蛙/瞳七絵


瞳七絵


 私は息を整えながら川沿いの道をひたすら歩きました。真夜中の川は暗闇に溶け込んで穏やかに流れています。私は深呼吸して真っ直ぐ前を見据えました。秋口にしては冷たい風が首筋を通り過ぎていきました。

 半袖シャツではちょっと寒かったかな、と後悔し始めた頃、数メートル先の道端に女性が座り込んでいることに気付きました。季節外れの花火をしているらしく、色とりどりの炎がちらちらと燃えるのが見えます。女性はジャージに半袖パーカーを着ていましたが、足元は何故かスリッパです。周りには花火セットが散らばっており、小さな空っぽのバケツもその中に転がっていました。

 私は女性の様子をしばらく観察していました。ぱっと見た感じ、二十歳前後の若い女性です。髪色はかなり明るく、遠目でも分かるほどきれいに切り揃えられたショートヘアーです。私に気付いている様子もなく、たまに花火で空気文字を書いたり、新体操のリボンを操るような動きをしたりと、花火を楽しんでいるようでした。

 数歩近づいてみると、お人形さんのような美しい横顔が花火の炎に照らされて白く浮かび上がりました。

 私はしばらく動けずにいました。彼女は元同級生の有澤レーラだったのです。

 私とレーラは幼馴染で、クラスも全て同じでした。しかし、中学二年生の夏休みを堺にレーラは全く学校に来なくなりました。当時から何かと目立つ存在だったレーラのこと、様々な噂や憶測が飛び交いましたが、結局急な転校だったのだということで収束しました。

「レーラ」

 やっと声を掛けると、彼女は座ったまま無表情の顔をこちらに向けました。一瞬、微かに笑ったようでした。彼女はまだ燃えている花火を川に投げ捨て、ふらふらと危なっかしく立ち上がります。私は彼女の行動が信じられませんでした。中学生までのレーラは典型的な優等生で、川に花火を投げ捨てるなど考えたことも無いような子だったはずです。

 彼女はか細い声で言いました。

「久しぶり」

「久しぶり。どうしたの、こんな時間に」

「花火してる」

「こんな時間に?」

「うん」

「……何してたの、今まで」

「病気してた」

 六年ぶりに見るレーラは確かに痩せたようでした。だぶついたジャージとパーカーから覗く手足はずいぶん細くなっており、瞳の煌めきは消え失せていました。

「教えてくれれば良かったのに」

「……」

「何の病気?」

「ココロの病気。一生治らないんだって」

 私はレーラがスリッパで野外に出ている理由をなんとなく察しました。そして、彼女が病気を患っていることに何の違和感も持ちませんでした。彼女は昔から色々と「弱い」子でしたから。

 私はとりあえず彼女の隣に座りました。

「本当に、一生治らないの?」

「一生どころか、来世も来来世も治らないかも。てっちゃんは? 何してたの、この六年間」

「何って……。中学卒業して、高校も卒業して、今は普通の派遣社員」

「働いてるんだ。すごいなあ」

 私は彼女ののんびりとした物言いに強烈な違和感を覚えました。嫌悪感と言ってもいいかもしれません。彼女は資産家の娘なのです。あなたは健康だったとしても働かずに専業主婦にでもなっていたでしょ、と言ってやりたい衝動に駆られましたが、ぐっと抑えました。

「働かないと生きていけないもの。うち、貧乏だし」

 レーラはふいと私から顔を背け、パーカーのポケットからライターを取り出して花火に着火しました。やがて黄緑色の光がしゅうしゅうと吹き出てきました。

「わたしはもっと貧しいよ」

 私はにわかには信じ難い思いでした。有澤家と言えばお金持ち、がこの町での常識だからです。

「なんで? 何かあったの?」

「別に何も無いよ。わたしは有澤家と縁を切ったから関係ないけど」

「噓でしょ? 一体何をしたわけ?」

「色々」

 あまり話したくないようです。

「……レーラも大変なんだね」

「そうでもないけど。縁が切れてラッキーだよ」

「親のこと嫌いだったの?」

「別に嫌いじゃないけど」

 私達は沈黙しました。レーラは花火が燃え尽きる度に手慣れた様子で川に投げ捨て、また次の花火を手に取ります。

 レーラの素早い手つきは見ていて新鮮でした。私の知っている有澤レーラとは、内気で不器用で何の自己主張もできず、その美しい顔のおかげで何とか生きているような、端から見るとかなり鬱陶しい子だったのです。また、こんな田舎町には似つかわしくない豪邸に住んでいたものですから、特に小学校中学年になってからはクラスの女子からの妬み嫉みが激しく、度々嫌がらせをされていました。しかし、どれほど酷いことをされてもレーラは何も言い返したりせず、ただ困り顔でその場にじっとしているだけでした。

 軽く二十本を超える花火が燃え尽きた頃、レーラはやっと口を開きました。

「そういえば、丁度てっちゃんが来るまで、蛙の鳴き声がすごかった」

「蛙?」

 私は眉をひそめました。

「蛙が潰れたような音っていうのかなあ。子供のいたずらにしてはずいぶん長い間だったし、そもそもこんな時間だから子供なんているわけがないし、ちょっと怖かった」

 急に体が冷えてきました。

「そうだったの、知らなかった。変質者かもね。早く帰った方が良いかも」

 私は立ち上がってスウェットに付いた砂を払いました。スマホで時間を確認すると午前三時半。 レーラはじっと座り込んだまま、川の水面を見つめています。

「レーラは帰らないの?」

「ん、まだここにいる」

「怖くないの?」

「平気。てっちゃんは帰るの?」

「明日仕事なの」

「明日は土曜日だよ」

「……仕事なの」

 レーラは足を投げ出して空を仰ぎ見ました。私もつられて顔を上げました。澄んだ空に星が光っています。

「てっちゃんはさ、ハンザイシャじゃないでしょ。ココロが病気でもないでしょ。ちゃんと仕事してるでしょ。完璧じゃん。わたし、全部アウトだよ。もう終わり」

 ハンザイシャという音を漢字変換するまで数秒かかりました。

「レーラが犯罪者だなんて」

「小学校や中学校であれだけいじめられていれば、鬱憤晴らしに犯罪行為ぐらいするようにもなるよ」

「犯罪行為って?」

「人を殺すとか」

 私は今度こそ言葉が出ませんでした。自分がとんでもない勘違いをしていたことに、ようやく気付いたのです。

 突如、女性の大声が河川敷に響きました。

「レーラ! もう見回りの時間だよ! 速く帰らないと!」

 土手の上で、四十代ほどのふくよかな女性が仁王立ちしています。彼女もまた、紺色ジャージに半袖パーカーという出で立ちで、やはりスリッパを履いていました。

 レーラは「あ、春宮さんだ。やばいやばい」と呟きながら慌てて立ち上がりました。

「早く早くぅ」

 女性が地団駄踏みながら叫ぶのを後ろに聞きながら、レーラはそこら中に散らばっている花火をバケツに突っ込んでいきます。私は手持無沙汰だったので土手へ階段を上ることにしました。

「レーラ、私帰るよ。ばいばい」

「ばいばい」

 女性に軽く会釈しましたが、まるっきり無視されました。ちらりと河川敷を見遣ると、丁度レーラが階段を駆け上がってくるところでした。

 私は息を整えながら川沿いの道をひたすら歩きました。真夜中の川はぬらぬらと黒く濁って不気味な怪物のようです。私はなるべく川を見ないように真っ直ぐ前を見据えました。秋口にしては冷たい風が首筋を通り過ぎていきました。

 数分歩けば家のガレージに着きます。私はボンネットの上にぐちゃりと置かれた、ついさっき手をかけたばかりの死体を確認し、途方に暮れました。

 警察に自首しようか?

 でも、この大きさなら解体してゴミに出すくらい簡単にできそう。見たところまだ小さな赤ん坊だし。

 バレないように捨てられる場所は無いだろうか?

 ふと、レーラが川に花火を投げ捨てていた様子が脳裏によぎりました。

 川に捨てよう。きっと、魚や微生物が食べて分解してくれるだろう。

 私はとりあえず死んだ赤ん坊をお風呂場まで持って行き、肉切り包丁とミキサーを取りに台所まで忍び足で向かいました。両親は眠っているようで、家中がしんと静まり返っています。私は両親が起きていないことに安堵しつつも怒りがこみ上げてきました。私の子ども、つまり両親にとっての孫が夜泣きしている時でさえ、彼らは呑気に寝ていました。父に至っては、たとえ起きたとしても「うるさい」と怒鳴るだけで、何もしてくれませんでした。

 そんなことを考えていたら、これから死体の解体をしなければいけない恐怖心などいつの間にか消え去っていました。

 まずは頭と胴体を切り分ける。次に足を切り落として、片方は頭と一緒に、もう片方は胴体と一緒に切り刻む。血をできる限り絞ってから、ミキサーに入れて骨を砕いていく。それが終わったら、肉団子にして冷蔵庫か冷凍庫で冷やし固める。

 よし、完璧。

 私は白目を剥く赤ん坊の首に包丁を押し付けました。


 白を基調とした病室も、夕暮れ時になればオレンジ色に染まる。窓からは夕陽が差し込み、鉄格子の影がベッドに落ちて縞模様を作った。

 有澤レーラはベッドの上で大きく欠伸した。隣室に入院している春宮洋子がくつくつと笑いながらベッド脇の丸椅子に座った。

「花火はどうだった?」

「綺麗だったよ」

「そりゃよかった。長年の夢だったんでしょ」

「うん」

「それにしても、一度も花火したことが無いなんて、珍しいね」

「私、友達いなかったからなあ。あ、そういえば、花火してる途中で幼馴染に会った」

「ああ、あのヤンキーみたいな人ね。幼馴染だったんだ」

「うん。終始上から目線でむかついたけど」

 春宮は黄ばんだ歯をむき出しにしてあっはっはっと豪快に笑った。顔の肉がぷるぷると揺れるのを、有澤は物珍し気に眺めている。。

「確かにあの人、ひねくれてそうな目つきしてたわね。自分がこの世で一番不幸な人間だと思ってる感じ」

「まさにその通り」

「あ、ラウンジから新聞持ってきたよ」

 春宮はしわくちゃの新聞を有澤の腹の上に放り投げた。

「痛いなあ。それさえやめてくれれば素直にお礼も言うのに」

「じゃあ、また明日ねえ」

 春宮は毎日夕方になると有澤に夕刊を渡しに来る。人とのコミュニケーションが苦手な有澤にとっては、三日ごとにやってくる佐々木院長と、長くても五分で終わる春宮との雑談くらいが丁度良い。

「あ、そうだ。言い忘れてた」

 春宮がドアノブに手をかけたまま上半身だけでゆっくりと振り返った。

「昨日、やばい事件あったらしいよ」

「やばい事件?」

「夜中に男の人がリンチされて殺されたんだって。遺体はもう見ていられないほどだったって」

「ふうん」

「犯人はまだ見つからないらしいよ」

「怖いね」

「あんた、あの幼馴染怪しいと思わない?」

「え?」

 有澤は目を丸くした。薄い茶色の瞳が夕陽に照らされてきらきらと光っている。

「だって、あんな時間にふらふら河川敷歩いてるなんて、普通じゃないでしょ」

「確かにそうだね」

「今後のニュースに乞うご期待よ」

「宮崎照美の名前があったらすぐに教えてね」

「了解、了解」

 ドアがぱたんと閉まり、病室に静寂が訪れた。有澤は眉間に皺を寄せて何やら考え込んでいたが、時計をちらりと見て夕食の時間が差し迫っていることに気付き、慌てて病室を飛び出した。

 結局、真実が分かったのは数週間後のことである。宮崎照美は義理の姉の子どもを誘拐した後殺害し、死体を隠蔽しようとしたところを父親に見つかった。彼女は口封じのために父親を殺害し、リンチ死に見せかけるために死体を傷つけ、河川敷の高架下に死体を移動させた。

 義理の姉の子どもを殺した理由は「私の子どもと違って、父親や祖父母にも愛されていたのが不平等だと思ったから」。しかし不思議なことに、宮崎照美には子供はいない。出産の記録も無い。

 有澤は夕刊を読みながら「なんじゃそりゃ」と呟く。春宮はくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。

「さすがレーラの幼馴染ねえ」

「何が?」

「ぶっ飛んでるっていうか、何というか」

「ああ、そうね」

 有澤が不機嫌そうにしているのを悟った春宮は、風の速さで病室から出ていった。

 部屋は静寂に包まれる。

 夕暮れ時も過ぎて、外は星がちらつき始めている。有澤は窓を開けて夕刊を投げ捨てた。氷のように冷たい風が室内に吹き込む。窓際に鎮座しているガラス細工の置物がしゃらしゃらと音を立てた。

「てっちゃん、あなたもお金持ちの子どもだったら、刑務所になんか行かなくて済んだのにね」

 有澤は口元を緩ませながら、差し入れられたばかりのシルクのネグリジェを翻し、ラウンジで夕食を食べるために病室を出ていった。

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