無色透明の腐った心 終
まるで秋風のような優しい風が窓から飛び込んできた。それは迷い込んできたというほうが適切かもしれない。卓上の風鈴が奏でるメロディが、前垣英司にはなんだか寂しげに聞こえた。
隣に座る母がリンゴの皮をむく手を休めて、しばらくその迷い風と戯れた。
風で捲りあがったカーディガンを前垣がなおすと、ありがとう、と母は言った。
前垣は窓のサッシに手をついて外を眺めた。何度見てもそこは静かで穏やかだった。例えば南北戦争で使用した大砲をぶっ放してもそれが空耳だったんじゃないかと思えるほどの静けさだ。おいしく茂った夏の枝葉は一週間先も変わらないようだ。
「あ、コウジくん、起きたみたいね」
前垣が振り返るとそう言った女が笑顔で頭を下げた。点滴をさしかえる女に母は無関心でリンゴの皮をむき続ける。
「今日は元気そうですね、呼びかけにも答えるんじゃないかしら?」
と言って女はコウジの名前を呼びながら目の前で指を左右に動かした。コウジの目がゆっくりだがそれを追った。女は笑顔のまま、また頭を下げて部屋から出て行った。
「……母さん、そろそろ帰る時間だから、あとは俺に任せて、リンゴもむいておくから、約束があるんだろう?」
前垣は優しく言った。
「あら、もうそんな時間? ほら、起きて、コウジ、帰るわよ」
「母さん、コウジは、今日も泊まっていくんだよ」
「え、コウジは昨日も泊まったじゃない、そんな二日もお泊りしたら迷惑よ、だから、さ、コウジ、早く支度して」
と言って母はコウジの腕を引っ張った。
「母さん、いいんだ、コウジは今日も泊まる約束をしていたんだよ、ここで帰ってしまったら、約束を破ることになってそれこそ失礼だよ、あとは俺が見ておくから、心配しないで」
「そう? じゃあ、よろしく頼むわね」
「ああ、それじゃ、気をつけて」
母は手でバイバイをするとすぐに姿を消した。
前垣はむきかけのリンゴを手にするとゆっくりナイフを滑らせた。
コウジがこちらを見ていた。
「ん? どうした? 何か言いたいのか? 悪いな、それは分からないんだ。とりあえず、今週は眠りもしないし起きもしないようだぞ」
弟のコウジは植物で、医者は遷延性意識障害という言葉を使っていたが、もう二年入院している。母は、アルツハイマーだった。まだ軽度で、前垣のことは分かるし、普通に生活もできるのだが、コウジのことは忘れてしまった。植物になったときの記憶からがないのだ。あと、父の記憶もない。それは不思議だった、母の中では、父と出逢ってもいないことになっていた。なぜ見知らぬ男の仏壇が家にあるのか、そう言って母は仏壇を燃やし、位牌も遺骨も一緒に捨てた。前垣はそれを止めなかった、父を殺したのは自分だった。
「どうした? 今日は、機嫌がいいのか」
コウジの腕が少し動いた。コウジには滅多にないことだったが、それは人によってまちまちだ。
「それとも、何か見えたのか?」
コウジは父に買ってもらったバイクで事故に遭い、植物状態となった。十七だった。人の死をただ黙って見ていることしかできないなんて、当時の前垣には信じられなかった。コウジがバイクで飛び出した瞬間にそう思った。事故現場に前垣が行くと、コウジも衝突した相手もそのままだった。深夜で人通りもなかったらしい。相手のワゴン車は電信柱に衝突し半壊、運転手はフロントガラスに半身を飛び出し死亡していた。ほぼ即死だった。即死、コウジは、相手が死ぬということを分かっていたのだろうか。いや、それは分からないはずだ、分かっていたら自分だけが死ぬようにしたはずだ、意識のない間のビジョンは見えない。
リンゴを切り揃えると前垣は一口それを含んだ。
コウジの顔は綺麗だった。それは目を奪われるほどに、意識のあった頃よりも遥かに整って見えた。すっと起き上がり、おはよう、と今にも言いそうだ。たまに目をあけるコウジを見たとき、前垣は少しドキリとする。分かっていても、ほんの少しだけ。事故後、コウジは一ヶ月生死をさまよう昏睡状態だった。それでもコウジは生き延びた、植物という状態でありながら、二年たった今では医者に「健康」とまで言わせている。それが前垣には不思議だった。コウジは死にたかったんじゃないのか。医者が有能すぎたのなら、それは不運としかいいようがない。前垣は声を出して笑った。自分たちに運など有り得ない。
あうう、とコウジは声を発した。それはそよぐ風の音でもかき消されてしまいそうな小さなものだった。
「……何か見えているのか?」
コウジの表情がどことなく苦しそうに見えたが、そんなことがあるはずないと前垣は打ち消した。
前垣は窓を閉じると、コウジの傍らに座り、顔に優しく触れた。
あの時、コウジはこう言った。
アニキ、俺の心は腐ってる、いや、腐っていくのが手に取るように分かるんだ、腐って、溶けていくのが分かるんだ、だから、殺してくれ、殺してくれ、たのむ
俺たちのは、例え腐っていても、こんなに綺麗な、理想的な腐った心はない、未来が見えるんだ、選ばれた人間なんだぞ
アニキ、それは人間じゃない、生きてちゃいけないんだ、腐ってるんだ、芯まで、俺たちは、腐ってるんだ
そう言って買ってもらったばかりのバイクで飛び出したコウジは植物になった。
一ヶ月、コウジがビジョンを見だしてから一ヶ月が経っていた。始めのうちは一日、それは何かをはっきりと思い出したような感じでしかない。少しずつ早まっていって数時間、一時間、なぜ自分が幻覚を見るのかと戸惑うようになる。そして十分、一分、一秒、最終的にはコンマ一秒間隔でビジョンが迫ってくる。それは釘で強引に頭を開かれ素手で脳みそをいじくられているような感覚だ。前垣が初めてそれを体感したときは太ももにセルクルをめり込ませそこにアルコールを溜めてライターで火をつけた。綺麗な炎だった。それを見て勃起し射精した。コウジの表現は確かに理解できた、腐る、何かが腐り落ちる、そんな感じがした。
一ヶ月耐えることのできたコウジは素質があると思っていたが、死の衝動に駆られるような奴は殺してもよかった。だが今はそうは思っていない。コウジが植物になってくれてよかった。前垣は、人間は死に近づくに連れて人間を超越していくものだと考えている。もちろん生きているうちは人間だ、だが、死ぬ瞬間、最後の最後の一瞬の意識では、人間を超越し、それは神と呼ばれる存在に最も近づくのだと考えている。もしくは神そのものだ。今のコウジは、生きているとも死んでいるともいえない、まさに最後の一瞬に身を投じている状態だ。コウジの中にある一瞬の意識、心、それは外界から閉ざされた、汚れなき、何よりも透き通った腐った心なんだ。それこそが神なんだ。あの時はコウジを簡単に死に追いやったバイクを買った父を真っ先に殺したが、それは必要なかったようだ。
前垣は自分と同じようにビジョンを見ながら生活している男を一人知っていた。その男は何も考えずにただ衝動的に金品を奪い、人を殺していた。こんな奴は神の僕にふさわしくない、そう、このビジョンを見ることが、神に認められた選ばれた人間の証で、神の御心のままを遂行しなければならない、だからその男は殺した。そういうビジョンが前垣には見えたからだ。ビジョンの見える者同士の戦いは楽じゃない。予想はしていたがあれほど神経をすり減らすものだとは思わなかった。コンマ一秒、一枚でも多くビジョンを見た者が勝つ。その後は丸二日、スプーンもろくに握れなかった。
コウジは神かもしくはそれに近い存在だ。ただの植物とは違う、生前に覚醒した植物だ、おそらく、そうなることを神が望んだのだ、だから、コウジが自ら命を絶とうとしてもそれが完全には出来なかった。いや、そうか、コウジには見えていたんだ、植物になるというビジョンが、相手を苦しませずに死なせることも、自分が高貴な存在として生きていくことも、見えていたんだ。
コウジには生きてほしかった。コウジが声を発し、肢体を動かすとき、必ずビジョンを見ているはずなんだ。コウジは必ず生き返る。神の領域を踏んだ男として必ず生き返る。その証拠に二年、コウジは死ななかった。ゆっくり体を起こして、おはよう、と言った後に、アニキ、こんなものが見えたよ、と言う姿を前垣は楽しみにしている。それは自分にも他の奴らにも見えない特別のコウジだけのビジョンなんだ。まさに神の目だ。そのためなら何でもする、そしてコウジを決して死なせはしない。危険なのは、私欲を尽くすためにビジョンを見ている奴らと、身近にいる狂った母だ。今はまだ害はないようだが、母はそのうち殺さなければなるまい。ここの無能な看護婦も前に一人殺したが、殺すのはあまり好きではない。できれば避けたい。殺すと、少しずつそれが悦びに変わってきてしまう。あの男の二の舞になる。悦びを求めてしまうのが人間だ。弱い。弱いから人間か。あの男以外に、ビジョンの見えるやつとはまだ会えていない。早く探さなければ。
病院の中庭にある喫煙所まで前垣は行くとベンチに腰をおろした。タバコを取り出し咥えると隣にいた初老の男が火を差し出した。よれたヘンリーネックのグレーのシャツがその男の人生を表しているようで前垣は息をしたくなくなった。それでも男に応え火にタバコを近づけると前垣はタバコを落としてしまった。
「大丈夫かい、その歳で、心労が祟ってるんじゃないか、ははは」
と初老の男は笑ったがそれは新たなビジョンのサインだった。ビジョンは二十四時間絶えず送られているわけではない。自分が行動しようと強く思ったものに対してそれから強く現れるのだ。次に、行動を起こした結果とそれに関連づいた出来事がフラッシュしてくる。
「大丈夫かい、にいちゃん」
慣れているとはいえそれは気持ちのいいものではなく、前垣は足の親指の神経を引っ張り出したい衝動に駆られた。前垣はしばらくこのビジョンが何百と重なった世界で生活することになる。例えるならばそれは五百枚重ね合わせた透明なセル画を一目見ただけで五百枚全てを理解する感じだ。そしてその五百枚の内の一枚が「今」だ。慣れないうちはどれが「今」なのか分からず、「今」を見つけ出そうとするとこめかみに活きのいいゴキブリを埋め込みたくなる。
前垣が見た新たなビジョンは、新宿署に出頭して自首するというものだった。前垣は笑った、笑わずにはいられなかった。初老の男が不審そうな顔を向け、終いには立ち去った。それでもまだ前垣は笑い続けた。何もかもを曝け出す、過去に殺した人間も、全て、自分の能力についても、だ。まだ笑いが止まらなかった。相手は、影井刑事だった。影井刑事は中井刑事と一緒に殺そうと思っていた、だがそういう気は起こらなかった、それがこのビジョンを見るためだったと思うと納得できたが、滑稽でしょうがなかった。
ビジョンは約一週間先までしか見られない、前に正確な時間を計ったことがあったがそれは百六十七時間三十二分二十八秒先まで、地球がちょうど七回自転するまでだった。なぜ地球の自転に合わせてビジョンが見えるのかは分かっていない。もし人間の体内周期である二十五時間単位のものだったらなんとなく理解は出来たが、なぜ地球なのか、惑星ならばなぜ水星ではないのか火星ではないのか木星ではないのか、考えても理解できなかった。それに地球の自転と同じなのは単なる偶然なのかもしれない、十億年後の遅くなった自転周期と比べられないからそれは確かめられない。
その約一週間で前垣が影井刑事を殺すことはないようだった。また、大人しく留置場に収まる前垣の姿も見えた。その先に何かがあるということか。全てを知り得ないのはやはり神ではないからだ。ただ、一つだけ確かなことは、未来の出来事に動機など起こりえないということだった。見たからにはそうなる、それだけだ。
前垣は病室に戻るとコウジの額にキスをした。
「すぐに戻れるとは思うけど、母さんによろしく言っといてくれ……あと、コウジに何もするなよ、と」
じゃあしばらく会えないから、と言って前垣は病室を後にした。
翌日、新宿署に出頭した前垣は入口でハルナを見かけた。付き添いは……サトミとカナメという女か。カナメという女は影井と面識があるようだ、なるほど。
警察官に連れられて取調室に入ると、頭をツルツルに剃ったキタオという刑事がアゴで前垣に座るように示した。前垣は従い椅子に座ったが、ハルナを見かけてからケンジが思い出されて仕方がなかった。前垣がケンジと出会ったのは偶然だった。池袋のゲームセンターで仲間と遊んでいた青年がどことなく周囲と雰囲気が違う気がして、その青年をビジョンで追ってみたのだ。それは二十四時間その青年を尾行、監視すると本気で決め込むと見えてくる。ただし実際に行動した場合と同じだけの精神的、肉体的疲労を要する。その青年はケンジという名前で、自分の勘の鋭さに自信を持っていた。また、心の奥底で不安と不満を抱いていた。素質は、あった。だがケンジは家庭も裕福、人望も厚いというふうに環境に恵まれすぎていて、キッカケになるようなことがないのだと分かった。前垣が覚醒したキッカケは父にレイプされたことだった。十三の時だ。ケンジと同じようになんとなくこうなるという勘の鋭さを持っていた前垣は、母と弟が二人だけで祖父母の家に遊びに行くと決まった時からうすうす感じていたがそれが信じられなかった。父が息子を犯すなど信じられなくて当然だ。だがそれは起こった。そして抵抗したら誤って殺されることも分かった。それが初めて見たビジョンだった。前垣は父を殺そうと思ったが、コウジがお父さんっ子だったため、どうしてもそれが出来なかった。弟だけが味方のような気がして、弟を悲しませることだけはしたくなかった。だが結局、父を殺すことになった。弟を死へ追いやった父を。弟が死へと駆られる失敗作だと分かったときは弟を殺そうと思ったが、おそらく出来なかっただろうなと前垣は思った。弟が初めてビジョンを見たとき前垣は心の底から喜んでやはり自分の味方は弟しかいないんだと強く感じていたからだ。弟の息の根を止める直前でそれが思い出されれば、必ず手を止めて抱きしめるはずだと前垣は思った。今の弟は決して死なせてはならない高貴な存在であるが、それ以前に弟のことが前垣は好きだった。しかし、弟がなぜ覚醒したのか、それだけは分からなかった。弟も話そうとしなかったし、それこそ、神のみぞ知る、か。
ケンジをさらに数日分追ってみるとケンジのメールアドレスが分かったので、前垣はそこへメールを送った。神気の力を有していること、そしてお前の心は腐りかけているんだと伝えた。だがケンジはバカだった。自分の力が未来を知り、世界を変えうるものだと気付いたところまではよかったのだが、起こした行動が美人局だ、オヤジを殴り、金を奪う、感覚を研ぎ澄ますためとはいえ、それは人間の欲望を満たすものであって神の御心には背くものだ。罰するしかなかった。覚醒しても悪しき道に走る可能性が高い。それでも、あそこで死を避けることが出来たらチャンスを与えるつもりだった。前垣は笑った。ケンジの唇はやわらかかった。
ドアが開いた。影井刑事が入ってきた。その表情は怒りに満ちたものだった。中井刑事が生きていた頃には出来なかった顔ですね、と前垣は言ったが影井は睨むだけで何も言わなかった。
前垣の前に座ると影井は口を開いた。
「ラブホテル大学生殺害事件は警視庁捜査一課の扱いとなっている。お前の身柄は本庁へ引き渡さなければならない。だがその前に、私が二、三、取調べをする。拒否はさせない」
「……」
「名前は?」
「……前垣英司」
「職業は?」
「影井刑事」
「職業は?」
「あの書店の女店員、カワサキカナメっていうんですよ、名前、知りたがってましたよね?」
「……何の話だ」
「さっき、入口にいたじゃないですかカナメさんが、気付きませんでした?」
「ふざけるな」
「カナメさんもあなたのことは気に入ってますよ、デートですか、お気楽ですね、ハルナちゃんはダシに使われてかわいそうだ」
「ふざけるな」
「中井刑事は文化センター側の喫茶店がお気に入りでしたか、また爆破しますよ」
影井は机を思い切り叩いた。
「それは自供だな。小林家爆破は証拠が出ていない、自供だな」
「中井を殺したのは私ですよ」
影井の眉がぴくりと動いた。
「正確には、私が殺したんじゃない。中井はあそこで死ぬ運命だった。神の御心のままに、それが全てだ。中井はあの歳になるまで覚醒しなかった。キッカケはあったのに、中井は逃げたんだ。負け犬だよ」
「黙れ」
前垣は笑みを浮かべた。
「中井は地べたを這う負け犬だった」
「黙れ!」
影井は前垣の襟首に思い切り掴みかかった。ワイシャツのボタンが弾けとんで、少し間をおいてから室内にカチカチという音が響いた。
「影井刑事、私はあなたに全てをお話したいんです。なぜかは自分でも分かりませんが、あなたには全てをね。例えばあなたがこうやって掴みかかることも簡単に回避することができた。これが唯一の欠点でね、回避することは出来ても相手の心を変えることまでは出来ないんですよ」
「何を言っているんださっきから!」
影井はふと前垣のはだけた胸元に視線を落とした。影井は絶句した。
「シャレてるでしょう?」
そこにはマジックで小さくこう書かれていた――ワイシャツを弁償してください、影井さん
「私にはね、未来が見えるんですよ。手に取るように、未来がね。自分でも分からなかったんですが、ここにくるまでに考えてみたんです、なぜ、私はあなた、影井刑事に全てを話したいのかを。これは私が強く望んだわけではない、私が見る未来というのは、強く望んだものから見えてくるんです。例えば何処かへ遊びに行こうと思えば、そこで遊んでいる自分の映像が脳裏に浮かぶ、何百とね。でも、望まない映像が浮かぶことも確かにあるんです、たまに。それは、そうだな、深夜にお腹が空いて何か食べたくなったとしましょう。何か食べたいと思う、そうすると頭にカレーを食べている自分の姿がふっと浮かぶんです、匂いも、味も一緒にね、強く望んだことが浮かぶわけですから食事をしようと思ったことが浮かぶのは当然なんですが、カレーを食べようとまでは思わなかった。でもその映像では私はカレーを食べている。その姿を現在の私が見て、カレーを食べてもいいなと思う、カレーを食べたくなる、そしてカレーを食べる、これで未来は成立するんです。おかしいでしょう? 動機は後付なんです。もちろん、カレーではなくてソバが食いたいと思えば、そのカレーを食っていた映像は瞬時にソバに変わるんです。今日、影井刑事のところへ来たのは後付の方です。だからといって、それは他者が指示したような無責任なものではない。自分が意識できない深淵で、やはり望んでいたのでしょうね。カレーを食いたいと意識していなくてもそれをどこかしらでは思っていた、そういうことです。だから考えたんです、私はなぜ影井刑事に全てを話したいのかと。私が思うに、これは懺悔なんですよ、懺悔、人間への」
影井は前垣の目を見据えたまま動かなかった。
「神の御心とはいえ、私は人を殺めてしまった。だからそれを懺悔し、全てをぶちまけることで、私はリセットされる。気持ちをね。人間は弱く、脆い。人を殺めたという事実を重ねていくと、人間である私の精神は変化をきたしてしまうんです。私は常にまっさらな統一された状態でいなければならない。それは生まれたての赤子のように。だから今日、リセットするんです。新たな気持ちで、神の僕として、神の御心のままを遂行できるようにね」
「……精神鑑定などはさせない」
「そんなつもりはありませんよ。私は狂っていない。ただ、そう、人間という矮小な心が、腐りかかっているだけなんです。完全に腐ってくれれば、いいんですがね。無色透明に、透き通るまでね」
影井の目は綺麗だと前垣は思った。ビジョンが消えた。
「タバコを吸わせてもらえませんか、一本でいいです」
「……だめだ」
「じゃあ、そろそろ座ってくださいよ、影井刑事」
影井は前垣が憎めなかった。部屋に入った瞬間から憎めなくなった。それは前垣が、中井の寂しげな雰囲気に、とてもよく似ていたからだ。中井を殺したこの男に中井がダブって見えることは許せないことだったが、それでも、この男は死なせてはいけない、そんな気がしてならなかった。影井が目を逸らした隙に舌を噛み切った前垣が血を垂らして笑っている。二度と死なせてはいけないと影井は思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?