無色透明の腐った心 三
始めから分かっていたことだけど、楽しくもなんともない。ていうかつまらなすぎ。一体何が楽しくて、あんな馬鹿みたいな顔して笑うことができるんだろう。そんなに機嫌をとってまでセックスがしたいのなら、テレクラにでも行けばいいのに、出会い系サイトでも漁ればいいのに。怖いんだろうなどうせ、事件に巻き込まれたりするのが、だから、こうやって、お酒を飲ませて、タダでやらせてくれそうな娘を探してるんだきっと。世の中ホントくだらないことが多い。嫌になる。
カルアミルクを片手に持ったマコトが肩を寄せてきて、小声で言った。
「まだ怒ってんのー? さっきからサイカのこと見てる男の子いるよ、結構カッコイイじゃん? そんな顔じゃ話しかけられないって、笑顔笑顔、あはは」
「あのねえ」
キョウコとマコトと私とで、久しぶりにガンガン飲みに行こうぜーってことで浮き立って来たっていうのに、居酒屋で待っていたのは見知らぬ男三人だった。ハメられた。ズルイ。キタナイ。オニ。アクマ。アバズレ。バイタ。そうマコトに言ってやったら、言いすぎ、と言われておかしくなって笑ってしまって、仕方ないから人数合わせに付き合うことにした。だって、しょうがないでしょ、お酒は大好きなんだから。
「せっかくだから楽しみなよー、お金は男が払うんだし、あはは」
マコトはすっかり上機嫌で、男の子達のくだらない話で盛り上がっている。なんといっても、マコトは胸がFカップもあるから、どこに行っても男の子には大人気だ。マコトの家に遊びに行ったときはいつもマコトがいないのを見計らってブラジャーをつけて遊ぶけど、それは片方に私の顔が入るぐらいに大きいし、一体何を食べればそんな牛みたいな乳になれるのかなんて考えたこともあったけど、こうやって男達に乳首もデカイのかとか言われて胸目当てで囲まれるんじゃ羨ましい気持ちもちょっと引けた。ちなみにマコトの乳輪は私の二倍ぐらい大きくて薄いピンク色だ。始めて見たときはちょっとビックリした。
マコトが言った、私のことを見ているという男の子は、一番右に座っている、ケンタという二十二歳の大学生のことだろう、さっきからなにかと目を合わせてくるし。自己紹介で大学名を誇らしげに言っていたからよっぽどそれが自慢なんだろうけど、私はそんな大学なんかにまったく興味がないからなんとか大学なんて言われても知らないし聞いたこともない。知っているのは東大と慶應ぐらい、日本一頭がいい学校とお金持ちの学校。これだけ。始めは楽しむつもりだったけど(お酒を)、この男から大学をとったら何も残らないんだろうなと思うとそんな人間と同じ空間を共有している自分がなんだか情けなかった。自分の周りに集まる人種が自分の姿を表していると、何かのテレビでやっていた。
「キョウコちゃん、もっと飲みなよう」
「ええ、飲んでるじゃないですかあ」
「いやいや飲み足りないよう、もっとガンガンいこう!」
と言って真ん中に座っている確かタロウとかいう名前の短髪を茶色に染めている男の子がビールをキョウコのコップに注いで、ええ困ったなあ、と言っても実はまったく困った顔をしていないキョウコに勧めているが、キョウコはお酒がすごく弱くて、飲むとすぐに吐いてしまうし下着まで脱いでしまったこともあったし、私やマコトと違って短大に行ってるからしっかりしてるねキョウコはなんて言ってたけどキョウコ本人は自覚がまったくないとんでもないおとぼけで、これじゃ短大でも飲まされて何されてるか分からないねなんてマコトと言って呆れて、さっきから、キョウコは飲ませちゃダメ、と言ってマコトと私で代わりに飲んであげている。
「キョウコちゃんに飲ませてあげなよ、飲みたがってるんだし」
「飲みたがってなんかないじゃない、あなたが勝手に勧めてるだけでしょ、キョウコは、お酒が、とっても、弱いの」
とゆっくり強めに言ったらタロウはお母さんみたいだなと言って私を指さしてゲラゲラ笑った。タロウは測量士だと言っていた。こんな茶髪でも務まるのかいい加減な世の中だと私は思った。
叔母さんに買ってもらったデニムのスタッズボストンからタバコを取り出し、咥えて火を付けるところで向かいの男の子が私に話しかけてきた。この男の子も大学生だ。マサユキだったかな。
「タバコ、吸うんだ。見えないね、なに、吸ってるの?」
「……別に決まってないけど」
今日は、と言ってタバコを見るとルーシアだったのでそれを見せた。
「よく吸う方?」
「まあ」
「他には何を吸う?」
「……セーラムとか」
「あとは?」
「ラークとか」
「他は?」
「……」
「ラークは臭いがきつくない? 言われない?」
「ああ、親に言われたかも」
灰皿に灰を落とすと、マサユキも目でその動作を追った。咥えたら、唇に目をやった。なんだか鬱陶しく思えてきた。
「僕の友達の女の子にも吸ってる娘がいるけど、マイルドセブンのライトはうまいらしいよ」
「へえ」
「吸ったことある?」
「あるけど」
「どう? やっぱりうまいの?」
「さあ、あんまり、味わって吸ってないから」
「キャメルはみんなまずいっていうよね」
「そうなの」
「吸ったことない?」
「……」
「キャスターはバニラ味なんだよね」
バニラのタバコなんか他にもいっぱいあるよ。なんなのこいつ。
「なんだっけな、あれ、踊る大走査線の、知ってる? 知ってるよね当然、なんだっけな、青島が吸ってるやつ、青島って、織田祐二ね、なんだっけな、ア、ア、ア、ア、アがつくんだよ、ア、ア、ア」
タバコがまずい時は、体調が悪いときと、テンションが低い、イライラしているときだ。こいつの顔を見ていると、どんどんタバコがまずくなる。上向いて口開けて、アアアと言っている顔が無性にイラ立つ、タバコを灰皿に強く押し付けてキョウコに注がれたワインを取り上げ口に含んだ。
「アメリカンスピリットだ! アメスピのメンソール、そうだ、これだこれだ。知ってる? 青島が吸ってるやつで、なかなか売ってないらしいよ」
「そう」
「だけどあれだよね、今、女の子でタバコ吸ってる人、多いよね」
マサユキはキョウコとマコトを見ると、二人は吸わないんだ、と言って鶏の唐揚げに箸を刺して一口で食べた。
「なんで、サイカちゃんは吸ってるの?」
とクチャクチャと音を立ててしゃべるし会って間もない人にちゃん付けされる筋合いはないしワインを引っ掛けたくなった。
「タバコ、良くないよ、体に悪い」
さっきは散々タバコの話を合わせて気を引こうとしてたくせにこいつは今度はどうせタバコの悪さを説いて体を心配してるんだよ的なことを言って優しさをアピールするつもりなんだろうけどこんな説教能書きたれ小僧が一番ムカツク。
「タバコを吸う人って、実は結構臭うんだよね、すぐ分かる。髪の毛も、歯も黄ばむし、そういうの気にならない? キスとかするときに、臭ったらどうしようとか、俺の友達で、彼女が吸っているっていう奴がいるけど、そういうこと言ってたよ、気になるって。あと、感覚が鈍くなるんだ、臭いとか味覚がね、声も悪くなるらしいし。将来、子供を産むつもりならやめた方がいい、絶対に」
昨日見た音楽のスペシャル番組が面白かったのでそれを思い出すことにした。今の音楽はどれもこれも同じような曲に聴こえるけど昔の曲はまったく知らないのに一度聴いただけでなんだか切なくもなるし勇気付けられもするから不思議だ。髪がウザくて気持ち悪かったけど武田鉄矢が結構よかった。
「妊娠してる人でもタバコを吸う人っているでしょ? あれさ、タバコを吸うたびに、胎児の呼吸が一瞬止まるって知ってる? 知ってた? 自分の一時の快楽のために、子供を犠牲にしてるんだよ、ヒドイだろ、そんな人には子供を産んでほしくないね、絶対、絶対に産んでもちゃんと育てられないだろうし、かわいそう、子供が。そう思わない?」
箸をさしてそう聞くので、フウとため息のように煙を吐いて二本目のタバコを押し付けて私は言った。
「体に悪いことは知ってるから、もういいよ」
「あ、もし今やめたとしても、三年、だったかな、六年だったかな、まあいいや、だいたい三年ぐらいは子供産めないよ、体内に、なんだったかな、タバコの有害物質が三年は残るから、子供に影響する。俺の先輩、ヘビースモーカーで、奥さんが妊娠中も横でガバガバ吸っていて、結局、子供二人とも、障害児だった。一人は知能遅れで、一人は腕が無かったよ、見てて、すごい、泣きそうになったのを覚えてる、あ、そうだ、そうだ、肺は、六年で元の正常な綺麗な肺に戻るんだった、だから、ちゃんと綺麗な体にしてから子供を産むんじゃ、六年だよ、これから、小学校卒業できるんだよ、六年だよ、今二十歳だったよね? じゃあ二十六だよ? 子供が産みたくなっても二十六まで待たなきゃいけないんだよ? それは今やめてのことだから、先延ばしにすれば、産みたい時はおばあちゃんかもしれない」
「あのさ、そんなこと分かってるから、もう、いいから」
「本当に体に悪いんだよ、今、やめた方がいい」
「あなたに関係ないでしょ? 私は吸いたいから吸ってるの、子供だって産みたいとは思わないし、とにかく、あなたにそんなこと言われる筋合いないの、何様なの一体?」
「サイカ、なに? もう痴話ゲンカ? きゃはは」
そう言って体を反らして笑うマコトは実に楽しそうだったけど、とりあえず、目の前にあったシーザーサラダを皿ごと男に投げつけて、私は家に帰った。
七回目の着信で電話に出ると、気だるく、もしもし、と言った。
「サイカー? ごめんね、ホント、さっきはさ、サイカの気持ち考えてなかったよ」
「……いいよ、もう」
「本当にごめん、反省してるから、ごめんね」
「……わかったから、もういいよ」
「ごめんね、結局、あの後おじゃんだよ、当然だけどね、体目当てなのが見え見えだったし、キョウコはヤバそうだったね、まったく、何であんなに辛そうにしてるのに飲ませようとするのかね、私も怒鳴っちゃった、あはは」
「そう」
「サイカ、何してた?」
「ベッドに横になって、雑誌読んでたよ」
「なんか良い物あった? 良さげな物」
「サンダル、ほしいかなって。この、っていっても見えないか、このね、シルバーのギラギラしたやつが可愛くてさ。ストラップにお花がついてるの」
「じゃあさあ、なんか白けちゃったからさあ、明日、買い物行かない? レッツゴーショッピング!」
「いいよ、行こう行こう、サンダルあるかな」
「じゃ決定! 明日またメールするよ! おやすみねー!」
「うん、おやすみー」
「あ、そうそう、サイカ、サンダルじゃなくて、ミュールっていうんだよそれ」
昼前にメールがあって、駅前のマクドナルドで一緒にお昼を食べることにした。
マコトは胸があるからTシャツ一つ着てみても実に可愛くオシャレさんだ。私はブカブカのチューブトップでセクシーさをアピールしてみたけどなんだかただの貧乏な子みたいで悲しくなった。
「こうやってマックといえど外食してるとさ、昨日は奢りだったからいいけど、お金なくなるよねえ」
「ちょっと、買い物行く前に言わないでよそういうこと。買う気満々なんだから」
「昨日言ってたミュール? そんなに可愛いの?」
「うん、まさに理想どおりって感じ。あるかなあ、今日お店に」
「でも、買っちゃったら、金欠になるぞおおお」
と両手を胸の前で垂らしてお化けのマネをしてマコトは言った。ベロもちゃんと出して。
「そうなんだよねえ、ニートの分際で買い物なんかするなって」
もう二ヶ月働いていない、ほとんど外出することもなかった。
「バイトしないの?」
「バイトは卒業。就職しようと思って」
「す、すごいね急に」
マコトは三つ先の駅にあるオシャレな洋服屋さんで販売のアルバイトをしている。オシャレさんがオシャレなお店で働いている。
「私だって、働くのは好きなんだよ、バイトだってホントに数えられないぐらいしてきたし、でも、バイトってバイトだから軽い気持ちじゃない? ちゃんと働いてみたくってさ。でも、ハローワークに行ってもないんだよねー、定時制を四年もかけて卒業した小娘を雇ってくれるところなんて。そりゃ、バイトやパートはいっぱいあるんだよ、でも卒業なのそれは」
ふーん、と言ってマコトはポテトを口にした。コーラをチューチュー吸って、ナプキンで口を拭ってからマコトは言った。
「キャバ嬢は?」
「キャバ嬢?」
「話聞いてお酒飲んで、それで結構いいお金もらえるよ、やってみたら?」
「うーん、やってみたいけどすごく、でもねえ、絶対向いてないと思うんだよね」
「なんで? ペチャパイだから?」
「バカカバ。だって、人の顔とか名前とか覚えるの苦手だし、人の話をちゃんと聞くっていうのが一番ダメ」
「言えてる、サイカはそうだった」
「なんか二ヶ月も仕事してないから人見知りが酷くなっちゃって、最近は実はハローワークに行くのも怖いというか」
「なにそれー、ダメじゃん!」
「でもやっぱり仕事はしたくて仕方がないんだよ、どれだけバイトにしようかと思ったことか! でもさ、それじゃダメなの」
「こだわってんのね」
「だけど何の資格もない事務も出来ない無能な小娘を雇ってくれる所なんてないし、あーあ、どうやってお金を稼ごう……こういう時に限ってほしい物が多いんだ」
「うんうん、因果なことだね」
踵をポリポリと掻いてから、マコトは身を寄せると顔を耳に近づけて、そっと小声で言った。
「ねえねえ知ってる? 無職と、引きこもりが合わさると、世間では、ダメ人間に認定されるんだって」
「……顔が良くても?」
「あははは、顔は関係ないでしょうがー顔はー」
「かわいいだけじゃだめなのね」
「真顔でいうな真顔でーあはは」
と笑ってマコトは私を突き飛ばした。結構、痛い。
三軒目に入ったお店のディスプレイに昨日雑誌で見たサンダルと同じものがあって、これこれこれこれこれこれこれ、と大声で言ったらマコトに恥ずかしいと言われたけどもうなんでもいいからこれが早くほしかった。
「これ、これ、これ、このサンダル、これ、これ」
「わかった、わかったから、落ち着いてよサイカ」
「いらっしゃいませ、そちら、履いてみますか?」
とロングカールの似合う店員のお姉さんに声を掛けられた。
「……お客様は、どちらかというと、ピンクの方が似合うかもしれないですね、可愛らしい感じになるかと」
「あ、言えてる、サイカ、ピンクにしなよ! そっちの方が絶対、全然可愛いって!」
「いや、絶対シルバー!」
とりあえず履いてみることにした。鏡に写った自分の姿はまさにイメージどおりでチョーカワイイ、でもサイズが少し大きかったので、
「もう一つ小さいサイズありますか?」
と聞いたら店員のお姉さんがもってきたのはピンクのサンダルだった。
「……」
「あ、いいじゃんサイカ、似合う! 可愛いなあ、サイカ用に作られたみたい!」
「そ、そうかな?」
「うん! 絶対ピンク!」
「……でも、シルバーはなんかあると思うんだけどなあ」
「ん、なによなんかって」
「なんかありそうな気がするの。ビビビって気がするの」
「意味わかんないよさっきから、絶対ピンク! 間違いない!」
「そうかなあ」
「あ、そうそう、これサンダルじゃなくてミュールだから」
結局まんまとノせられてピンクを買ってしまった私は、家に帰って履いてみて鏡に写して、イケてるかも、と思うとなんだか幸せな感じがした。自分でも単純だなって思ったけど、やっぱり幸せな感じがした。
雨だ。
雨は嫌いだ。体がだるくなる。心太でできた羽織を着ているみたいだ。
庭の萼紫陽花もしぼんでしまった。ぶどうの食べ終わりみたいだ。すっかり情緒が無くなった。
こんな日は余計なことを考えてしまう。
小さい頃の私は、自分のことがよく分からなかった。何をやってもうまくいかなくて、何をやっても笑われて、それがどんな原因があってなのかも分からないし、気づいたら自分は一人で、みんなと違うことをやっていた。お母さんが言うには、日に日に私は笑わなくなっていたらしくて、年に二回、中学を出るまで、気持ち悪いぐらいに明るいオッサンが何人もいる変なキャンプに強制的に行かされていた。いつもそのオッサンたちに全裸にさせられていたことが強く頭に残っている。今思うとあれは犯罪じゃないのか。幼女を丸裸にして、でも、それで何をしたのかは思い出せない。
中学に入ってなんとなく分かったのは、自分は勉強がまったくできない頭を持っているということだった。何を今やっているのか分からなくて、気づいたら授業が終わっていて、テストでも一つの問題を読むのに三十分はかかった。人からはよく返事をしない、話を聞いてないと言われたし、何かを集中して考えようとすると色んなことが頭に浮かんで訳が分からなくなることが多かった。例えば朝、着ていく服をどれにしようかと考えていたら駅前にあるケーキ屋さんのモンブランが急に食べたくなって、今お金がいくら財布にあるか確認しようとしたらそういえば自分の誕生年の硬貨を集めていたってことを思い出して、机の引き出しを開けてみたら描きかけのイラストが出てきて描き始めてしまう、こんな感じだ。ちなみに着ていく服を選ぶところに戻るにはもう少しかかる。
ある時、お前は頭を強く打たないと変わらない、と社会科の先生に言われて、それで本気で壁に頭を打ち付けて六針縫うことになった。そのときに行った病院で急にお母さんが医者と激しく言い合いになって、あの子のために何かを努力するなんてあの子が死んでもしない、と怒鳴ったことを今でも私は鮮明に覚えている。あれはどういう意味だったんだろう。その後、奇跡的に入学できた高校は一日も登校せずに辞めて、一年ぐらいしてから定時制に行くことになった。私は記憶にまったく無いんだけど、勝手に夜中に外を出歩くからといってお母さんに学校以外の外出を禁止にされた。夢遊病のようなものだったんだろうか未だに分からない。お父さんとは、たしか幼稚園の頃に別れ別れになった。離婚、お父さんが原因らしかった。叔母さんから聞いた。私がこんなになったのも、その離婚が原因で精神になんかあるんじゃないかってみんな言ってて、叔母さんは私が男に走るとか薬に走るとかとにかく奈落の底に堕ちていくと思っていたけどそうじゃなくてこんなに良い子に育ってよかったよかったと言っていたけどちっとも良くない。テレビで、脳のシナプスの量が多すぎる人は思考が複雑になって頭が混乱して訳が分からないどうしたらいいか分からなくなってしまうといっていたことがあったから、それじゃないかと思って調べてみたらタバコはシナプズの量を減らせるんだとあってそれでタバコを吸うようになった。十七の時だ。シナプスの量が多い人は特異な才能を持っているらしくて、それはまさに天才と呼ばれる人で、だけど私にはそんな才能は無かったし今はタバコで減らしているからもうどうしようもないダメ人間だ。タバコを吸って、難しい分からないことはなるべく考えないようにしていたら、最近は頭が冴えることが多くなって、やっぱり自分はシナプスが人より多かったんだと納得できた。でも、それなら、自分には一体どんな特異な才能があったんだろう。私はどんな人でも生まれながらに何かしら特別な能力を持って生まれてくると信じていたから、それを知る前にタバコでそれを殺してしまったのは少し後悔した。けど仕方ないじゃん、って思うと何もかもぶっ壊したくなった。マコトだってキョウコだって、私のことを普通の女の子だと思っている。だけど、生まれてから、今まで一度も、私が小説、本、文章を最後まで読めたことがないって知らない。半分も読めないって知らない。そんな脳みそなんだって知らない。だけど、やっぱり、私は普通の女の子だ。みんなと一緒で、買い物が好きで、デートが好きで、おしゃべりが好きで、私は、普通の女の子なんだ。普通に生きる権利まで、私は殺していない。
「彩香、エリちゃんが来たわよ」
エリちゃんは一つ年上で、定時制高校で友達になった。
「やっほーひさしぶりー、元気かー」
「よく来たね、雨の中。私だったら濡れると疲れるから来ないよ」
「まったくこの引きこもりーって、私も働いてないけどねー」
エリちゃんも私と同じく二ヶ月ぐらい働いていなくて、隣の区に住んでいるんだけど、今日は近くまで用があって来ていたから遊びに行くよ久しぶりに顔見たいしということだった。メールは頻繁にやりとりしていた。
「何の用があったの?」
「ただの買い物だよ」
「なんだ」
「ほれ、これ、お酒」
「泊まる気かよ」
エリちゃんはお酒を飲むと酔いが冷めるまで絶対に帰らないから、きっとそうだ。
「さーどうかしらねー」
おつまみを広げて、チューハイで乾杯して、可愛かったから衝動買いしちゃったというボーダーのタンクワンピースを回し着して、おっぱいがでかくなるおまじないの話をして、卒業してからの話をして、肩こりにヨガが効くらしいっていう話をして、昔付き合った男の話をして、美尻体操の話をして、お母さんがもう寝るから程々にしなねと言って私の部屋に顔を出しときにはもう夜中の一時を回っていた。
「だけどさー、毎日が夏休みみたいだよねー、暑いし」
「それ、言わないでよエリちゃん、本当の夏休みと違って、全然ウキウキしないんだから」
「改善したいよねーそれには、仕事しないとねー」
「ないんだよねー小娘に仕事くれないんだよねー」
とマネをして言ったらエリちゃんは笑って赤ワインを絨毯にこぼして素敵なシミがまた一つ増えた。
「私はさー、タバコが平気だったらパチンコ屋で働いてみたいんだよねー、なんか楽しそうじゃない? 賑やかで」
「私はキャバクラで働いてみたいよ、なんといっても高収入! お金のことを考えたらキャバ以外に無い! けど絶対に覚えられないから名前とか」
「つらいよねー私もすぐ熱出しちゃうから、余裕のあるところじゃないと人手不足のところじゃ頻繁に休めないし、そもそも余裕のあるところは人なんか募集してないしねー八方塞がりだ! そうだ、ハローワークどうなの?」
「ダメ。この辺りは全滅。電車乗って遠出しないといけないみたい。バイトなら山ほどあるんだけど」
そうかー、と言ってエリちゃんは床に落ちてたアイシーンを手にとった。
「サイカー、まだ吸ってるの? タバコ、やめたほうがいいよ、実は結構臭ってるんだよねさっきから、私が敏感だからかもしれないけど、そんなんじゃいつまでたっても彼氏なんか出来ないよー? タバコ吸う女は人気無いんだから、もう二年ぐらい彼氏いないんじゃない?」
「うるさいな、ほっといてよ」
「すぐそれ、なに、もう諦めてるの? 確かにサイカに彼氏がいるっていうのはなーんか不自然だけど、まー、とにかく、二十歳よ、サイカ、今、女として一番熟れてる時じゃない、そのまま腐らせちゃもったいないってー、ここ、蜘蛛の巣張ってんじゃないのー?」
と私の股間を軽く叩いてエリちゃんは笑った。
「バカカバ」
「……オナニーとかするの?」
「え? えー、するわけないじゃん」
「ホントかー? タンス開けたらオモチャいっぱいじゃないのー?」
「あるわけないじゃない! お母さんに聞かれたら恥ずかしいからやめてよ」
「じゃあやっぱりあるのかー」
「ないよ!」
付けっぱなしにしていたテレビの画面に男女三人の写真が映って、歳が近そうだったからと二人で何気なく見ていたら、それは新宿歌舞伎町のラブホテルで大学生が殺されたというニュースだった。
「あー、これ最近よくニュースでやってるよねー。殺し方が猟奇的で、犯人の足取りがまったくつかめないんだって」
「へえ、エリちゃんはよくニュース見るの?」
「だって、家にいるとやることないものテレビしか」
「なるほど」
「新宿って、サイカのお父さん、新宿署の刑事だったよね?」
「え、うん……」
「この事件の捜査やってるのかな?」
「知らない」
「なによ、教えてくれてもいいじゃない」
「ホントに知らないんだってば。そんなこといちいち聞くわけじゃないし」
「ふーん、そんなもんか」
「エリちゃんだって、お父さんが何の仕事やってるかなんて知らないでしょ?」
「もちろーん、口も利きたくないし」
犯人の似顔絵が画面の左上に映し出された。
「だけどさー、似顔絵っていかにも悪人だよねー、免許証もそうだけど、笑っちゃいけないっていうのがよくないよ、うん」
「犯人の似顔絵がいい笑顔だったらみんな怒るって」
ニュースの後にやっていた笑いどころの分からない名前の知らない芸人の出ているバラエティ番組を見てなんだか分からないまま二人ともいつの間にか眠ってしまって、お母さん秘蔵のワインをこっそり持ち出して飲んでいたことが朝になってばれてお母さんにひどく怒られた。頭も痛いし、目の下には青アザのような隈が出来ていたし、最悪だ。エリちゃんとお酒を飲むとろくなことがない。
頭が爆発する夢を見て、いつものように昼頃起きた。頭が爆発するって、意味が全然分からない夢だったけど、キョウコやマコトやエリちゃんやお母さんや叔母さんを、とにかく色んな人を巻き込んで私の頭が爆発したところで目が覚めた。いつまでも覚えている夢と起きた瞬間に忘れてしまう夢とがあるけど、おそらくこの夢はすぐに忘れる。記憶に残る夢ってどういう基準で決められるんだろう。今でも鮮明に覚えているのはパンダと一緒にイカダに乗って川を下る夢で、これを見たとき私は取り返しがつかないぐらい頭がおかしいんじゃないかと思って本気で怖くなった。
乳首が見えそうなぐらいによれたキャミソール姿のままで冷蔵庫にあった適当な野菜を入れて作った焼きそばをなんとなく食べていたら、二の腕にカマキリが歩いていた。一センチぐらいの可愛い奴だ。そっと庭に帰してあげた。虫は好きだ。ゴキブリは好きじゃないけど。ていうか嫌い。
家に篭っている間にすっかり外は夏になっていて、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。うん、私はサナギのままだ。
テレビで女子中高生が日本語の美しさを競うというクイズ番組をやっていた。見たことも聞いたこともない日本語を操る自分よりも年下のお子様達に打ちのめされて私はいつも行っている美容室へ向かった。髪が肘ぐらいまであって、脱色、カラーリング、お構いなしにするのでもう痛みまくりだ。お風呂も髪の毛が多すぎてすごく時間がかかるから私だけは他の人と違って汚れないと信じて三日は平気で入らないし、とにかく、ロングが元々似合わないからバッサリ切りたかった。カットして、ストパーをかけて、ロング料金だから、年金払ってる場合じゃない、高校生割引がいと恋しい。それにしても何で無職なのに年金払ってヒイヒイ言わないといけないんだ、無職だからなおさら払った方がいいのか、よく分からないこの仕組みを私はとりあえず恨むことにした。
家から自転車で五分ぐらいのところにある『パーク・スタイル』っていう直訳すると『公園姿』っていう意味のわからない美容室が私の行きつけで、そこそこ人気があるから日によっては予約しないと二時間待ちにされてしまったりする。
セミウルフで目がくりっとしていて唇も厚くてとっても可愛いお姉さんをいつものように指名して、ひさしぶりだねーなんて言いながら雑談して肩口ぐらいまでバッサリカットしたらなんだか体も心も軽くなって今だったらなんでもやれるような気がしてきて、そのままハローワークへと向かった。
さっきまでは二ヶ月のニート生活で培った人見知りで人に会うのが怖かったけど、元々は色んな人と話をするのが好きで、そこから勉強になることが多いことも知っていたし、前から接客業を中心に探していたんだけど、この辺りでは面接に至る前に全て落ちていた。
販売員ではないが、経理や事務、販売など総合的な仕事内容の求人を一つ見つけた。そこは包装紙やパッケージを扱っている有限会社だった。自転車で家から大体十五分ぐらいで、雨の日はどうしようかと迷ったけど、これしか販売の絡むものはなかったし、なんせ今の私はなんでも来いの最強女だからということですぐに登録した。帰りに寄ったパン屋のコロッケパンがとてもおいしかった。
一人で夕飯のカレーを食べている最中に電話があった、それはさっき登録した会社からの面接の案内だった。
お母さんが仕事から帰ってくるなり私は思い切り抱きついた。
「やったよ! 面接だって! 定時制でもいいみたいだよ!」
「あら、よかったわねえ、でもホント、同じ高校なんだから始めから他の会社も面接ぐらい受けさせてくれればいいのにね」
「うん、でも、もう前のことはいいんだ、なんか、こことはすごい縁があるような気がする!」
「あら、面接は明日?」
「うん!」
「じゃあ、明日はすき焼きにでもしようかしら」
「そうしてそうして!」
電話が鳴った。
「あ、電話、またその会社かしらね」
はい、と電話に出たお母さんは、しばらく無言で壁を見つめていて、分かりました、と言うと静かに受話器を下ろした。面接の話がダメになったんだろうか。
「どしたの?」
「……」
「誰だった?」
「……」
「面接、ダメになった?」
「お父さんが……」
「お父さん? お父さんだったの?」
「……死んだって」
「え?」
「お父さん、死んだって」
「え?」
病院のロビーにある大きなテレビに朝のニュースが映っていた。伝えられていたのは桜新町にあるコバヤシという人の家が爆破された事件だった。お父さんはそれに巻き込まれたんだ。髪も、顔も焼けてしまって、誰だか分からなかった。サラリーマンでもないのに課長だとかいう人が来て、私とお母さんに頭を下ると、すぐに行ってしまった。カゲイという若い刑事はしばらく泣いていた。
「サイカ……」
「お母さん」
「少しは、眠れたの?」
「うん……お母さんこそ、寝ないとダメだよ」
お母さんはソファに腰を落ろすと、深く息を吐いた。それは何かが抜けていくような、そんな感じだった。私はお母さんの膝にタオルケットをかけて、言った。
「少しだけど、お父さんの夢、見たんだ」
お母さんは無言で、ただうつむいているだけだった。
「会うの、お父さんと、喫茶店で。そこはさ、都会なんだけど、ビルにはさまれていても、とても静かなところで、小さな喫茶店なんだ。お父さん、ナポリタンを頼んで、私の分と二つ頼んで、口の周りを真っ赤にしてひたすら食べてるんだ。何も言わないで、私と目も合わさないでさ、ただ、黙々と」
「あるよ、その店、中井さんの、お気に入りだよ……それ、中井さん、だよ」
そう言って陰から出てきたカゲイさんは、大粒の涙を流して、また泣き始めた。大人の男の人が泣くのを間近で見るのはこの人が初めてだった。テレビのドラマとは違って、それはカッコイイものではなかった。
空は、いつもと変わりなく、穏やかに晴れていて、雲も、元気に泳いでいた。
庭に咲くダリアがとても綺麗で、絵に描きたくなって、私はスケッチブックに筆を走らせた。
私は、二十年生きてきて、お父さんを好きだと思ったことは一度もない。もちろんそれは、小さい頃に出て行ったから思い出がないというのもあるけど、よく分からないんだけど、死んでほしいとずっと思ってた。何かの事件に巻き込まれて、死んでほしいと思ってた。それはいつも私が嫌な思いをしたときに強く願った。何故だか、お父さんがこの世にいる限り私は一生幸せになれないような気がして、それを考えると頭がぼうっとしてきて、正気じゃいられなくなるぐらい、死にたくなった。少なくとも、無邪気な私はその時に死んでいた。
夢の続きでお父さんは、去り際に小さなペンダントをくれた。それは私の誕生花であるユリのペンダントだった。
私は手の平を太陽にかざした。
小さい頃思ったように、体から抜けだして、魂だけになりたくなった。
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