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ないぞう

 化学教師の柏先生は暗がりにあるうろのような目を持っていて、そのせいか周囲には常に、言外に人を遠ざけるような雰囲気が付きまとっていた。
 美術室で沈黙する石膏像のような、公式通りの端整で無駄がない顔立ちは、目元の深い隈に汚されてなんとか存在することができている。正されているところなど見たことがない背筋と、成人した男性にしては細すぎる後ろ姿にはなにか哀愁のようなものが漂い、しかし先生はこれっぽっちも気に留めていないようだった。
 ざっくばらんな短髪に見合うひどくハスキーな声質を持ち、授業中は下手くそな腹話術のようにノロノロと取り留めなく話をするので、同級生達からはすこぶる評判が悪かった。けど、僕は好きだった。成績が悪かったので受けさせられた夏休みの追加講習で、うだる暑さの化学室の中肩肘に頰を預けながら聞いた先生の声は、この世のなによりも透き通っていたので目を見張ったのを覚えている。先生の良さはこの学校で僕だけが知っているのだという優越感は微炭酸のような心地良い刺激があり、その刺激を覚えてからは、クラスメイトの先生への陰口を聞くたび頬肉の繊維がだらしなく綻んだ。

 化学室は校舎のいちばん上のいちばん端に位置している。歴史を感じる木製の机には薬品の匂いが染み込んで、この空間を何十年前からそのままに保つ、防腐剤のような役割を忠実に果たし続けている。放課後、僕はなにかと理由をつけてはそこに赴き、柏先生の隣で自習をした。家に帰りたくなかった。父親は酔うと暴力を振るうひとで、見兼ねた母に逃げられたあとは僕がその標的になっていた。なにか心の奥底で柏先生へ助けを求めていたのかもしれないけど、先生はその期待をやすやすと通り抜けるように自分からは一言たりとも言葉をかけて来ず、逆にそれがおのれの存在価値の存在を生まれて初めて否定も肯定もされなかったような心持ちで、安らぎだった。

「暑いですね」
「うん」

 高二の夏休み直前、いつもの放課後の化学室で、ぶっきらぼうな返事がセミの鳴き声をバックに飛んできた。カツカツと黒板に叩きつけるチョークの速度は寸分たりとも緩まず、教室内のぬるく湿った空気を振動させ続けている。
 柏先生は表情の変化に乏しい。だというのに、彼を纏う雰囲気の種類は妙に豊富だ。陶器のような安心感を醸す時もあれば、まるで木像、木彫りのクマみたいないかつさと愛おしさを全身で表すこともあった。
 柏先生には内臓など無いんじゃないかと思わせるような、育ちの悪い所作からくる美しさが、節々から感じられる。十センチの至近距離にいても、生の匂いはおろか気配すら感じられない。先生の体を二つに割ってもきっと打ちっ放しの冷たいコンクリート壁しか出てこないと思うと、妙に興奮した。
 先生はコミュニケーションが下手で、そこが僕を惹きつけた。いつだって先生との情報交換は左右対称でなく、不平等な貿易だ。ばか騒ぎをするクラスメイトとの会話より、よっぽど正しい本来あるべき形に見えた。


 夏休みも中盤のころの深夜、父はひどく酔っ払いながら帰ってきて、寝ている僕の右頬を三発、それと腹をめためたに殴り、泣いて僕を抱きしめながら「お前は母さんに似てるなあ」とか細い声で言った。僕の華奢で女々しい体ではまるで身動きがとれず、うっう、と途切れ途切れに嗚咽するその雰囲気と、左の首筋を生温く湿らせる父の涙とを、力なく享受せざるを得なかった。しばらくするとがくりと強張りが抜けたのを感じ、こんな家に居てはいけないと思って何も持たず家を飛び出した。
 外では弾けるような強い雨が降っていた。黒いコンクリートを滑る大量の水滴は、どことなく波に似ている。パジャマ代わりに着ていたワイシャツは水分を吸って柔らかく体の芯を冷やしていた。あてもなく歩くと、いつものくせで学校に着いた。


 化学準備室では、柏先生が死んだように寝ていた。雑にけばだった毛布を被り、いつも通りの白衣を着ている。真夏だというのに随分暖かそうな格好を不審に思い、わずかに露出した皮膚へ指をあてると、なるほど、思わずその手を引っ込めてしまうほどに冷たい。吸い寄せられるように隣に横たわると、静かな室内に内臓の活動する音が聞こえて、気分が悪くなった。柏先生にも内臓はあるのだということを、その時初めて知った。

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