雑感:藤本タツキ『さよなら絵梨』

ルックバックにつづいて、またもや単行本サイズの読み切りが世に放たれた。次の連載の準備期間ってバタバタしてるんじゃないのか。なぜこんなことができるんだ。

せっかくだし、他人の考察を巡回するまえに雑感をダダダっと書いておきたい。作者の映画好きと絡めた指摘などは大量にされているだろうし、個人的にポイントと思った部分だけにフォーカスして書きたい。

なお、ネタバレは自重しない。







意味のある爆発オチ

一般に、爆発オチというのは、物語が収集不能になったときにヤケクソで行うものだろう。実際、作中の一つ目の爆発オチにはそんなニュアンスがある。

母親の死をカメラに収めれば作品として完結したはずだ。それでも、主人公はその場に立ち会うことができなかった。それは悲しみと向き合えなかったのかもしれないし、毒親気味だった母親への複雑な感情があったのかもしれない。

とにかく、母親の最後の映像というピースが無いことを逆手にとり、主人公は爆発オチをしかけ、酷評される。映画の視聴者にとって、ストーリーの流れを暴力的に断ち切る行為は裏切りに等しい。怒られて当然だ。やはり、爆発オチは逃げなのだ。

しかし、ラストページの2回目の爆発オチは、単なるヤケクソ以上のニュアンスを含んでいる。複数の解釈が可能なように演出されており、単純に「逃げだ」と批判できない奥行きがあるのだ。ここではパッと思いつく3つの解釈を書いてみよう。

①喪失からの回復

絵梨が死んだあと、主人公は絵梨の映画を編集し続けていた。これを、「恋人を失った喪失感から一向に抜け出せていない」という描写だと解釈するなら、最後の爆破は、その喪失を吹っ切ってみせたという描写になる。

②ギャグ

いわゆる天丼ギャグとして受け取ることも十分可能である。藤本タツキが物語を再び放り出し、唖然とする読者の顔を想像して「やってやったぜwww」とほくそ笑んでいる。そんな可能性だってあるだろう。

③表現者へのエール

個人的に、これが本命の解釈だ。

1作目、死と向き合わずに爆発オチに逃げ、酷評を買った。しかし、少なくとも上映前の主人公は満足していた。

2作目で、絵梨が死ぬところまでを撮影しきり、今度は好評を博した。しかし、主人公はその映画に対して「何かが足りない」と思い、延々と編集を続ける。それこそ、結婚しても、娘が出来てもだ。

その、足りなかった何かが、最後に「ひとつまみのフィクション」だとわかる。だから主人公はそれをやってのけるのだ。

つまり、映画の視聴者の注文に合わせて「ウケる」ように作るか、他人の評価に振り回されず思うように作るかの分岐が描かれているのである。そのうえで、一般には受け入れられないとわかっている爆発オチを再度つきつける。

これはもう、藤本タツキが「ウケを狙って作風を調整するんじゃなくて、思うようにやるぜ」と宣言しているか、あるいは「みんな読者や視聴者に迎合しなくていいよ。思ったように描こうよ」とエールを送っているのではないだろうか。

きっと、どれが正解ということもなく、①~③のいずれも作者の意図の範囲内なのだと思う。④や⑤もあるかもしれない。

このように、ラストシーンについては、確かに爆発オチなんだけど、安っぽく感じないという不思議なテイストがあるのだ。

ひょっとしたら、「爆発オチで何か面白い、中身のあることができないかなぁ」なんてチャレンジ精神で始まっているのかもしれない。そう思った。

藤本タツキの作品論?

主人公が絵梨に特訓されるシーンが示唆的だ。映画を観ては感想を書くというトレーニングをさせられる。

これはきっと、作者自身の下積み時代の経験をダブらせているのだろう。もしかしたら、主人公と絵梨のやりとりには、藤本タツキと担当編集のやりとりが反映されているのではないだろうか。

他にも、父親のセリフのなかにも、作品論のようなものがいくつか見受けられた。

そういえば、前作のルックバックでも「マンガ家をめざして愚直に書き続ける背中」が印象的に描かれていた。さらに、主役の「藤野」と「京本」は、藤本の苗字を1文字づつ含んでいてなんとも示唆的だ。

ひょっとしたら、藤本タツキは、自分なりの物語論とか、マンガ家としての理想論を書くことにチャレンジ中なのかもしれない。そして、それをインタビューとか自伝のような形式で発表することを好まず、一連の読み切りの中に散りばめていくことで伝えていこうとしているのではないか。

そんなことを考えたのであった。