脈はあった。そのままにしておくのもあれだから持って帰った。しかしコイツは普通の人間じゃない。本来なら立ち入り禁止で俺たちみたいなゴミ漁りしか行かない場所にいたし、身なりも綺麗だった。この辺に住んでいれば嫌でもボロボロになるのに。
信じられないが、あのドームの中からやってきたとしか思えない。あの山の向こう側はよく分からない膜で覆われていて、こちらから干渉することはできない。どっかの穴からポロっと落ちてしまったのだろうか。俺たちのひいひい爺ちゃんの時代に作られたものだから老朽化が進んでいるはずだ。直せるやつもとっくに御陀仏だろう。そうなると内部環境も悪化しているのかもしれない。人類を救うためのドームも、所詮は人間の作ったもの。いつか終わりはくるんだなぁ。
「……それから二日後、少年はようやく目を覚ました。やっぱりドームの中から来たらしい。自分の名前も知らなかった。あそこではみんな番号で呼ばれてるって噂は本当だったよ。人類種の保存のためにドームの中に百万人も詰め込んでそれらしい生活を送らせる……昔の人はえれぇことを考えたもんだよなぁ。まあ、どうしてそんなことしなきゃいけなくなるような世界にしちまったんだって話だけど、なぁ」
錆びた硬貨を数枚手渡す。ここの店主と駄弁るのはいつも通り。
「ん。今そいつはどこにいるのかって? 俺の家だよ。棚の本を片っ端から読み漁ってる。特に歴史と芸術には興味津々だな。ドームの中にはどっちとも無いんだとさ。じゃ、そろそろ行くわ。ああ、しばらく留守にするから。東へ行くんだ。温室育ちのお坊ちゃんに人間の世界を教えてやんないと。向こうはここよりも人が多いし、これから生きてくために必要なものも集まるだろ。じゃあな。食料と水、大切に使わせてもらうよ」
さあ、新しい世界の幕が上がる。
気が付くと知らない部屋にいた。近隣住民が山麓で倒れている私を見て家まで運んでくれたのだ。穴の先は斜面だった。そこを滑り落ちてしまったようだ。
世界の外にはもっと広い世界が広がっていた。そこには少数の人間が小さな集落を作って生活していた。私の用いる言語とほぼ同じものが使われていて、簡単な会話なら問題なくできた。
ひとまず滞在することになった部屋には、「本」が大量に保管されていた。それらの中には大量の情報が詰め込まれていて、いままで知らなかったこと、想像もしなかったことがこの世界にはあることを知った。
住民はこう言った。
「ここより東の地方にはもっと大勢の人間がいる。もし帰る気がないのなら、行ってみないか」
私は頷いた。世界の秘密を、もっと知りたい。
「一度得てしまえば、簡単に手放すことのできるものではない。知識ってのはな」
そう笑い飛ばした男と共に、東を目指す。まだ暗い世界を、背中いっぱいに荷物を積んで歩き出す。この道の果てには何があるのだろうか。きっと今は想像もできないようなものがあるに違いない。
しばらくして、周りが明るくなってきた。巨大な光源が、地の果てから登ってくる。そして今まで真っ暗だった世界に色が現れる。家の色、地面の色、そして光の色。この世界にはまだ知らない色があるのだろう。
こちら側の文化である「日記」を書いてみた。自分の手を使って記録を残す、なかなか興味深い。いつかこの本が、私の文字でいっぱいになった時、どこでなにをしているか。楽しみだ。
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