ラディカル・ゾンビ・キーパー 一
目を覚ました、という感じではなかった。照明のない長いトンネルを目隠しされたまま抜け出たような感じだった。目隠しをはずしても陽の光を瞼の上から感じることはなく、ゆっくりと目を開けると、そこにはくすんだ白い壁と焦げ茶のテーブルとマホガニーの床が当たり前のように存在していて同化しきっている、そういうことに何の疑問も浮かばなかった。
手の震えが止まらない。一年以上も前から震え続けている気もしたし実は震えていないんじゃないかともラドは思ったが、コーヒーカップの横に転がる煙草を拾うのに手間取って爪がカップに何度もカチカチと音を立てた。
隣の女が怪訝そうにこちらを見ている。三十前ぐらいの尖った顔の女だ。透け感のあるストライプ地の茶色いワンピースに同色の溶け込むようなストッキング、顔と同じように尖ったブロンズのパンプスを履いている。隣? 隣ではなく女は真後ろに座っている。視線を感じたわけではなく見ているとはっきり分かった。服装も分かった。髪形は毛先を柔らかにカールさせたミディアムだ。
咥えた煙草が床に落ちた。正確には咥えたつもりで手を離したら床に落ちた。唇が、歯茎に硬質の粘土を詰められたような痺れを帯びていた。舌は動く。舌で上下の歯茎を撫で回すがそんなものはどこにも詰まっていない。
尖った女が足元に転がった煙草をワンピースの裾を押さえながら拾うとテーブルにすっと差し出した。ラドはコーヒーに渦上に浮かぶ泡を見ながら頭を下げた。女はどんな表情だったろう。分からなかった。笑っていたかもしれないし、眉をひそめていたかもしれない、何の表情も浮かべていなかったかもしれない。分からなかった。後ろで尖った女が裾を押さえて拾う姿は分かったのに横で差し出した顔は分からなかった。
ラドは席を立った。振り返ったが尖った女はもう去った後だった。
便所の鏡に映った姿を見て、ラドは苦笑した。飼い始めた子犬がキチガイに殺されたような顔をしていた。朝起きてきて庭を覗くと体毛を赤く染めた子犬が横たわっている、覚めたばかりの脳みそではそれがよく理解できない、そんな顔だ。苦笑して歪んだ顔もその物語の延長にあるようで、白さが目立った。元々色は白い方だがいつもより白く感じる。頬と額を指で強く押してみても少しも色を失わない。髭も目立つ。家を出る前に剃ったつもりだったが黄色く固い目やにもこびりついている。目やにを爪で擦るとチリチリになって空気に溶け込んだ。ピンクのクラッシュパーカ、ダメージ加工のジーンズ、後ろのポケットには、特殊警棒。
個室からダブルのスーツを着た中年の男が出てきた。鏡越しに目が合った。
とりあえず、そう、とりあえず、そう思ってラドは、男の顔面を割った。
ラドは国道十六号を横須賀へ向かって走っている。車はアウディのクーペだ。父親の会社の税金対策で買ったものだ。
ラドの父親は広告代理店を経営している。地域密着に徹底し、息子に縒れたシャツしか着せられないような潰れかけの小さな商店の相談にも乗って可能な限りの少額で仕事を請負い、それが評判となって成功していった。クライントから余ったチケットを全て捌いてくれと頼まれれば臨時雇いの学のない若者たちが喜んで戸々に訪問販売に行く。今は関東圏にいくつオフィスがあるか分からない、十年前で五十はあった。
そんな父親に、ラドは疑問を抱いている。父親のやり方は、たとえ少額でも、三途の川に片足を突っ込んだ、孫におもちゃを買い与えて喜ぶ顔を見ることだけが楽しみで先立った爺さんの代わりに嫌々駄菓子屋を経営している婆さんにまでお願いしますと言わせるまで営業をかけるものだった。その婆さんはこめかみに血管を浮かせて、横を向いたまま吐き捨てるようにどうぞ勝手にお願いします、と言った。それを目の当たりにして、子供の頃は尊敬していたが、いつしかラドは父親を軽蔑するようになった。それでも、ラドは役員に名を連ねていて、毎月、国産のセダン程度なら余裕で買える額の報酬が振り込まれる。役員でいる以上、父親にそういう感情を抱いていても、同じように自分が誰かに軽蔑され怨まれても仕方がないとラドも分かっている。ラドには自力で生きていく力はない。高校もろくに出ていない、父親に切り捨てられるのだけは勘弁だった。こんなにおいしい生活はない、起きて飯を食って寝る、それを繰り返しても誰にも文句も言われない、こんな生活は自力では何年かかっても手に入らない、父親に財があったという運が、自分の実力にはならないことは十分なくらい知っている。
ラドは赤信号でワンエイティを停めた。ダッシュボードからアーミーナイフを取り出して、パーカの血の跳ねた部分を丁寧に切り取った。後輩がデザインしたこのピンクのパーカは珍しく気に入っていたが仕方がない、新作が出来たらまた電話を寄こすだろう、あいつは知ってか知らずか嫌なところをピンポイントで攻めてくる、ピンクは嫌いだった。
小五の時、独り暮らしの婆さんの家から二百万円と大福を盗んで捕まったことがあった。留守なのにドアも窓も鍵がまったく閉められていなくて逆にビックリしたのをラドは覚えている。捕まって、そのあとで母親にピンクセラピーというのを受けさせられた。白い紙にひたすらピンク色を塗りつけさせられるやつだ。医者が言うには、それによって人生で最も幸福だった時のことを思い出して心を穏やかにするらしいが、それは最悪だった。心に宿ったのは、もっと小さい頃に目撃した父親が母親のあそこを執拗に舐め回す場面だった。セラピーを受けるまでそんなものは思い出しもしなかった。それからはピンクを見るだけで父親のクンニと母親の喘ぐ姿が頭に浮かぶ。ピンクには無限の愛と滋養性を取り戻す効果もあるらしいが、とんでもない、両親の言葉に酸っぱい汗と精液にまみれた年増のべちょべちょのおまんこを感じることが多くなったし、神経質な性質だったらあのまま衰弱して病気になっている。
このパーカも始めは見るだけでそれを思い出したが、後輩に無理やり着せられると、ショック療法に近いのか、そうでもなかった。だが今でも女がピンクの服を着ているのを見ると濡れたくすんだおまんこが頭に浮かぶ。ピンクが好きな女とはセックスできないだろう。ピンクインポだ。自分の生涯で最高の女がピンク好きでないことを祈ろう。青になった。
ワンエイティ?
ラドは急ブレーキをかけ、またすぐにアクセルを踏み込んだ。後続車がフローリングにテーブルを引きずったようなクラクションを鳴らせた。
ワンエイティ?
リクライニングができない。シートがフルバケだ。車内に白いロールバーが張り巡らされている。ボンネットが赤い。アウディはシルバーだ。ワンエイティ? 俺の? ラドは右目が赤褐色に光った気がしてまたブレーキをかけた。赤信号だった。横断歩道に少し乗り上げている。こめかみを一粒の汗が伝った。車の前を横切るスーツの男をこのまま轢き殺しても犯人は黄色い帽子を被った幼稚園児になるんじゃないかという気がして、ラドは慌てて煙草に火をつけた。横浜駅のカフェで煙草を吸えなかったからどこか意識できない部分が駄々を捏ねているだけだ、きっとそうだ。
横浜駅?
スカイビル?
の駐車場?
ラドはコンビニに車を停めた。缶コーヒーを買って戻ってくるとそれは間違いなく自分の、先輩にもらった赤いワンエイティだった。その先輩は背の低いメイド喫茶にいそうな女だった。バイト先の駐車場でリトラクタブルライトを半目にしたこれを初めて見た時、どんなイカつい兄ちゃんが乗っているのかと思っていたから驚くことが多かった。タービンやエアフロメータも交換されていて、よく聞くと、ヤクザになった兄貴のお下がりで、盗難車じゃないよと笑ったが、女には似合わないよと言い続けると気前よくタダでくれた。本当はしなやかな指が太いシフトノブを這うのや細いすらっと伸びた脚がアクセルペダルを蹴飛ばすのなんかも格好よくて女にもよく似合う車だが、メイドの先輩が運転する姿はどうも大きな赤い怪物に食われて胃に閉じ込められているような感じがして、それを見る度に射精後の哀切に似た気分に包まれるのがたまらなかったのだ。
とにかく、このワンエイティはもらってからサーキット用にしか使っていない、常用にするにはあまりにも勝手が悪すぎる。横浜駅、スカイビルの駐車場、そんな所へは行った覚えがない、そもそもここはどこで、アウディはどこへいったんだ? どこへやった? リック? ラド? ラドは俺のあだ名で、リックが付けたんじゃないか、ハマナカケン? は俺の名前で、このワンエイティはメイドの先輩にもらったんだ、ドラえもん? 隣の家からあんあんあんとっても大好き目の前でオレンジの光が左右に大きく揺れたアヒルの鳴き声みたいな音がプワプワ聞こえてくるプワプワプワプワプワプワプワコーヒーが手の平にべっとりとついていた声をかけたのは細いメガネをかけた茶色いジャケットの男だった大丈夫ですかあああああああああああああああ?
金沢文庫駅前。
かなざわうんこ。
この辺りまで来ると空気が変わる。横浜がポリスチレンのプラモデルで、横須賀が古ぼけたブリキのオモチャ、横浜、みなとみらいは未来都市だがディスプレイケースに収まるべき作られた街、横須賀は史跡のような見るだけで子供にも懐かしさを思わせる街、そんな感じだ。
ラドは七本目の煙草を咥えた。ラジオで中島みゆきの世情がかかっている。そのせいで煙草ばかり吸っている気がした。世の中はとても臆病な猫だから。煙草がモルヒネでないことは知っている。包帯のような嘘を。いくら吸っても腰の痛みが消えない。シュプレヒコールの波。ラドはオーディオを思い切り蹴飛ばした。見たがる者たちと戦うため。デジタル表示が一瞬だけ歪んだが何も変わらなかった。シュプレヒコールの波。ラドは世情が聞こえなくなるまで声量を上げて笑った。……。何も聞こえなくなった。代わりに潰したハエの汁がこびりついているような手のベタつきを覚えた。ぴっちゃぴっちゃぴっちゃぴっちゃぴっちゃぴっちゃぴっちゃぴっちゃ。この手をリックに見せたくなった。
ラドがリックと知り合ったのは半年前、ドブ板通りでだった。リックは横須賀基地の米兵で、階級は二等兵曹、空母ではなく駆逐艦の乗組員だと言っていた。逗子でサーフボードの販売をしている友人との用事が急にキャンセルになって、暇つぶしにドブ板通りに寄ってみた時にラドはリックと出会ったのだ。どこから飲み始めようかとバーを物色していると、シャッターを下ろしたスカジャン店の前で酔った米兵二人とラドはすれ違った。一人は肌が小麦に焼けたマラソンが好きそうな顔の男で、もう一人は見るからに白人で太る手前ぐらいに肉がついた体臭のきつい男だった。白人は酔いによるものか癖なのか緩やかに振れるメトロノームのような歩き方で、ラドは避けたつもりだったが肩をぶつけてしまった。
————。
ラドは英語が分からないが、ハキハキとした発音をするということだけは分かった。ラドは面倒は御免だと思い無視して歩みを止めなかったが、すぐに背後から静岡で議員秘書をしている叔父の声が聞こえてきた。
「日本人はいちいち頭を垂れるのが素晴らしいんじゃないのか?」
叔父はラドが物心ついた頃から秘書をやっていた。ひどく神経質で、そのために気も回るから秘書に向いているのかもしれないが、正しい話し方講座や誤解のない意志の伝え方講座などを絶え間なく受けていて、それは病的な程で、小さい頃から最近までラドはら抜きをよく注意された。マラソン顔は、そんな叔父と同じ声で同じしゃべり方をした。顔がアメリカ人だと空似では済まされない違和感がありすぎる、田んぼに苗を植えつけようとしているような不安定な恐怖をラドは感じた。
白人が動いた。真っ赤な自販機のライトをバックに、ドブのような臭いを振り撒きながらラドの腕に掴みかかった。水曜の夜で人通りが少ないからなんて頭が回ったわけじゃない、ラドはとっさに腰から特殊警棒を引き抜いてその腕に思い切り振り下ろした。鈍い音がした。続けて左即頭部に打ちつける。マラソン顔がF1のレースでも見ているような笑みを浮かべた。ラドは白人に前蹴りを浴びせてさらに左肩に振り下ろした。悶絶している。力はある方ではないがそれでもかなり効いただろう、十代の頃に三ヶ月で辞めた自衛隊で知り合ったナイフバカに簡単に教わっておいてよかった、アルマーが好きな奴だった、警棒を持っていなかったら勝ち目はなかった骨を折られるか薬漬けにされるかアナルを犯されていたでもなんでこいつは笑っているんだマラソン顔は拳を振っていた、すごい、六本木のクラブでバタフライナイフを振り回してたラリった若造とは違ってあんたは今真剣に相手を殺そうとしてたよ頭を殴る時にこれがシャイニングでジャックがシェリーを追い詰めたアクスだったらなって一瞬思っただろう言わなくても目を見れば分かる鬱病者や知恵足らずが衝動的に人を殺そうと思うような愚かなものではなかったヒトラーやナポレオンに与えられた恩寵みたいに待て待て待て待て何を言っているんだ?
「あんたみたいな日本人、いたんだな、オレたちに群がる崩れた顔の女に嫉妬する小便臭い小僧ばかりだと思っていたよ」
白人の腕が腫れ上がり、こめかみから黒い血が垂れている。
「待て待て、意味が分からない、殺す? 俺は護身のために使っただけだ、一気に迫ったのは恐怖に駆られて我を忘れていただけだ、面倒事は御免なんだよ」
マラソン顔は手を叩いて笑い出した。
「ジョークが上手いな、あんたの目は微塵も恐怖に曇っていなかったしマルセイみたいに目も据わっていなかった常に冷静でそれは裁く目だった」
なんで米兵がマルセイなんて言葉を使うんだ、
「バカか? ジョークなわけないだろ、俺は今日ここへ来たことを後悔しまくっているんだ、昔は薬中だらけで裏路地に連れ込まれたら無事な体じゃ帰れなかった今はオシャレな観光名所だよなんて言われたのを信じきっていたんだ実際はニュースで流れてる通り若い兵が肩をぶつけただけで襲い掛かってくるような街だ終いにはいつかのタクシー運転手みたいに空だというピストルを向けられて本当は装弾されていて気づいたらお花畑に立っているんだ」
叔父と似ていることなどラドの頭からは吹き飛んでいたこいつは完全に違う人種だ。
シンバルを叩く猿のおもちゃが壊れて止まらなくなったみたいにマラソン顔はまだ笑っている。
「あんた最高だよ、rad、radだよ、バーで一緒に飲もう、あんたいいよ、Let's go boozing!!」
ラドってなんだよ? radはradだよ、いいから行こう、ダーツがあるんだ、早く来い、最近は門限があって軍もうるさいんだ、ダーツやったことあるか? マラソン顔は白人を残して強引にバーへと足を運んだ。いいのか? いいんだ、すぐにMPが拾う、それにあいつは常習的に年寄りから引ったくりをしていたから、神の罰が下ったのさ。
バーは思っていたよりも広く、ダーツの他にもビリヤード台が三つあった。ビール瓶を片手に持った米兵とそれに群がるマラソン顔が言う通りの崩れた顔の女たちばかりでラドは少し浮いていたが、ダーツの勝負は盛り上がった。ゼロワン五〇一、ラドがバーストして、逆転を許した。
「そういえば、自己紹介がまだだった、オレはリチャード、リックって呼んでくれ、あんたのことはラドって呼ばせてもらう、ニックネームは直感が大事なんだ」
リック? リチャードだとディックじゃないのか?
「ディックなんて下品な呼び方を今はしない、リチャードには厳格って意味も含まれているんだ、今は、リックか、リッチって呼ぶ」
リック? ディック? リッチ? アメリカ人のニックネームはどうなってるんだ?
「おいおい、リックとディックを繋げて言うなよ、場合によっちゃ健全な男子でいられなくなるぞ、それとももう経験済みか?」
そう言って笑みを浮かべるとリックはラドの股間を掴んだ。ラドは一瞬で両腕に鳥肌を立てた。外国人相手だと体が冗談に思えない、それはつまり脳みその奥で海外ではそれが当たり前だときちんと認識していて少なくともそれを警戒していたってことだ、肩や腕の筋肉が盛り上がった黒人も骨と皮だけみたいな青びょうたんもとにかくどんな奴も外国人はみんなアナルファックの達人かもしれないってことだ、フリーズをプリーズと間違えて殺されるような日本人がどれだけいるんだろうな、自分もその内の一人かもしれない、おい、いつまで掴んでるんだ?
リックは換気扇の回り始めみたいに笑った。
「勃起するか嫌がるか、試しただけだよ、言っとくけど、オレはゲイじゃないからな、勘違いしないでくれよ、アメリカ人は両方いける、みたいに思ってる日本人が多くて困るよ」
イージス艦が見えてきた。この辺りまで来ると日本の警察よりもMPのパトロールカーを多く見かける。事故の処理も先にしてしまうくらいだからきっとここは日本とは呼べない、コルト・ガバメントを下げた米兵が闊歩していた時代とは大きく変わって穏やかになったとは言われるが、ここはアメリカみたいな日本ではなく完全に日本の中のアメリカのままだ。路上にYナンバーの車が停まっていてもすぐに見慣れる、きっとあれらにもベッツィやベイビーなんてあだ名がついているんだろう、アメリカ人はニックネームをつけたがる、ちんぽがジョンで、それは志村けんも同じ名前をつけていた。
汐入駅前、EMクラブ跡地に建てられた横須賀芸術劇場の裏がドブ板通りの入口だ。
夜以外はあまり米兵を見かけない、スカジャンやワッペン、タトゥー、メキシカンバー、ロス直輸入の服飾店、米軍放出品を扱ったミリタリーショップ、海外にある日本人相手の観光地みたいな所だ。浴衣を着た外人顔のマネキン、流暢な英語をしゃべる雑貨屋の頑固そうなオヤジ、そういった違和感を希薄にする不思議な通りでもある。
夜は米兵が目立つ。昼間よりは空気の密度が濃い感じがする。米兵に群がる女たちの化粧と香水と汗の匂いがきついのだろう、バーの前に置いてあるスツールに座った女装した男娼を見かけたこともあった。お世辞にも綺麗だとは言えなかった。
駐輪場でだんご顔と小判顔の女子高生がこちらを見て何やら話しているのにラドは気がついた。だんご顔は肌が白くて集合写真で他と比べて首がやたらと長く見えた。そのせいで少し首を傾げただけで反れた白人のちんぽのようだ。細い指で細い煙草を吸う姿が様になっていない。お嬢様が無理して悪ぶってるみたいだがどこにも気品は感じられないしキューピー人形と達磨が合体したようなネットリとした嫌味を感じる。小判顔は無関心だ。小判顔は嫌いではない、田中さんは仕事が増えて喜んでいたが以前よりも笑わなくなってしまったそれは何故かというクイズに笑って参加していたからだ。ちがう、そう見えたのは渋谷から米兵を物色しに来た便所のスリッパみたいな顔と塩漬けにされた昆布のような髪をしたただのギャル二人組みだ。小判顔が答えは葬儀屋だったと言うと白けた顔をした。なんだ、どうでもいいそんなこと。
便所のスリッパと塩昆布が米兵の後ろで話しかけようかと拱いている。米兵は女物のナイトガウンをスケベな顔で選んでいる。日本語学校の講師と一発やるためにプレゼントするつもりなのか、リックが、レイプが表沙汰になってきて、そのために学校に通う米兵が増えたと言っていた。オレには日本の女はショートでつまらない、アメリカ人のでかちんぽじゃ膣が狭すぎるという意味らしい。
それでも、貢いでまで米兵の愛人になりたがる女はたくさんいる。ベース横のキャッシュディスペンサーはいつも女でいっぱいだ。日本の女だけだ。隣の韓国ではあり得ない。相手をしてもそれは完全なビジネスだ。セックスにまでブランドを求める狂った日本の女はリックが言うところのディック・ヘッドってやつか、ディックは変か、プッシー・ヘッドか。
毎週金曜にカレーを食べているのは本当かと思いながらラドが制服を着た海自隊員と並んでミリタリーショップのジャケットを眺めていると、いつだかに警棒で滅多打ちにした白人を見かけた。ビルという名前だった。傷の跡は残っていない。ビルは白いタピオカパールみたいな顔の女に話しかけている。この前この通りで見かけてから君のことが忘れられなかった、何日もずっとまた逢いたいと思っていた、夢にも出てきたし、君のこと以外は何も考えられなかった、君を勝手に夢に出演させたことは謝るよ、だから今日はそのお詫びにボクに奢らせてくれないか、今夜、君の気が済むまでずっと付き合うよ、どうかな?
見向きもしない女の尻を追いながらビルはラドに気がついて、一瞬表情を曇らせたがすぐに笑顔で手を上げた、What’s up ? こういう奴が軍の機密を酔って女に言っちまうんだろうな、リックが、ビルはデカイなりをしてコンドームを買うのに未だにモジモジするような奴だ、と言っていたからそれでからかってやろうかと思ったがラドはやめた。
「ようビル、リックは?」
「……レクイエム」
バー「レクイエム」は聖ヨゼフ病院へ上がる坂道の近くにあるビルの地下一階にある。米兵と一緒でないとそれ以外は顔なじみでも入口の黒人のセキュリティに止められる。リックが事前に伝えているようで、指定された日に限ってはラドは一人でも入ることができる。
店内にはラップやソウル・ミュージックが次々とかかる他のバーとは違ってワルキューレの騎行が重く流れている。トラブル回避のための今流行っているWEBに映像を公開する監視カメラもここには一台もない。
ラドは一気に襲ってきた酒と煙草の臭いに少し咽ながら、米兵よりもそれに群がる女ばかりが気になった。遊びすぎて浪人したような顔の女がアイロンの得意そうな白人米兵の目を見つめながらペパロニのスライスを口に運ぶ、他には、カットソーのボタンの間からブラジャーが見えているがそれがまったくセクシーでも魅力的でもないむしろ苛立ちを起こさせる笑い声がひどい女が目立っていて、歯並びの悪い、足の指が黒ずんでいそうな女が流暢な英語をしゃべっていると少し憂鬱になる。
そういえばリックがそんな女たちを見て「ホー」と呟いたことがある、ビッチよりも性質の悪い、本物のバカ売春婦という意味らしい。中学の時に四のフォーと発音が似ているから気をつけろよって鼻のでかい英語教師が言っていた気がする。その英語教師は結婚していたが子供がいなくて生徒を殴るのが趣味だった、卒業前に地方に飛ばされて、みんなで大喜びしたんだ確か。
リックは奥の四人掛けのボックス席に一人で座っていた。ちょうどグランドビーフのタコスを口に含もうとしているところだった。ラドはコロナのダークビールをブルーアイの店員から受け取って、リックに声をかけた。
「ヘイ、ブローク?」
ダークは少し軽い、ラガーな感じのビールだ。リックはコロナ・エキストラをライムで飲んでいる。搾ったライムがミイラのように乾ききって転がっているのがラドはなんだかおかしかった。
「早いな、もう少し遅くに来ると思っていた」
「特に予定もない、暇人だからな」
斜め前の席で電車の模型が好きそうな米兵が分かりにくい発音の英語で話している。それは海外に行ったことのない英語教師よりも汚い、肝心なところで何を言っているか分からない奴なんだろうなとダークを一口飲んでからラドは思った。
視線に気づいたのか、彼はデトロイト出身だよ、とリックは言った。電車の模型を集めるのが趣味なんだ、ラドはそれを聞いて吹き出した、イチイチ細かい奴で、日本にもオタクってのがいるだろ、ああいうのはホントよく分からない、
「相手の方は、小さい頃に父親の仕事で横浜に住んでいたことがある、だから少しだけ日本語がしゃべれる、でもすぐにヒューストンに転勤になったから、本当に簡単な日本語しかしゃべれない、親日派だよ彼は、ゴマ豆腐が好きで、父親は三菱のミラージュに乗っているってさ」
テカテの缶を指で弾いているその相方は焦るようなしゃべり方をしたが、日本人のために丁寧に話しているようなキレイな発音で不思議なしゃべり方だとラドは思った。
カウンターにいる、人気のないストリッパーみたいな顔の女が大声で笑い出した。手を叩いて仰け反り、米兵の肩を撫でる、リックは目をつぶってゆっくりと首を振った。
「あいつはジョーっていうんだが、トイレや人がいなければ公園のベンチでもセックスするような奴だ、自分には一夫多妻のアフリカの血が流れていて、多くの子孫を残す本能に従うなんて言ってやがるバカな奴だよ、バカのもとにはバカな女が群がる、ジョーは隙があればレイプもする、知性のないアフリカのただの猛獣だ」
ジョーは女の頭を撫でて、傍らに抱きしめた。腕が太かった、テレビで見たベテランのパティシエよりもずっと太かった。
「いつ出撃命令が出るか分からない、船の上では酒も女も断つからな、漁りまわる気持ちは分からないでもない」
じゃあリックはどうしてるんだ? とラドは聞けなかった。何故かその言葉を出す寸前で腹に刺さったナイフのような違和感を覚えた、抜くことで死期を早めてしまうような、そんな感覚が襲ってきた。
扉が開いた。クリスが店に入ってきた。クリスといっても名前から金髪でグラマラスだなんて良い方へ想像してはならない、頬骨の張った、ドクロみたいな女の兵曹だ。彼女は柱で見えない席についた。ノリのいい女で、ラドは嫌いではない。
「学生の頃、砂漠でアルバイトをしていたんだ」
リックはいつも、唐突に話を始める。この前に会った時はヴァイキングによるコロンブス以前の入植についてという堅い話をし始めた。コロンブスよりも五百年も早く入植した北欧のヴァイキングは、緑の大地、ユートピアと夢見たグリーンランドから北米大陸の北東端へ、そして少しずつ足場を固めて行った、彼らは北方の人という意味のノルマン人で、ヴァイキングという名は、VIK=入り江、に潜む、人=INGからきている、入植の動機は人口過剰説が有力で、日本の姥捨て山のような習慣があったほどだ、最初に上陸したのがラブラドルで、ニューファウンドランドまで南下した、しかしインディアンとの抗争に破れ、全滅する、イギリスやフランスへの侵攻なんかの細かな説明がいっぱいついていたが確かこんな感じの話だった。次に会った時は、バルトなんとかっていう船乗りの喜望峰の発見からコロンブスとスペインのなんとか女王と関係がどうのこうのっていう話をしようとリックは言っていたが、そんなことは忘れて今日はアルバイトの話か。
「砂漠で? 辺鄙な学校へ通っていたのか?」
「シアトルから一時間も車を走らせれば砂漠だよ、サンフランの海岸から眺める、地平線に沈むあの幻想的なサンセットが嘘のように思えるほど、樹木のまったくない赤茶けた砂漠が見渡す限りの一面に広がってる、それでも元は森林だったんだ、異常気象で雨が降らなくなって、森も化石となった、広大なアメリカにはそんな砂漠がごろごろしてるよ、ゴールデンゲートブリッジの写真を撮りたい観光者を悩ませる霧も、信じられないくらいにね」
「サンフランシスコの生まれなのか?」
「違うよ、オレはアイオワの田舎生まれで、サンフランに憧れていたんだ、CMで、なんのだったかな、ガキの頃に見たCMのBGMが、フラワー・ポット・メンのレッツ・ゴー・サンフランシスコっていう曲だったんだ、六十年代のイギリスのバンドで、当時、そのヴォーカルのレベルは最高峰だと言われていた、もっとも、そんなことをガキのオレは知ったこっちゃない、ただ、その曲がオレを呼んでいるような気がしたんだ、サンフランへね、詩の内容は、ほとんどサンフランへの賛歌なんだが、日本にはことわざがあっただろ、ほら」
薄切りビーフとたまねぎをシーズニングで味付けして炒めて、チーズを乗せ、それをサンドした、フィリチーズステーキサブがラドのお気に入りだ。フィリはこのサブの発祥の地、フィラデルフィアの愛称から来ていて、メニューにはそう書いてあるが、ここではチーズステーキと言えば通じる。初めてオーダーした時、ステーキなのに薄切り肉が出てきてラドは驚いた、アメリカ人は肉であれば厚かろうが薄かろうが関係ないらしい。ビールととても相性が良く、一緒に食うとたまらない、ラドはリックが言いたがっていることわざを一緒に考えるフリをしながらチーズステーキを頬張った。
「三つ子の魂百まで、ちょっと違うか、まあいい、とにかく、幼い頃に植え付けられた印象っていうのは成長しても消えないもんだ、オレは絶対にサンフランへ行くと決めた、憧れた街が本物か確かめるために、だからシアトルの学校に入ったんだ」
「少し離れてるぞ」
「そこしか受からなかったんだ、突っ込むなよ」
おい、ボブ、ビール頼むよ、同じもの、リックはエキストラの壜を軽く振って、ボブと呼んだ肩の筋肉が盛り上がった若い黒人の米兵に買いに行かせた。ボブの飲みかけのエキストラをグラスに注ぎ足すと、リックは続けた。ミイラ化したライムが新鮮なものに戻った気がしてラドは目を見開いたが気のせいだった。
「自分の住んでる国で時計の時差を直すのはたまらなかった、それだけでドキドキした、サンフランでの出来事はまた今度話すよ、とは言っても別に大したことはなかったんだ、もちろん素晴らしい旅だった、憧れた街は本物だった、ただ一人旅で、現地で出会った日系のおっさんに気に入られて、青空市場で二人で桃を齧って、チャイナタウンを回って、それだけだ、はは、話す必要なくなったな」
リックはそう笑って小さく肩をすくめた。日本人がその仕草をすると腹が立つがアメリカ人がやるとこっちも自然と笑みがこぼれるなとラドは思った、ん、それはただ慣れただけかもしれない、周りを見渡しても日本人は米兵に体を擦り付ける崩れた顔の女が数えるほどしかいない、ダークの壜が空になった。
「チャイナタウンと大陸横断鉄道には関係があるのは知っているか?」
「話がどんどん逸れるな」
「ああ、アルバイトの話だったな、砂漠、日本は水辺の国だろ、ラドは砂漠に憧れているか?」
「考えたことないな、でも、鳥取の、鳥取県って分かる? 大阪よりも西の方に砂丘があるんだ、そこには行ってみたいと思うな、夜の砂丘は格別だと友達が言ってたよ、何が格別なのかよく分からないけど、興味はある」
「だと思ったよ、水辺の国は砂漠を、砂漠の国は水辺を求めるんだ、バランスだよ、無いものねだりか? いや、傾いてくるんだろうな、どちらか一方だけだと心が、だから世界的にはちょうどいいバランスだ、全ての砂漠を緑化してしまったら何か問題が起こるとオレは思ってる、地球の心がバランスを失い病んで、風雨を止め、噴火を起こし、人々を巻き込んでまた元の砂漠に戻すんだ、逆に、全てが砂漠化することもないだろう、人間と同じだ、退化しても大事なところには毛が残る」
「地球の陰毛の話はいいから、バイトの話を聞かせてくれよ」
「そう急かすなよ、別に大した話じゃないんだどれも、フランクに捉えろよ、急に気が逸れて、アルバイトの話を振っておきながら華僑の成り立ちについて話を始めたって、酒を楽しむには変わりはないんだ、そうだろう?」
ラドは頭を掻いた、ああ、そうだな、悪かった、でも、華僑の成り立ちには興味がないんだ、砂漠でどんなアルバイトがあるのか気になったんだよ、
「砂漠で芝刈りのアルバイトをしていたんだ、短時間で稼げる割のいいバイトで、洗面用具と勉強道具とラジオぐらいしか持って来られない貧乏学生には貴重なアルバイトの一つだった、肉体労働は割がいいよ、梨の摘み取りのアルバイトをやったこともある」
「砂漠に芝生なんてあるのか?」
「ああ、砂漠に住んでる人たちにとって、芝生は緑に飢えた心を癒してくれる、どの家の庭にも必ずあるよ、畑もな、もちろん、スプリンクラーで水を撒き続けなければ育たない、おもしろいぞ、水の掛かる部分にしか、本当に生えてこないんだ、あの赤茶けた砂と芝の緑のコントラストはキレイだった」
リックはやっとグランドビーフのタコスを口に運んだ。しゃべってばかりで手をつけないから、いつも冷えて残ってしまう。リックは冷えたらもう食べない。いつだかの新聞に、昔から飽食のアメリカではその残飯の量も半端じゃないと、お百姓様に感謝精神の日本と比較して載っていた、その感覚に関しては、日本人で良かったとラドは思った。
「そこへはバスで行っていた、割のいい仕事を他の奴に取られたくなくて、一人でこっそりとな、そのバスがエアコンのない古いもので、たまらず風に当たろうと窓を開けたら運転手に怒鳴られた、何故だと思う? 壊れていて窓が外れてしまう? 違うよ、外気温はだいたい四十五度くらい、湿度の低い熱せられた風に当たると火傷するんだ、驚くだろう、日本じゃ体験できない、砂漠では日陰に入っても風に当たることが危険なんだ」
「他に往来する車のない道を、ただひたすら地平線を目指してバスは走る、何もない砂漠、木がないから雨が降らない、だから雲もない、都会では見られない透き通るような青空は感動を覚えるよ、でも同時に、人類にとって木と水がどれだけ大事かってことを気づかせてくれる、オレたちは鉄とコンクリートに囲まれて生きてる、それが怖く危なっかしく思えてくるぞ」
死んだ人が生き返ったら素敵じゃない、リックの話を聞いているとラドはいつも同じことを思い出す、ねえ、ケンちゃん、人は死んだらどうなると思う? 人が死んだら火で燃やしてお墓に埋めて無になるんだよ、それはダメよ、ちゃんとお洒落して静かあに寝かせてあげなきゃ、起きた時に可愛そうでしょう? 人は死んだらもう起きないよ、起きるかもしれないじゃない、死んだら終わりだよ、死んだ人が生き返ったら、素敵だと思わない? キリスト教の布教に来たオバサンが絵本のようになった聖書を読み、それを母親が復唱する、死んだ人が生き返ったら素敵じゃない、そう言ったオバサンの目は小学生だったラドの心を揺さぶるほど綺麗で眩しかった、リックはそれと同じ目をしている、うん、木と水は大事だよな。
「タウンで降りずにそのまま進むと、やがて砂漠を抜ける、当たり前だな、でもその当たり前がすごく嬉しいんだ、抜けるとコロンビア川の支流に到達する、源流はカナディアンロッキーで、それはワシントン州を南下してポートランドで太平洋に注いでる、砂ばかりを眺めていた後の湖沼はたまらない、海中にいた頃の遺伝子が疼くような感覚が襲ってくる、どこにでもあるような川に涙する人もいるくらいだからな、恐ろしいよ、砂漠は」
「オレがお世話になってた家の夫婦は、そんな砂漠に二十年も住んでいた、おじさん、ジムっていうんだが、ジムは日系二世で、奥さんはネイティブ、二人には子供がいないからホントによくしてくれた、消防学校を卒業すると貰えるというシャツを歓迎の意を込めてプレゼントされて、契約中はよく着て行ったんだが、あまりにダサかったんで辞めた後にすぐに友達にあげてしまった、よく覚えていないがホントに変なデザインだった、あんなものを着ていたら火消しなんてする気が起きないだろうと思うくらいだ、友達は喜んで着ていたけどな、記念にあげないでとっておけばよかったと今は思う、思い出を大事にしたがるオレはもう年寄りだよ」
リックは笑いながら懐から真っ赤なマルボロを取り出して、テーブルに置いた。添えられたライターは重病人が吐き出しそうな色の百円ライターだった。
「ジムと初めて顔を合わせた時、中国人とのハーフだと思ったな、今でこそ日本にいるが、アメリカンにとって東洋人といえば中国人だ、チャイナタウンさ、日本でも、チャイニーズの悪党が増えただろう、あいつらは民族の結束が固い、そういう部分に憧れる、共感するってのもあるのかもしれないな、日本人は家族、夫婦の絆だって、希薄だろう?」
ラドは苦笑した、もう二年も家族と顔を合わせていない。お袋の大腸癌は、どうなったかな。
「今ではオレも東洋人の違いが少しだけ分かるようになったぞ、コリアンは女がきれいだ、日本人は男に武骨な味がある、中国人と比べると微妙にそういう違いがある、日本に来て初めて読んだ漫画に、あれは拳法漫画だった、そこに描かれていた中国人には笑ったよ、べん髪で細い目、チャイナタウンにだってそんな奴は一人もいないよ」
電車オタクと親父が三菱の二人が立ち上がって、何人かに挨拶して店を出ていった。
「ジムの父親が日本人で、その影響で日本食をよく食べたからってそれをご馳走してもらったことがあった、でもやっぱり、ミルクで炊いた、味のついたご飯の方がおいしかった、鍋の後の雑炊が楽しみなんだ、って言う彼は国籍は違えど日本人だよ、奥さんは別にどうでもいいみたいだったし、ジムが納豆を食べると、いや食卓に並べるだけで大げさじゃない本当の嫌な顔をしてた、はは、奥さんの印象はそれが一番強いな、ジムも少しずつ隠れて食べるようになって、見つかるとマスターベーションしてた中学生みたいに慌ててた、あと、スパゲッティ、奥さんの作るミートソースのスパゲッティが最高だった、あれは忘れられない、日本で言うお袋の味だ」
「煙草、貰っていってもいいか?」
「ん、ああ、いいよ、大事に吸えよ」
真っ赤なマルボロの中身はビスケット、エクスタシーがびっしり詰まっている。ラドはこれを六本木や渋谷のクラブを拠点とする売人に流す。リックと出会ってから始めた小遣い稼ぎだ。ラドはこんなことでも父親から独立した気分になりたかった。気分、そう、気分だけ、気休めだ。
このエクスタシーはおそらく海軍から流れている。リックは何も言わないが、公務用の軍事郵便は税関の検査を受けないとニュースか何かで聞いたことがある。リックがこれだけのエクスタシーを手に入れられるのはきっと軍の上層部を筆頭に組織でやっているからだろう。上層部、どこまで繋がっているのか、もしかしたら元帥までじゃないか、と思うとラドは少しワクワクした。小さい頃は漫画の先を読む力がなかったから純粋に楽しめた、そんな感じが少し甦る。
たまに米兵が麻薬の密輸入で捕まるニュースを見かけるが、捕まるのはほとんどが下士官や新兵だ。世の中は政治でしか成り立っていない、中学生の時に何故か誇らしげな顔で同級生に言われたその言葉が、そのニュースを見る度に疑う余地のないものにラドは思えた。力のない人間は力のある人間の都合ですぐに廃棄される、奇麗事ではなく金で人の命が買えるんだ、リックもそれを肯定した、ラドもそれに納得できた、できたが無理やりだ、そうでなければ今の自分は収集を待つゴミとまったく同じだった、生きているうちに生まれ変わることは決してできない、金のある家に生まれる必要なんてない、自分の力が必要な環境に生まれなければならなかった、生まれ変わることはもうできない、だからそう考えるのはもうやめた、ただ虚しくなるだけだ、自分には生きている意味なんかない、始めからなかったんだ、死後の世界は今自分が体験しているこの世界じゃないかって本気で思うことがある。
リックは自然な会話を続ける。
「日本食、そうだな、うどんはうまかった、海苔がうまかった、アメリカンは好きじゃないって言われるが、よくカーボン紙みたいだってな、でもあれはイケてたよ、あとおにぎり、奥さんとケチャップをつけて食べたらジムが信じられないという顔をしたな、面白かった、寿司を覚えたのもその時だ」
「日本人とアメリカ人の結婚感の違いは有名だろ、日本では言わずとも察しろ、アメリカでは意見し合わなければ信頼を築けない、同じアメリカ人のオレでも驚いたことがあったんだ、ジムの母方のお婆さんが八十五歳で離婚して、九十歳で再婚した、アメリカはパートナーに対する思い入れが強いから離婚率も高いだろ、そんな歳になっても真剣に向き合えるパートナーが欲しいんだなって驚いたよ、一切妥協しない、これもアメリカンドリームの一つかって、その婆さん、海辺に釣竿一本だけ持たされて放り出されても生きていけそうなバイタリティの持ち主だろうな、会えなかったのが残念だ、一度でいいから話を聞いてみたかった」
「電気ノコギリで女の体を切り刻むのはSMか?」
リックは開いた口をぴたりと止めた、いきなり、何の話だ?
「いや、分からない、なんとなく、思いついただけだ、忘れてくれ、今日は、どうかしてるみたいなんだ」
ラドは目とこめかみを強く抑えた。目をつむるとよく分かる、リックの日本語はなんでこんなに流暢なんだ、リックの日本語は日本人よりも聞き取りやすい、NHKのニュースを聴いているみたいだ、アメリカ人は「つ」の発音がうまく出来ないんじゃなかったのか。
「疲れてるのか? 女を切り刻む、SMは隷属と支配の関係だから、一方的に命を絶つ、いや、切り刻むのだからそれは破壊だな、女、人間を破壊して肉の塊という意味しか持たせなくするのは、SMなんていう上品なものではなく、上品といっても若い女が浣腸をされて糞を垂れたり億単位の金を動かす証券マンが足の指をキレイに舐め回したりアナルとプッシーに極太の張型を突っ込んでオルガスムに狂う姿を見せたりする行為のことではなくて、変態ではあるが確立された立派な文化だろう? それとは違って、もっと深い、例えば昔は食人が風習として行われていた、そこには死者を弔うという意味もあれば、病気の治癒を願っていたり、殺した敵への敬意の表れだったり、飢餓を回避するためだったり、とにかく意味があった、戦争だってそうだ、戦争で多くの犠牲者が出るのはハヌマン・ラングールやライオンの子殺しに見られる個体数維持のための間引きと考えていい、ホロコーストもウガンダの虐殺も同じだ、中国が一子に維持するために嬰児や胎児を殺すことにしょうがないと思っている人も多いはずだ、日本にはカチカチ山という子供の絵本があるだろう? タヌキがお婆さんを殺して、その肉で鍋を煮込む、知らずにお爺さんがそれを食べるんだ、でも子供はそこに違和感を抱かない、何故だと思う? 人を食う行為には意味があったと遺伝子が知っているからだ、でも人を壊すことは違う、それはこの世の底辺に位置する変態だ、肉の塊にする意味がどこにある? オルガスムのためか? ラド、人は自分と関わりのないことを口にすることはない、この変態は悪魔だ、オレも忘れる、何の話か分からないが、何もしないまま、お前も忘れるんだ」
分かった、とラドは三回、小さく頷いた。
「でもあれだな、戦争や虐殺を間引きと肯定するのは、過激だな」
「そうか? ラドは、ガンダムのように人が宇宙に移住する日が来ると思うか? 来たとしても、それはいつになる? その前に、地球が人で溢れて、めちゃくちゃになるよ。だからこの先、世界は人を選別し、下等な能力を授かって生まれてしまった人は殺されるんだ、それが当たり前になる、一地域の戦争や紛争なんて可愛いもんさ、過去に人口の多い国を三つ四つ、核で消滅させておけば自分の子供が劣等として殺されることはなかったんだって思う親でいっぱいになるんだから」
ラドはふっと笑った、米兵らしいと思った。
「そういえば、よく、カチカチ山なんて知ってたな」
「子供をあやすのは好きなんだ、絵本を読んでやるのが特にね」
そう言ってリックは笑った。サプライズバースデイパーティを開かれた二児の父親みたいな笑い方だった。アッハッハ、オーマイガ。もちろん、オーマイガ、までは言わなかったが。
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