推し活は物語である
最近『推し活』という言葉がもてはやされている。出自はよくわからないが、Xではこの言葉を忌避するポストもよく見かける。かくいう自分は新語それ自体の是非は特に問わないが、長年『ヲタ活』という言葉を用いてきており、それとこれとは質を異にするような気がしている。例えば前者はマスメディア由来の、最近生み出された言葉のようであり、後者はファンにより自然発生的に生成された、20年ほど前からはあった言葉のような気がする。
また人生に関わる深度の違いがあるような気もする。前者はより軽めの関わりを持ち、後者はより深い関わりを持つ。それぞれの出自からだろうか、『推し活』は商業的であり、『ヲタ活』はどこかしら魂の発露を感じるのである。たかが推し事、されど推し事。プラスの面では、人生に張りが出たり心が救われたりしていることだろう。マイナスの面では、人生の色々なリソースを浪費しているであろう。何はともあれ『推し活』や『オタ活』の解釈や使い分けについては他人に任せるとして、ここでは一旦『推し活』という言葉をタイトルに使いたい。
そもそも『推し』とは何なのか。字面だけを見ると、他人に勧めたくなる人や物を指すのだろう。昔は「わたし、◯◯のファンで……。」と、ただ単にその熱中の対象に『ファン』を付け自称してたものが、その意味合いや形容、自称するためのマインドが変わり、おそらく『私の一押し』であるという気持ちから、人に勧めたり他人にもわかって欲しい想いへと昇華し、『推し』という表記になったのではないだろうか。これはまったく非論理的ではなく、英語で言えば "Push" が物理的に押す動作を表したり、人に勧めることを表現するように、人類の共通認識のような気もする。
またインターネットの出現による情報取得・発信の民主化の影響も大きいはずである。ちょうどインターネットの隆盛と『推し』という言葉の認知度の増加は経験則的にリンクしていそうである。『ファン』の時代の情報の殆どはテレビが覇権を握っていたが、その限られたリソースをめぐってファンは先鋭化し(ファンは Fanatic [狂信者] の略である)、部外者に薦めるより限られたコミュニティーのみで共有していたように思う。
が、今はどうだ。インターネットの登場により様々な情報が民主化され、スマートフォンにより個人の発信が爆発的に広まった。ファンは自分の手持ちのカードをひけらかすように、『推し』を他人に勧める心理の渦中にいる。ファン同士のコミュニティーは細分化されつつも部分的に融合され、各々大小様々な経済圏に所属したり離脱したりを繰り返す。
推しに出会ったタイミング、推している期間、ライブやイベントに参加した回数、使った時間・金額etc.……推している深度は様々なパラメータにより定量的に測定できそうなものだが、特にそういったデヴァイスやアプリケーションはこれまで存在せず、すべてオンラインやオフラインでのコミュニケーションにより定性的に測られている。各ファンの深度の違いは、現場の雰囲気や互いに関わっていくうちに知ることとなる。ときには武勇伝で盛り上がり、ときには噂を耳にしたり、それらを総合して比較し、やがて自分のポジションを確認し行動を規定する。
発信はアイドル側にとっても重要なクエリである。昨今、雨後の筍のようにアイドルが現れピンからキリまでいるが、皆平等に自身のアピールや活動の宣伝をてのひらのメディアで自己完結できる状態だ。マスメディアに頼らずとも自分を知ってもらえ、フォロワーを獲得するにつれ、その影響力は増していく。とはいえそんな個人事業主的発想より、これまで実績のある大きな芸能事務所の方が露出できるチャネルやノウハウを遥かに持っており、拡散力が桁違いに違うのも事実だ。だが、そうでない境遇でもチャンスは格段に上がったし、もはや地下(インディーズ)や地上(メジャー)の境目も、ただ単にレコード・レーベルの違いでしか明確な線が見えないように思える。
さて、そんな『推し・推され』の状況分析をしたところで推し活に話を戻そう。私は『推し活』は極めて私的な物語であるように思う。前述の通りにいくらファン同士のコミュニケーションがあろうとも、それぞれのファンには何人たりとも踏み込めない、私的で内的な部分をアイドルに投影または一部共有している。推す期間や深度が増すにつれ、推す側・推される側の、双方の人生が絡み合う物語が構築され、オフライン・オンライン共々継続し雪だるま式に大きくなっていく。もちろん深度の浅い関係ではそれは発生しないし、推す側・推される側の深度のバランスが悪いと、一方的になり、やがてそれは破綻する(深すぎると爆発する)。冒頭で『ヲタ活』を魂の発露とした理由もそこにある。
享楽的に多くのアイドルを推すにせよ、ストイックに1人のアイドルを推すにせよ、その現象は変わらないであろう。なぜなら応援スタイルの違いにも、ファンそれぞれ最適なものに至る物語やバックグラウンドがあるのだと思うからだ。が故に、各人の物語は互いに融和することはないし、いくら他のファンに自分の推しを勧めても簡単には靡かない。
もうすぐ、私と RABBIT HUTCH の、6年に渡る、特に後の4年は私の人生に彼女たちが深く大きく関わった物語に、大きな変化が訪れようとしている。常に人生の楽しみの核心的存在であり、自分に何ができるか考え、コメントを書き込み、手を叩き、声を張り上げ、楽しみ、そして救われた。その物語は2023年11月12日に一度潰えかけたが、なんとか今日まで持ちこたえた。5人から3人になり高校生以上となった今も更なる成長が楽しみではあったが、先頃、無情にも現体制終了が告げられた。
私がどのような想いで彼女たちを応援し、そしてどのような物語を紡いできたのか、自分でもはっきりしているところとぼんやりしているところが綯い交ぜになっているが、5つの煌めきは私の人生に青空をもたらし、桜を満開にし、新緑を広げ、一番星を輝かせ、紅く淡い恋心を灯した。キッズアイドルとしては卓越したダンスと歌、トラックのレベルの高さ、何より他を寄せ付けない可愛さとアイドルとしての花、すべてに惚れ込んだ。それ故に自分でもこの物語の終わりを強く感じる。なぜか。
後藤ひなた。私にとっての RABBIT HUTCH の物語は彼女から始まり、彼女の卒業で終わる。この筋書きでしか私の物語のあとがきは書けないのである。中心的・象徴的存在であった彼女が卒業することで、5人で完成形を見た RABBIT HUTCH の歴史は厳然と幕を閉じるのである。来る8月18日。私に、否、この日を特別な想い待つ全てのファンに、それぞれ融和ならざる物語があるはずだが、ただ一つだけ合意を得るとすれば、彼女の存在の有無による物語の大きな変化、もしくは終演だろう。
それ以降のことは、考える術が今の私にはない。