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連載更新! 土居豊の文芸批評その4 村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である 

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連載更新!
土居豊の文芸批評その4
村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である


※写真は全て土居豊の撮影


春の芦屋川


※前回まで
土居豊の文芸批評その1
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作1
https://note.com/doiyutaka/n/nc68693cc0b25

(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作2
https://note.com/doiyutaka/n/nec4c3577cf8d

土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?
https://note.com/doiyutaka/n/n0266ed29df2f

土居豊の文芸批評その3
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!

https://note.com/doiyutaka/n/n495ab95b92b8


(1)村上春樹『街とその不確かな壁』の原点である『1973年のピンボール』


『1973年のピンボール』は、村上春樹が芥川賞にノミネートされた時の小説だが、デビュー作『風の歌を聴け』に続くこの中編第2作目は、芥川賞にふさわしい優れた小説だったか?
今こそ、読み返してみよう。
なぜなら、本作は村上春樹最新長編の『街とその不確かな壁』のオリジナル版である中編『街と、その不確かな壁』へとつながり、そののちはるかに『1Q84』へ直結する起点となった、重要な小説なのだ。
そのことを、いまだかつて指摘した研究はないようにみえる。本作が刊行されて43年経つというのに、この奇妙な中編小説の真価を見抜いている研究者はいなかったのだろうか。それだけでなく、このことを当の作者本人、村上春樹氏もわかっていないように思えるのだ。
それというのも、本作と前作のデビュー作『風の歌を聴け』は習作レベルだという理由で、長い間、作者本人が海外翻訳を許可していなかった。また、エッセイ『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中で書かれているように、本作がある出版社の文学全集に収録されるのを、作者・村上は頑なに拒否したのだ。
どうやら作者・村上は本作について、何かこだわりを持っていたようだ。
だが、作者本人がどう思っていようと、作品は作者の手を離れたら自立する。私が読むところでは、本作は春樹作品中、実に興味深い位置にある。一読した感じとして作品の完成度は今ひとつだとしても、本作はその後の春樹作品を貫くモチーフに満ちている。
つまり、本作をきちんと読み解くことで、春樹作品の重要な読解ヒントが得られるかもしれないということだ。
例えば、本作の登場人物の中で、最も目立っていて読後も強烈な印象を残すのは、ふたごの女性たちだ。この通称「208」と「209」のふたごは、私自身も本作の初読以来ずっと、心に残り続けるキャラクターだった。そのくせ、このふたごの女性が何の意味を持っているのか、最近までわからなかった。
だが、村上最新長編『『街とその不確かな壁』と、オリジナル版の中編『街と、その不確かな壁』を読んでようやく気づいた。『ピンボール』のふたごの女性は、『街と、その不確かな壁』の「彼女」とその影の原型なのだ。どちらが本体か見分けがつかないこのふたごや、『街と、』の「彼女」と影は、のちに『1Q84』で謎めいた美少女キャラクター「ふかえり」となる。こちらは、「マザ」と「ドゥタ」という呼び名で、本体とそのコピーとの見分けがつかない設定になっている。
『ピンボール』のふたごの女性たちは、どうみても異世界の存在であり、語り手「僕」の心に(肉体にも)するりととりつき、彼の精神を癒してくれる。異世界人だけあって、「僕」の抱えた問題をちゃんとわかっており、寄り添ってくれつつ、時に貴重な示唆をくれる。こういう女性のイメージは、その後の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のピンクの女の子や、『ねじまき鳥クロニクル』のメイなど、スピリチュアルな世界と繋がる不思議系少女の原型でもある。



ジェイズ・バーのモデルといわれる、芦屋川沿いの建物


(2)「直子」の「街」はどこに?


『1973年のピンボール』を、新たな視点から順番に読み返してみよう。

※以下、引用部分は講談社文庫版による

P9《直子の街》
この田舎町の場所は、関東平野のどこか山間の辺鄙な村だったようだ。ここは、もしかして『1Q84』の中で戎野先生と「ふかえり」が住む、二俣尾(この場所は実在する)なのだろうか?
それというのも、位置関係は本作の語り手「僕」が住んでいたJR中央線沿いの駅から、距離感としてもそう不自然ではない。
しかも二俣尾のさらに山奥には奥多摩湖があり、この貯水池は本作の中で「僕」が配電盤のお葬式に行く場所として、ちょうどいい位置にあるようにみえる。
だとすると、本作の直子とその父親である引退した仏文学者は、『1Q84』の戎野先生と「ふかえり」の原型だといえるだろう。もしそうなら、直子と父の場合も、戎野とその実の娘と引き取った子どもである「ふかえり」の3人のように、「娘たち」という関係性があるのかもしれない。この「娘たち」のモチーフが本作ののち、新作長編『街とその不確かな壁』の原型である1980年の中編『街と、その不確かな壁』で、「彼女」の本体と影の2人という形で具体化されているのだ。
本作のふたごの女性たちは、前述したように、「ふかえり」の本体とコピーである「マザとドゥタ」の原型でもあるといえる。本作での語り手「僕」は、愛していた直子を失ったあと、そのコピーのようなふたごたちと同居して、かりそめの性交までしていたことになる。そう仮定してみると、一見なにげない本作の描写や情景が、恐ろしくグロテスクなものに見えてくるのだ。
ここで注目しておきたいのは、作者・村上の深層心理から発した奇怪な願望についてである。どういう願望かというと、エッセイ『村上朝日堂 はいほー!』で無意識に(あるいは意図的に)書いているのだが、なんとそれは「双子の女の子」と同時に恋人になりたいという願望なのだ。

引用(村上春樹・安西水丸『村上朝日堂 はいほー!』新潮文庫)
p56
《僕の夢は双子のガール・フレンドを持つことです。双子の女の子が両方とも(原文傍点)等価に僕のガール・フレンドであるということ、これが僕のこの十年来の夢です。》

エッセイでこの話を読むと単なるホラ話にしか思えない、しかし、『ピンボール』という小説の中の似たような描写と並べて読むと、なんとも奇怪でグロテスクな願望なのだ。
作者・村上が願望として書いた、「双子の女の子」と同時に同衾する場面を、小説で描いたのが本作『ピンボール』なのだとすると、これだけでも本作は異常なまでに突き抜けた問題作だといえよう。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/