ラディカル・ゾンビ・キーパー 五
アブソルート・スラットを飲み干した後にシット・オン・マイ・フェイスを頼むと、ラドはボーイにVIPルームへ連れられた。都内最大のキャパシティーを誇る六本木のクラブ「クレセント」、インテリアは世界的に有名なデンマークのデザイナーが手掛けていて、一人用のソファだけでひとつ六十万円もする。それらは全フロアに配置されている。しかし一般客がVIP客と顔を合わせることはまずない。VIP客は隣接するホテルのスイートゲストのみで、その入口もホテルにしかない。
ラドは従業員の通用口からVIPルームへ通された。VIPフロアを通ることは許されない。
「よお、顔色が悪いな、ケン」
サン・マルタンの壜を片手で振って短髪の男はそう言った。鈴が付いていたらメイドでも寄ってきそうだなとラドは思った。ムラキはサン・マルタンを一口含むとダークレッドのソファから力強く立ち上がって、握手を求めた。ムラキはラドが見上げるほどの背丈で、胸板が盛り上がっている。ラドはムラキとの握手があまり好きではない。リックで力強い握手には慣れているつもりだが、ムラキはそれ以上に握力が強すぎて、手を離した後もしばらく指の関節が疼く。
ラドが手を差し出すと、綺麗に手入れされたアゴヒゲを動かしてムラキはにっと笑った。ムラキはラドと同い年で、「クレセント」のオーナーだ。
「顔色が悪く見えるのは、照明のせいだろ」
ペーパーシェードのランプを見てラドは言った。
「いや違うな、実際に色が悪い」
「……ここへ来ると顔色も悪くなる、自分がムシケラのように思えてくる」
「そんなことはないだろう、お前は金もあるしバカでもない、信頼の出来る奴だ、女にモテることだけを原動力にしている後ろの奴らよりもずっといい、あいつらの方がダニのような存在かもしれんぞ、女以外、金の使い方を知らない」
ムラキは親指で背後の磨りガラスを指してそう言った。その向こうはフロアで、そこにいくつの個室があるのかラドは知らない。ラドは首を振った。
「こんなことやってる奴だぞ」
「別に卑下するようなことじゃない、コーヒーに入れる角砂糖みたいなもんさ、より楽しむためのな、もちろん、多すぎれば飲めたもんじゃない、度の過ぎる甘党は体を壊す、自業自得なんだよ、他人は関係ない」
飲むか? ボーイが持ってきたサミュエル・スミスのナッツブラウンエールをムラキは勧めた。ラドは応えた。
「俺はお前を使い走りのようには思っていない、いつでも来いよ、飲もう」
赤坂のクラブでトリップパーティに参加した時にラドはムラキと知り合った。義理で参加したパーティで、そこにいる全員をラドは軽蔑していたが、肩が触れただけで深く頭を下げて謝ったムラキだけは自分よりも高貴な人間な気がして、惹かれた。同い年ということもあって気があったが、エクスタシーを売りに来た時以外に会ったことはない。ラドの父親もこのクラブのVIP常連で、それをムラキに聞かされた時は、日本全土が平地になったような気がした。よく分からない感情だとラドは思った。
「違うだろ」
「ん?」
「ここに来たからと言ったが、違うだろ、最近、何かあっただろ」
ムラキに断わってラドは煙草に火をつけた。
「話せ、ここでの話は外に漏れない、ボーイに聞かれてもだ、もし、外で聞くようなことがあったら、関わったボーイが全員行方不明になる、だから、話せば楽になるぞ、人間ほど利己的な動物はいない、話を聞いてもらうことだけを求め、そしてすぐに理解も求める、さらに相互の信頼もだ、秘密を互いに享受し合うだけで親以上の関係だ、それが人間、俺はその欲求に抗ったりはしない、意味がない、俺はマゾヒストじゃないからな、ケンはマゾヒストなのか?」
ラドは笑って、隙間から煙を吐き出した。そして煙でコーティングされたビールのあめ玉があったら売れなさそうだななんて関係のないことを思ってしまった。
「人が死んだんだ」
「なに?」
ラドは眼球の疼きに気がついて、何でこんなに簡単に口にして、そして簡単に思い出してしまったのだろうと思って、奥歯を思い切り噛みしめて舌打ちをした。
「なんだ? 何の話だ?」
運命や偶然、縁という言葉に反応するのは弱い人間だ、そういう見えないものに縋り依存したくなる。その思いが強ければ強いほど、反比例して人間はどんどん弱くなる。運命を求めること、それは待ちの状態でしかない、自らが動いてついてきた結果、それは人の快感に変わる、だから自分に依存し始め、それが自信となり、強い人間を生む。なぜか、ムラキに話すことでそれと同じ快感を得られるような気がラドはしてきて、それを頭の中で否定しようとすると眼球がさらに痛くなった。それはつまり、映像が鮮明に甦ってきたということだった。小さな革のベルトで指の一本一本を固定し、ピンクのマニキュアが塗られた爪の中心に一本ずつ丁寧に釘を打ち込んでいく。ピンクの爪に小さな赤いバラの花が咲き始め、なぜか、色のある記憶として甦ってきた。あの映像はモノクロだった。
「エクスタシーを使ったか?」
「え?」
「エクスタシーは感情をマックスにまで高めるクスリだ、負のイメージを抱いたまま服用すると簡単に死ねるぞ、今、お前が黙った時に一瞬見せた目、ケン、その目は、自殺する奴が見せる目だぞ、何があった? そのあったことを忘れようとしてエクスタシーを使うのは逆効果だ、鬱の人間が飲んだら確実に自殺する、ゲロにまみれながらマンションから飛び降りる、嫌いな音楽一つで天国から地獄だ、女にぶち込んで最高の快楽を得てる最中でも、一転するぞ、ケン、お前、今、そういう目をしてたんだ、何があった?」
混乱は言語にして整理せよと誰かが言っていたが、そういうことではなく、単純に、まだ、さっきの達成感に似た快感を得たいと思っていて、それは眼球の疼きに思わされているような気がラドはしていたが、口はもう勝手に動き始めていた。
ラドが語り終えると、ムラキは外国製の煙草をポルシェのシガーケースから取り出して、咥えた。そして火をつけるところまでをラドはじっと見つめていたが、ジッポライターが緑々したサボテンに見えてならなかった。それでも、それが普通に思えた。
「それ、俺も見てみたい」
「……ハンマーで、叩き割ったよ」
「そうか、残念だ、俺も見ていたら、お前のように、何か、お前の言う、よく分からないものに脳みその中を這いずり回られたり、したかな?」
「……分からない、それは、ホントに分からない、もし、あの映像が現実にある本物だとしたら、あそこに参加している人間は、見たら、俺が女の裸に興奮するように、普通に興奮するだけだろう、ムラキももしかしたら、興奮するかもしれない、俺と同じようになるかもしれない、分からない」
「スプラッタ映画に近い、ただグロいだけなら、俺は平気だぞ」
「違う、そういうものじゃない、娯楽と快楽は別のところにあると思う、スプラッタ映画は人に作られたものだ、猟奇的な映画も、人に作られたものだ、人が作り出したもの、生み出したもの、そういうものは、例えどんなに残酷な描写を施したとしても、行き着くところは、娯楽なんだ、でもあれは違った、テレビで、ライオンの狩りの場面が流れた、鹿か何かの内臓をぐちゃぐちゃと食べ始める、グロい、人の作り出した光景ではなく、自然のものだ、でも、そこには意味があるんだ、狩りをしないとライオンは飢えてしまう、あれは違う、何の意味もない、あるのは快楽、性的欲求だけだ、強い? 違う、理解を超えているから、いや、そういうことじゃない、物心つかない小さな子供がまだ歩くことの出来ない自分の弟である赤ん坊を殺すのに似ているかもしれない、分からないんだ、そこへ向かう過程にはもちろん何かがあったんだ、そこは理解できても、その結果に至ったことに対しては、分からないんだ、まったく、子供だから、違う、無邪気だから、無垢だから、違う、そこに意味があるわけじゃないし、ないわけでもないんだ、そういう、揺れが、単純に、気持ち悪いんだよ」
「……それが、そういう性的倒錯を持った奴らのために作られたモノだとしたら?」
「分からない、説明が出来ない、これは、そう、感じたっていうだけで、俺は理解なんか出来ていないんだ、人間を何の意味もなく殺す、そういうことに痛いほど強い嫌悪を抱いているのではなく、もっと、先にある、いや前かもしれない、何か、そういう、表面に表れていない何かが、すごく気持ち悪いんだ」
ラドは半分残っていたナッツブラウンを一気に飲み干した。続けた。
「俺は自分のことを死んだ人間じゃないかって思うことがある、今ここにあるのが死後の世界じゃないかって、だがその死後の世界でも俺はこうやって苦しめられている、あの世が地獄だと思えば地獄なんだって言ってた坊主がいる、じゃあ、俺はただ、そう感じたから感じるだけで、人によれば違うのかってことになる、そうなると、壊れているのは俺なんだ、奴らじゃない、俺なんだ、でも、とてもそうは思えない、物事に意味を見出すのは間違っているか? 何の意味があるのだろうと疑問に思うことは間違ったことか? 人は、そうやって空想し妄想することで文明を手に入れた、奴らは、それらを全て否定しているんだ、しているが、それも自然なんだ、当たり前なんだ、あってない、ないのにある、そんな感じなんだ、分からないんだよ、見えもしない幽霊が俺の体に突き刺さってるみたいなもんなんだ、俺は最近、自分が何を考えているのかも分からない、全てを受け入れられたらどんなに楽か、そんな奴がいたら、そいつが神か仏だろうよ、俺は、俺という人格を全て捨てて、無になりきらなきゃいけないんじゃないか、今、話してたら、そんな気がしてきたよ、俺は、神にでもならない限り、救われない気がしてきたよ」
「殺人を許すのは、絶対的正当防衛の場合に限る、そういう、人間が共存するために作り上げてきた既成概念を破壊された感じなのか?」
「分からない、たぶん、そんな簡単なことじゃない、だが、近いのかもしれない、考えてみてくれ、今いる自分が存在しない自分だ、って、感じられると思うか? 空気の感触すら感じなくなる、何かに触れても、触れられても、何でもない自分を、想像できるか? 自分は、何でもないんだよ、名前がつけられないのではない、人が気づかないんじゃない、自分が気づかないんじゃない、いないんだよ、自分は、ここに、一切存在しない、そういう、感じがするんだ、分からないんだ」
「確かに、分からないな、それは、今、俺が感じたのは、それは、人が人の死を望むことに似ていないか?」
そう言うと、ムラキはさっきからクロムハーツのダイヤリングを外したり付けたりしていたが、その手を止めて、厚い胸板の前で腕を組んだ。それで白いシャツから少しだけネックレスのチェーンが覗いた。ゴールドだった。
「死刑がそうだ、犯罪が起こると、あまりにも簡単に、犯罪者を拷問にかけて八つ裂きにしろ、なんて言葉が飛び交う、民衆は、自分たちがそういった罰を受ける犯罪者たちとは真逆の、絶対の善者であると思い込んでいる、殺人者に残忍な刑罰を望む民衆は、果たして善なる心を有しているのか? 衝動的でも計画的でも、殺人を犯した人間と同じ心を有してないか? 当事者が復讐的な罰を求めるのも、無関係者が自分の生活から一つでも危険分子を排除したいと望むのも、そこには利欲しかないと思う、漠然とした不安や危機感をとりあえずそれで拭おうとしているだけじゃないかと思う、それ以上に、他者が過酷な罰に処されるのは、娯楽であり快楽であり、不必要な捕食をしない猛獣よりも、原始的で愚かな人間が多いはずだ、というか、それが人間だろ、善人ぶってる姿が闇で、そういう原始的で残忍な部分が光なんだ、今現在捉えられている概念とは逆転しているんだよ、死刑は国家によって合法化された殺人だ、国も人の死を望んでいる、よく考えろ、これはおかしなことだぞ、同胞に残忍な罰を要求し与えることは許されない、償いを成就させる可能性を与えなければならない、死は、それも含めて全てを失わせてしまう、責任を負わずに償いから免れる手段でもあるだろ死は、死刑にするなら、死ぬまで償いをさせることの方が大事だ、そして罰としてもその方が重いはずだ、少しずれたが、死は、娯楽と快楽なんだよ、死刑執行人も勃起してるんだよ、拷問や死刑は見せしめにならない、娯楽と快楽にしかな、重い罪ほど傍聴人が多いのはそのためだ、民衆は死を求めている、被害者への同情なんて微塵もない、全ては自分の快楽のためだ、その快楽の矛先が自分に向いた時のことなんて考えられない、ケンの話を聞いて、その考えられないことを考えながら他人の死を願う感じに似ているんじゃないかって思ったんだ、ジレンマ、葛藤だよ、極めて利己的な善悪へのジレンマだよ、お前が抱いたのはこれだよ、違うか?」
それは分からなかった。何度考えても分からなかった。ただ、一つだけ分かったことは、思い出すことを拒まなければ眼球は痛まないということだった。眼球の思いのままにしてやれば、駄々を捏ねることはなかった。そして、自主的に思い出そうとすると、それは、小さくはあったが、なぜか、心地よい、快感に変わった。
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