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ジャグリング人生10年を振り返って

0.はじめに

2012年からジャグリングを始めて11年目を迎えました。
大会に出たり、2度違うタイプの舞台に出たり、マラバリスタに入会したら、JJFに出たり、休職したり、復職したりいろんなことをしてきました。
凡人なりに無理をしながらいろいろ頑張ってきたので、もし私と同じようなことをしなければいけないという人が出てきたとき、参考になればいいなと思い、書いてみました。「私に出来るんだから出来るよ」と言っているわけではないので、悪しからず。私の頑固なところやちょっと負けず嫌いなところ、適度に大雑把なところ、あとは運で何とかなった部分も多かったと思います。
決してやり方を強要しているわけでもないので、悪魔でこういう人も居るんだなと思って見ていただけると嬉しいです。
本当は次JJFCS出た時にnoteを書こうと思ったけど、長すぎるので先に出してしまいたいと思い書くに至りました。20000字ほどになりました。
基本的にエッセイのような感覚で書いております。ジャグリングと関係ないことはanother storyとして謎に詳しく書いています。
全部見てもらってもいいですし、参考にしたい部分があれば目次を見てかいつまんで見て頂いたら良いので読み方は自由です。
感情込めて文章を作る癖があるので「この時ガチで大変でしたわ〜」ってのが見え隠れしてるかもしれませんがご了承ください。あなたそんなに偉そうに語れる人じゃないでしょ、どの面下げて書いてんの等批判もあるかもしれませんがそこもお許しください。
ディズニーリゾートとジャグリングは思い入れのある場所やものなので、ヘッダーはディズニーランドでリング持ってる写真を選びました。

1.創世記

ジャグリングを始めたきっかけは、中学2年生にまで遡る。中学演劇部に在籍していた私は、中学2年生の時にピエロ役をすることになる。このピエロはカスケードを3回で落としてしまうような「何故お前は見た目からピエロになろうとしたんだ」という突っ込みどころが満載な役だった。夏休み中100均で買った重さのないカラーボールで一生懸命カスケードを練習していた。通学中も歩きながら登校していたし、授業が終わった瞬間にカスケードをしていたらしい。カスケードは100回以上続いてしまったので、落とし方がわざとらしくなってしまい、舞台監督に怒られたものである。

私は京都大学を志望していたのだが、前期で落ちてしまい後期で神戸大学に行くことになる。因みに10年程週一で京都大学に落ちて浪人する夢を見ている。


another story1:後期までの道のり
前期の合格発表の時に自分の番号がないのを確認した瞬間、一緒に来ていた親に「2000円貸して」と言って電車代を貰い、河合塾の浪人コースに勝手に申し込みに行った。
自分自身京都大学以外考えられなくて「後期は白紙で出したるわい!」と言って後期試験2日前に友達と旅行会社に行き卒業旅行の手続きをしに行った。結局周りに沢山説得され、後期試験へ渋々行った。謎のアドレナリンによりめちゃくちゃ解けて2時間半のテストだったが2時間で書き終えた。たしか時間の刹那性に関する小論文だったと思う。「周りの受験生死にものぐるいで書いてんのかな~」とか思いながら見ていた。
その後センター利用で私立大学に受かったけど全く行きたくなくて、家族喧嘩が1週間続いた。母から「おばあちゃんの兄が行ってる大学やのに蹴るとは何事か!」みたいなことを永遠に言われた。結局兄と祖父が入ることでなんとか終止符を打つことが出来た。
卒業旅行で東京ディズニーシーのタワーオブテラーを待っていたら友達の携帯で友達の親から連絡があり神戸大学に受かったらしいと聞いたという話があったりする。「合格発表の日だが夢の国で外部との通信はしたくない」ということで携帯の電源を切っていた。そのため、私が私の合格を知ったのは10人目だったと思う。


神戸大学のサークル冊子を見たときにジャグリングという文字を見つけた。その時は「中高でやっていた演劇部か球技大会で6年齧ってたバレーボール部かジャグリング部に入ろう」と思っていた。
見学に行ったとき演劇部、バレーボール部はとてもガチ度が高くここでずっとやっていけるか自信がなかった。その点ジャグリングサークルは上手い人も下手な人もいた。だから、進捗に関わらず趣味程度にジャグリングが出来るのではないかと思った。多分神戸大学でなかったらジャグリングをすることは無かっただろう。(仮に浪人してドーナツに行ったとしても通学時間が長すぎてジャグリングどころではないし同期と差が開いて焦りまくっていただろう。)
4月18日に入部をしてそれから毎日ボールを練習した。他の人に絶対に負けたくないと思い続けていて、順調にうまくなっていった。
新入生公演の前日、私は39度の熱が出てしまった。しかし私の頭に「欠席」という2文字はなかった。39度の熱だったが、ジャグリング熱がはるかに上回ってしまい新入生公演には解熱剤を投与してなんとか出ることに成功した。冷えピタをつけながら演技をしたのだが、ピルエットをしていたら外れたので冷えピタはピルエット向きでは無いので注意していただきたい。
翌日から3日間熱が下がらない。おかしいと思い市民病院に行くと「原因不明の急性肝炎」という診断を受ける。手の握力はなく自力で立つことはできない。スプーンは握れないから人に食べさせてもらうし自力で立てないから御手洗等外に出る時は人に車椅子へ座らせてもらい移動する。3週間がたったころやっと37℃程度になり退院することが出来た。
退院後久しぶりに4ボールファウンテンをしようとしたのだが、ボールを掴めるほどの握力はなくなってしまっていた。そこで、リングを触ってみたら思いのほか楽しくてそのまま10年やることになった。
またJUG六は何故か「女子はボールをある程度できたらリングに転向する」という謎の文化があったため、それに従ってリングに転向したという理由もある。

2.一神教への道

1年の終わりに神様と出会ってしまうのであった。Ring jugglingと調べたときに松村高朗さんの「Ring jugglingⅠ~Ⅲ」がヒットした。リングというものはこんな動きが出来るのかと驚きを隠せなかった。何度も何度も再生した。
その日から「私はカーキさんになるんだ!」と決心し、3つの動画を教科書として一つ一つできる技を増やしていくことにした。何度も何度も見ていた。たぶんそれぞれの動画を200回ずつ見ていると思われる。
1年生の終わりから背中コロコロを練習し始めて2年生の最後の方には9回程度出来るようになっていた。(本当に背中コロコロは難しい。2012年の段階で動画だけで学ぶにはこれが限界だったように思う。)3年で肩パタパタはリバショが100回程度出来るようになっていた。カスケードを最初に練習するような要領でひたすらどれくらいの角度で投げるかの研究をし続けていたように思う。

肩パタのやり方

背中コロコロのやり方

「カーキさんは神である。私はカーキさんを信じて頑張るんだ」という気持ちで4年間頑張ることになった。カーキさんを崇拝しすぎて「こんな何の変哲もない女が喋りかけていいの!?」みたいな感じで喋りかけることが出来なかった。遠くから「すごい〜」って思いながら見ることしか出来なかった。

3.JJF2013

JJFの存在を知ったのは大学1年生だったが、「どいにはまだ早い」と先輩に言われ、それなら仕方がないと思い、1年生の時はJJFにはいかなかった。JJF2012CSはドーナツの人たちが沢山出ていた神回なので今でもとても後悔している。だから1年生でやる気のある子にはCSには行けとよく言っている。(皆さん行きましょう。)
JJF2013は何故かみんなで行こうという雰囲気があり行くことが出来た。CSでリングのおのさんが演技しているのを見ることが出来た。おのさんの演技はとてもうまくてこんなにも出来る人が居るんだと思うと同時に何故か「自分もいつかJJFに出れるんじゃないか」という気持ちに芽生えた。たぶんこの気持ちがずっと私を支えてくれたのだと思われる。
初めてカーキさんを見ることになったのはこの時だったと思われる。かえるさんに「カーキファンの子だよね、これカーキだよ。」と言われて推しを前にすると焦るオタクなので「あ、あ、あ、あ」くらいしか言えなくて自分の語彙力の乏しさに落胆した。言葉は話している気がするけれども上滑りする感覚を味わった。

4.2014年度関西学生大会

「将来公務員になればホワイトだしジャグリングをずっと練習できるのかな」と思い、公務員試験の勉強をしていた。しかし、公務員試験の勉強をすることによってジャグリングの時間が取れていないということに気づいてしまい、「ジャグリングの大会で入賞すれば就活に役立ちホワイト企業に行けるのではないか」という邪な感情が出てきてしまい、関西学生大会に出ることになった。たしか六甲祭のルーチンをそのまんま使った。
大会当日、女子部門に出るyngwさんに似た高梨沙羅さんがテレビに出ていたので、「今日はあなたに勝ちますから!」と宣戦布告して家を出た。
演技直前に3分間の練習時間が設けられるのだが、一人でネックエンデュランスをやっていて演技前から結構湧いていた。これは期待通りだった。ほぼ無名のサークルから出場したので3分の準備時間でファンを獲得して本番で歓声があればと思っていた。
演技直前練習に流れていた曲がB'zの「有頂天」という曲で私が大好きな曲だったので、舞台上でテンションが上がりすぎてしまってだいぶ演技に入れる技を練習してしまったのは良くなかったかもしれない。
結果はたしか10ドロをしたため、yngwさんに負けて2位になってしまった。とにかく難易度に全振りをした演技だった。初めて肩パタや背中コロコロを見せたので歓声が凄かった。
翌年も出るという選択肢はあったが、yngwさんが出ていない大会で1位を取ってもと思い断念した。今改めて見ると今もやっている技は沢山あるけれども、おぼつかなさがだいぶなくなったので我ながら上手くなったな~と思う。


another story2:就活と大会
就活の出来はと言うと、面接の最初の掴みとしては「昨日大会で準優勝を取りまして」と言えばまぁ食いつかれはしたが、それ以降はそんなに。
「準優勝を取ったのは分析力と素直に人に沢山聞いて落とし込む力があったから」という文脈でエントリーシートに書いた。ジャグリング関連しかアピールポイントがなかったが、合宿係、新歓係、学祭係を担当していたので色々書くネタはあった。
28社エントリーして書類通過しなかったのは2社程度。書類通過したものの、私はめちゃくちゃ喋るのが苦手で正直者すぎて全く文面以上のことを盛れなくて落ちまくった。
「あなたにしか出来ないことを教えてください。」とエントリーシートで聞かれていて「背中の上でリングを転がせます。」って書いて、役員に「見せてください。」と言われ「御社に入社したらいずれ見せますよ。」とか言ってたら受かった。


5.Juggling Story Project(JSP)(卒論と資格試験を添えて)

JSPからオファーがあったのは2015年の5月下旬のことだった。基本的に1週間に1,2回稽古があった。第一回JSPはケントカイトやらっせーら世良等錚々たる面々がそろっていたため、第二回をやることはとても重荷であった。
そんなプレッシャーもありつつ、仕事で必要な資格試験が2つ、卒業論文、JSPの3足のわらじを履いていた。
直前のスケジュールはこの通りである。ちなみに10月頃から週1、2で全体練習があり、1月30日の練習以外は全部練習皆勤賞だったので我ながらとても偉い。

(10月頃から週末全体練習)
1月23日頃資格試験(1種類目)→合格
1月30日初めて稽古を休む
2月1日卒業論文提出
2月6、7日全体練習
2月12日卒業論文発表
2月13、14日全体練習
2月20日資格試験(2種類目)→合格
2月20日21日全体練習
2月27日28日JSP本番
たしか2月7日くらいの練習中に疲れすぎて倒れこんで号泣していた。3足のわらじらは履くものではない。
演技はサイレントで身振り手振りをやって、ルーチンは2分程度のものだった。1か月程度前からルーチンは1日50回を目安に通していた。
卒論の時期のタイムスケジュールは下の通り。
14:00起床
15:00-18:00ジャグリング練習
18:00-21:00大学図書館で卒論を書く
22:00-5:00家で卒論を書く(卒論に飽きてくる2:00-4:00で資格試験のため授業ビデオを視聴。)
5:30就寝
このスケジュールの意図としては
・ジャグリングは日中にやりたかった。
・同じ机にずっといるのは退屈なので場所を変えたかった。
・深夜は静かなので妙に卒論に集中できた。
・午前起きるメリットは全くない。
といったところ。昼夜逆転してしまっているのでそこまでオススメはしない。

ちなみにこの公演での役柄は人前でうまく自己表現できなかった女の子がリングを拾い、「これなんだろう~」って思っていたら2分後には肩パタをめちゃくちゃやるという鬼畜な役であった。
初めての稽古でリングを拾う時にフラリッシュを無意識にやったら「それは初めてリングを拾う子にしては上手すぎるから辞めて〜!?」って5人くらいから一気にヤジが飛んだ。まぁ役柄に即したジャグリングをしましょう。


another story3:卒業論文
卒業論文は大道芸の歴史的変遷を書いた。
ホワイトな学科の1番自由なゼミに配属されたため、本当になんでも卒論にできた。過去のゼミ生は「お笑い番組の変遷」と言って70年代〜現代までのバラエティ番組を視聴してどんな変遷をしてきたのか調べたり、同期は少女アニメの描写が時代を追うごとにどう映り変わっていったのかを調べたりしていた。だから何をしようかとても悩んでいた。
教授「何か興味のあることは無いの?」
どい「ジャグリング以外で思いつかないんですよね。。」
教授「大道芸、ジャグリングとか面白いじゃない!新聞記事でどういう文脈で大道芸が生きてきたのかを研究してみたらいいんじゃないか?」
本当にこの教授はいい教授だ。そして私は1867年〜2015年の新聞記事を読み、大道芸が行政にどんな扱われ方をして、どういう時に必要とされてきたのか法則性を見出し論文にしたのだった。
因みに中部学生大会にエントリーするつもりだったのに大道芸を調べるのが楽しすぎて忘れてしまう悲劇も起きていた。(この頃の中部学生大会は男子部門が10分、女子部門が30分くらいで枠が埋まるサイバー戦争が繰り広げれる大会だった。)
因みに卒業論文はnoteに公開しているので良かったら見ていただきたい。


6.aube(関西⇔関東)

2016年6月、aubeへのオファーが来た。その時関西に赴任することになっていたのだが、「JSPでは関西にいて関西の舞台に立った。次のステップとして関西にいて関東の舞台に立つのは面白いのではないか」と思い、快諾した。
畳職人の役でかなりセリフもあった。全部で5公演あって良くこなせたなというのが率直な感想。セリフは勤務中に自転車を漕ぎながら覚えてるのかチェックしたりしていた。
平日の朝は5時40分に起きてモーニングサテライトを見て新聞を読む。業務中は何キロも自転車を漕いで電話をかけ続けて直前期は退社後ルーチンを畳の上で50回通す。そして翌日の営業を考えながら仕事で配るビラを折りまくり寝る。金曜日は関西の人と飲んでから夜行バスで7時頃に東京に着いて9時から17時まで練習。18時から21時までマラバリスタで練習。日曜日も9時から17時まで練習してジャグリング練習してから関西へ帰って24時頃帰宅してまた5時40分に起きる。これが私の1週間の過ごし方だった。
もし公演が1週間遅ければ仕事を辞めていたかもしれない死んでいたかもしれないという極限状態の中なんとか頑張ってやり遂げた。東京に行くときは必ずマラバリスタに寄っていた。やっぱりなんとかやり遂げることが出来たのはマラバリスタの存在が大きかったようだ。
これが当時の日記である。精神的に病んでる時は殴り書きで字が汚くなりがちである。土日は殆ど休んでいるとは言えないくらい動いていたので土日含めて47連勤と書いている。

aubeが終わってからもずっとマラバリスタには通い続けた。2年間で通算80回は東京に行っていたと思われる。多分ビューカードやクレカを使えば色々出来たんじゃないかなと思うのでもし次にやる人がいればクレカ等利用していただきたい。


another story4:演劇とジャグラー
anotherなのかは怪しいがジャグラーが演劇に足を踏み入れる際、頭の隅に置いておくべきことを書いていく。
東京と大阪を行き来するのなら、オンラインで参加できる環境があれば今なら融通が効くかもしれない。
昨今の公演は単なる「ジャグリング×演劇」ではなくなりつつあるので、依頼を受ける前にコンセプトはしっかり聞いておくべきである。
「ジャグリングを見せたいのにこの公演では全然私らしさを出せない!?」と途中で気づくのは精神的にきついので、ここもちゃんと聞いておこう。
「ジャグラーとして呼ばれたはずなのにジャグリングするところをなかなか作ってくれない」と思って拗ねるかもしれない。私は拗ねた。私だけ公演1ヶ月前まで曲が決まってなくて1人拗ねてたし焦ってた。
順番につくるわけだし主催も人間だし慣れてないだろうから気長に待ちましょうってのとあまりにも心配なら演出にも「私のジャグリングパートは本当に入りますか。」て聞いてみても良いかもしれない。
あと、旗揚げだと結構チケットを売り込まなきゃいけない。一人一人何枚売ったか分かる形式である可能性が高く、「関西で売れないし関東にそこまで友達いないんですけど」と思いながら友達という友達に連絡した。
私は仕事以外はもちろん、仕事の昼休みとかに大量にLINEで送りまくってた。大体断られるので買うよと言われた時は天にも昇る心地である。
ジャグラーが有声劇に参加するときに心積りしておくことは、腹筋は鍛えておいた方が良い。大体の稽古の前に筋トレタイムと発声タイムはあると思う。
あとは台本は最初のものとだいぶ変わってしまうことが多いと思う。稽古をするうちにブラッシュアップすべきと判断されたものだろうから、そこまで不満を持たないでもらいたい。

セリフをいつ覚えるかというと家は勿論、商談が終わって会社に戻る時に人気のない坂道を上りながらセリフの練習したりしていた。あとは風呂に浸かりながらセリフを覚えたりしていた。(妙に集中できる空間である。)その時に相手のセリフもちゃんと覚えていた方が良い。

最初演劇をする時はセリフを言うのに手一杯で感情をセリフに乗せにくいと思う。
役作りとしては
・何故そのセリフを言ったのか
・どうしてこの行動をしたのか
・相手にこれを言われている時どういう感情が込み上げているのか
は台本に書き込んで行った。
役の性格を分析すべく昔友達に渡して書いてもらったようなプロフィール帳を役になりきって書いてみてどういう性格の人間か分析して役に落とし込んだりしていた。過去にこういう背景のある人なんだというのを自分の中で落とし込んでいく。
あとは畳職人の役だったので、畳を見ずに役を演じるのはよろしくないと思い、一応地元の畳屋さんに行ってインタビューもおこなった。実際にどうやって畳を作るのか教えてもらったり使う工具を見せてもらったりしたので参考にはなった。


7.JJF2018への道

JJF2018の演技は以下のリンクから。

マラバリスタの加藤さんが人間の限界に挑戦して練習内容をコンスタントに考えながら着実に成長し続けているのを間近で見てとても尊敬していた。2016年は加藤さんはJJF2回目出すし私もJJFの舞台に立ってみたいな〜という気持ちがあった。郷に入っては郷に従えの究極バージョンである。(今は2回予選通過したのでカーキさんを目指し4回出たいなという気持ちがある。)
あとJJF出てるしみんなに出たらって言われるし関西2位で私のジャグリング人生終えるなんて面白くないだろと思いJJFに挑戦することにした。
JJF2016では落選している。
主に落選理由は以下の通り
・3ドロップは多い。
・2曲構成した意味がわからない。曲を変えるタイミングで色を変える意味も分からない。

この時から2曲構成に対して不安が芽生えるようになる。2曲構成をするからには意味を持たせなければいけない。
「JJFCSの予選突破は如何に違和感なく見てもらえるか」だと思うので、2曲構成をすることで審査すべき点を増やしてしまうと考えると2曲構成にするのはリスクである。(他の人で2曲構成は逃げと書いていたけれども私にとって逃げであり守りの1曲構成である。)
JJF2018に向けて2017年6月に動き始める。miwaが好きでありカラオケでしょっちゅう歌っているのでmiwaの360°か441のどちらかで迷って稲村にLINEで聞いて「360°じゃね」って言われてすぐに360°に決めた。(ちなみにJJF2016の1曲目がmiwaのFaithで、miwaのリベンジを果たしたいという気持ちがあった。)大体の流れは稲村に決めてもらい、決められた枠組みの中で技を入れ込んだ。
駒場祭にエントリーをしてそのルーチンを試してみた。駒場祭は個人リハが存在し、練習にきた人がリハを見て感想を書いてもらうことが出来る。その感想を元に反省点を箇条書きにして及第点を探していく作業をした。
駒場祭が終わってからは過去のJJFファイナリストの友達や関西の学生時代の友達に見てもらい沢山フィードバックを頂き反省点をまとめどんどんブラッシュアップをしていった。また衣装に関しても衣装が得意そうな友達に相談していたらしい。だから、人脈でJJFに立ち向かった形になった。
2018年3月東北学生大会はJJFの舞台慣れのために出場。1位を取ることができた。人生で初めての金賞は結構嬉しかった。
2018年4月東京に異動することになった。2年間異動届を出し続けて本当に良かった。週に三度マラバリスタに通う日々になった。
予選動画は工藤がPossumで体育館を2回取ってくれて7時間ずつ撮って1ドロが1回出たのでそれを提出することにした。14時間で仕留めた感じになった。
予選動画を送ってからは謎の通るだろという自信でひたすら通していた。
予選を通ってからは19時に退社して走ってマラバリに行き30分-1時間ジャグリングをするという日々を過ごしていた。30分という短い時間であっても通しのインターバルを20秒程度にすることにより、無駄な時間を減らし4分半のルーチンを5、6回通したりしていた。
大会当日の朝、加藤さんから「舞台を楽しんで頑張ってください」と珍しく連絡が来た。頭の中を「舞台を楽しめ」という言葉でいっぱいにして大会に挑んだ。JJFは本当に楽しんだもの勝ちだと思う。この日以降舞台に立つ時は「舞台を楽しめ」と反芻するようにしている。
10時に集合があり20分の個別の照明確認タイム+全体の時間だった。女子部門→チーム部門→男子部門の順で個別確認時間があり演技も見ることはできる。
リハーサル室は練習をする場所でずっと使えて9の高さは投げられるかどうか位の高さだったはず。
7333を練習しまくっていたら突き指をしてしまったので、大会前に練習しすぎたらしすぎたで大変だったりする。
CSでとても楽しいのが控え室での談話。マド様とその日初めて喋ったのだが、ずっと話してて楽しかった。お菓子が用意されていて気が利いてる。あと衣装が決まってない子がいてみんなであり物で衣装を考え着せるという謎のイベントが発生していた。
ドロップが多くて結局2位。凄く悔しくて壇上では「またこの舞台に戻ってきます。」と豪語した。
詳しくは以下のURLを参照。

8.JJF2019

CSの予選動画については以下のリンクを踏んでいただきたい。

2018年のCS終わってからぼんやり技を極める練習していて曲もぼんやり決めていたが、2年連続出る気は無かった。5月になごつきとドーナツの子2人と飲む機会があり、「出ましょう!」と言われ飲み会のテンションで出ることが決まってしまった。急いで1週間でルーチンを作った。
そこからはとても過酷な日々だった。スケジュールとしては以下の通り。技術向上期間やルーチンへのぼんやりとした意欲がそれまでにあったのは強かった。
2018/10~2019/1 5リングの練習を重点的に行っていた。
2019/1~ 曲決め開始、技ぼんやり決め
2019/4~ ルーチンをぼんやりと考える
2019/5 ジャグリングコンサルタントをお願いする。
2019/5/28 ルーチン動画を撮る。
2019/6 資格試験でジャグリングどころではなくなる。
2019/6/15 つなぎつなぎで完成形を作成、構成について指摘をもらう。
2019/7/22 1ドロが撮れる。部分的に指摘をもらう。
2019/8/3~8/6 マラバリ合宿、ずっと撮影
2019/8/7~8/10 予選動画撮影。8/10に満足のいく1ドロが撮れる。
2019/8/24 HJFで通す。
2019/9/22 予選結果、退社後の練習は平日は5日のうち3日
ルーチンの構成については詳しくはこのnoteを見て頂きたい。

そして忌まわしき事件が起きたのだ。10/10の17:35、大会が無くなったとのメールが届いた。退社時に見て喪失感で泣き崩れた。
私は当時は、江戸川区に住んでいた。ここでハザードマップを見ていただきたいのだが、「ここにいてはダメです」とでっかく書かれている。下の画像を見て頂きたい。江戸川区はイオンもあるし、まいばすけっともあるし、ユニクロもあるし大戸屋ごはんもあるしめっちゃ便利な街なのだが浸水だけが難点である。

そのため、1週間帰れなかったり家が流されることを想定して「川に流されて報道されたら嫌なもの」を全部持っていった。マイナンバーの通知カードや大乱投小林ブラザーズの額縁も持っていって総量10kgくらいあったと思う。

じゃぐもメンバーでYouTubeライブをしたのも懐かしい。その後みんなで焼肉を食べに行った。
ファイナリストは普段仲良い人しか居なかったのでスペシャルステージはめちゃくちゃ楽しかった。第3体育室が控え室で入ったら2mくらいあるファラオの置物があり爆笑した。
ドミニクからも「おめえのルーチン最高だぜ」みたいなこと言われて嬉しかった。JUG六の後輩からも誇りですと言われて嬉しかった。

9.人生のどん底期へ

人生のどん底期。私の人生はここから転落していく。
じゃぐもでYouTubeの配信をしたりスペシャルステージもやったりしたけど、私の心の穴はぽっかり空いたまま平日を迎えた。
7月からずっと頑張っていて、CSで心を満たす想定で動いていたからどう足掻いても心の穴を埋めることは出来なかった。
出社すると「何故大会が無くなったのに休んでるの?」と言われた。言葉を失ってしまった。
そこから激務の日々。2週間で社内イベントを作りあげたり並行して出張のためプレゼンを覚えなきゃいけないし、並行して通常のプロジェクトがあるし、突然当日中にやらなきゃいけない仕事が降ってくることが毎日のようにあるし、業務時間外で資格試験は3教科勉強しなきゃいけないし、本当にキツかった。褒められもしないしずっと怒られてばかり。
日曜劇場「半沢直樹」の中に半沢の同期の近藤の心の中で黒いインクかポタポタ落ちていく描写があったと思うがまさにあれが起きていた。黒いものが落ちていく感覚を味わった。
東京大学本郷キャンパスでジャグリングをしつつPRONTOで資格試験をする日々だったのだが、11月4日に勉強中にボロボロ涙が零れてどうしようもなくなった。
帰っても泣いて寝ようとしても泣いて起きても泣いていて仕事中も泣き続けていた。これはおかしいと思い心療内科に駆け込んだ。適応障害と診断された。
それから言葉を発しようとすると涙がこぼれそうになっていた。満員電車で涙が溢れてしまうこともあった。常にコップの水が溢れ掛けの状態。出張は何十人もがそれぞれの地で同じプレゼンをしにいく形式のものだったので、プレゼンの練習会があり、ひたすら当たらないように当たらないように隅っこに隠れていた。(プレゼンというとニュアンスが違うかもしれないが他に適した言葉が見つからないのでプレゼンとする。)
こうやって逃げてきた矢先30人の前で1人が実演するという機会があり、上司に「私に最後までじゃんけんで負けた人がプレゼンをしなさい」という突然の思いつきをされ、わたしはじゃんけんに負けてしまった。(私はここぞと言う時にじゃんけんが弱すぎる。)
プレゼンが始まり2分程すると上司から「ちゃんと落とし込んで話してるのか」みたいな指摘が入りその場で号泣してしまった。これくらいでと思われるかもだが、ずっと心が溢れ掛けのコップの状態だから少しの水で溢れてしまったのだ。
そこからは泣きべそをかきながら、ただただ書かれている文字を詰まりながら読み上げるだけの作業だった。流石に号泣しているからそれ以降は指摘は入らなかった。10分かけて全て読み切ったのだけは偉いと思う。
終わった瞬間女子トイレに駆け込み倒れ込むように号泣していると心配してくれる後輩が沢山いた。
事態は重いと判断し、出張はなくなり私から仕事はなくなっていき、休職に至った。電車にも乗れなくなってしまい、最終日はタクシーで帰った。
休職してからは暗い部屋の中でずっと寝込んで泣いていた。Tverでドラマを漁ったりはしていたかもしれない。2ヶ月程度ずっと泣き続けていた。
こんな状態なので関西の知り合いの結婚式には出席できず、NJCという名古屋のルーチン発表会もエントリーしていたけど出られなかった。ついでにマラバリのクリパにも行けなかった。情けなくなった。
親には適応障害になったとは言っていなかった。(2年ほど黙っていた。)元日に行かないと心配されるので頑張って新幹線に乗って関西まで帰った。例によって喋ると泣く状態だったので「歯が痛い」と言い続けることによって喋ることを回避していた。
この時35歳の少女というドラマが放映されていた。King Gnuの「三文小説」という曲の「この世界の誰もが君を忘れ去っても随分老けたって隣で笑うから」という歌詞の君を鬱になる前の自分に見立てこんな私でも誰か笑ってくれる人がいてくれたらいいなと思い自分を元気付けていた。

10.Dice(東北のルーチン発表会)

休職中照明付きのルーチン発表会のようなものに出ることになった。もちろんJJF2019の供養のためである。
照明は基本的にヒューマノイドという曲のPVを見て色味を決めた。キューが沢山あるものを照明の方がちゃんと再現してくれて有難かったなと本当に思う。
DiceはJJF2019の供養をしませんかということで直接でオファーを貰ったものだし、照明付きで良い劇場での公演だからさすがに断ったらジャグラーとしてどうなんだろうと思いこれだけは断らなかった。
元日に新幹線に乗れたのでなんとか東北に行くことが出来てリハーサルや照明合わせの2回にも参加することが出来た。ほとんどしゃべれないような状態だったけれども、頷く等ノンバーバルなやり方で意思疎通が出来ていた。なんとか演技は出来た。「舞台を楽しめ…楽しむってどうやってやるんだっけ。人生に楽しいことないから分かんない。」と舞台上で困惑していて、とりあえず任務を遂行することだけを考えていた。
感想用紙に「リングの人が楽しそうにジャグリングをしていて良かったです」と書かれていて、「笑ってなくても楽しそうに見えることもあるんだなぁ」と驚いてしまった。
演技動画は下の通り。

2月終わりにDiceに出て3月に復職した。
給料を貰う量が減る焦りからではあったからもっと休めばよかったと後悔している。
この時は「元の私に戻れる」とは全く思っていなくて、「感情はなくなったけど、泣かなくなったからもう大丈夫だろう」と思い復帰してしまった。本当に良くなかった。

11.JJF2020会場責任者

馬鹿程忙しかった。東京会場責任者に抜擢されたのは7月の下旬のことだった。「他の会場はあるのに東京会場がないのは良くないだろう」と思い引き受けた。また企画側に入るのは初めてだし暫く大会も出る予定はないのでやってみようと思った。
東京でどこの会場を抑えることが出来るのかを一生懸命探した。
会場の探し方としては以下の通り。
①区を書き出す
②区のセンターを一覧化する
③空き情報を確認する。
④値段や人数制限を調べる。
(いつでもこのExcelをお渡しするので、いつでも言ってきてください。)

週に一度各会場責任者で会議していたが、本当に一日仕事を進めなかったら遅れを取ってしまうくらいに忙しかった。8:00-19:00仕事して19:00-24:00までJJFの仕事をする日々で体は限界を迎えていた。
いろいろ買うべきものがあったけれどもドンキとAmazonで何とでもなることに気づいてしまった会場責任者だった。
一日前にいろいろ抜け漏れがあって朝の3時まで寝れなかった。当日はまぁなんとかなった。
まぁこの時期に支えてくれたのは名探偵コナン129話「黒の組織から来た女 大学教授殺人事件」である。灰原哀の初登場回でクールな面、可愛子ぶるシーン、銃を持つシーン、静かに泣くシーン等灰原哀の良さが詰まっている。作業中のBGMは基本的にこの回で動画を流しながらセリフを言ったりしていた。「このセリフが」というのは無いけれどもこの回を聞いていると落ち着く。強いて言えば「米花町二丁目22番地、そこが今私の住んでいる場所」っていうセリフが好き。是非見ていただきたい。

12.零

零は動画放送局をやった。ボールやデビルスティック等それぞれ道具の精通者におすすめ動画を聞いてリストに入れていったので、結構面白い動画がいっぱいあるのではと思う。是非見ていただきたい。

またEストという動画5本で戦うものも参戦したが、まぁその時も言葉が空回りするような状態だったからコメント求められても全然うまくしゃべれなかった。一瞬で敗北した。1番良いトリックのリンクは下の通り。744から5の床コロコロをやっている。

13.ejugg〜祖父の死と共に〜

第3回e juggling competitionに出た。2週間で出さなきゃいけなくて4日前に撮れたもののアップロードすると著作権に引っかかってしまい、別の曲を当てた。結果はひどいものだった。荒療治はするべきではない。


another story5:余命宣告
次にejuggを目指した時、祖父が余命1ヶ月と宣告された。「それでも私はジャグリングを諦めない」と一瞬思ったけれども、実家に帰って衰退した祖父を見てejuggどころではなくなり辞退した。
この時はどん底中のどん底だったと思う。家族の中で1番のまともで良き理解者であり笑顔が素敵な祖父が亡くなってしまうのを考えるのはとても辛かった。
母方の祖母は12年前の元日、家族団欒で大富豪をした直後に急死した。だから11年間「おじいちゃんも急死したらいやだな」と思いながら祖父と会っていた。父方の祖父母は明治生まれだったので既に亡くなっていたから最後の祖父だった。
自分の人生はまだ落ちていくのかと思った。
TBS系列で「天国と地獄〜サイコな2人〜」というドラマが放映されていて、その主題歌の「ただいま」という曲が心の中に常に流れていた。故人を悼む際、誰かとの別れを惜しむ際は聞いて頂きたい曲ではある。
祖父との最期の会話は「自慢の孫だった。前途洋洋、いろんな道がある。だから楽しんで。よき人生を。」だった。


この後仕事どころではなくなり様々なミスをしてしまい精神状態が酷かった。というか毎日「良き人生を」という言葉を思い出しては号泣していた。
精神は死んでいたけれども組織改正でいろいろ体制が変わりなんとか1年持ちこたえた。でもずっと言葉を発しても言葉が浮いているようなそんな感覚を抱いていた。喋っていても宇宙空間にいるような感覚、言葉がすり落ちて行くような感覚だった。


14.どん底からの復活へ

ずっと違和感を持ち続けていた。2022年2月に「いつかまた心から笑える時が来るのかな。もう2年も笑ってないし辛い感情ばかりで流石にこのまんま一生笑うことなくずっと仕事し続けるのはきつい気がする。楽しいと思える瞬間は無いしなんで生きてるんだろ」と毎日思うようになった。あと、適応障害で1度休職しているので、ずっと周りに気を使われながら仕事をすることが心地悪かった。ビルの2桁階に住んでいるといつもより窓が近く感じていた。
多分この感覚は転職することで解消はされないだろうしどうしようもなく感じた。
セカンドオピニオンとして行った心療内科で適応障害ではなく鬱病と診断され、休職することになった。
人生に絶望しつつ、なんだかんだ生きられているのは「劇場版名探偵コナンの次回作を見たい」というモチベーションが大きかったりする。この2年は緋色の弾丸やハロウィンの花嫁のために生きられたと思う。劇場版名探偵コナンはサザエさんと同じようにずっとあったら嬉しいな。。


another story6:精神科医の選び方
JJF2019終わった後に行った精神科医がまぁまぁなやぶ医者だった。1年程そこに通いながら色んなところを探して転院した。
今の主治医は経過をちゃんと見てくれる良い先生である。
精神科医の口コミを見る時は★の数だけを気にしては 選ぶのはおすすめしない。なぜなら★5だけを付けて口コミは書かない人が居て評価を引き上げている。サクラ的なものだと思う。
薬を出しまくる先生も良くない。抗うつ薬は依存性が強いものだからいつかは薬を絶つ必要がある。鬱病はセロトニン等の神経伝達物質の伝達が上手くいってない脳の病気だから薬なしでカウンセリングでなんとかしようとするところに通うのも厳しいと思う。
三環系抗うつ薬は副作用があって1日立てなくなることがあって嫌いだったのだが、この頃は副作用が少なめなSSRIの薬を飲むようになった。(やぶ医者の時は三環系ばっかり勧められてダメだった。)
1回目の受診は大体経緯を聞かれる。大体30分前後で話し続ける。2回目以降は休職にするかどうかの判断をすることになる。
休職してからなかなかに自堕落な生活になるのだが、1ヶ月経った頃から毎日何時に起きて何時にどんな活動をして何時に寝たのかという生活行動表を付ける。最初は外で活動できるように、次は午前にも活動できるように、最終的に8:00-17:00に活動できるようにと段階を踏んでいく。
生活行動表は主治医に見せるという目的もあるが、産業医にも見せるという目的もある。
(とはいえジャグリングばっかやってる生活行動表を見せたとして評価が分かれると思うので、見せなかった。)
だいぷ精神が安定してきた時と復職前に復職準備性評価シートを書く。A4シート4枚程度であり、日中眠いかや希死念慮はあるか等の質問に4択で答える形式である。
これらはやぶ医者時代はされていなかったので、本当に医者によりけりかもしれない。


東京だったら自分の住んでいるところの近くだけを見るべきではない。隣の区、隣の駅だと名医が沢山いると言ったケースもある。だから範囲をあまり狭めず複数の口コミサイトを見てちゃんと治る過程が書かれているのを確認して選ぶことをおすすめする。
あと心身の病気の場合、自立支援医療制度が適用されると思う。一般的には特定の病院、特定の薬局にて3割負担が1割負担になるのでこれは使うべきである。診断書をお医者さんに書いてもらい保健所に持って行けば申請することができる。


休職してからはジャグリングもする気が無くて4ヶ月くらいジャグリングしなくて「あぁこのまんま辞めていくんだろなぁ」とか思っていた。
5月に関西で練習会があり、久しぶりにジャグリングを再開するとボディスローは余裕だし5リングもまぁまぁ投げられるしそんなに変わらなかった。ここから少しずつジャグリングをするようになった。
8月になって結構元気になってきたのでそろそろ泊まりがけでジャグリングできるのではと思いマラバリ合宿に参加した。
合宿に行く時はジャグ歴に甘んじることなく1番練習する人になることは心がけている。「体育館代はこれくらいだから1時間辺り何円の成果を出す必要がある。」とかよく考える。
あとは全員と一度は話すようにも心がけている。今回もちゃんと出来て良かった。(「バチェロレッテはもっと人の目を見て色んな話してたけど私はその域に達せないよ〜」とか思っていた。嗚呼コミュ障。。)
ここからよくマラバリスタに行くことになる。ジャグリングの話を久しぶりに沢山出来て枯れ果てていたジャグリングへの愛が蘇ったような感覚だったから。
そんな中JJFCSにマラバリスタの人たちが複数人出していると聞き、全力で応援していた。照明の話とかリハどんな感じとかどういう気持ちで臨んだかとか思い出せることは全て思い出して話した。
あとは謎に団扇を作っていた。我ながら頑張るジャグラーたちへの思いが強くなってしまって迷惑だったかもしれないと反省している。
大会に出てなかったら謎に親目線になって一喜一憂が激しいので大会は出ておきたいなと思ったJJF2022だった。
毎日練習していると大学生の熱気が凄まじくて本当に楽しかった。あとマラバリスタの人たちは色んな方向に頭が良い。サイトスワップを研究する者、ルーチンを研究する者、新技開発を日々勤しむ者等あらゆる分野で尖った人が数人いるから面白い。
8月から鬱病はマシになった。たくさん笑えるようになったし言葉が宙に浮くことなく話せるようになったし人間としての感情が取り戻せたように思う。自分はジャグリング好きな人がジャグリングの話をしているのを見る時が1番幸福感を得ることが出来るということも分かった。
だいぶ甘えさせてもらって申し訳ない。私にとってはマラバリは本当に命綱であり、感謝の思いでいっぱいである。

15.社会人と学生サークル

2015年9月、就活を終えたどいは「東京で働くことになるかもしれない」ということで東京千葉のサークル巡りをする。2016年3月に「五月祭の直前は外部は入れない」と聞き入会。6月に関西配属になる。
関西配属になってからの方がマラバリスタによく行くようになった。合宿は全日参加してここでだいぶ人々と仲良くなった。
何故か駒場祭でチーム教育テレビかとうさんといっしょというチームで出ることになった。深夜バスでずっと振り付けを練習してリハに行くというやり方で出てた。
aubeにマラバリスタの人たちに来てもらい、2017年もずっと関西から駒場に通っていた。できるだけ長く東京に居たかったので2年間は夜行バスに乗って土曜日曜駒場キャンパスに行き21:00過ぎ発の終新幹線に乗って帰る生活をしていた。2017年の駒場祭はソロで出させてもらった。
2018年に東京配属になり土日は基本駒場本郷の日々。2018、2019はJJFもあってだいぶ色んな人と喋られるようになった。2019年まで合宿は2回行かなかったくらいで基本プレ合宿(合宿集合まで飲んで時間を潰すやつ)から合宿お疲れ飲みまで参加していた。
2020年からは心が死んでいたのとコロナ禍もありそんなに行かなくて2022年に心が戻ってきたのでまた行き始めたという形でマラバリスタ歴7年目になってしまった。

社会人が学生サークルに入るからには自分なりの掟が存在する。「偉そうに何言ってんだよ」とか言われるかもしれないし、大体のことは当たり前のことだが列挙する。
①学生を困らせるようなことはしないこと。(学生が判断に迷いそうなグレイなことは出来るだけ避ける)
②「学生の団体に所属させてもらっている」という感謝は忘れないこと。
③善い行いは率先してやること。
④基本的に学生主体で動いてもらうこと。
⑤ルーチンや技について意見を求められた時は何か一つアイデア、改善点を出せるようにしておきたい。(正直めちゃくちゃ難しい。。神経を研ぎ澄ませたり頭フル回転したりしてるけど難しい。。)
⑥学生と対等な立場で話す。上から目線で話すのは言語道断。
⑦自分自身社会人でいる限りJOKERであることは自覚する。対等だけど同じだと思いすぎないこと。
勿論これらを実践すれば大丈夫と過信するべきでは無い。
また、初めてサークルや部活に行く時は以下は心がけている。
①挨拶をする。(私は全員と挨拶するようには心がけている。保護者の方や顧問の方がいる場合、その方々にもお会い出来る機会があればしっかり挨拶している。)
②自己紹介をする。(言葉でもジャグリングでも。)
(③悪魔でよそ者だから、お邪魔させてもらってありがとうという連絡は忘れずに。)

社会人になってサークルに入る1番のメリットは「仲間と純粋にジャグリングを楽しむ」ということを実践することが出来ることである。間違いなくジャグラーとしての寿命は伸びる。
自分自身が若いジャグラーの人生でジャグラーZとして登場しても良かったのかはよく考えている。出来るだけ同じ方向を向いて話すように心がけているけど、年齢の壁はどれくらい感じられているのかわからない。仕事をしていれば適度な頻度でジャグラー達と話すことが出来るのかな。社会復帰してから調整していきたいとは思っている。

16.駒場祭 road to JJF2023

JJF2023は出したいと思っている。JJF2018の表彰式で「この舞台(代々木)でリベンジします」みたいなこと言ったからには有言実行しないと私なりに気持ちが落ち着かない。
鬱病なんていつ再発してもおかしくないので今年の7月からJJF2023のルーチンを作り始めていている。4月から撮影を始めてゆったりと予選動画を撮っていこうという算段である。
9月までは「はっちゃけたギャグ寄りルーチンで優勝したい」と思っていて、駒場祭で出してみて様子を伺った。駒場祭個別リハで見せたらめちゃくちゃ不評だった。
だからギャグと優勝を2つを両立させるのは難しいなというのと駒場祭でおなかいっぱいだなと思い、違う路線にすることにした。
完全放棄宣言という曲で仕事も生活リズムも食生活も婚活も放棄してジャグリングをするぞって思った時に出会った曲だった。振り切ったルーチンをするとルーチン練が鬱になるので私には厳しいなぁと思った。とはいえいつも使わないような曲で作ったのは良い経験だった。
詳しくは以下のリンクで語っている。ルーチンの作り方はいつものJJFと同じような作り方なので参考にできる部分は多いかと思う。不評すぎて心が折れたので今は動画を非公開にしている。

17.紅白 road to JJF2023

前の章に書いている通り完全放棄宣言が不評だったので速やかに変えようと思い、神経を研ぎ澄ませて20秒自分のAppleMusicをずらっと見て「よし、この曲にするか」とあっさり決まった。
前からAimerの曲でやりたいと思っていたのとJJF2019みたいな曲の方が作りやすくて違和感なく演じることが出来るという理由から選んでいる。
10月11日に撮ってみてとりあえず仲のいい人に見せて指摘を頂きいろいろ変えてみた。
マラバリスタでは「ルーチンを語る会」という好きなルーチンについて好きに語るzoomの会がこの頃あり、その特別イベントとして「JJFファイナリストが語るJJFルーチン解説会」があった。
松野が最初の技の重要性や起承転結で組む話をしていたり、あゆみちゃんがMAX height(ルーチンが進む事に高さを高くしていく)の話や段階的に難易度を上げて作る方法を語っていたりしてそれをかなり参考にして改善していった。
それからは駒場祭のルーチンと紅白のルーチンを交互に練習していた。キャラが全く違うルーチンなので練習しててかなり楽しかった。
本格的に練習したのは本番10日前の11月23日からだった。実質5日程度しか練習出来なかったが、45回通すことが出来て自分の中でだいぶルーチンを落とし込むことが出来た。
ルーチン練習用という1人だけのグループを作った。1回1回どこをミスったのか、ミス撲滅のためにどう簡易的にできるのかを書いた。
これのいい所は
・ノートよりも管理が楽。直ぐに取り出せる。
・通した時間が分かる。
・その日の練習内容を振り返るとミスが多いところが見えやすい。
因みに本番直後も反省している。

紅白での出来はまずまず。反応が知りたいところは知れた印象。また、方向性は間違ってないことが確認できたのもかなりの収穫だった。
東海交流会でかなり技の案を頂けたのでこれから盛り込んで行けたらと思う。
今回の紅白をブラッシュアップしたものをじゃぐなぎ杯か九州ジャグリング大会あたりで出して4月から撮影していく予定である。

18.今後のどい

こんな感じで休職期間はかなり楽しむことが出来た。自分って本当にジャグリング好きだったんだなと再認識できる期間になった。因みに12月中旬に仕事に復帰する予定である。
実は私のジャグリングのモチベーションは前に行く人と同じ道を通ってそこから自分も美しい風景を見たいというものである。
2012年-2016年はカーキさんの演技に惹かれ技をどんどん学んで2016-2019年は加藤さんが人間の限界に常に挑戦しつづけているのに心打たれていて最低限5リング以上頑張んなきゃだし女子の頂点取らなきゃとか思って頑張っていた。
JJF2022が終わってから後輩たちが色々考えながらジャグリングを楽しんでいる姿を見て日々前に進もうという気持ちに駆られている。後輩たちはこんなに深くジャグリングを考えているんだと驚いてしまう。正直彼らについていくのにかなり必死であり、学ぶことが多い。全部覚えていられないからついつい記録としてノートに書き込んでしまうことも多い。
いつの間にか前に行く人が後輩になってしまっていたのは凄い変化である。暫くは適度な距離で彼らに学んでいきたいと思っている。
先輩たちについて行っている時はただひたむきに練習することが誠意だと思っていたが、後輩たちには沢山貰っているものを全力で返さないといけないと思っている。だから引き続きひたむきに練習することは勿論自分の人脈と行動力と経験で還元できることはできるだけ還元しようと思っている。(まぁ遠征できない子に動画を撮って見せるとかくらいしか出来てないけど。)
ここに書いていない2020年2021年は自分自身衰退していたけれども、コロナ禍によるジャグリング界全体の衰退を見たくは無くて「社会人の財力を使えるのならばジャグリングの発展に繋げたい」と思って、協賛やカンパは割と頑張っていた。
直近で家を買おうとは思ってないし、ジャグリングの出費以外そこまでないので、学生主体でコンセプトがしっかりしていて賛同できるものならこれからも協賛出来たらなと思っている。

30手前にもなると「あと何年ジャグリングの大会に出続けるのだろう」と想像がつかない。だから終活のごとく今出来ることは全てやろうとしている。
終活をしてはいるけれども、40歳、50歳になってもジャグリングのルーチンや技のことを沢山喋ることが出来るコミュニティがあればいいなと思っている。社会人になるとこういう場がめっきり減ってしまうので、とても欲しい。
とにかく次の10年はまだまだジャグリング馬鹿を続けていきたいと思っている。まだまだ発展途上なので、成長できると思っている。邁進していきたい。
性格的にゆるゆる出来ないだろうから、太く長く生きて行けたらいいなと思っている。頑張るどい。

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