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神的な光を人間化する(『もしかして聖人』論)

聖人の誕生

 『もしかして聖人』の主人公イアン・ベドロウはいい奴だ……悲しいくらいに。「悲しい」と留保をつけたのは、作品のいたるところで、イアンがのめり込む贖罪のふるまいに、周囲の多くの人々がたじろぎ、そうしたふるまいによって、イアンが崇高な聖人に変貌しつくしてしまうことを防ぎ止め、愛すべき悲しい人間の領域に繫ぎ止めているがゆえに、あえて「悲しい」という言葉をイアンに差し向けるのである。作者アン・タイラーによるタイトル『もしかして聖人』(原題は『Saint Maybe』)の「もしかして=Maybe」は、彼女がイアンの人生をあくまでも世俗の世界に留まらせたいという願望の証であろう。

 「世俗の世界」をひとまずは「共同幻想」と呼んでおくことにする。それに対してイアンが囚われている贖罪のオブセッションを「自己幻想」あるいはもう少し拡大して「対幻想」ととらえることにする。これらはもちろん吉本隆明の用語だが、私は私なりに拡大解釈して用いている。たとえば、吉本の「対幻想」は、私の推測では、ヘーゲルの家族観「愛とは総じて私と他者が一体であるという意識のことである。だから愛においては、私は私だけで孤立しているのではなく、私は私の自己意識を、私だけの孤立存在を放棄するはたらきとしてのみ獲得するのであり、しかも私の他者との一体性、他者の私との一体性を知るという意味で私を知ることによって、獲得するのである」(『法の哲学』)という考えから着想しており、ゆえに性的なものを多く含む概念としてあるが、私はこの概念を丸山真男が国家(共同幻想)に対抗するものとして見出す「自主的結社」や「市民社会」にも当てはめている。というよりも、そちらのほうにより多く重点を置いている。『もしかして聖人』に登場する「セカンド・チャンス教会」もこのカテゴリーにはいる。話が長くなるので、ひとまず「対幻想」の説明はこのへんで切り上げて、イアンのことに戻ろう。

 イアンは、もともとは、けっして宗教的な人間ではなかった。1965年から1989年にわたるイアンの人生を描いたこの物語の始まりにおいて、「そのイアンも今では十七歳になり、ほかの家族と同様、骨太の体格とハンサムな容貌と誰ともすぐ友だちになるおおらかな性格に恵まれ、楽しく暮らすのが大好きな若者に成長して」おり、「学年一の美人」のガールフレンドもいた。そのような素朴な若者が「聖人」に変貌するのは大好きな兄の死がきっかけだった。「小さいときから崇拝してきた兄」であり、「自分がついに女の子と寝たこと」を知らせたいと望んでいた兄だった。

 兄のダニーは勤め先の郵便局に利用客として訪れたルーシーと恋に落ち、即座に結婚することになるが、ルーシーには離婚歴があり、なおかつ連れ子が2人もいた。教育者の家系であるベドロウ家の反応は、なかなかユーモラスに描かれていて、作者の筆さばきは見事である。アン・タイラーの小説の醍醐味は、観念に走ることなく、日常の小さなひとコマひとコマを独創的に丁寧に積み上げてゆく。「紋切り型ではないあるあるネタ」とでも言うべきデティールのこれ見よがしではない輝きがいたるところにちりばめられていて、この輝きがアン・タイラー作品の主要な魅力と言っていいほどである。

 たとえば、ダニーとルーシーの間にダフニと名づけられる女の子が生まれた時、「七か月」で生まれた赤ん坊にしては体が大きい事実を前にした姉クローディアの思わせぶりな目配せや、ルーシーのミステリアスな側面にイアンが疑惑の方向へと誘導されてゆく叙述、そしてガールフレンドとの初体験計画の夜、ルーシーにベビーシッターのアルバイトを頼まれながらも、予定の時間にルーシーが戻らず、その計画が台無しにされつつあるイアンのフラストレーションが更新されてゆくさまの描き方など、実に上手い。このイアンのイライラ感という布石があるからこそ、兄の死がやるせない重みとして立ち現れるのだ。童貞喪失という記念すべき夜を台無しにされたイアンは、兄に対して理不尽な怒りをぶつけてしまう。

「ちぇっ、兄さんは目が見えないのかよ」イアンは声を荒げた。
ダニーは目を丸くして、きょろきょろあたりを見まわした。「見えないって?何が?」
「ルーシーはしょっちゅう出かけてるんだよ!誰といっしょか、考えたことないの?」
「まさか、僕は……」
「それにさ、あの赤ん坊どうなんだよ?」
「赤ん坊?」
「だって、未熟児だったんだろ?よく考えてみなよ。未熟児にえくぼができる?」
ダニーはぽかんと口を開けた。
「二ヶ月も早く生まれたのに、ふつう呼吸できるか?保育器もいらない、どこにも異常がないなんてさ?」
「あの子は……」
「ほかの誰かの子だってことだよ」
「何だって?」
「兄さんはいつまでカモにされてるつもりなのかね」
ダニーはウェイヴァリー・ストリートの角を曲がり、家の前に車を停めた。エンジンを切って、イアンのほうを見た。すっかり酔いも覚めたらしい。「何が言いたいんだ、イアン?」

『もしかして聖人』

 これが愛する兄との最後のやりとりである。この直後車を急発進させたダニーは事故を起こし、そのまま帰らぬ人となる。事故発生時バスルームの鏡に向き合っていた「イアンは自分の目をじっと見つづけた。目を逸らせないような気がした。まばたきもできず、わずかでも動けば再び時間が転がりだすような気がして、身動きもできなかった。もう人生が今までと同じではないことが、そのときすでにイアンにはわかっていた」。このようにして第1章は終わり、次いでイアンの長い長い試練の人生が始まる。

いかにして聖人は生き延びるか

 次の章は残されたルーシーと3人の子どもたち(アガサとトーマスとダフニ)の崩壊してゆく家庭の様子が、これまた生々しいディテールを積み上げて描きだされ、胸がしめつけられる。ルーシーは意志薄弱な女性で、育児放棄の典型である(のちにルーシー自身大酒のみの両親のもとで育ち、引き取られた叔母からもネグレクトされたことが判明する)。結局ルーシーは薬物の過剰摂取で死亡し、イアンは子供たちを引き取る決意を固める。同時に彼は「セカンド・チャンス教会」に所属し、大学をやめ、家具職人に弟子入りすることになる。作品中幾度か言及されるように、イアンの職業は大工だったイエスと重ね合わされている。とはいえ、神学論争があるわけではなく、遠藤周作の『沈黙』のように神の不在の意味を問うわけでもない。観念の世界に上昇することは一切なく、たとえば家具を作る時の材料の手ざわりや肉体が蒙る火照りとか、具体的な生活の一断面に密着してゆくことにアン・タイラーは徹しきっている。教会につきものの「悔い改め」の時間においても、ダフニは「木曜日、姉のブラジャーを盗んで、体操の時間につけてゆきました」と懺悔し、あくまでも日常の地平が消滅することはない(それにしてもよくこんな台詞思いつくなあ)。

 観念と具体の対立と共存の関係を、あるいは世俗の中の崇高を、絶妙なバランスでアン・タイラーは描いてゆく(「もしかして聖人」という言葉のように)。イアンの身分が大工に設定されていることはイエスの暗喩であると同時に、芸術家の物語を回避する正当な知恵のようにも思える。世俗と対立する芸術家=聖人という回路を作者は聡明に斥けている。おそらくこの回路においては、たとえば、福田恆存が口にした「99匹と1匹」という物語が作動する。政治は99匹の側につくが、文学(芸術)は100匹の中の1匹の側につく、という崇高なる物語のことである。この物語はそれなりに今でも有効性を発揮するとは思うが、私はむしろ「51匹と49匹」という世俗的な、あるいは政治的な物語に切実な関心を寄せる。真理が無効にされたポストモダン状況においては真理の名において価値は判定できず、あくまでも数的優位によって価値が支持される。51の側に属そうと願うのが現代人のふるまいである(ケインズが「美人コンテスト」の喩えで示したように)。「51」が「共同幻想」となる。「49」の側、ちょっと数が多いように思えるので、マックス「30」ぐらいにしておこうか、こちらが「対幻想」である。マジョリティに対するマイノリティ。私が現在「対幻想」に深い関心を寄せるのは、世俗の空間においてのマイノリティの政治的位置に関心があるからである。世俗の中で30個の座席を確保しろ、というのが私なりの文学の動機である。結局ラカンに関心があるのも「大文字の他者」と「小文字の他者」という心理機制におけるマジョリティとマイノリティの関係に興味があるからである。「大文字の他者」と「小文字の他者」の関係の力学が変わる時、社会も変わるだろう。

 では世俗空間の聖人はいかなるものか。イアンをめぐる世間の人たちの反応は、というと。

 後悔なんか忘れてしまうのよ。それを乗り越えて、先へ進むのよ。自分の人生を無駄にするという罪を犯してはいけないのよ。

 どうして何もなかったことの償いを続けるの。何もなかったのよ。お母さんが請け合います、何もなかったのよ。絶対に、どうしてあんなバカなことをいつまでも信じ続けるの?

 イアンも自分が変わり者に見られていることは知っていた。二、三年前、たまたま悩みを抱えていたグレッグに、セカンド・チャンス教会のことを話してみるという間違いを犯した。それ以来グレッグはイアンと距離を置くようになり、ほかの職人たちにも耳うちしたのだろう、誰も近寄らなくなった。

 世間の半分は、近所で落ち葉をはき集めている宗教がかった連中なんか見たくもないのよ。

 ほかにもイアンのやることで悲しくなることがたびたびあった。イアンは少しズレていた。ジョークもズレていたし、宗教がかった言葉で知らない人を警戒させたし、着ているものもタイムワープしたみたいにあまりにも子供っぽすぎた。彼らはイアンが大好きだったけれど、辟易することもあった。他人がイアンに対してどんな反応を示すか注意しながら、イアンに代わって反撃してやろうと身構えていた。

『もしかして聖人』

 どうにも分が悪いのだが、アン・タイラーは、聖人を残酷に孤立の彼方へ追いやることには加担しない。肉親や同僚との間で行き違いがあるとしても決定的な分裂や崩壊が演じられることを回避し、小さな共同体(対幻想)だけは守ろうとする。じっさいベドロウ家の人間はだれ一人として崩壊の危機を迎えることなく、その空間を持続させることに成功している。

 ダニーとルーシーの婚約発表と彼らの子どもの誕生に始まったこの物語は、最終章ではイアンとその妻(その人物は予想外の女性!)の間の第一子誕生とトーマスの婚約発表が語られる。幼くして両親を失い、犯罪か薬物に手を染めてもおかしくはないルーシーの子どもたちは、たとえばトーマスは名門コーネル大学を出てインテリ・ニューヨーカーとなるのだし、「毎朝一人で学校へ行き、友だちもいない」「青白い顔をした勉強家の女の子」としてつらい思春期を送ったアガサは大学院医学部を出て、ロサンゼルスの腫瘍専門医として稼ぎまくり、金を使う時間がないから、ダフネにその気があるなら大学の学費を払う、とまで言い出す大出世を遂げる。しかもアガサは、妹ダフニに「姉はどうやってこんなハンサムな男をつかまえたのだろう」と不思議がられるほどの同じく医者を職業とする男と結婚していた。いくら何でも出来過ぎだろう、と思わせられつつも、アン・タイラーの巧みな作術によって受け入れてしまう。強すぎる光や底なしの闇が、「Maybe」の力学によって中和化され、ほどよい適温の環境が作り上げられる。知恵としての「Maybe」は、次のようなエメット牧師のエピソードに象徴される。

 ある人物に自宅に招待された牧師は、そこで結婚五十周年用の記念のワインを、妻を亡くして共に飲む相手がいないから是非一緒につき合ってくれと、頼まれる。ところが「セカンド・チャンス教会」には「アルコールの規則」があり、飲酒は禁じられている。牧師は窮地に立たされる。

 私は、<アルコールの規則>は自分のためのルールだと思っていました。自分と神のとの間にある障害を取り除くためのルールだと。ところが、そのワインを飲むことはほかの人間に対する贈り物であったのです。それを辞退することは傲慢となったでしょう。私はその家から帰るとき、この点がまったく感心できないことなのですが、何か口をすすぐものが欲しいと思ったのです。途中で教会の会員にばったり会ったらまずいと。しかし、私は思いました。「いやいや、それこそ、自分の神との間の障害になるものだ」と。そして、酒の匂いをぷんぷんさせながら通りを歩いて帰ってきました。

『もしかして聖人』

 これには宗教にシニカルな視線を向けているアガサも大受けし、「白い顔がピンクに染ま」るのだが、イアンの師であるエメット牧師は、アン・タイラー作品の風土にふさわしく、率先して「Maybe」の美徳に染まっている。聖人(Saint)の栄光と悲惨は斥けられ、Saint Maybeの「騒ぎたてるようなこと」じゃない喜びと悲しみが、穏やかだが粘り強いリズムを刻んでいる。そのリズムを支えているのは「対幻想」の力にほかならない。

 イアンを見ていると、その宗教的な言動が周囲を戸惑わせてきたジョージ・ハリソンのことが思い浮かぶのだった。ジョージと言えば「マイ・スィート・ロード」だがここではその次に発表された「美しき人生」。

 さらに静岡県のバンド・SMILEの連中のTシャツにジーンズ、スニーカーといったファッションが素朴なイアンに似合っていて、歌詞の内容も実に素朴な「明日の行方」。

 最後にイアンのハッピーエンドを祝して、ジョー・ジャクソンとエレーヌ・キャスエルのデュエット・ナンバー「ハッピー・エンディング」(大きな帽子が印象的なエレーヌのインパクトがイアンの結婚相手のイメージに重なるように私には感じられる)。


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