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無色透明の腐った心 五

 新刊コーナーのポップを見て、発売日がとっくに過ぎていたことに気がついた。それでも目当ての本は大量に積まれていて、人気がないのかなと思いながら手に取った。なんたら新人賞を受賞してからの三作目、作者は大学中退でひきこもりやストーカーを経験した二十五歳の青年、期待の新人だ。でも楽しみにしていたのは自分だけだったのだろうかと思うとなんだか悲しかった。
 文藝コーナーには先月から気になっている「氷目」という失恋を題材にした小説がまだ積まれていた。「二十万部突破」という帯に変わっている。それでもまだ手に取る気にはなれなかった。今までに三人の女性と付き合ってきたが、一方的にフラれたことしかなく、恋愛小説を読むと変な疎外感に襲われた。今回のは失恋した主人公が立ち直るまでの経緯を楽しむものではなく、傷を負ったまま、何を起こし何処へ向かっていくのかあがきもがいても破滅と堕落しか待っていない、という内容で人気だった。これを読んでしまったら自分は一生這い蹲って生きなければならないような気がして買うのを躊躇っている。
 漫画は学生時代に比べてめっきり読まなくなったが、事務員の女の子に進められて読み始めたクラシック音楽を題材にした少女漫画が思いのほか面白くて自分でもびっくりするぐらいにハマっている。十三巻中まだ四巻までしか読んでいなかったので続きの一冊を手に取った。初めは抵抗があったが今では周囲の目も気にならない。
 レジに目を向けると、いつも見かける女性がいつもと同じように仕事をしていた。その様子はとても淡々としていて、感情のない目つきがスパルタ女教師を思わせた。それはそういうアダルトビデオを頻繁に見ているから連想したのではない。どちらかというとロリっ娘が好みだ。それでも、その女性のことは気に入っていて、この書店へ来る楽しみの一つであった。
 絵本のコーナーを回り、料理のコーナーで一冊手に取ってページを開いた。「簡単なおかず」「すぐできるおつまみ」「らくらくお料理」「一人で出来る簡単料理」「マイ・クッキング」「私の家のコックさん」、どれも似たような内容で、これだ、という料理本はなかなか見当たらない。この程度ならインターネットの無料レシピ検索サービスの方が充実していて分かりやすい。驚くほどにこのコーナーにはいつも男性がいなかった、自分の周りには料理をやるという友人ばかりだ。裏を返すとそれは独身で料理を作ってくれる彼女もいないという悲しい現実が隠れているのだが。ほっとけ。
 ワゴンにあった夏の文庫フェアからもう一冊選び、レジに並んだ。
 いつも見かけるレジの女性は、背が高く、すっらとした体型で顔立ちもよく、可愛い、綺麗可愛いという感じだった。愛想はないのだが。
「いらっしゃいませ」
 という声が、なんといっても一番好きだ。こんなにも整った容姿をしているのに、その声は、とてもしゃがれているのだ、オッサン以上に。キャバクラで焼けてしまったのかと思ったが、無愛想な表情が誠実さ真面目さを醸し出していて、本当に本が好きで好きでたまらないような、なんだか、とにかく、この人に会うと心が和んで、仕事の疲れも忘れられた。だからといって頻繁にこの書店に通っているわけではなく、本当にほしい本があって寄ったときに会えるのが、また良いのだ。だから、この人が休みの日に来てしまったときは、その日は買わずに帰るようにして、次の日にまた買いに来る。
 綺麗に向きを揃えられた本をその女性から受け取り、カバンにしまって、軽く頭を下げて、駅に向かう、これがここでのお決まりの動作であるが、今日は少し迷った。というのも、今月末で、あと十日ほどで、この書店はつぶれてしまう。この事を知ったのは一週間も前ではなく、知ったときはまず寂しさが襲ってきた。何に対してなのか考えてみたが、それは気に入った行きつけの書店がなくなることよりもやっぱり、レジの女性と会えなくなるこtが寂しかった。一切笑わない事務的な対応をされても、名前ぐらいは聞いておきたかったし、この閉店の知らせを知ったのはたまたまインターネットでこの書店のことを調べていたからで、もし、調べていなかったら、知らないうちに彼女と別れることになっていた、そう思うとこれは神様がくれたチャンスで、だから、名前を聞こうか今日はすごく迷ったのだが、結局聞けずに、自動改札機にキップを通した。

 ユカリが声を掛けてきた。
「また、ダメリーマン来てたね」
「え、そうね」
 月にニ、三度来るその男は店ではダメリーマンと呼ばれていた。いつもシャツがしわくちゃで、ぐったりと肩を落としてこっちにまで疲れが伝染してしまいそうな表情をしていた。こちらが声を掛けても一言二言気だるく返事をするので、そうユカリに名づけられた。ユカリは十九歳で、若い娘がしそうなことだなとカナメは思った。
「あれは絶対に毎日上司に小言いわれてるね、うん」
「私は違うと思うけど」
「それは川崎さんがサラリーマンはバリバリな感じだと思ってるからで、ほとんどのサラリーマンていうのはああいううだつの上がらなそうなショボイよれよれなのよ」
「あの人はもっと別の、特殊な仕事よきっと」
「川崎さんもホント折れないですねえ、絶対にダメリーマンですって! 特に最近は元気がないです、あれは左遷が決まったな」
 ユカリは無邪気に笑ってそう言った。
「何か感じるのよ」
「だったら私だってダメリーマンだって感じるもん」
「頑固ね」
「川崎さんも」
 ふふふ、と二人は笑った。
 定時まで仕事をこなして、ロッカールームでユカリが青いブラジャーを付け直しながら言った。
「川崎さん、次のところ決まってるんですか?」
「ううん、まだ」
「私もなんだあ、本屋さんってなかなか募集してないのよね」
「また本屋なの?」
「うん、もちろん! だって本好きだし、川崎さんは?」
「私も同じ」
「ああ、どうしようホント困ったな。誰か、私に家を買ってくれるようなオジサマいないかしら」
「ええ? 本気で?」
「んー、だって、もしそういうオジサマがいて、例えば私は愛人で、マンションを買ってくれる、毎月いっぱい生活費を入れてくれる、オジサマは家庭があるから月に二回ぐらいしか会いに来られない、なーんてのだったら、趣味で軽く本屋さんをやって、カルチャースクールに通って、もう、こんなの夢のようじゃない」
「ぐうの音も出ないわ」
「憧れません? セレブセレブ」
「捨てられたら終わりよそんなの」
「その時は慰謝料とるから。そしてまた新しく愛人になるの。セックスするだけで、一生不自由しないで暮らせるのよ女って」
「そんなに甘くないわよ」
「へへへ、分かってます。甘かったら、今頃そうなってるもんね」
「そういうこと。さ、私も探さなくっちゃ」
おつかれさまでーす、と言うユカリは実に元気だと思いながらカナメは帰路についた。

 カナメが自宅に戻るとサトミがちょうど出掛けるところだった。
「どこ行くの?」
「バンドの」
「そう、ハルナちゃんは?」
「出掛けたよ。あ、なんかさ、朝、お姉ちゃんが仕事行った後、ハルナと話してたんだけど、もう迷惑掛けたくないから、近いうちに出て行くって、私はまだいいし、それに全然迷惑もしてないからって言ったんだけど」
「うん、うちにずっといても平気だよ、家族が増えたみたいで楽しいし」
 カナメとサトミは二人で暮らしている。
「でも、迷惑掛けたくないからって、ずっと友達でいたいからって、よく分かんないけど、そう言うんだもん」
「なんかしたの?」
「何もしないよ、でも、家にも帰れないで、隠れなきゃいけないようなことがあったんだから、きっとそれがすごく悲しいことだったんだよ」
「そうね……確かに、来たときは、すごく落ち込んでたものね」
「うん」
「サトミ、ハルナちゃんが言うように、ずっと友達でいてあげなね、力を貸してあげなよ何かあったら」
「うん、もちろん」
 と言ってサトミは出掛けていった。

 電車の中で過ごす時間は結構長くて、それは人生で一番無駄な時間を過ごしているのではないかとサトミは思った。電車に乗っている間は、音楽を聴くか、本を読むか、何か考え事をするか、眠るか、これぐらいしかできない。音楽を聴いていても、本を読んでいても、そのまま違うことを考え込むこともあるし、そのままうとうとしてしまって、結局また始めから本を読むことになって、そんな、悪循環が繰り返されるだけなんだ。だから電車の中でサトミは何もしないで眠るか、外の景色を見るようにしている。
新宿に向かう途中で、火事で真っ黒になった家が見える。その家は半年ぐらい前からそのまま取り壊されもせずにそこにあった。それを見るたびにサトミは、小さい頃におばあちゃんがよくくれたくずれた黒いかりんとうと、いとこの男の子が川で溺れて死にかけたときにしていたバーベキューの残り炭を思い出した。濃い灰色の煙が太い塊となって両の鼻の穴に飛び込んできて、それによってむせるのだが頭の隅々までに広がった黒糖の甘い香りが体にご褒美をもらった子供のような無邪気な喜びを与える、そんな感覚にいつも包まれるのだ。
以前、どこかの踏切を越えたところである白い生物を見かけたことがあった。それは猫のようでもあったし犬のようでもあったしウサギのようでもあったしリスのようでもあったしとにかく大きさの特定できない白い生物だった。細長い尻尾を持っているかと思えばそれは丸い形をしていたし、鳥のような羽も見えた。よく思い出そうとするとそれは白ではなく濃い緑だったかもしれないし、また腐ったリンゴのような色だったかもしれない。だけどあれは間違いなく生物だった。目が合った。目は優しげだった。
うちのバンドのドラマーは、電車の中では必ず人を観察するという。それは電車に乗っている多くの人ではなく、自分が目をつけた人、ただ一人をひたすらだ。目的地が十分先なら十分間、一時間先なら相手が降りるまで、可能な限り見続ける。それの一体何が楽しいのだと尋ねたら、時間が経つにつれて人間というものがだんだんとよく分からなくなってくるのが楽しいのだと彼女は答えた。何故その人はここにいるのか、存在するのか、目的は、意味は、必要性は、六十億の人間の中で、その人は何の役割を果たしているのか、何のために生まれたのか、何を築いている最中なのか、そのカバンを持つことに意味があって、その表情をすることに次世代を担う可能性が秘められているのか、そう考えていくと、人間は地球、月、宇宙とまったく同じ存在で、ただその空間に存在しただけなんだ、虫かごに閉じ込められたバッタと何一つ変わらないんだ、車に轢かれて内臓の飛び出た猫と変わらないんだ、そう思うと、人間という生物は決して特別でもないし、特別でもない生物を演じている自分たちは、一体何者か分からなくなってくる、それが滑稽でならないんだ、彼女はコーヒーに三杯目の砂糖を入れながらそう言った。
 そんな彼女を頭がおかしんじゃないかと思ってメンバーで占いに連れて行ったことがあった。姓名判断でこの名前の人は目の悪い人が多いと言われた彼女は、目が悪くてコンタクトをしていた。それでみんな驚いて、始めはおふざけだったのに占いをすっかり信じるようになった。総合的に見た彼女は、財布の紐の堅いただの堅実な人で、結婚したら必ず不幸になると言われた。みんなは笑ったが、彼女は真剣に、顔を変えてでも結婚してやると言っていた。彼女の夢は今時珍しいお嫁さんだった。そんな彼女が、サトミは憎めない。
 一週間前に渋谷で一緒に音を出した男とバンドを組んだが、三日もしないうちにやめてしまった。サトミもどことなく違和感を覚えていたのでちょうどよかった。現在のサトミのバンドは、ボーカルのサトミとドラムとベースの三人だ。女バンドだ。
 今日は新宿でギター希望の女と会う。ドラマーの友達の友達で、元ボーカルだと言っていた。サトミはあまり乗り気ではなかった。
 新宿のスタジオで顔を合わせたギターの女は、笑顔の明るい爽やかな感じの人だった。よろしく、と握手をして、さっそく四人は音合わせをした。
 曲は、悪くはなかった。
「やっぱり、女バンドがいいのかも。この前よりすごくしっくりきた」
 サトミはペットボトルに口をつけながら言った。サトミが詩を書いているので、このしっくりくる、ぴったりくるという感じはとても大事にしていた。何かが違っていると、やはり詩も何かが違ってきてしまうのだ。
「サトミさんて、声というか歌い方というか、あの人に似てるね」
 と有名な女性シンガーの名前をギター希望は口にした。誰かに似ている、それはバンドをやっている人なら誰もが言われたくないであろう言葉の一つだ。この女、わざと言っているのか。
「でもサトミさん、背が低いから、声量が足りないような気がする。もうすこしこう、インパクトが」
 爽やかな笑顔のままそう言う彼女を見てサトミは、この娘はもしかしたら私をライバルとしたのかもしれないと思った。ボーカルを務めていたくらいだから、自分も声には自信があるはずだ。もしかしたら、この娘ははじめからボーカルになるつもりで来たのかもしれない。自分の方がうまいってとこを見せて、取って代わる。もしくは、自分よりもヘタクソなボーカルの横でギターを弾いて一人密かに優越感に浸る。どちらもないことではない。でも、この娘は、私をライバルとした。それは認められたってことで喜ばしいことだけど、やっぱりこの言い方には少し腹が立った。
「あなたは、なんでギターを始めたの?」
「……ボーカルしか出来ないのが、嫌だったの。それだけよ」
「そっか。お互い、これからも頑張っていきましょうね」
 
 サトミは別れたあと、元メンバーのライブを見に行った。ついこの間も行ったばかりだったが、せっかく出てきたことだしと思って、行くことにした。
 ライブハウスへ顔を出した時には既に終盤に差し掛かっていたが、今のサトミには十分、刺激を受けうるものだった。無性に泣きたくなった。堪えれば堪えるほど泣きたくなった。自分と組んでいたときとは明らかに違う成長ぶり、もちろん嬉しかったが、少し悔しかった。サトミは模索していた、自分は一体、何を目指してバンドをしているのかと。最近ではメンバーを探し回り、ろくにライブもやっていなければ、自曲の練習すら出来ていない。音を合わせて、音を合わせて、音を合わせて、違う違う違う、その繰り返しだった。自分が目指していたもの、目指しているもの、元メンバーの彼女は手にしたのだ。それは彼女自身が始めから持っていたのかもしれない。とすると、自分は無くした側だった。今、それを必死に取り返そうとしている。結成時のメンバーは四人だった。今でも、その時の音を忘れない。忘れられない。だから、今の三人でもやっていけるのだが、どうしても、目指すべき音へは遠く感じてしまう。このままでは一生手に届かない、新幹線の窓から落としたキーホルダーのように、二度と手に戻らないのはごめんだった。
 ライブのあと、元メンバーの彼女にサトミは食事に誘われた。汚いラーメン屋だったがそこは若者に人気だった。久しぶりに二人きりで話した彼女は何も変わってはいなかった。一緒に住んでいた頃と同じ口調で、同じ笑顔で話をしていた。一緒に住んでいたとき、バンドを組んでいたとき、いるのが当たり前だった当時は感じなかったけど、彼女はすごく大きくて、カッコ良かった。彼女は台風だとサトミは思った。とても穏やかで、優しい台風。周りにいる者をなぎ払いながら進むのではなく、暖かく包みながら一緒に連れて行ってしまう台風。彼女がバンドを去った時に、止めることができたのにそれをしなかった私。それは実は逆だったんだ。彼女に連れてってと言わなければならなかったのは私なんだ。私は彼女とバンドをやりたかった。それに気付いてから、同じものを手に入れようとしても、遅いに決まってるじゃないか。

帰りの電車でサトミは抱き合う男女を見かけた。それは男が五十代で、女が四十代ぐらいだった。満員の車内から女を守るように抱く男、その顔は凛々しく、貫禄があった。しがみつく女の顔は見えなかったがどこか必死さを伺えた。泣いているのか、そのように見えた。男はなんともない表情で広告に目をやっている。だが女を抱くその腕は力強かった。男の腕だった。その二人の姿だけを切り抜けば、それはきっと映画のようだろうとサトミは思った。
メールが入った。お姉ちゃんからだ。
――帰りの電車の中だから、とサトミは返事をすると、お姉ちゃんがノバスコシアで働いていたときのことを思いだした。お姉ちゃんは大学を卒業すると不動産会社に就職をして、すぐにノバスコシアにある支社で働くことになった。私が十五の時だ。その時のことはよく覚えている、新しいビジネスバックを一緒に買いに行ったんだ。バーゲンで、安く手に入れたものだったけど、私が選んだそのカバンを、お姉ちゃんはすごく喜んでくれた。高二の夏休みに、一度だけお姉ちゃんの家まで遊びに行ったことがあった。初めて乗った飛行機、それも海外線、スチュワーデスのお姉さんが外国人で、艶のある綺麗なブロンドヘアがモデルみたいだと思ったのを覚えている。二年ぶりに会ったお姉ちゃんはとても元気そうだった。ハリファックスのVIA駅は夜になるとライトアップされてそれは目を奪われるってこういうことをいうんだなってぐらいにきれいで何枚も写真を撮ったし、シタデルへの急な坂を二人でひいこら言いながら上ったこと、シタデルのシンボルだというオールド・タウン・クロック、天辺からから見た対岸のダートマスの景色、ヒストリックプロパティでショッピングをして、ダウンタウンの思わず足を止めたくなるようなカフェテラスで本当に足を止めてお茶をして、とにかく、高二の私にはもったいないぐらいの楽しい時間だった。だけど、その三年後に帰ってきたお姉ちゃんは、ボロボロだった。痛々しいぐらいにお姉ちゃんはボロボロだった。医者が言うには、よく五年ももったなというぐらいに、お姉ちゃんの精神はストレスで壊れていた。海外で暮らすこと、いや、家族と遠く離れて暮らすこと自体が、お姉ちゃんには多大なストレスだったようだと医者は言っていた。その時のお姉ちゃんを見て私は、カラクリ人形の歯車が一つ欠けたんじゃなくて、全ての歯車の歯が無くなったような状態だと思った。私が遊びに行った時もすでにお姉ちゃんはそうなり始めていて、私のために無理して明るく振舞っていたんだと思うと今でも簡単に泣けた。もちろんお姉ちゃんはその事を否定した。日本に帰ってきてから一度もお姉ちゃんは笑わなかった。だけどあの日、一緒に夕飯の材料を買いに行って、ビールを袋いっぱい買って、二人で手が千切れそうなぐらいになって一緒に歩いたあの日、お姉ちゃんは笑ったんだ。少しだったけど、優しいお姉ちゃんの笑い方だった。それからお姉ちゃんは実家を出て、私と二人で住むようになった。

「どうだった?」
 カナメはコーヒーを入れながら言った。
「だめ。また探さなくちゃ」
「そう」
「元メンバーのライブも行ってきたんだ。すごく良くなってた」
「へえ。対バンするの?」
「あ、考えてなかった。言えばよかった」
「でもサトミ、最近ライブやってないよね?」
「え? うん……だから、早くメンバー見つけないと」
 そう言うとサトミは洗面所へと消えた。
 カナメがテレビをつけると、ニュースで指名手配犯の情報提供を呼びかけていた。その事件で殺されたユミという女子学生はサトミと同い年だった。大手食品会社重役の娘というだけあって警察も力を入れているようだと眼鏡をかけたコメンテーターが言っている。
 お姉ちゃんお風呂は? とサトミが頭を拭きながら聞くのでカナメも入ることにした。
 カナメが風呂から上がるともう夜中の二時に近かった。
「ハルナちゃん遅いね」
「うん」
 カナメはコーヒーを入れるとソファでテレビを見ていたサトミの横に座った。
 しばらく一緒に見ていたが、カナメは静かに口を開いた。
「サトミってさ……どういうつもりでバンド、やってる?」
「え、どうって……」
 カナメは一口コーヒーを含んでから言った。
「うん、サトミは、バンドをやってる。好きだから、やってる。そうでしょ?」
「え、うん」
「その好きは、どういう好きなの?」
「え、……楽しい、やってて、楽しいから好き」
「やってて楽しいバンドが好きなわけね?」
「……うん」
「やっててウキウキするようなバンドが好きなのね?」
「うん。どうしたの急に? こんなこと聞くなんて」
「じゃあなんで……サトミは、今、そんな風に悩んでるの? バンドのことで。楽しいからやってるんでしょ? 楽しいからバンドをやるんでしょ? サトミはなんだか、楽しいことをやっているときの悩み方じゃないような気がするの」
 サトミは無言だった。
「サトミは今、新しいメンバーを探しているけれど、それはサトミにもこだわりがあるんだろうけど、なんで三人じゃだめなの? 今の仲間だけじゃ、力不足なの?」
「……そういう、わけじゃない。出したい音が、出ないんだ、三人じゃ」
「じゃあ、今やってるバンドは、出したい音が出ないから、楽しくないバンドなんだ?」
「……」
「楽しくないバンドに、新しい人は来るの?」
「……お姉ちゃんには分からない」
「……そうね、お姉ちゃんには音楽のことは分からない、うん……ただ、音楽の、好き嫌いは言えるわよ、好きなのは、本当に楽しんで演奏している人たちが作り出す音楽」
「だから、本当の音を出すために私は新しい人を探してるの!」
 サトミは立ち上がって言った。
「もっといい音が出したいの、もっと、いい演奏をしたいの、もっと、だから、探してるの」
「サトミにとって、いい演奏っていうのはなに? 腕のある人が演奏するもの?」
「違う、気の会う仲間といい演奏がしたい」
「それじゃあサトミは、気の合う仲間がいればそれでいいんじゃない、仲のいい友達と、楽器をいじれればそれでいいんじゃない、違う? 今のサトミは音楽に満足していないんじゃなくて、仲間に満足していないのよ、音にこだわっているんじゃなくて、あれも違うこれも違うって、サトミが選んでるのは心の休まる仲間なのよ、音楽じゃない」
「違う!」
「じゃあサトミはバンドで何を目指してるの? いい音を出して、いい演奏をして、それでどうするの? その先は? 有名になって、テレビに出て、オリコンを賑わすぐらいになりたいって思ってるの? そんなつもりがあるの? 今の仲間はどう言ってるの? みんな本気でそういうものを目指してるんじゃないの? 遊びで、ワイワイ出来ればそれでいいんじゃないのサトミは、違う?」
 サトミは荒く息を吐いた。
「サトミはもう、挑戦者じゃなくて傍観者なのよ、分かる? バンドを始めた頃の純粋な音楽への気持ちも失せて、サトミは、そこに、バンドに、自分の居場所を見出すことしかもう考えてないの、頭にないの、出て行った友達がうまくなってる、だから自分もそこに追いつこうって、それは挑戦じゃなくて、必死に縋りついてるだけなの、振り落とされるのが嫌で我慢してるだけなの、それは友達を失いたくないっていう気持ちでしかないの、手の届かないところに行ってほしくないって、だから、いい音いい音ってこだわるのよ、今いるメンバーで楽しむんじゃなくて、元メンバーの彼女がいた、元のスタイルに戻して自分を騙したいのよ、分かる? サトミは今、心から楽しんで演奏できてるって、自信持って言える? 言えないんじゃない? そんなバンド、やってる意味あるの? 苦しんで、サトミがどんどんダメになっていくだけなのよ」
「本当にダメになったのはお姉ちゃんじゃない! 一緒にしないでよ!」
 カナメはコーヒーカップに手を伸ばしたが手が震えてうまく掴めなかった。
「……そう、そうね、だから、だからなのよ、私のようになって欲しくないの」
「勝手なこと言わないで……お姉ちゃんに、何が分かるっていうの!? 私は好きだから続けてるんじゃない……だからこうやって、毎日毎日人を探して音合わせして、ちゃんとしたバンドにしようと思ってる、今のままじゃ満足いく演奏なんて出来ない、人が足りない、練習だって、技術だって上がらない、理想とかけ離れた状態では無理なの!」
「そんなの、気持ちの問題でしょ? 違う? 人が足りないから出来ないなんて、おかしいと思わない? 人のせいにしてるだけじゃない、そんなの、一人でもすごく楽しそうにやってる人だっているじゃない、そういう人こそ心に響くでしょ? 分からないの? 楽しいっていう暗示を自分に必死にかけたって、曲がった心の人にはかからない、本気で、バカみたいにまっすぐでいられる人が本当に輝いてるのよ、分かる? サトミが人を選んでいるようだけど、実はサトミが選ばれてる方なの、なぜ合わないかって、それはサトミが合わせる気がないから、相手は鏡なんだよ? 自分の、何も言わなくたって、伝わるんだから、バンドをやってたら、気持ちが大事だっていうことぐらい知れたことじゃない、普通に生きていく上でも、大事なことじゃない、始めた頃を思い出してみなよ、楽しくて、しょうがなかったでしょう?」
 高校に入ってすぐ、サトミは仲良くなった娘からいらなくなったというベースをもらった。家に帰るとすぐに練習してコードを一つずつ覚えた。毎日毎日、同じコードを繰り返して、少しずつ覚えていった。少しずつ音になっていくことが楽しくてしょうがなかった、この自分の指で奏でられてるんだって思うとすごく嬉しかった。バンドを組みたくなって、その娘のバンドに入れてもらった。失敗の連続だったけど、初めてのライブでは鳥肌がやまないぐらいに興奮して、バンドのみんなと、お客さんとも、最高に最高に笑い合えた。サトミはそれを忘れてはいなかった。それをもう一度味わいたい、いつもそう思っていた。バンドから一人ずつメンバーが抜けていって、やめていって、入れ替わって、音楽の質を求めるようになったとき、お姉ちゃんが言うように、楽しさを失ったのかもしれないとサトミは思った。あの快感をもう一度、いつの間にか、それを追うことに必死になって、あの時と同じメンバーを探してしまっていたんだ、居心地の良かったあのバンドを、影を追ってしまっていたんだ。音楽で通じ合える、そう思える仲間、そう思えたから仲間になった。私は、信じなくちゃいけないんだ、自分と、今の仲間を。心では、自分一人、外から見ていたんだ、今の仲間ではなく、昔の仲間の輪に入って、ずっと、品定めしていたんだ。
「信じれば、自分の好きなことを信じれば、きっと、うまくいくから、サトミ、私には分かるから、だから、楽しまなきゃ、ね」
 サトミは頷いて、飲みかけのコーヒーを口にした。

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