「行き掛けの駄賃」の例文
「声の大きさは関係ないんだよ、それは物理次元の尺度だから」
そう言ってシババヤシ モリは空を見上げ、こう続けた。重要なのは声の美しさなんだ、重要なのは。あ、澄んだソプラノボイスがいいとか、だみ声はダメだとか、そういう話じゃないよ。噺家さんのがらがらした声が心地よかったりするじゃない。落語はね、透き通った声でやられたって深みもなにもありゃしない。
「ありゃしない」のところで、シババヤシ モリは小さく首を回した。それが何かのスイッチだったかのように突然黙ると、両手を突き上げて目を閉じた。
土手には犬を散歩させるおばさんや手を繋いで歩く老夫婦、蛍光ピンクのスポーツウェアに身を包んで走るドレッドヘアの女の人や流線型のヘルメットをかぶって細いタイヤの自転車を押して歩く男などの姿が見えるが、この河原には誰もいない。だからここへ来たのに、ここでならいつも一人になれるのに、誰の目も気にせずに練習できるのに、今日は先客がいた。中肉中背の中年の男。
はじめましてと挨拶されたので、はじめましてと返した。男はにこにこと柔和な笑顔で、まだちょっと寒いねなどと当たり障りのない天気の話もそこそこに、ここで何をしようとしているのか話してくれた。シババヤシ モリという名前をどのタイミングで名乗られたのか、僕の名前はシババヤシ モリに教えたか、よく覚えていない。ほんの5分ほどのことなのに。
「来てください」
シババヤシ モリがそう言った。大きな声でもだみ声でもなくアナウンサーのような明瞭さもなくボソっとつぶやいたような印象だったが、川の音や風の音にまぎれることなくはっきり聞こえた。美しい声だと思った。これならたしかに、届くかもしれない。
見上げると、それは来ていた。音も無く、風も起こさず、空と同じ色で輪郭もおぼろげだが、巨大な円盤が浮かんでいる。土手を行く人たちは誰も気づかず、犬だけが吠えている。シババヤシ モリは再会を喜ぶように手を振り、それからこっちを見て、あいつらに何か渡すものある? と聞いてきた。せっかくの再会なのに、おつかいみたいなことをさせてしまっていいのだろうかと逡巡していると「行き掛けの駄賃だよ」とにっこり笑う。僕はポケットからブルースハープを取り出して、シババヤシ モリに渡した。