四号室の××様 ―盛夏―/上坂 英
四号室の××様 ―盛夏―
上坂 英
東京の片隅にあるそのハイツには、この国では不吉だとされる四号室が存在する。気付いた大家が閉鎖しようとしたすんでのところで、滑り込んできた男がいる。彼と同居人たちが今何をしているかというと――
「海ぃ?」
金に近い茶髪と険しい表情という、一見不良にも見える風貌をした少年と、青みがかった黒髪の青年が一斉に訝しがる。予想通りの反応に、木崎一は苦虫を嚙み潰したような顔でそろそろと頷いた。中規模の商社に勤める木崎が、夏の盛りを控えたこの日に同僚から誘われたのは、近くの海だった。何でも夏期休暇が被った社員数人で、慰安旅行代わりに行くらしい。お前もこの日空いてるだろ、と言われた時、眉一つ動かさず考えておくよ、と笑顔を繕えた自分は役者になれるといっても過言ではないだろう。
「練習、付き合ってくれませんか」
先程と同様、ぎこちない動きで頭を下げる。練習、といっても泳げないからという訳ではない。いやそれも含まれているが、より根深い問題があるのだ。
「猫に水は御法度ということも知らんのか」
少年――ドブロクは容姿より遥かに老練な口調でかぶりを振ると、こちらに背を向けてテレビを点けた。「ドブロクさん」と呼びかけたが、「アニメの時間じゃ、お前ら話し合うなら風呂場ででもやれ」と目もくれない。このオタク頑固チビ爺さんめ、などと実際に言おうものなら爪やら牙やらが足やらが飛んでくるのは間違いないので、胸中に留めるが。
仕方なく青年――魚住千景に目をやったが、「俺もパス」と申し訳なさそうに片目を瞑られた。そこら辺の女性だったらこの仕草だけで許してしまうのだろうが、生憎自分には効かない。「頼む魚住、見ててくれるだけでいいから」と引き下がるも、「でも木崎ちゃん百パー溺れるっしょ?そしたら助けに行かなきゃだし、百二十パー騒ぎになるじゃん」と却って諭される。そうなることが目に見えているだけに、唇を噛むしかなかった。
「つーかいつもの飲み会みたいに断っちゃえばいいじゃん」
「そのいつものツケが回ってきちゃったんだよ」
魚住があっけらかんと向けてきた指を避けるようにして、木崎は溜息を零す。
「今度ばかりは参加しないと、愛想ない奴って評価じゃ済まされなさそうなんだよ。同僚の圧凄かったし。何よりあらぬ噂を立てられたくない」
「縦社会は面倒だなぁ」けらけら笑う魚住の背中越しに、ドブロクがやおら振り返り「自業自得じゃないか」と鼻白む。テレビに集中しているようで、こちらの話はきちんと聞き取っているから目敏い、いや耳敏い。というか自業自得は幾ら何でも暴論だろう。自分は食物を口にしたら即座に戻してしまう体質なのに。己の尊厳を傷つけられたように感じてそう訴えると、さしものドブロクも決まり悪そうに謝り、しかし「ワシは行かんからな」とスタンスは崩さない。結局始点に戻った会話に、木崎は頭を抱えた。
元は一般に水嫌いとされる猫にして、今は中学生ほどの姿になった猫又、ドブロク。水を被ると先祖返りを起こし、脚がすぐさま尾びれになってしまう人魚の末裔、魚住。そして、海水に浸った瞬間肌が焼ける吸血鬼の木崎。これほど海と相性が悪い組み合わせもそうあるまい。分かってはいるが、他の知人を誘って真人間ではないことがバレるのはもっと避けたいのだ。自分は人間として、平々凡々な日常を歩みたい。
そんな木崎の心情を汲んだのか、魚住が「てかさ、じーさんは行けんじゃねぇの?水が怖いだけじゃん」と御鉢を回す。ちょっと、と木崎が制止しかけたのも虚しく、ドブロクが短く唸る。エンドロールを流し始めたテレビを消し、振り返ったその瞳孔は開き切っていた。猫を通り越して獅子を思わせる表情に、木崎は魚住を肘で小突く。
「怖いだと?言葉には気を付けろよ若造が、濡れる感覚が好かんだけじゃ。何でわざわざ嫌いなものを味わいに行かにゃならんのだ」
「ったくもー、すぐ切れるー。そんなだから最近のシニアはーとか言われんだっての」
シニ……なんじゃって、という合いの手を取り敢えずスルーして、魚住は畳みかける。
「子猫でも水平気なのとか割といんじゃん。じーさん悔しくないのー」
高いプライドを切り崩されたようで、ドブロクは歯噛みする。確かに癪である、しかし魚住の口車に乗せられるのも気に食わない。そんなせめぎ合いは前者が勝ったらしく、「行くだけじゃぞ」と半ば投げやりに放った。
「そうと決まりゃーまずは水着よ!」と片手を掲げて玄関に向かう魚住を、「今真夜中だぞ。明日明日!」と引き留める木崎。両者に挟まれたドブロクは、鬱陶しそうに欠伸をした。
そんなとあるハイツの四号室。人間に馴染みたいけどばれたくない怪異たちが、日夜奮闘する城である。
翌日、会社勤めなだけあって朝に強い木崎が、二人を起こしたのが午前八時。適当に準備してから家を出て、電車を乗り継ぐこと一時間強――なお、この間元夜行性のドブロクはひたすら船を漕いでいた――。東京都を過ぎた時点で魚住が「ここ日本一有名なテーマパークあんじゃん。そっちにしようぜ」と騒ぎ出し、安眠を邪魔されたドブロクの右フックが炸裂するという一幕はあったものの、無事に隣県の海岸を要する駅に降り立った。海と縁遠かった一行は水着すら持っていなかったため、駅前のショッピングモールで調達する。勿論浮き輪も忘れない。ここでも魚住が女性たちに声を掛けていたため、今度は木崎自らチョップを下した。
そんなこんなで辿り着いた砂浜は、予想以上の人集りで埋まっていた。学生が夏休みを迎えていない内は大したことないだろう、そう考えていた昨晩の自分を小突きたい。カラフルな水着やパラソルが、日差しで弱った目に止めを刺してくるが、ここで踵を返しては付き合ってくれた二人に申し訳ない。油の足りない機械のような足取りで一歩踏み出し、瞬間砂に触れた足裏から、本当に止めを刺された。
「あっつぁああああああああああああああああああ」
熱された鉄にも劣らぬほど赤みを帯びたそこから、蒸気が噴き出る。自分がマグマ製造機になった気分だとか、そんな軽口を叩けないほどの痛みが襲う。
「えぇ?幾ら砂浜ったってんな熱い?」
「馬鹿、恐らく弱点じゃ」
ドブロクが濡れていない場所へ木崎を引っ張るのに続き、魚住も首を傾げながらも浮き輪を敷く。縺れ込むようにそこへ腰掛け、木崎は未だ煙を吐き出す脚を摩る。幸い、数分の内に痛みは引いていった。こういう時ばかりは怪異ならではの回復力を有難く思う。まあ人間、取り分け医療関係者に見られたら、とんでもない騒ぎになると思うと複雑ではあるが。騒ぎになると言えば、魚住もだ。注意を促すと、「俺は湿り気や水滴くらいじゃ変わらないから大丈夫よ」と明朗に返された。人魚(人間寄り)羨ましい。
「こいつらが濡れた足で歩いた跡を、踏んじまったんじゃろ」
尚もごった返す海水浴客を顎で示すドブロク。その眉間の皺は、辟易を隠そうともしない。思わず謝ると、「ワシが苛めたみたいになるじゃねぇか」と浮き輪を取り上げられた。僅かとはいえ不意の落下に半身がつんのめり、それこそ苛められた気分になる。肩を竦める木崎を余所に、気だるげに浮き輪を引き擦っていく。数歩行ったところで、もう大丈夫はないのかと促すように振り返られる。木崎は立ち上がって足の調子を確かめると、濡れた箇所を慎重に見定めながらドブロクに続く。
「んじゃーじいさん、木崎のことよろしく。俺海の家で何か買ってくるわ」
その背中にドブロクが「おい、ウミノイエとは何じゃ」と食いつくが、魚住は人波に紛れてしまった。本当年寄りに優しくない奴じゃの、と呟く彼はそれこそ外見相応に融通が利かない部分があるため、きっと海の家に行くまで帰ろうとしないだろう。「昼はそこで取りましょうか」と無難に返している内、泡立った波が足にかかりそうになり慌てて退く。ドブロクが浅瀬、いやほぼ波打ち際に浮き輪を放ってくれたため、ゆっくりと身を収める。臀部や沈まないように縁をしっかり掴み、脚を出来るだけ浮かす。成人男性という体格のせいで不格好かもしれないが、浮き輪に乗ることが出来て一先ず息を吐く。見渡すと、延々と広がる青の中に、様々な色が散っていた。その主である海水浴客の一員に慣れたのだと思うと、自然と頬が緩む。社員たちにカナヅチだと弄られるだろうが、今はそんなネガティブ思考さえ邪魔に思える。普段の自分からは考えられない。ドブロクにもこの感覚を知ってほしいと声を掛けたが、やはり「嫌じゃ」と切り伏せられた。
「割と安定してんじゃん」
波がかからない寸での所まで歩み寄ってきた魚住が、レモンスカッシュを渡してきたので、頷いてストローを咥える。流れてきた強めの炭酸と酸味が、強い日射に乾かされた喉に響く。清々しい後味は、丁度海のようだ。
「というか魚住」木崎は魚住の横顔を眇める。「ナンパしてたんじゃないだろうな」
「あはっ、バレた?」
「分かるわ、あんな半端なタイミングで一人になりたがったら」
「やー大学生くらいかな。可愛い集団がいたんだけど、いざ声を掛けようと思ったらあんたらの惨劇が過っちゃって」
「良かったなぁ予想が外れて」
「いやちょっと残念」
軽口を叩き合いつつストローを咥え直したところで、魚住が忙しなく名を呼びながら肩を叩いてきた。弾みで上体が傾き、足先が水に浸かってしまった。
「痛ったあああああああああ」
「ごめんごめんごめん、ちょっ俺も濡れるって!」
脚をばたつかせ今度こそ引っ繰り返りかける木崎と、何とかそれを押さえ込む魚住という阿鼻叫喚。近くの親子連れが「お母さんあれ」「しっ見ちゃいけません」なんて、今日び創作物にも使われないやり取りをしているのが耳に入る。漸う立て直し、木崎が息を乱しながら魚住の全身を確かめると、何とか人間の形を留めていた。最悪の事態は免れたことに肩の荷を下ろしつつ、改めて何事か問う。やや剣呑な口調になってしまったのは許してほしい。
「じーさん、いないんだけど」
「えぇ?」
そのドブロクはというと、只でさえ硬い相貌をより顰めていた。眉間に刻まれた皺は、枯渇した水脈を想起させる。ウミノイエとやらを拝みたかっただけなのに、先程から娘たちが取り囲んで囃し立ててくるのだ。魚住はよくこの状況を望むものだ、鬱陶しくて仕方がない。誰が迷子だ、鼻こそ利かんが彼奴らの居場所くらい分かっとる。誰が小学生だ、お前らが孫に思えるほどだわ。誰が可愛いだ、褒め言葉と思っとるんか。そう猫も顔負けの甲高い声に逐一反論してやりたいが、「何言ってんのー不思議系ー!?」だの「ウケるー」だの呪文を唱えられるだけだろうので、こうして表情で訴えるに留めている。すると、娘の一人が「そんな不安そうな顔しないでよ。私たちが探したげるから!」と笑いかけてきた。
あぁ、この作戦も失敗か。悟ると同時に、神さんは何で自分を爺さんの姿にしてくれんかったのか、と何十回目かの恨みが沸き上がる。対象が曖昧なだけに、もどかしさが募るばかりだ。否そもそも人間になどなりたくなかったが、それは愚痴っても不毛なだけだと思えるくらいには現状に慣れた。それも何かっちゃあ世話焼きな同類が近くにいるからだろうが、礼など言ってやらない。兎も角、神さんは猫の十三歳が人間の六十半ばに相当することを知らんのか、と訴えたい。
そちらの姿だったら、小娘たちに騒がれることも無かっただろうに、と取り巻きを見やる。出来るだけ目を合わせないようにしていたため気付かなかったが、数人が水泡の立った透明な液体を手にしている。黄色のそれもあった。瞬間、小ぢんまりと丸まった飼い主の後ろ姿が頭を過り、半ば無意識に牙を剥く。
「あんたら、それ酒じゃあないだろうな」
口を開けば妙なことを訊く子どもを不審に訝しんだのか、娘たちは一斉に呆けた顔になる。何だ、静かに出来るんじゃないか、とこちらもぼんやり思っていると、一番前にいた娘が弾けたように笑い出した。
「違うよー、ソーダとレモンスカッシュだって!知ってるっしょ」
それを皮切りに、ちやほやが再開される。予想していたウケるー、の他に天然系ー? 等も聞こえた。後で木崎に意味を聞こう、ついでにソーダをたかろう。
「てかあたしら一応ハタチなんだけど」
その言葉に、『飲酒・喫煙はハタチから』というテレビで見かけた文句を思い出す。二つも早とちりしたことに妙な気恥しさを覚え、しかしドブロクは騒ぎを止めるべく硬い声を崩さなかった。
「そうか、だからといって調子に乗って飲んだり飲ませたりするなよ。酒は百薬の長なんてのは、酒好きの都合いい解釈じゃ。体を壊すに変わりない」
かつての飼い主であった婆さんの口癖をなぞらいながら話すと、娘たちはまたも一様にぽかんとした。その先に、見飽きた男たちが歩み寄ってくるのが見える。こちらの視線に気付いた木崎が「ドブロクさーん、困りますよー」と手を振り、魚住は「さっきの集団!」と目を瞠った。そのまま話し込もうとし始めたので、足の甲を踏みつけた。呻いた奴の腕をすかさず木崎が捉え、そのまま娘たちを振り切った。魚住は未練がましくそちらへ腕を伸ばしていたが、姿が見えなくなると流石に諦めた。すると矛先をドブロクに変えてきたので、常人より伸びた爪を見せて黙らせる。断じて囲まれたかった訳ではない、独り占めなど見当違いも甚だしい。
「てかじーさんよ、こんなとこでくらい見た目相応に振る舞えって」
「何が悲しくて『おにいちゃーん』だの言わにゃならんのだ」
「それどこ情報!?」
どっちかというと妹では、と続ける木崎は無視する。此奴の突っ込みは長いのだ。「酒は本当に危ないんじゃからな」とあからさまにむくれてみせると、魚住が「また婆さんの話? いい加減教えてくれってば」と食いつく。このやり取りにも飽きてきた、いつもなら素気無く首を振るところだが、違う仕様にしてやろうか。リクエスト通りの子どもっぽい笑みとやらを繕い、少し舌を出す。
「お前が烏賊を買ってくれんじゃったら、話してやらんこともないぞ」
そうして猫は、泰然と波打ち際を歩む。少しなら日射しも鬱陶しくないと思えた、夏の午後である。