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寒影 #クリスマス金曜トワイライト    ー真冬のレモンは小さくて甘く切ないー

 

 息はとうに切れていた。白い息が次々と、吐き出されては消えていく。地下鉄の階段を駆け上がると、もう、JRの改札が見えてくるはずだ。山手線に乗り換えて、15分くらいで着くだろうか。上野駅のホームまで、ギリギリ間に合うか。
 あきらめれば、もう走らなくて良いのに。
 足を止めたら、楽になれるのに。
 切手の貼られてない手紙を郵便受けに見つけたのは、その朝のことだった。便箋の末尾に、上野発東北新幹線、18時02分と。

 あと少しで手が届きそうな夢を追いかけているつもりだった。出世のためなんかじゃない。新しいキャンペーン、誰もやったことのない企画。いつもギリギリを走って、限界まで追い込めば、描いた世界が現れるはず。
 でも本当は、理想と現実の狭間であがいていた。
 いろんなものがすれ違い始めていた。
 自分のことも、彼女とのことも。

 もっと早くに仕事を切り上げれば良かった。いや、手紙を見つけた時点で、会社には休みの連絡を入れるべきだったのだ。僕は、何をしていたのだろう。どうして、こんな時に、格好つけて仕事なんてしていたのだろう。
 近くのコンビニで、いつもの、レモンのガムを買った。そのあとでタクシーを拾って上野駅まで、余裕で到着するはずだった。チラつきはじめた雪、お約束のような事故、渋滞。何でこんなに、東京は脆いんだ。

 手紙をもう、10回は読んだだろうか。
 あなたに、疲れたの。
 いや、正しくは、東京での生活に疲れたと書いてあったのだけれども。
 この前会ったとき君は、なんか顔が険しくてキライ、と言った。
 何も見えてなかった。

 JRの改札を抜ける。降りてくる人の波を、右に左にかき分けて。肩がぶつかるとチッ!と舌打ちが聞こえる。みんな、何かに苛立っている。
 階段くらい、なんでもないはずだった。僕は、いつの間に、こんなつまらない男になってしまったのだろうか。
 山手線の車両が見える。ぎりぎりでホームへ躍りあがった。冬なのに汗が止まらない。この人混みでは、拭うこともできない。

・・・・・

 僕たちは品川・御殿山の住宅街にある美術館で出会った。モダンアート展のパーティー会場。
 彼女が場慣れしてないのはひと目でわかった。大きな絵を眺める姿は何か儚げで、抽象画にまるで似合っていない。ショートカットに、淡い空色のワンピース。
 よく来るんですか? と声をかけると、彼女は、ぱちぱち、とまばたきして、困った顔をした。少し間が空いた。僕は、長い睫毛をじっと見つめて返事を待った。
 はじめてなんです、と、恥ずかしそうに微笑む彼女。グラスシャンパンの向こうに、ほんのり紅い頬。泡と小さな唇がぷくぷくと混じって。
 広告屋と、書道の先生。全く違う世界に生きていた。彼女は純粋な学究肌で疑うことを知らない。僕は混沌とした世界で夢の尻尾を追いかけている。違うから磁石みたいに惹きあったのかもしれない。
 俯いたとき、うなじが綺麗だなと思った。初夏の風が、微かにレモンの香りを運んできた。

・・・・・

 冬の伊豆は静かで暖かい。
 古い洋館のホテル、しわくちゃになったシーツ。彼女は小さく丸くなって眠っている。もう一度、と唇を重ねてうなじに舌を這わせるとレモンがはじけた。
 よじれたカラダは上に上へと逃げようとしている。バターのように溶けて重なりあうと心の底まで繋がっている気がした。確かにあの時は。
 僕は、レモンのガムをポケットにきらさないようになった。
 噛むたびに、カーテンのすき間から陽が射していた、あの白いシーツの海を思った。

・・・・・

 師走の上野駅はごった返している。
 ホームへ駆け込むと、ちょうど新幹線が入ってくるところだった。乗り込む客、見送る人。ヒト、ヒト、ヒト。
 ベルが鳴り響く。
 僕は叫ぶ。
 視線を感じる。見慣れたショートカットが、扉の向こうに立っている。人の波をかき分け、手を伸ばす。いま、もう、届きそうなのに。
 「いくなよ」
 彼女の瞳に、焦点を合わせたいのに。数秒が永遠の宇宙のようだ。
 長い睫毛が震えて、頬が濡れたのが見えた。唇がちいさく動く。
 「ごめんね」
 確かに聞こえたのに、それなのに、2人の間を冷たい風が通り抜けていく。

 人混みのざわざわした音が戻ってきても、頭のなかは、しんとしたままだ。椅子に掛けたが、動悸がおさまらない。コートのポケットをまさぐって、ガムを探す。
 馬鹿な。
 レモンじゃない。
 そのガムはオレンジの香りがした。
 コンクリの地面が、ぐにゃり、とした。全身の血が逆流して、目からほとばしりそうだ。僕はかろうじて、嗚咽をこらえた。椅子から転げ落ちて、幼児のように、ちがう、ちがうよう、これじゃないんだようと、喚きちらしたかった。ずんずんと、身体に、空気が、めりこんで、散り散りに、なって、そのまま、無くなって、しまう、よ。レモンを、レモンのガムを、頂戴。

・・・・・

 とても寒い夜になった。めずらしく、街はうっすらと白くなった。
 次の夜はよく澄み渡った。月に触ったら、音がしそうだと思った。
 そしてその次の夜、郵便受けに、二通目の手紙を見つけた。盛岡の消印だけで、住所は書かれていなかった。

 来てくれて、ありがとう。
 手紙に、新幹線の時刻を書いたりして、ごめんなさい。本当は、ちょっと期待していたのです。顔を見たら、くじけてしまいそうだったけど。それでもやっぱり、最後に、一目だけでも、と思ってしまったのです。
 いつだって会いたかった。だけど言えなかった。あなたが仕事で活躍していけばいくほど遠くなった。
 ううん、違うな。あなたのせいじゃない。本当は、自分が怖いのです。あなたが消えてしまいそうな気がして。知らない人になっているような気がして。そんなはずはないのにね。わたし、自分の足で立っているつもりだったのに、ぐらぐらするようになって。そうしたら、あなたを感じとれなくなって。それが怖いのです。
 あなたが好きです。
 あなたと、確かに一緒の時間をすごした日々を、心と体に焼き付けておきたい。
 あなたに出会えてよかった。
 大好きです。
 ありがとう。お元気で。

・・・・・

 僕たちは何を得て何を失ったのだろう。

 今夜の満月はレモンのように浮かんでいる。
 君も、同じ月の下にいるはずなのだが。


〈了〉


<本作品は、下記のリライト企画に参加しています>


追記

 はじめて参加させていただきます。他の方がお書きになった小説をリライトする、という得難い経験をすることができて、とても刺激される時間でした。

 池松さま、ありがとうございます。

なぜその作品をリライトに選んだのか

 作品の中に、香り、が存在していることがとても印象的でした。
 「そのガムはオレンジの香りがした」というフレーズが、長いこと自分の中にあって、それがすっとはまるような気がして、書きはじめました。

どこにフォーカスしてリライトしたのか

その1:基本軸

 「一秒が永遠になるような恋を書きたくなりました」と仰っています。それを大切にしたいと思いました。できるだけ、原作の雰囲気を残して、表現も可能な限り残して、その中で自分に見えてくる映像を、あらわしてみようとしました。

その2:レモン

 出会った時の初夏のレモン。伊豆で感じた冬のレモン。別れの冬の日のレモン。本物のレモンは一度も出てきません。風が運ぶ彼女の香り、体を重ねた時の彼女の香り、ガムの香り。レモンは、僕にとって彼女の象徴で、作品の重要なエッセンスです。誤ってオレンジのガムを買ってしまった僕。レモンのガムが無いことに気づいた時、彼女を無くしてしまったことが怒涛のように現実として迫ってきます。


その3:最後の手紙

 僕の仕事は忙しくもやりがいがあり、自然と比重が重くなる。彼女のことは大切に思っていますが、一緒に過ごす時間というのは段々と減っていく。彼女は、仕事に邁進する彼のことが好き、でもそういう人とはたくさんの時間を共有することができないという矛盾。ずっとこのペースで付き合い続けていくのは、あるいは結婚するのは、自分には無理だと思ったのでしょう。お互い好きなまま、嫌いになっていないのに、別れてゆく。せつないですね。僕は、彼女がずっと悩み苦しんでいたことに気付いていなかった。彼女の長い苦しみと、僕の当日の激しい苦しみとは、それで釣り合いが取れるのかも。
 だから、手紙の最初も最後も「ありがとう」となりました。どちらが良いとか、悪いとか、彼女は思っていません。なので「許してください」ではないかな、と。
 二人の人生はもう交わることはありません。でもそんな、苦味を知っている、素敵な大人に、僕も彼女も、なって欲しいなと思います。

その4:そのほか

 仙台だと東京から近いなあ、と思って、彼女には盛岡に帰ってもらいました。そうすると、さすがに新幹線じゃないときついかな。東北本線の方が叙情があって良いのですが、そのようなわけで新幹線になりました。

 別れのシーンは、夜の色。「クリスマス・イブ」を聴いてしまったので、雪の降る夜のイメージになりました。もう一曲、原作を読んでいると、「one more time, one more chance」(山崎まさよし)も聴こえてきますね。そうしたら、空にレモンを浮かべたくなりました。


 ありがとうございました。

 このあと、参加された方々の作品を拝見するのが楽しみです。



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穂音(ほのん)
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。