湊あくあというVtuberを記念して

配信という業界、とても人の気性を消耗する。
配信枠という独立した小さい国で負の増強から逃れられる。一部企業勢は月の収入で配信しなくても生活できてしまう。
でもそれからは?僕らはそんな生活を体験したことがないので、当然ながらそんな人に貢がれるだけで大金貰う日常の反面を知らない。だけど人の貪欲と刺激への欲しさはなくならない。「企業勢Vだったら正体誰にも知られないし、キャラは会社の財産、見上げたらそんな生活は抜け出せそうにないし、新しいネタも中々ない。世界が日進月歩してんのに、自分だけが昔のまま。」不規則な生活と自覚だけで配信するという生活の特質から見ると、焦燥を感じるのも無理はない。
原因は部外者に知る由もないけど、自分を催眠するのはやめよう。中の人は配信を愛してるとか、この金と名声をくれた業界を愛してるとか、これらをくれたファンを愛してるとか、そういうのを無理矢理自分に信じさせるのは良くない。
もう六年だ。外からのストレスを耐えつつ確実に自分の未来へ投資するアイドルにしても、六年は充分に長い旅路であった。
この時点で去ることを選んだのも、彼女が世界に向けて、自分はずっとあのタチの悪い、嫌われやすい、けど注目に値する個体であることを証明しているとも言える。


        ―――― Unhappytail

Vtuberというのは一生やれる商売ではないし、いずれ卒業も迎えるもの。人の一生は幾つか段階がある。古代ギリシャのオイディプス神話では簡単に3分割してて、近代ではエリクソンが8つと提唱している。しかしVtuberというかりそめの姿は、転生を繰り返してない限り、イメージがどうしても固まってしまうからである。それに、情熱は消えちゃうし、誰もが配信の事ばっか考えているわけでもない。
俺はクルーと自称したこと一度もないし、V自体だって見る年数は浅い。大体6期生が加入した時点で見始めた。だから船長の全盛期は見そびれてるし、結節のないぺっさんは聞いたことないし、アヒルのために舞元焚いたこともなく、ドラゴンがどんな気持ちで出て行ったのも知らない。だからもし「素人は黙ってろ」とか言われても返す言葉がない。もっとも、ネットで一番うざいのはそれではなく、運営信者だけどね。
何かを好きになっても、その裏でそれを売ってる商人を好きになることはないと思う。何せ商人は所詮金のために売ってるであって、どれだけ綺麗事を翳しても、その動きからはわかるはずだ。だから運営を信じることなど到底できない。そんなめでたい脳ミソは初っ端から頭に入ってない。商人は商売のために顧客を考えることがあっても、それは顧客のためでなく、商売のためである。マシては「アイドル(偶像)」というものを売りにしてるやつほど胡散臭いものはない。何故なら「信仰」ですらなく、「信仰の依り代」を売ってるからだ。具体的な違いは、ユダヤ教とキリスト教のルールの違い、そしてギリシャに伝来した時のキリスト教の発展に関する歴史を調べればわかる。簡単に言うと、最初に三大宗教はどれも「像を作る」ことを禁止にしていた。だけど伝教のために、教義を変えてまで彫像が得意なギリシャ人の手を借りたかった、と言った所だ。ならなぜその必要はあった?信者が増えれば何が増えるのか、自分の頭で考えてみてください。

話が逸れてしまった。すみません。商人が胡散臭いという話でした。
では商人が抜けた後の人達はどんな生活をしてるかというと、俺は具体的な数字わからないが、少なくともお前やオレよりはいい生活してると思う。何故ならまだあれで食っていけてるからな。
でもここまで大きく成長したのは商人たちの功は、ないと言ったらスジ違い。中卒に近い女の子たちを色々裏でやってサポートしてるわけで、実際に宣伝などに出るのも商人たちだから。けどそのバランスはどうかな?表と裏の均衡は取れてるかと言ったら?逆に言うと、面白い彼女たちが商品になってもらわないと、商人はV業界に空気でも売るのか?彼女たちだからの腕がなければ、あの小さな箱からはそうも成長できてないだろ。
ましてや今回離れることを決意したのは、先駆者だった彼女だ。例え後から来た人たちがどれだけ前の人より腕も功績もすごかったとしても、先駆者は先駆者だ。その失敗と経験がなければその後の全てのものはない。今の世の中、よく昔の人をバカにしてるが散見される。「あの時ああしてればあんなことにならずに済んだのにバカだな」と言うアホはちょくちょくSNSに出る。あれは今の自分にあるものは全部「あって当然」だと思ってる先進国の贅肉だ。それ以外の何物でもない。考える脳は持ってなくても、大抵死にはしない国を、前の人達は作ったからな。

それにしても、ひょっとしたら、運営もそうなりつつかもしれない。自分が今持っているのは自分のスキルだからだと、錯覚しているかもしれない。
そしてそれを信じているうちに、反省する気も失い、ただ驕れるだけの贅肉になった。
親方はよく自分を信じると運営を信じることを繋いで言っている。自分さえいれば運営は変わらない、みたいなこととか。だけど人は変わるもので、君も変わるものだ。それこそ急変じゃなければ、少しずつ変わっていく環境に、人はどこまでも慣れてしまうから。7年前の自分は今の自分、今の環境を見て何と言うだろ、よくよく考えて欲しい。あれ程自分は最後に残ると言っても、本当に親方になっていた気でいても、所詮5%としか数えられていないか?茹でガエルになるのだけは、見たくない。

人は変わるものだ、だからずっと傍に居て何もしなくてもいいとか、そういうわけにもいかない。その人はお前のためじゃなくて、自分の人生があるからだ。俺は昔からVの時代を三国に例えるのが好きだから、「天下の大勢、 分かれて久しくなれば必ず合一し、 合一久しくなれば必ずまた分かれるのが常である」と、括ろう。上でも書いたように、ここに入る日があれば、必ず離れる日も来る。
今まで自分がどんな所でどんな様子で生きて来たか、それは離れて遠くから眺めないと逆にはっきり来ないもの。

ともあれ、3年前にドアを推してそのまま去ったあの人みたいに、彼女も去ることを選んだ。瀟洒に、躊躇なく、背中だけ見せる姿で。
3年前、出たら飢え死にしか待ってないと思った人も少なくないだろうが、その人は今でも足掻いて生きている。自分の姿を映し、昔の仲間たちに見せながら。
もちろん、嵐の中でドアにしがみついて離れたくないけど吹っ飛ばされた人もいたし、あっけなく消えた人もいた。
きっとちょっと外に足を踏み入れてはすぐに引っ込んだ角もいるだろう。
温室を離れる決意を下すのは容易じゃない。
だからこそ、祝うべきだ。

これから何があろうとしても、良き友人がいることに、そしてその踏み出す勇気に、敬意を払いましょう。

湊あくあの名は、この時代に聳え立つ碑にして永く刻まれるその唯一の銘でもある!

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