傷薬
鎌田さんの家の庭にはひょろひょろのアロエが植えてあって、私はそれをなんとなしに観察したことがある。大部分がのっぺりとした緑色で、先端のみが焦げたように黒ずみ尖っていて、果肉は透明。だからといって必ずしもすべての要素が澄んでいる訳ではなく、ぐじゅっといった具合に崩れて露呈した果肉の表面には埃やゴミが付着していたり、羽虫がその瑞々しい粘液を我が物顔で啜っていたり、結構散々だ。
重力に従って地面に落ちた果肉に数匹の蟻が群がっている。そのうち列を形成し、どこかへと運んでいく。
そのアロエは縁側の近く、朝晩関係なく日陰になる所にひっそり自生している。陽の当たらないせいだろうか、全体的な主線が細く、老人の指のようにあやふやな繊維をしている。植物には無表情が付き物だが、それが甘んじて自然たちからの暴行を享受していたためか、どことなく寡黙で優しい印象を受けた。
「動いちゃだめよ、圭ちゃん」
ぼんやりとアロエを見つめていたところに鎌田さんの声が聞こえて、視覚に占領されていた集中力がふっとほどけた。音もなく隣に座り、末端冷え性の指先が伸びて右手首をするりと捕まれられた。どうやらやけどを治療するために包帯を外したいらしい。私が嫌がることを見越してか、許諾を求めず勝手に外そうとしていることに気付き、慌てて口を開く。
「あー、大丈夫です」
「駄目」
有無を言わさない語調で両目を見つめてくる鎌田さんに気圧されながらも腕を引っ張るが、離してはくれない。いつもの彼女はか弱いのに、こうと決めた時は力強くて叶わない。
数秒の沈黙を蝉の声が引き立てる。掴まれた右腕に意識を向けているからか、やけどは鋭い痛みを発し始めている。その信号はすみやかに体全体を包んでひんやりとした緊張感を帯び、やがて汗腺に呼びかけてべたついた嫌な汗を生む。
「あの……申し訳ないんで。家上がったうえに、看病なんて」
「いいの」
けーちゃん、と呟きながら包帯に手を伸ばされて、ぞわりと背筋が逆立った。
制服スカートの下の短パンが汗ばんだふとももにくっついて嫌に痒い。腰を持ち上げようとしても、なぜだか力が入らなない。この顔をした鎌田さんに勝てた試しがない。けれど目をそらす気にもなれず、無言の向き合いの末に、伏せがちな両目と長い睫毛を薄く潤ませながら、もう一度彼女は口を開いた。
「ね、圭ちゃん、綺麗にしよう?」
─
鎌田さん家の庭には、アロエのほかにも柿の木がある。いたって普通の風采だが、本当によく実をつけることを私は知っている。それはそれは夕焼けのような、濃密な橙色の柿がたくさん、細枝をしならせるように成る。
けれど私はそれを一回も食べさせてもらったことが無い。今までの何回かの秋に、食べてみたいですと伝えたことがあるのだけど、鎌田さんは困ったように笑いながら「あれは美味しくないのよ」と言って、代わりに冷蔵庫からあまい果実を持ってくる。ひんやりとした艶やかなそれにフォークを突き立て咀嚼しながら、ぼとりと地面に落ちた蛍光の柿の実の行末を横目で見つめる。数匹の蟻が集ってせわしなくどこかに運び出している。
「圭ちゃん、じっとしてて」
もぐもぐと動かしていた口を止めて、言われた通りにしながら両目をつむった。頭上に影を感じて反射的に筋肉を硬ばらせる。頬にひっついたテープと湿布を慣れた手つきで優しく剥がしながら、鎌田さんは、細いうめきを喉から漏らした。
「そんなにひどいですか」
「うん。紫色になってる。私のみたいに、痕にならないといいんだけど」
鎌田さんの首にはずっと前から薄黒い痕がある。
ぺりぺりと新しい湿布を剥がす音が聞こえる。ひんやりした感触。秋の夕暮の風に乗せられて、メンソールのすっとした香りが鼻腔の奥まで届く。
あとで鏡で確認すると、鎌田さんのテープの貼り方はとても丁寧で、自前の治療がひどくお粗末なものに思えた。まず指の細さから違う。鎌田さんがピアノを弾いたら、きっと軽やかで素敵だと思う。
─
その日の夜は酔った父親からひどく殴られて、遂にはビールの瓶なんかも持ち出したので、あわてて逃げ出して鎌田さんの家のチャイムを押した。
鎌田さんはまだ起きていて、びっくりした顔をしながら入れてくれた。暖房が効いていて家の中はとても暖かい。まだ怒号がこびり付く脳内に怯え、声を殺して泣きながら、いつものように治療をしてもらっていると、鎌田さんは不意にふふっと笑って「最初に会った時みたいね」と言った。
初めて彼女に会ったのは私がまだ小学生だった頃のことだ。同じように暴れて暴力を振るう父から逃げ、深夜の住宅街をあてもなくうろついていた時だったと思う。今日と同じような、雪の積もるひどく冷えた冬の夜だった。あの時鎌田さんの家で飲んだ、あたたかいコーンポタージュの味。
父は母が死んでからおかしくなった。旦那さんを亡くしたという鎌田さんは、まるで母の代わりのように、なにも聞かずに親身にしてくれた。
「あの頃とおんなじ、男の子みたいな髪」
さらりと髪を一掴みする。きめ細やかな親指のはらでで涙を拭ってくれる。後ろでドンドンと、しつこく不規則に扉を叩く音が聞こえた。落ち着いた声で「安心して」と言う鎌田さんの目は、ドアの方を見てじっとりと据わっていた。
レジャーシートでぐるぐる巻きにした父親は案外小さくて驚いた。
あの狂ったように暴れまわるエネルギーはどこに行ってしまったのか、人間というのは不思議な生き物で、いまはただ真っ白な顔でだらしなく目を閉じている。
深夜のうちに柿の木の下を深く掘って埋めた。結構骨の折れる仕事で、朝日が顔を覗くまで作業は続いた。ヘトヘトになったそのあと、鎌田さんの提案で旅行に出かけることにして、始発の電車に飛び乗った。
「グリーン車なんて初めて乗ります」
「ふふ」
コンビニで買ったサンドイッチを食べながら次々移りゆく景色を眺める。窓を少し開けると潮風が入ってきて、肌を撫でる。やっと自由になったと思った。そして、これからもずっと自由だろうと、なんとなく確信した。
事実、旅先の海街に二人きりで住むことになったが、邪魔な追っ手が来ることは本当に一度もなかった。鎌田さんはピアノを弾きながら暮らした。私はずっとそれを聞いていた。