ラディカル・ゾンビ・キーパー 三
白い砂浜。点。点が、白い砂を溶かしていく。剥き出しになった赤い土、重なり合って色を濃くする。とても静かだ。静かだが、灰白色の煙が脳みその隙間を撫で回すような感じだ。泡が膨らんでいく。その内の一つが油絵の具のような黄色い汁を噴き出した。女は、犬のヨダレにまみれたクマのぬいぐるみのような顔で、白目を濁していた。
まただ、隣の家からドラえもんの主題歌と母子の声が聞こえてくる。夕食。プラスチックの上で海老が足を滑らすような食器の音とタイヤをナイフで裂くような母親の怒鳴り声。そろばんを弾く手が止まる。願いましては百八円なり二百三十五円なり百八十七円なり三百一円なりドラえもーん二百五十六円なり百十二円なりジャイアンが三百七十四円なりスネオが三百七十四円なり五十六円なり百九十九円なりあれドラえもんいないの二百四十八円なり百九十九円なり二百四十八円なりおい、ドラえもんは何処へ行ったんだ?
え?
キッチンに立ってコーヒーを入れていたニナが振り返った。
「ドラえもん? 何?」
そろばん教室の窓から隣の家でドラえもんを見る声が聞こえるだろ、のび太がベソをかきながら部屋のふすまを開けたらドラえもんがいなかったんだ、何処へ行ったんだ? 毎度のことでうんざりして押入れに隠れてるのか?
「何? そろばんて? ドラえもんがどうしたの」
あんあんあんとっても大好きって聞こえただろ、窓から、
「聞こえないよ、寝ぼけてるんじゃないの、寝癖もひどいし」
そう言ってニナは頭の上で手をかき混ぜた。ラドはニナがオレンジ色の唇を少しだけ開いてフフと笑いながら運んでくれたコーヒーを口に含んで窓の外を眺めた。よく晴れている。ドラえもんなんかが聞こえるわけがない、近所に子供はいないし隣りも下もニナの仲間だ。ドラえもんのビデオを買う余裕があったらその分も送金に回すだろう。鼻筋の通った白い顔を近づけてニナが頬にキスをした。
「可愛い夢、見るね」
ニナはタイ人だ。もう日本に来て七年で、ずっと売春婦をしている。ニナはリックとは違って、というかリックが特別なのだが、たどたどしい日本語ではあるが会話に不自由はない。日本語はよく客が教えてくれたらしい。タイ女は今までにミイラのような顔の女にしか会ったことがなかったが、ニナは数年前に人気を博した清純派アイドルの一人によく似ていた。だから人気があるのだろう。それでもストリートでの売春は一回に一時間は掛かるから回転が悪く、食べていくのがやっとで困るとニナは言っていた。
ラドは首を振った。
「夢じゃない、何か違う、もっと別のものだ、夢は、胸が泥沼のようにうねる、吐き気がするものだった」
「ゲーン・キョーワン・ガイ、食べる?」
ニナはそう聞くとセーラムを咥えて微笑んだ。ゲーン・キョーワン・ガイはタイのグリーンカレーで、ガイは鶏肉、つまりグリーンチキンカレーだ。ラドはそれが苦手なのだ。
「それは、効果があるかもしれない、嫌なモノをすべて吐き出せそうだ」
ニナは何処で仕入れるのか、コリアンダーの根とコリアンダーシードとクミンシードととシャロットとガランガルとレモングラスとコブミカンの皮とニンニクとプリック・キー・ヌーと黒胡椒と塩と蝦醤でペーストから作る。石臼ですりつぶしたり叩き潰したり炒ったりと時間をかける割に辛さばかりでまったく味が分からない。天寿を全うしようかという瞬間に叩き起こされたような半死の感覚になる。香草の香りもキツイし、粘り気がないから飯が水分を吸ってべちゃべちゃで、とにかく後を引くまずさだ。タイ人はよくあんな物を食べる。癖になるという感覚は分からないでもないが、子供の頃に嗅いだコールタールの匂いに懐古するのとは違うだろうな、次はターメリックライスだけでいいよ、
「ホントに作る?」
「いや、やめてくれ、もう大丈夫だ」
ニナは微笑んだまま細い煙を吐き出した。
「メイが言ってたんだけど」
メイは二ヶ月前に強制送還になった中国女だ。ニナは親友だと言っていた。
「のび太は、怠ける、嘘をつく、人に頼る、が揃うと、のび太なんだって、あたし、小さい頃、ペチャンコの家に住んでるのに、三階建てに住んでるって、言ったことあるよ、だから、あたし、のび太なの」
「怠けると人に頼るが抜けてるからのび太じゃないだろ」
「お母さんのお手伝い、怠けたし、お姉ちゃんに頼ってたから、のび太よ」
「よくドラえもんなんて知ってるな、日本のアニメをよく」
「タイでも中国でも、ドラえもんは人気よ、すごく、私も大好き、あ、メイは、ドラえもんが好きで、日本に来たのよ、ドラえもんと同じ日本語が話したくて、日本に来たの、メイ、いつも、ほとんど読めないのに、バッグに、日本語辞典、入れてたよ、重いの」
「……ドラえもんって、偉いんだな」
ニナは優しく笑ってラドに寄りかかった。
ニナは黒のスリップがよく似合う、プレイボーイの表紙を飾れるほどセクシーだとラドはいつも思う。そう褒めるとニナはあたしなんかダメよと言って照れるが、客のために生理食塩水バッグを入れた乳でもお世辞ではなく本当にセクシーだ。腰のラインを眺めるだけであそこが疼く。常連客の気持ちがよく分かる。
ニナのそのセクシーさは母親ゆずりだ。ニナの母親は若い頃、何処だかの都市のミスだったらしい。キレイな夜景の望めるホテルのバーでカクテルを飲むのが似合うような女だったのだろう、今でいうバンコクのITモールで頻繁にミーティングが開けるようなエリートと付き合っていたとニナは言っていた。だがその男とは破局して、背が低くてデブでうだつの上がらない父親と一緒になった、それでもニナはちゃんと母親の血を受け継いでいる。でもそれはヤクザの女だった。先ず俺が殴られ、続けさまに連れが殴られた。オールバックの髪で将棋の駒みたいな顔のヤクザは色がかりんとうのように焼けていて、ホテルの部屋まで連れてかれるとそこには若いヤクザがもう二人待ち構えていた。黄土色のシャツを着た方が上半身裸になれと命令する、拒むことは許されなかった。俺たちはヤクザたちがSM遊びで女に使うはずだった振動するボディクリップを両の乳首に挟まれ、背中に赤と白の蝋燭を交互に垂らされ、その時に高い声で喘ぎを上げないとスキンヘッドの方に尻の穴をバックスキンの靴で思い切り蹴り上げられた。将棋の駒がケタケタと笑い、バーのカウンターで流し目で誘惑してきた女がきれいな脚を組んでソファからそれを眺めている。ねえ、その子たちにシックスナインさせたら面白いんじゃない? 先にイカせた方を帰らせてあげましょうよ……ねえ、ねえ、
「ねえ、何か、あったの? 変よ、怖い夢、見ただけ? 何か、あったんでしょ? ケンは、いつも、自分のこと話さない、あたしのことばかり、話してるよ」
ニナの心配そうな顔が目の前にあった。ラドはそれが柱の杢目に思えてならなかった。ヤダ、ヨダレ、垂らしてるよ、ねえ、何が、あったの? それは少し違うんだ、ラドは瞬きする柱の杢目にそう呟いた、ニナは自分から自分のことをよく話したじゃないか。
ニナは不法滞在だ。日本語学校への留学ビザはとうに切れている。元々出稼ぎに来ることが目的で、学費未納ですぐに退学になった。ニナはずっと孤独に見知らぬ男たちと戦ってきた。寂しく不安な夜もザーメンを浴び、自分の肌の白さは男たちの精子で磨かれたんじゃないかって本気で思うのって泣いたこともあった。そんな気持ちを少しでも取り除いてやろうとラドは聞き役になっている。女はしゃべることが一番のストレス解消になるんだってカウンセラーになった友人が言ってたよ、ニナが子供の頃の話をする時、故郷の話をする時、すごく穏やかな顔をするじゃないか、あの安らかな寝顔が俺は好きなだけなんだ、なあ、ニックネームの話をまたしてくれよ、してくれよ、してくれよしてくれよしてくれよしてくれよしてくれよしてくれよ、
「タイにいた頃は、ムアイ、だったんだろ?」
「うん、チャイニーズフェイスね、ニナの前は、ローズ、その前が、アン」
タイでは、生まれた時に、必ず、ニックネームをつけるの、それは、本名を悪魔に知られると、呪いをかけられる、って、信じてるからなの、だから、本名を一生隠すために、すぐ、ニックネームをつけるの、ニナはそこまで言って艶のある長い黒髪をゆっくりと掻き上げた、レモンとミルクが合わさったような香りがラドの鼻にかすかに触れた。
ニナの言うあだ名のつけた方は適当だった。とりあえず、人間の子供と気づかれないようになっていればいいらしい。例えば、イニシャルと無関係なアルファベット一文字や、ゴルフ、ベンツ、ニッサン、ミルク、愛、心、赤、白、黒、ねずみ、猫、デブ、魚、海老、豚、甘い、美しい、花、蚊、卵、ウイスキー、鳥、星、メガネ、チビ、おたまじゃくし、ヒナ鳥、など本当に適当で、タイ人の九割が仏教徒なのにクリスチャンネームのジャック、ジミー、ジェームス、トニー、メアリー、レイ、などをつける親もいる。
「洗濯屋をしているお姉さんが、なんだっけ?」
「メン、臭い」
ラドはけらけらと笑った。
「笑わないでよ、ひどい」
ニナは五人兄弟で、彼らのあだ名もやはり適当につけられている。兄は赤ん坊の頃に寝ぼけた顔をしていたから浮腫みの「トゥー」、弟はまるまると太っていたからデブの「ウワン」、妹はカエルに似ていたからカエルの「ゴップ」、だ。ニナのチャイニーズフェイスという意味の「ムアイ」も、日本のアイドルにニナに似た娘がいるのだからよく合っている。ニナに本名を尋ねたことがあったが、悪魔がどうのって言って断わられることはなくてあっさり教えてくれた。シリモンなんたらかんたら……という長くて発音しにくい名前で、シリモン、尻門、肛門かと言ったらわき腹を抓られた。
「……今夜も、立つのか?」
「うん、生理以外は休みじゃない、それが沁みてるから」
兄弟の中でニナだけが海外へ稼ぎに出ている。父親が事故で両足を失い、母親が看病疲れで精神を病んだ。その入院費用と義足代をニナは稼ぎに来ている。
元々、ニナはストリートガールではなかった。身を寄せていた売春宿が摘発にあい、バラバラになって、ストリートに立つしかなくなったのだ。今はヤクザが用心棒をしていないから、回収金は腹が立つほど高くても、前の方がずっと安全で良かったとニナは言っていた。
「……ニナの仲間で、いなくなった奴はいるか?」
「え、なに、何のこと?」
「客と消えて、それ以来ストリートにいなくなったみたいなの、いなかったか?」
「関わらないから、元々、みんな、他人には、それでも、仲の良かった人もいたけど、やっぱり、同じことやってる仲間、ただそれだけ、友達じゃないから、でも、そういう、急にいなくなるっていうの、前から、普通にあるよ、客が警察で、そのまま帰国させられて、あと、国に残した子供が恋しくなって、ホームシックになって、帰るとか、普通に、あるよ、なんで?」
あのDVDに映っていた女たちは、売春宿で見かけたベトナム、タイ、マレーシア、中国、ロシア、コロンビアの女たちと特徴が似ていた。髪の色や質、輪郭、口元、鼻筋、体つき、売春婦は服を着ていてもどこかそれを思わす匂いを漂わせている、といっても、映っていた女たちは服を着ていなかったが。
ラドは激しく頭を振った。暗いトンネルの奥から褐色の津波が覆いかぶさってくるような感覚が猛烈な勢いで襲ってきた。
「どしたの? 大丈夫?」
ラドはニナと強引に唇を合わせた。お互いの歯がカチカチと音を立てたが構わずラドは歯を擦り合わせた。ちょと、痛いよ、ラドはスリップを捲り上げてゴム腫瘍のような白い乳首にむしゃぶりついた。淡い乳輪と黒いヒダ、そこは対照的でも乳首とクリトリスはどちらも同じでゴム腫瘍のような弾力性を帯びている。ニナはレールに車輪が引きずるような短い喘ぎ声を上げた。ラドの経験したほとんどの女が乳首とクリトリスに同一の特徴を持っていた。乳首が小さければクリトリスも小さい、勾玉のように長ければ長いし、ピアッシングニードルを通さないほど固ければ下も固い。
ニナの中に指を入れるとべっとりと濡れていた。今度はニナから唇を合わせてきた。下唇にむしゃぶりつく。
ねえ、ビスケット、ないの?
ないよ、
うそ、本当はいっぱい、持ってる、ビーやってるでしょ、知ってるよ、横須賀で仕入れて、六本木とか、渋谷とか、赤坂とか、そういうとこのクラブで、捌いてるでしょ、なんで、あたしには、話してくれないの、教えてくれないの、なんで、あたしには、使ってくれないの、
ニナが腰にまたがってスリップを脱ぎ捨てた。腰をくねらせてラドの下腹に股間を前後に擦りつける。ねえ、あたしにも使ってよ、なんで、ダメなの、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、あたしが、ビッチだから、ねえ、ねえ、ニナはベッドから飛び降りるとラドのバッグをひっくり返した。ニナは赤いマルボロから飛び出した駄菓子屋に売っているラムネのような色をしたピンクと緑の錠剤を二つ拾うとキッチンからコーラを二本持ってきて錠剤と共に口に含んだ。ラドに片方を口移しするとニナは口にコーラの筋を垂らしながらトランクスに手を突っ込んで取り出すと自分の中に咥え込んだ。
ニナが二回目のオルガスムを迎えて天を仰いで背を反った姿を見てラドはさっきの褐色の津波に完全に呑まれた。咽の痺れと胃の熱と四肢の鋭い鈍さを感じ始めた時からその津波は頭上で待ち構えていた。木漏れ日を浴するように熱く針のように冷たいトンネルに佇むその地面は路上に流れ出たガソリンのように照り輝き足の首から先がところてんみたいに潰れて北京ダックの皮を移植したどす黒い尻にモナカを割るような音を立ててめり込んでいく。ラドは誰よりも低くそして誰よりも素早くうつ伏せにならなければならなかったが皮の先を縫われて黄色い膿みと白濁の精液がカオスの爆発を孕んだ宇宙のように溜まっていてそれがバキュームカーの後を追う子供のような顔で膨張し悩みを抱えたピサの斜塔のように左右に揺れて身動きが取れない。ラドは誰よりも低くそして誰よりも素早くうつ伏せにならなければならない。誰よりも低くそして誰よりも素早くうつ伏せにならなければ後ろから黒い十字架が白い十字架を掲げてこの鼓膜を直に震わす田舎の仕事に生き甲斐を見出してしまった若者のような旋律に余計な柑橘系の風を送り込んでしまう。割れ目から覗くのはピンクではなく蛆の群れで羽化した瞬間に蒸発するその時に初めてその空間だけが暴力と排他に満ちたピンクに変わる。内臓の感覚が極東へ発展したかのように蠢いているそれはシンメトリーでアンビヴァレンスな処女と同じだ。
ニナは五回目のオルガスムで涙を流して一気にコーラを咽に流し込んだ。ラドにはそれと同じ姿が三体見えた。一体は股間の真下から青々としたワニが鳩尾まで噛みついていて、一体は両腕と両足に太さと長さがそれぞれ異なる釘がらせん状に突き刺さっていて、一体は真鍮のヘルメットがゆっくりと回転しながら頭を直径十センチまで締め付けていた。
ニナはいつの間にかベッドの下に潜り込んでいて足先だけを外に放り投げていたがその足は一ミリの狂いもなく五センチに切り刻まれていてそれらはガキの頃に教育テレビで見た手話の女講師と同じ顔をしていた。ただその女講師は今では宙に飛ぶことができてその原動力は肛門に突き刺した巨大な四角錐にある、肛門とおまんこの堺を無くすことが全ての秘訣だ。
なあニナ、眩暈ってなんだと思う? 目がくらんで頭がふらふらする感じのことなんだぜ、動悸ってなんだと思う? 胸がドキドキすることなんだぜ、東神奈川のホームで警官が引ったくりを取り逃がしたんだ、俺はその引ったくりに足をかけて転ばせたのにその足に引っ掛かったのは俺だったんだ、改札を出るとその時に付き合ってたコッペパンみたいな顔の女が頭から玉ねぎみたいな根を生やして券売機をバールでぶん殴ってるんだ、この後どうなったと思う? 警官に手を振られて笑顔で帰るんだぜ、そういう夢を高二の二月二十七日に見たんだ、ニナ、お前も同じ夢を見たんだろう? 知ってるよ、俺とお前は似てるんだクズなんだカスなんだちんこのカスなんだおまんこのカスなんだ一緒なんだよ俺はスネ齧って生きてるんだよなんであんなものが届くんだよリックの言うところの神の罰が下ったってやつかよ体育館で後ろから羽交い絞めにされて子供の頃に流行ったベトベトのおもちゃスライムってやつを口に入れられたその味は酸っぱかったんだニナの下り物と同じ味がしたんだそうだろ同じだろ俺たちって?
リックと会った後、あのDVDはハンマーで叩き割ってマンションの窓から隣の車両整備工場の屋根に思い切り振り撒いた。エクスタシーのせいで咽を少し動かすだけでひどく違和感がある、水をいくら飲んでも糊が貼りついているみたいだとラドは思った。DVDの破片は星のように煌めいて美しかったが、あんなトリップなんて今までしたことがない、目玉の裏に映像が記憶されていたのは美しくない、負のイメージと感情がエクスタシーの餌だ、ニナは白くて小さな尻をこちらに向けて眠ってしまった。激しい倦怠感が扉の前でノックしている、カギ、カギを掛けたか覚えていない、宛名の違う封筒を乱暴に破りあけた、扉にチェーンを掛けただろうか、そんなことばかりが気になった。百円ショップに売っている雑な質感の封筒だった、煙草を吸うと吸った煙が全て喉に粉塵のように貼り積もる感じがして、ニナの尻の割れ目に封筒に入っていた透明なケースから取り出したDVDを差し込んだ。爆竹のような音がした。最後の一粒を潰し終えて気泡シートをゴミ箱に放り込んだところで長い砂嵐が終わった。アップだった。ゴミ箱から優しく溢れた割り箸の包み紙を拾って指にクルクルと巻きつけた。
白と黒のコントラスト、黒と灰色の昔の雑なモノクロではなく完全に白と黒、ホワイトアンドブラックだった。黒い点が少しずつ大きくなっていく、と思ったら横に流れて、尾を残して切れた。また大きくなっていく。今度は横の黒い点と重なって倍の大きさになった。ズームアウトしていく、それに合わせて徐々にくすんだグレーを取り戻した、女の胸だ。右の乳首が隆々と勃起している。黒い点は溢れ出る血だった、プラムを齧ったように乳輪からごっそり左の乳首がない。豆腐に包丁を入れるように何の躊躇いもなく右の乳輪の少し外にナイフが差し込まれた。速かった。急須の蓋みたいに乳首とその周りがつまみ上げられた。
ニナが寝返ってこちらを向いた。乳首の横を汗の滴が伝った。しょっぱい赤だった。
手と足の指先から釘の生えた全裸の女が尻を向けて四つん這いになっている。吹き出物の多い尻の窪みからは羽毛のハタキが生えている。女の後ろ肩から覗く手の指は肩と共に震え、足先はピアノ線のようにピンと張っていて、肘と膝だけで体を支えている。男が画面に入ってきた。コレステロール値の高そうな体型をしている。背中から臀部に繋がるちぢれた毛が醜い。男は全裸で、額に白いクロスが乱暴に描かれた黒い覆面を被っていた。素材は麻かなんかだろう。目の部分だけが片方ずつ長方形に切り抜かれている。男は鋭利な爪と尾の生えた女の尻を掴み、頭を押さえつけて、尾が、つまり肛門が真上を向くほど尻を突き出させた。そういえばこの映像には音がない。テレビの音量をマックスにしても羽虫の集団が出すようなノイズ音しかしない。女が指の内側、第一関節の付け根から爪の間に釘を貫通させられた手を地面につくと、全身に電流が走ったように長い髪を乱して体をびくつかせて右頬から地面に突っ伏して、顔に渓谷のような深い苦悶のしわを作った。男は構わず腰を振る。その振動に合わせるように足の釘が地面に触れる、女は目玉が陥没してしまうんじゃないかというぐらいに力強く目をつむっている。
ここは地下なのだろう。壁がコンクリートむき出しで、等間隔に並んだ小さな穴から地下に溜まった湿気を少量吐き出している。その壁に女が両手両足を開いた状態で固定されていた。日本人じゃない。ニナの仲間にカボチャのような顔のマレーシアがいるが、そんな感じの女だった。怯えきった目を無視して画面が胸元にズームアップする。横から武骨な太い指が入ってきて、乳首を根元から引っ張り上げた。細いパイプ二つで両の乳首を根元から挟むと、ボルトで締め上げた。微妙だが、目の錯覚かもしれないが、乳首がうっ血してきたようだった。そこに、長さが五センチ、直径が二ミリほどの針が上から勢いよく突き刺される。僅かに画面の上に見切れていた女の首筋が瞬時に伸びた。もう片方に刺された瞬間も同じだった。針の先に電極のクリップのようなものが取り付けられた、というかそれだ、うーん、ニナが唸ってチャッという音を立てて口を開いた、舌が真っ赤だ、真っ赤な舌が覗いた、そんな感じで、女の乳首が吹っ飛んだ。左は右が吹っ飛んでから二秒ほどしてから同じように吹っ飛んだ。
機関車の模型かと思ったそれは炉だった。モノクロでも橙に燃え盛る炎だと分かる。陸に打ち上げられた魚のように、ベルトで手足を固定された女が体をばたつかせている。ロシアやコロンビアあたりの女だ。抱えていた男二人が足先から勢いよく炉へ女を放り込んだ。扉を閉めるとちょうど腰から下、下半身だけが炉に収まり、上半身をほぼ白目をむいて女が上下に激しく振る。肩甲骨が浮いた男と尻の筋肉が引き締まった男は斜に構えて腕を組んでそれを眺めている。笑っている、そう確信できた。引っ張り出された女の下半身は北京ダックやターキーのように皮のあちこちが色の濃さを変えて膨らんでいて孵ったばかりの蛆のように蠢いていた。アンモニアを塗ったネズミに硫酸を垂らしたような臭いが襲ってきた感じがした。ニナが無意識に股間を握ってくる、赤ん坊のように皮を被って縮み上がった股間を。肩甲骨の浮いた男が女の尻にフォークを当てる、外はこんがりじっくり焼き上げて、中はぎっしりと旨みが詰まる、赤身の肉のジューシーな柔らかさがたまらないんだ、そんな感じの手つきで男がナイフを入れていく。女はもう上半身しか動かない。それでも、強張った体を震わせているだけだ。尻の筋肉が締まった男に切り取った肉を見せて、肩甲骨の浮いた男は覆面を捲りあげて口に運んだ。
腹にこぼれ落ちた熱い滴でラドは髪を引っ張られたように我に返った。両の目からは涙が重たい滴となってこぼれ落ちていた。そしてすぐに目の裏とこめかみに強烈な痛みが湧きあがってきた。脳みその中心がスカスカする、脳みその中心を噛まずに呑まれたような、吸い込まれる、凄まじい引力でブラックホールに吸い込まれたらこんな感じがするんじゃないかと思えるほど脳みその中心に周りの脳みそが押し寄せてくる。ニナ、ニナ、目が開かない、バックから犯される釘爪女とリンクして、ラドは体を激しく前後に揺さぶった。高校を辞めて、スキンヘッドにブルーの龍のタトゥーを入れた連れと公園の便所にチームの名前を落書きに行った、中から喘ぎ声が聞こえてきて、ドレッド頭の男が女の尻に布団を叩くような音を立てて激しく埋めていた、連れが金属バットで男の後頭部を殴った時、飛び散ったのは本当はあの女の乳首だったかもしれない、振り返った連れの顔が半分タールのように焼け爛れていて、この映像を見て真っ先に感じたのは、これから映るもの、全て、塵一つも残さず完全に忘れ去らなければならないということだった。いや、感じる以前に脳みそがそう判断した、違う、もっと前から、封筒を郵便受けから取り出した時からそう決まっていた。これはSMやレイプ等のフェティシズムを追及した鬼畜系AVなんかではない、失神してゲロを吐き脱糞する? そんな死亡コースに慌てふためく男優の姿は道化師だ。これは、実際に肉を焼き、抉り、引き裂き、切り刻み、それは子供が粘土で盲腸の取り出し手術を真似るような感覚で、覆面の奥では恍惚な表情を浮かべて決して止まないのだろう。狂気? 悪魔? 既成概念で捉えられるものではない、大脳皮質が優れて発達していようが人間はただの最上位捕食の動物だ、その動物の覚が危険すなわち死を感じ取った、関わってはいけない、知ってはいけない、思い出してはいけない、ヤクザにいくら殴られようが交通事故に巻き込まれようがそれらが蚊ほどにも満たない危機を脳は感じ取った。エンドルフィンとアドレナリンとドーパミンが情報の抹殺に駆けずり回る中、あの覆面たちも同じだけ過剰な量のエンドルフィンとアドレナリンとドーパミンに満たされて快楽に脳みそを歪ませている。俺は何も見てない、何も見てない何も見てない何も見てない何も見てないだがことあるごとに水晶体に残った像が前触れなしに脳みそに送り込まれてくる。それは目玉の裏にタトゥーを彫ったように熱くそしてその熱が脳内に執拗に迸る。その時に完全に眠っていた過去の記憶も引きずり出されて全体に激しくぶち撒かれる。人間の記憶は思い出せないだけで全てが記憶されている。今から六年と五ヶ月二日三時間五分四十七秒前に見たものも触れたものも嗅いだものも全てきちんと記憶されている。ただそれらの記憶は類似したものと幾百幾千にも重なり合わせて整理され、その何万という情報の中からたった一枚の記録書を意識して取り出すことが出来ないだけだ。抱いてきた女の何百という酸っぱい汗の臭いと淫水の味と乳首の勃起具合の微妙な違い、海綿体に送り込まれた血液の量、射精された精子の数、死んでいった細胞、それらのカテゴライズされ一緒くたにされた情報は忘れたのではなくただ思い出せないだけだ。イエローとブラックのスニーカーを片方ずつ履き間違えそれに気がついて家に帰る途中でガムを踏んでそれを小林という表札の真下のブロック塀に擦りつけたこともただ思い出せないだけできちんと記憶されている。
ラドはニナのヘソの真下にあるホクロにキスをした。そう、この温もりが現実、マフィアやヤクザじゃないんだ、ただ親の臑を齧って生きてきた若造に分かるはずもない、あれはなんだなんて考えてはいけない、リアルなのか現実なのか作り物じゃないのか映画じゃないのかCGじゃないのかなんて考えてはいけない、何処で行われているのかなんて危機感を帯びた好奇心を湧かせてはいけない、あの後、ラストは、分厚いハムみたいに、女が電気ノコギリで切断されるものだった、クレジットが出てくることを驚くほど冷静に期待した自分がいた。
拷問、虐待、戦争捕虜、それを記録した映像、それだけか、歴史的資料か、そうなのか、捕虜の反意と精神を打ち砕く恣意的な拷問をただ記録しただけか、ラドは眼球に破裂しそうな痛みを感じた。記憶は脳みそだけの機能じゃない、心臓移植で他人の記憶を持つことがあるように、細胞の配列によって記憶が行われている、この映像の一連の記憶は眼球の細胞配列に依存していて、考え思い出す度に眼球の細胞が暴れ牛みたいに活発になる、そうでなければこれ程までに影響を及ぼすはずがないし、映像が始まって、女が出てきて、乳首を抉られたところで目を逸らすことが出来たはずだ。ニューハーフと分かっていても膨らんだ乳房を見て勃起してしまうような反射を持つ愚かな人間様が、どれだけアンダーグラウンドな世界でも、人を簡単にオモチャのように殺していいわけがない、そんなことが簡単に出来るものか、考えるな考えるな考えるな考えるな、土曜の次に月曜が来てまた土曜が来るんじゃないかと本気で思ったってニナと笑い合った時のことを思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ……。
ニナがラドの髪に触れた。ヘソの下に歯型が出来ていた。
「頭、痛い」
「俺も、だ」
指を動かすのもダルかったが、ラドは冷蔵庫からコーラをもう一本持ってきて、二人で交互に飲み干した。
汗が噴出してきた。舐めたら甘そうだと思ってラドは舐めてみたがしょっぱかった。
ラドは頭を振った。赤い汗じゃないかと思ってしまった。ニナの腹に汗が一粒飛んでいった。なんでもないなんでもないなんでもない、
「もう、ケンと会ってから、一年になる、でも、ケンのこと、何も知らない、何も、言ってくれない」
目を瞑ったまま寝ぼけた子供のような口調でニナは言った。ニナのように笑顔で言えることが一つもないんだ、腕にしがみつくニナの髪を撫でてラドはそう心で呟いた。
「あたしは、愛してる、ケン、大好き」
一年前にニナをストリートで買ったことを少しずつラドは後悔していた。それは気まぐれだった。エクスタシーの味を覚えさせて末端に売りやすくする、ただ、それだけだった。
「愛してる、ケン」
出会い系で女を拾ういつもと何も変わらない、ニナに何を求めたのか、何を見出したのか、最近、ラドはそればかり考えた。粉ミルクではなく、練乳を薄めたもの、そういう、感じがした。
ニナはラドの乳首をゆっくりと舐めて、言った。
「何かあったら、あたしが、助けてあげるから、ケン、知ってる? タイは、微笑みの国、って、呼ばれてるんだよ、苦しくても、貧しくても、笑ってれば、幸せなんだよ、日本で大きな地震、あったでしょ? あれ、あたしも、募金、したよ、人は、助け合うんだよ、困ってたら、助けて、それが当たり前、日本も、昔は、そうだったんでしょ? いつから、変わったの、寂しいよ、それ」
ニナの夢は、村に戻って雑貨屋をすることだ。姉の洗濯屋と並んで、雑貨屋をすることだ。今、ニナの男兄弟は大衆食堂で働いていて、妹はバンコクの日本人専門街でホステスをしている。それでもニナの稼ぎを足してやっとの生活だ。だから妹はパタヤまで出向いて米兵を捕まえることもあって、コンドームをしないセックスをしている。その分、割高だからで、妹はきっとエイズよ、お金は人を麻痺させる、ヘロイン中毒でないだけマシ、ニナはそう言った。言って、笑った。
ニナと一緒になるということはそういうことだった。ラドには笑えなかった。フラれたばかりの女に心の広い男を気取って近づくような中途半端な優しさでニナを社会の表へ引きずり出すのは、実は、母親の前で子供を八つ裂きにするくらい残酷なことで、家族の命を背負ったニナの覚悟を簡単に打ち砕いてよいだけの器は、父親が足元にこぼした金を拾っているだけの自分にはまったくない、ラドは最近、それに気がついたのだ。ニナはラドの収入源を知らない。売人だけだと思っているかもしれない。スネカジリ野郎だと知ったらニナはどう思うだろう、ラドは自分の孤独とニナの孤独が同じ種類だと錯覚していたことにも気がついた。ニナは家族のために孤独であったがラドには何もない孤独だった。ただ、一人が怖い、その思いだけで一緒にいた、誰でもいい、横に誰かがいてさえくれれば、誰でもいい、自分の存在を感じられた、それが怖かった、ニナも同じ思いで一緒にいるんだと考えると、ラドは怖くて仕方がなかった、本当はいつまでも一人なんだ、ということになってしまう。
ニナが言ったように助け合うというのなら、もう十分に助けられているとラドは思った。
エクスタシーに侵されたメランコリックな気分は自分で作り出したそれに塗り替えられていた。いるだけでいい、なんて、いつまでも続けられない、ニナの話を聞いていると、ニナと抱き合っていると、この憂鬱も温かいものに替わる、それだけのために、ニナと一緒にいるってのは、どうなんだろうな。
もし、あの映像が作られたものではなく、実際に存在する現実のものだったとして、自分たちが今生きているこの時間と平行して行われているものだったとして、そして、あの女たちが、ニナと同じ身元のない不法滞在者だったとしたら、俺はどこまでニナを守れるのかな、飯を作り始めたニナのケツを眺めながらラドはそう思った。眼球がまた痛み出した。舌を噛み切るのが容易かったら今すぐにやっただろうなとラドは思った。またあの映像のことを考えている、しかもそれをニナと繋げてしまった、自分はどうしようもないカスだ、あり得ない、なぜ、根拠、根拠がない、あり得ない、考えるな、あれはフィクションだ、キチガイが作ったただのオモチャだ、グレイの解剖や月面着陸と何も変わらない、キチガイがリアルに作ったただのオモチャだ、SM漫画を描くガキの脳みそが残ったただのキチガイだ。
おいしい?
ああ、すごく、
ふふ、よかった、
同じマンションに住んでいるんだろうな、同じマンションに住んでいるんだろうな、あのDVDを取り寄せた奴は、同じマンションに住んでいるんだろうな、宛名を覚えていない、なぜそれを覚えていないで映像の細部までを覚えているんだ、同じマンションに住んでいるんだろうな、掲示板に張り紙をしたら、俺は、殺されるかな?
ラドは笑った。ニナは首を傾げて、なに、と言っていつもの優しい笑みを返した。リックの言った通り、完全に忘れなければならない、何を俺は関わりを持とうとしているんだ、忘れなければならない、そうすれば何もない、何も起きない、忘れればいい、忘れられなければ、目玉を抉り出せばいい、その時は、それは、リックに頼もう。
ニナは黒のワンピースにモカ茶のジャケットを羽織ってストリートへ向かった。
ラドは自宅に向かうアウディの中で子供の頃のことを思いだした。初めて思い出すものだった。
小学生の頃、一年間くらい、変わった形の石を集めることに夢中になった。集めた石を母親が作ってくれた小袋にぎゅうぎゅうに詰め込んで、近くの図書館に持っていって、一つずつ丁寧に種類を調べるのが、たまらなく好きだった。ノートにきっちりとまとめて、それを近所の爺さんに見せて、話をして、笑って、ある日、その爺さんが、石の標本をくれた。大きくて立派なやつだった。それで石集めの熱が急激に冷めた。与えられるんじゃなくて、自分で探し出すのが好きだった。
ラドはコンビニにアウディを停めて、お茶を買った。
親父を殺して自分で探し出す人生にしないといけないんじゃないか、そうラドは思った。
それでも結局、求人雑誌に手は伸ばせなかった。
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