口述筆記―文章を紡ぐことの身体性と、『ライティングの哲学』
前回の記事では音声入力を活用してみた。
スマホに音声入力でバーっと話しかけ、それを手直しするという形だ。この試みに至った理由は2つある。
理由1 文章を作るということの身体性について
『脳には妙なクセがある』の書評をまとめる過程で、脳と身体の関係に気を配りたいと思うようになった。
これまで、脳内に溜まったものをタイピングによって吐き出すという感触でnote記事を書いていた。ここで、文章を書くという行為の身体性について少し考えるわけだ。
自分は書くということで思考の整理をしてきたつもりだし、それによって実際にアタマがスッキリとしていったという手ごたえも持っている。
一方で、脳内に溜まっている雑然とした情報を、タイピングという形でアウトプットするのは生物としては本来的ではないだろう。
脳内にある思考をテキストとして引きずりだす段階において、身体と強く紐づいているのは、話すという行為だと思う。人と話すとき、自分に何が起きているだろうか。
誰かに自分の考えを説明するとき、自分は大きな構成を考えてから話すのではなく、即興で話している。しかも、自分の話した内容について、自分自身が聴き手となっているようなところもある。自分の発話について自分で考え、自分で勝手に気づいて軌道修正をして…というようなプロセスをたどっているようだ。
これって、文章の構成を考えるプロセスと似ているのではないだろうか。だとしたら、文章の概略をダーっと口述筆記で作ってしまい、それを眺め、手直しをするような方法は有効ではないか…
こんなことを考え、試してみたくなったわけだ。
理由2 『ライティングの哲学』
もう一つの理由は、フォローしている方の記事で紹介されていた『ライティングの哲学』の影響だ。まだ半分しか読んでいないが、なかなか面白い。
文章を書くためのツールの話をしようと集まった4名が、文章を書きあげることの難しさについてどっぷり語りあうような形に脱線していく。
たびたび語られるのは、文章に取り組む過程で生じる視野狭窄についてだ。
ほとんどの書き手は「自分にはもっと論理的で優れた文章が書けるはず」という幻想を抱いている。自分自身への期待値調整を誤っているのだ。その状態で、実直に文章を書こうとすると、書けなくなってしまったり、非効率なまでに細部を調整しつづけるような帰結を生む。多くの書き手が、このことに苦しんでいるのだ。
このようなことを共有しつつも、4名はそれぞれの方法論に基づき、アイディアを出したり文章の完成度に対して妥協をしようと試みる。
完成度の妥協について、一番の味方は皮肉にも〆切だったりするのだが、それ以外で面白かったのが、庭師でもある山内氏の発言だ。
庭に石を組むための平安時代の指南書には「まずいろんな石を集めてきて並べてみろ、そこからいい感じのを一つ立ててみろ」とあるそうだ。最初の石を立てると、その石が次の石を、さらに次の石を要求していく。こうして、気づけば最初の石が自動生成を導くのだと。
確かに、文章を構想している段階でも似たようなことが言えそうだ。文章を書く前には、可能性は無限に発散している。あれも書ける、これも書けるという感じだ。
「手を付けるまえにアウトラインを慎重に練る」という姿勢は誠実に見えて作業の泥沼化リスクをはらんでいるのかもしれない。
だからこそ、キーとなる内容をとにかくポンと置いてしまい、その内容が要求するものを考え、肉付けていくというのはいい書き方なのかもしれない。
このような対談を読んでいくことで、文章の書くという営みをスムーズに行っていく手立てについて、自分の考えも進んでいった。大まかには、以下の3点が重要なのではないか。
①「書くべきものを持っている自分」を作っておくこと
②書くという営みにスムーズに入れる方法論を持っておくこと
③視野狭窄に陥らないような方法論を持っておくこと
ここで、②のステップに口述筆記が有効かもしれない。とにかく、マイクボタンをタップしたスマホの前で「えー…」と語り始めれば、完成度はともかく文章は進んでいくだろう。さらに、その口述筆記を修正・編集していく過程は、自分のアウトプットを客観視するプロセスでもありそうだ。
それに、ちょうど今読んでいるあたりで、著者の千葉雅也氏も口述筆記を試しているという。
ということで、試してみようと思ったのだ。
手ごたえ
さて、手ごたえはどうだったか。ここまで書いてきておいてなんだが、実はよくわからない。というのも、先の記事については自分の読書メモ(excelファイル)が一度書かれており、それを眺めながらの録音だったからだ。
異常にスムーズに書きあがってしまったが、口述筆記の威力を測る実験台としては単純に不適だったという気がする。
いくつか、書きかけで止まっているテーマがあるので、またそちらの方で試してみよう。
しかし、それらについては、自分の中でそもそも思考が煮詰まっていないのが原因とも考えられる。そういう場合に必要なのは、諦めて今できるアウトプットをすることではなく、思考を煮詰める事だろう。思考を煮詰める段階で活躍するのは、口述筆記ではなくメモのツールをうまく運用することだったりするだろうというのが、ライティングの哲学を読みながらの今の所感である。
ヘロヘロした内容で恐縮だが、記事の出来に見切りをつけて終わらせることもまた、重要なスキルらしい。この記事はここで終わりとしよう。
※ ちなみにこの記事は口述筆記ではなく、タイピングによるものだ。なぜなら、家族が寝ているからである。口述筆記にも意外な弱点があるものだ。