「手慰み」の例文
窓際の席は太陽の動きがよく分かる。さっきまで短かったグラスの影が今はだいぶ伸びている。グラスも水も透明なのにちゃんと影が見えるのはなぜだろう。スマホで調べればすぐに答えは見つかるだろうけど、時間はたっぷりあるので考えてみよう。
たっぷりある?
そう判断した自分のお人好し具合にがっかりしてしまう。待ち合わせの時刻から、もう2時間経過している。グラスと水の影について考察するよりも、あいつへのお仕置きを考案するべきだろう。
そもそも私が電車に乗って赴いているのも変だ。向こうが私の最寄り駅のスタバかドトールで待ってるべきじゃないのか。それでもかなりの譲歩ではある。家まで来たって罰は当たらないはずだ。いや、あいつに我が家の敷居は跨いでほしくない。住んでる町も知られたくない。だから仕方なく、この喫茶店であいつを待っている。LINEも既読になりやしない。
こんなときは踊ろう。
今すぐ連絡がとれたとしても、どうせ「いまおきました!」と平仮名のメッセージが来るに決まってるのだから、まだ1時間以上はここに滞在することになる。それなら手慰みに覚えたダンスでも踊って時間を潰すのが心の安定にも繋がるはずだ。
テーブルはダンスホール。中指と人差し指でステップを踏む。親指を支点に弧を描く。ときどき小指を立てて観客にアピール。グラスに飛び乗って縁を滑るときは、水の中に落ちないように。ジャンプ、爪先までピンと伸ばして夕日を浴びる。着地は音もなく静かに。そしてまたステップ。
「なにしてんすか?」
顔を上げるとあいつが立っていて、遅刻を詫びもせずにドカッと向かいの椅子に腰を下ろした。ムッとしたのを悟られないように努めて冷静な声で「一緒に踊る?」と尋ねると、あいつは中指と人差し指をテーブルに立てて親指をこちらに差し出してきた。店内BGMでトランペットが鳴り響き、私とあいつは手を繋いでホールの中央に走り出る。