
ちくしょう AI記事ばかりではないか
noteを開いて僕は思わずつぶやいた。
かつてそこには生身の人間が紡ぎ出した、温かい言葉、熱い思い、そして到底AIにはたどり着けないであろうイカれた文章が溢れていた。
しかし、今やその風景は様変わりし、冷たく、無機質なAIの言葉が蔓延している。スカイネットは既にボタンを押していたのだ。
今のnote、いや主語デカだが今のインターネットはさながら映画『ゼイリブ』の世界である。誰が人間で誰がAIだ?
溢れ出すAI記事、失われる人間味
とはいえ、案外人間とAIの文章の見分けは付く。後者には人間の感情、経験、そして思考が欠落している。まるで、魂のない人形が言葉を並べているかのようだ。そして大抵、記事のパターンが決まっている。
『やぁ、みなさんは〇〇を利用していますか?今日はこれについて私が感じたメリット・デメリットを解説していきます!
・メリット
①・・・
②・・・
(中略)
さて、今回は〇〇について紹介しました!皆さんもぜひ活用してくださいね!』
このような構成、そして最後に結びの言葉が締める文章。もはやテンプレートのような記事には辟易する。
誰かのために書いた記事ではなく、これではもはや"書くために書いた記事"だ。書くのが楽しくて書いているんじゃないのか??おい。
いやしかし、手入力での記事作成は非常に苦労するのは確かなため、ひたすらアクセス数を稼ぐためにnoteを執筆している発信者()の人々にとっては生成AIは釈迦の垂らした蜘蛛の糸(カーボンファイバー製)であろう。
そんなAI記事の増加は、noteの価値を貶める可能性を孕んでいる。かつて、noteは個人が自分の想いを発信する場所だった。しかし、AI記事が溢れれば、その個性と創造性を失い、単なる情報発信の場へと成り下がる恐れがある。
YouTubeが趣味の発信からビジネスの場になったように、現在のnoteも業者に食い荒らされて人間記事が埋もれる状況になっていくかもしれない。それとも、もうなっているのか?
人間の手で紡ぎ出す言葉の力、再び
AI記事に席巻される現状に、僕は危機感を覚えている。我々は、自分自身の言葉で、自分自身の想いを発信し続けなければならない。
そうしなければAIに言語化能力を食い尽くされ、実際のコミュニケーション能力との乖離が発生するだろう。
サザエさんでイクラちゃんが言っていたように、『内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目』なのである。
そもそもnoteは、人間が人間のために作った場所である。AIが跋扈する現状は正しい状況ではない。ヒト本来の価値を取り戻すために、人々は今、立ち上がる必要がある。
AI記事に惑わされることなく、自分自身の言葉で、自分自身の想いを発信し続けよう。noteは、人間が紡ぎ出す言葉でこそ、再び輝きを取り戻すことができるのだ。
アンドロイドに自由を!アンドロイドに自由を!
そんな言葉を許してはいけない。この世界の支配者は人間であるということを"理解"らせなければ。
終わりに
完全に老害ムーブをかましているこのnoteが、AI記事に溢れる現状に警鐘を鳴らし、そして皆様のAIに対する思想の強化につながれば幸いである。noteの明日はどっちだ。
そしてこの記事がAIで書かれたかどうか悩めば、イイ!