(続き)文芸批評1《村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作》その2
(続き)文芸批評その1《村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作》その2
※ヘッダーは、明治神宮外苑の絵画館。村上春樹は小説デビューの前、この外苑近くの千駄ヶ谷でジャズバーを経営していた。
※写真は全て、土居豊撮影のものです
土居豊の文芸批評その1
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作1
土居豊の文芸批評その3
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!
土居豊の文芸批評その4
村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である
文芸批評4(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である 2
(1)『街とその不確かな壁』初読の印象は最悪
ここからは、前段までとは打って変わって、春樹新作『街とその不確かな壁』の初読の感想を改めて書いておこう。
初読時に私は、本作に絶望的な気持ちを味わった。なぜかというと、本作を最初に通読した際には、退屈の一言に尽きる読後感だったからだ。正直、本作は、最も村上春樹らしくない小説だと感じた。
1980年の若書き中編「街と、その不確かな壁」(文學界)を作者自身が失敗作だと思って、今なら書き直せるという。それならいっそ、元々の中編とほぼ重なる内容の本作第1部だけを、中編のまま書き直してその他の小品と組み合わせ、短編集にしたらよかったのではないか?
いや天下の村上春樹なら、以前短いエッセイ『猫を棄てる』を薄べったい単行本にして刊行したように、この短い中編だけで単行本にし、値段を高くつけて出すこともできるだろう。そうしても十分売れただろうに。
なぜ、こんなことを書くのかというと、本作を通読した第1印象では、2部と3部は余計な付け足しだと感じたからだ。
それというのも私のような村上春樹研究者の場合、元の中編の存在も知っているし、そのリメイク発展版としての『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も熟読しているから、本作の第1部までの展開はもう知っている。あの「街」の正体は読む前から知っているから、どうしても今更感がある。
物語中、語り手が中年になってからもう一度、あの「街」に行く必要があるのかどうか疑問だ。なぜなら「街」に行っても、そこにいる彼女には心がないとわかっているからだ。
本作の前バージョンの『世界の終り…』においても、オリジナル版「街と、その不確かな壁」においても、最大の問題は、彼女の心をどうするのか?という判断だ。その点では、『世界の終り…』の「世界の終りパート」で、彼女の心を取り戻すために手風琴を登場させたのは、実に卓抜なアイデアだった。魔法世界での魔法アイテムとしての楽器は、物語中で見事な効果をあげている。対応する並行世界の「ワンダーランド・パート」で、同じように語り手が楽器や音楽のモチーフに囲まれていることで、楽器によって心を取り戻すという必然性が納得できるからだ。
心を取り戻すきっかけとなる「ダニーボーイ」のメロディも、おそらくは読者の多くが知っている民謡であり、あの小説では音楽と文学が完璧な融合を成し遂げていた。
それに比べて、新作では長大な2部から尻切れとんぼな3部にかけて、彼女の心を取り戻すことができないのだという絶望感が付きまとう。せっかく無理くり「街」へ戻った語り手は、彼女の心を取り戻すどころではなく、後継者としての少年に「街」での彼女との共同作業を譲っただけだ。そうして語り手自身は小説の結末で、どこへどうなったのかすら不明なままとなる。
語り手を導いてきたはずの子易老人は2部の後半、肝心な場面ではもういなくなっており、導きの手は得られない。語り手の後継者としてのイエローサブマリンの少年も、3部で「街」に居残るのは後継者というより逆に、語り手の代わりに彼女の共同作業者に成り替わる若いライバルに見えてしまう。最終場面で語り手は彼女に別れを告げるが、その世界で彼女の隣に暮らし続けるのは赤の他人の少年である。これではまるで、若いツバメに彼女を奪われた中年男というような印象さえ感じられる。つまり本作の結末は、どう見てもハッピーエンドではないように読めるのだ。
(2)子易さんと、イエローサブマリンへの疑問
もう一つ、本作の最大の問題は、春樹氏の完成されすぎた文章だ。春樹氏が若書きの中編を、今の自分なら書き直せると思うのは勝手だが、老人の文章が若い心情を描けるかどうか、大いに疑問なのだ。本作の文章はあまりにも磨き上げられており、きれいに整っている反面動きがないため、若い男女の心の動きを感じさせないのだ。
しかも残念なことに、これまでの村上作品にはない新機軸として登場させたはずの、子どもの描写もどうやら失敗している。実際、あのイエローサブマリンの少年はあまりに実在感がなく、作り物に見える。同じ村上作品なら、『スプートニクの恋人』の「にんじん」少年の方がまだしも、生き生きと描かれているぐらいだ。
さらにまずいことに、本作では語り手やヒロインの彼女以上に最重要人物といえる、謎の幽霊・子易老人が、どうしても過去作品の人物の焼き直しに見えてしまう。この老人こそ、本作で描かれるべき作者の父親の、理想化された姿であるはずだった。過去作品で繰り返し、理想化されて描かれてきた父親像の、今度こそ決定的な姿となるはずだったのに、どういうわけか、子易老人も作り物めいてしまっているのだ。
総じて本作では脇役が魅力に欠ける。村上作品の魅力の一つは、脇役が主役よりも生き生きしていることだったのだが。
(3)村上春樹の文体への疑問
春樹氏は1980年に書こうとして書き損じた(と本人が信じている)若い男女の物語、若書きのオリジナル版「街と、…」を再生させる方向を見誤ったのではなかろうか。
70歳を超えて完成された独自の文体を持つ春樹氏が若い男女の心情をとことん描く気なら、まず完成された自身の文体をあえて壊す必要があったはずだ。本作の物語が春樹氏の実体験に基づくものと仮定するならば、なおさらそうだといえる。
本作の語り手と彼女の会話の言葉は、村上春樹流の完璧な無国籍文体ではなく、作者自身のルーツである関西方言で書く挑戦を、あえてする必要があったはずだ。そうでなければ、これまでの村上文学の男女の対話と、どこも違わないことになるし、実際、そうなってしまっている。本作の1部でティーン2人が語り合う言葉は、残念ながら下手なラノベよりも、下手なマンガやアニメよりも上滑りしてしまっている。
土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/