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氷原からの言葉・石原吉郎

天使・認識者・単独者

 『石原吉郎セレクション』を編んだ柴崎聡は、「石原のエッセイの特徴は、多用される漢字語の硬質性にある」(『石原吉郎セレクション』解説)と言っている。そしてまた、柴崎は「エッセイの水源には、確かにシベリヤの強制収容所体験があるが、それ以前にキリスト教と聖書がある」(同上)とも言う。石原吉郎の書いたものを少しでも読んだことのある人間には至極当たり前のことであろうが、なぜこんな当たり前のことを改めて言及したかというと、昭和30年代から50年代にかけて書かれた石原の言葉と私たちの言語環境とがあまりにかけ離れていることを確認したかったからである。石原が発した言葉は、私たちの日常的な身体とうまく接してくれはしない。そもそも石原は日常から根こそぎにされてしまったがゆえに、「かつて人間であったという記憶は、しだいにいぶかしいものに変わって」(「強制された日常から」)行った、という苛酷さを経験しなければならなかった人間である。石原自身が痛感し苦しんだように、石原と私たちの間で共有され交感されうるようなものは、ほとんどないであろう。石原はシベリヤおいて、日常人としての「もっともよき」部分を根こそぎ奪い取られた人間である。「すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった」(フランクル『夜と霧』)ように。

 では、石原吉郎とは、いったい、何ものであるのか。私は石原の言葉を読むと、1987年の映画『ベルリン・天使の詩』(ヴィム・ベンダース)に登場する印象的な天使の姿を思い出さずにはいられない。氷りついた静けさの中で、上空から、人間たちの営みを悲しげな表情を浮かべながら見守っていた、あの天使の姿を(ブルーノ・ガンツがピタリと役にはまっていた)。天使は、人間たちの喧騒に満ちた世界を、生きることはできない。ただ見守る(認識する)ことができるだけである。

 私が無限に関心を持つのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立ち去って行くその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。
 そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。

「ペシミストの勇気について」

 通常であれば、「疎外」された者(今ならさしずめ「ぼっち」と侮蔑される)として「悲惨」の領域へと追いやられる「単独者」の姿に、ポジティブな価値が与えられている。なぜならばこの単独者は、汚辱に満ちた世界の悲惨さから自ら疎外されることによって、世界の悲惨さに加担することから身を引き離しているからだ。彼は悲惨さにコミットしない(できない)。その代わりに悲惨のありようを認識する。「ふりあげた鈍器の下のような/不敵な静寂のなかで/あまりにも唐突に/世界が深くなったのだ/見たものは 見たといえ」(「脱走」)という詩句にあるように、世界の禍々しさを、全身視覚となって認知するだけである。そしてこの時「ただ彼一人の<位置>の明確さ」だけが信ずるに値するものとしてある。ところで、石原の最初の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(1963年)の冒頭の作品は、文字通り、「位置」というタイトルを持つ。

しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
ひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である 

「位置」

 この作品の詩の言葉は、「声」と「敵」がならぶ同一の地平における「右」と「ひだり」を否定し斥けて、代わりに「勇敢な男たちが目指す位置」を「無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置」であると指し示している。具体的な場所としてイメージしにくい表現であるが、「空」「正午」撓んだ「弓」という言葉から察するに、おそらく、それは天空の一点であろう。地上から遊離して上空から見る、という天使のイメージがここでも確認されるのだが、もうひとつ注目すべきは、「挨拶せよ」という言葉である。世界への呼びかけとしてある「挨拶」が「最もすぐれた姿勢」であると定義されているのだから、それはほとんど倫理と同義であると言っていいだろうが、では石原的天使はいったい何に対して挨拶を送るのだろうか。おそらく、それは死者の固有名に対してである。

 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
(略)
 いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。

「確認されない死のなかで」

 固有名を持つ単独者。それこそが石原の倫理のアルファでありオメガである。「生においても、死においても、ついに単独であること、それが一切の発想の基点である」(「確認されない死のなかで」)。固有名は「単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒」むものとしてある。「数の連続性」を「疎外」としての「単独性」が撃つ。そのような独特な発想を石原は収容所での苛酷な体験、とりわけ「ただ被害的発想によって連帯し」、「人間の根源にかかわる一切の問いから逃避」(「強制された日常から」)するような屈辱的な体験を通して習得した。

 しかし、この平均化は同時に、囚人自身がみずからのぞんで招いた状態でもあった。ここではただ数のなかへ埋没し去ることだけが、生きのびる道なのである。こうして私たちは、個としての自己の存在を、無差別な数のなかへ進んで放棄する。

「沈黙と失語」

 「囚人」として「収容所」を生きなければならなかった体験から生まれた言葉を、現代の私たちはうまく受け止めることができないかもしれない。けれども無理やり接点を探ろうとするなら、「無差別な数」への埋没とは、今で言う「空気を読む」ことの強要に同意することと類似しているかもしれない。本稿は、現在ほとんど読まれなくなってしまった石原吉郎を「ソウル・シンガー」のひとりとして紹介すべく書かれ始めたが、それでは石原の経歴とは、具体的には、いかなるものであったのだろうか。

ラーゲリ体験者

 石原吉郎は1915年に静岡県に生まれた。1934年東京外国語学校ドイツ語部貿易科に入学後、『第二貧乏物語』を契機にマルクス主義の文献を渉猟、また校内にエスペラントのサークルを組織する。1938年大学卒業後、カール・バルトの『ロマ書』を読み、キリスト教に接近、のちバルトの弟子から受洗。1939年軍隊に招集され、翌年大阪露語教育隊へ分遣、そこで石原に多大な影響を与える鹿野武一(かのぶいち)と出会う。1941年ハルビンの関東軍情報部に配属され、以後ソ連軍に関する情報の収拾分析に携わるが、敗戦後ソ連内務省に連行されシベリヤに送られる。1946年チタを経てアルマ・アタの第三分所に収容。1948年にはカラガンダの日本軍捕虜収容所に収容。1949年中央アジア軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷に引き渡され、その年の4月、ロシア共和国刑法58条(反ソ行為)6項(諜報)により起訴、重労働25年の刑を言い渡される。東西両方面から到着した受刑者とともにコロンナ33へ移動、森林伐採に従事。1950年コロンナ30へ移り、流木、土工、鉄道工事、砕石に従事。1953年スターリン死去にともなう特赦となり、ナハトカから出国、12月1日日本に帰還。

 このような石原の特異な体験、とりわけラーゲリ(シベリヤ収容所)における苛酷な体験は、1970年以降に発表された『望郷と海』を始めとするエッセイ集や評論集のなかで明らかにされた。石原の8年にわたる抑留においては、石原の言う「淘汰」、すなわち人間性を捨てきれなかったお人よしからばたばたと死んでゆき、そのような世界のなかで肉体的にも精神的にも堕落し崩壊していく様が日常的に進行してゆく。収容所の苛酷さはアウシュビッツを描いた映画などで、ある程度馴染みがあったが、私が驚いたのは、囚人の苦痛には食物や飲み水をめぐる苦しみだけではなく、排せつにまつわる苦痛も存在するという事実であった。

 「ストルイピンカ」と呼ばれる囚人専用の輸送列車の中でのことである。石原たち囚人らは、刑務所から収容所へ送られるさい、3日分の黒パンと塩漬けの鱒を支給されたが、ストルイピンカに乗車する前に留置場ですべてを平らげてしまう。そのような行為はやってはならない過ちであったが、あとの祭りである。発車直後の猛烈な水への渇きで、2,3時間おきに回される3つのバケツは、囚人たちによって奪い合いとなり、石原は「ほとんど目がくらみそうであった」。やがて彼らは便所が24時間に1回しか許されないがゆえに、迫りくる便意に苦しまされ、「しだいに半狂乱に近い状態におちいった。こらえかねて留置室の床へ排便した者は、ただちに通路へ引きずり出され、息がとまるほど足蹴にされたのち、素手で汚物の始末をさせられた」のであった。わずか3日にわたる輸送の過程で、囚人たちは肉体的に疲労困憊するだけでなく、精神的にも摩滅させられ崩壊の際へと押しやられる。

 わずか三日間の輸送のあいだに経験させられたかずかずの苦痛は、私たちのなかへかろうじてささえて来た一種昂然たるものを、あとかたもなく押しつぶした。ペレス―ルカ(中継収容所)での私たちの言動には、すでに卑屈なもののかげが掩いがたくつきまとっており、誰もがおたがいの卑屈さに目をそむけあった。

「強制された日常から」

 私たちは三日間、汚物で汚れた袋からパンを出して食べ、汚物のなかに寝ころんですごした、収容所生活がほとんど無造作な日常と化した時点で、あらためて私たちをうちのめしたこれらの経験は、爾後徹底して人間性を喪失して行く最初の一歩となった。

「ペシミストの勇気について」

 収容所へ入所する段階で、石原の身体は深刻な疲労に晒されていたが、収容所での生活で石原はさらに未知なる異様さと出会うことになる。なにもそこにはドラマの題材となりそうな派手な地獄絵図が賑々しく展開されるというわけではない。むろん目を蔽いたくなるような悲惨な出来事もありはしたが、石原の精神に深刻なダメージを与えたのは単調な異常さの静かなる持続とでも呼ぶべき状態であった。

 強制労働の一日一日は、いうまでもなく苦痛であるが、しかもおどろくほど単調である。そしてこの単調さが、この異常な環境のなかへ、まさに日常性としかいいようのない状態を生み出して行く。異常なものが徐々に日常的なものへ還元されて行くという異常な現実のなかで、私たちは徐々に、そして確実に風化されて行ったのである。
(略)
 こうして、あきらかに失語状態といえる一種の日常性へ、私たちは足を踏み入れる。強制収容所の日常を一言でいうなら、それはすさまじく異常でありながら、その全体が救いようもなく退屈だということである。一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起こっていない」のである。
(略)
 強制収容所のこのような日常のなかで、いわば<平均化>というべき過程が、一種の法則性をもって容赦なく進行する。私たちはほとんど同じかたちで周囲に反応し、ほとんど同じ発想で行動しはじめる。

「沈黙と失語」

 収容所内にはそれなりの秩序が形成されていたが、それは囚人たちが徐々に「確実に風化され」、均されていったからであった。彼らは「単独な存在であることを否応なしに断念させられ」、単独性を喪失したがゆえに、本来的なコミュニケーションの意義をも失ってしまう。なぜなら「徐々に風化されつつあった私たちの姓名は、いつでも番号に置きかえうる」ような状態であったからである。このような「仮死状態」のなかで、彼らは言葉を失う、というよりは石原の言葉に従うならば、言葉から見放される。こうした失語状態のなかに均された彼らへ「規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従」であり、そのような「服従」において彼らの「平和」が形成され、「見た目にはあきらかに不幸なかたちで、ある種の均衡が回復する」にいたる。そうして石原は喩えようもない寂寥のなかへと閉じ込められ、ついには確固たる無関心の境地へとたどり着く。それは「ついにたどりつくべくしてたどりついた無関心であった」が、この無関心は「ささやかでやさしくあたたかな仕草ですべてをささえていた」のである。とはいえ、この無関心のなかに身を沈めることは致命的だといってよく、「実際にはそれが、ある危険な兆候、存在の放棄の始まりであることに気づいたのは、ずっとのちになってからで」あった。

 単独な存在であることを放棄させられ、単なる番号や数の状態に均され、制度にとって都合のよい秩序に服従させられる、そのような背筋が凍るようなむき出しの寄る辺なさには言葉を失うしかないが、石原がシベリヤでとらわれた凄まじい望郷の想いもまた、私の想像を超えるものであった。それは収容所に入れられる前、「ロシア共和国刑法五十八条六項」によって起訴され「重労働二十五年」の判決が言い渡された後の出来事である。

 正午すぎ、私たちは刑務所に収容された。この日から、故国へかける私の思慕は、あきらかに様相を変えた。それはまず、はっきりした恐怖ではじまった。私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」ことであった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや私たちを見ることを欲しなくなることであり、ついに私たちを忘れ去るであろうということであった。そのことに思い至るたびに私は、背筋が凍るような恐怖におそわれた。なんど自分にいいきかせてもだめであった。着ている上衣を真二つに引裂きたい衝動に、なんども私はおそわれた。それは独房でのとらえどころのない不安とはちがい、はっきりとした、具体的な恐怖であった。帰るか、帰らないかはもはや問題ではなかった。ここにおれがいる。ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書き記してくれ。地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた(七万の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した)。もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。望郷に代る怨郷の想いは、いわばこのようにして起った。

「望郷と海」

 石原が「確認されない死のなかで」に書きつけた「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」という言葉は、おそらくこの時の体験に根差している。私にはこのような地点まで追い詰められた経験はない。おそろしいほどに強度を漲らせた石原の言葉には戦慄するしかない。またぎりぎりの言葉に魅入られもする。極限状態の恐怖におののき、人間が崩壊するかもしれない決定的な光景に眩暈を覚えそうになる。だがしかし、その崩壊を堪え克服する人間の姿は、その眩暈を上回って、さらに崇高だ。石原が帰国後記した報告の記録は、石原の喪失と崩壊をかろうじて救ってくれたある一人の人物の言動を伝えている。その人物の名は鹿野武一である。

ペシミストを貫いた単独者

 「彼の姿勢を一言で言えば、明確なペシミストであったということである」と石原は鹿野武一について言明している。

 東京の兵舎で顔をあわせた後、石原と鹿野は別々の部隊に所属し活動していたが、1949年8月二人は再会する。その頃石原たちは、収容所の苛酷な環境によって、人間としては完全に均された状態にあり、ほとんど同じようなかたちで周囲に反応し、ほとんど同じ発想で行動していた。彼らは徹底した人間不信のなかへ閉じ込められ、シニカルかつ粗暴に振舞い、荒廃した状況におかれ、そのような自分を許容していた。

 このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。

「ペシミストの勇気について」

 鹿野武一の特異さの一つの例として、作業現場への行き帰りの行進における鹿野のとった行動がある。行進する時には囚人たちは必ず五列に隊伍を組まされるのだが、囚人の逃亡を防ぐために、隊伍の前後と左右に自動小銃を水平に構えた警備兵が並んで行進する。列から離れた囚人がいた場合には、警備兵は囚人をその場で射殺してもいい規則になっていた。じっさい行進中にしばしば囚人が射殺されたが、そのほとんどの場合は、厳寒で氷りついた雪の上でつまずくか足を滑らせて、列の外へよろめいたための不可抗力的な過ちによるものだった。それゆえ行進中の犠牲者は一番外側の列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って内側の中央三列へ割り込み、弱い者を外側へ押し出そうとする。「ここでは加害者と被害者の立場が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる」。

 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感をあたえたととしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。

「ペシミストの勇気について」

 石原は鹿野の行為に慄き、と同時に計り知れない勇気を与えられ、自分の身に起きた悲劇を自分に納得させる貴重な恩寵のようなものとして、そうした想いを鹿野に託している。

 いまにして思えば、鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった。彼の追憶によって、私のシベリヤの記憶はかろうじて救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心のなかを通って行ったというだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく私一人なのかもしれない。

「ペシミストの勇気について」

 また別のところでは、石原は鹿野のふるまいをキリスト教的な原罪意識と結びつけている。

 彼は強制収容という圧倒的な環境のなかで、囚人が徹頭徹尾被害的発想によって行動することにつよい疑念をもったにちがいない。被害的発想とは、囚人として管理されることへのそれであり、同囚の仕打ちに対するそれである。彼は進んで加害者の立場に立とうとした。誰に。自分に。自分自身への加害者として。この場合の彼の発想と行動には、多分に生体実験的なニュアンスが伴う。
 彼の行為を自己否定ないし自己放棄とみなすことから、ようやく私は、自己処罰という言葉に行きあたった。自己処罰とは、自己を被告に見立てての訴追ではない。彼の自己追及の過程のいちじるしい特徴は、自己が自己を裁く法廷を欠いたことにある。法廷とは有罪を争う論争の場である。併し、すでに有罪であることを確信する者にとって、いかなる法廷、いかなる論証の場があるか。
 人間は本来なんびとを裁く資格も持っていない。なぜか。人間は本来「有罪」だからである。それが兵役と強制労働を通じて彼が身につけた思想だったのではないか。
 彼の姿勢の大きな特徴は、この、裁かるべき法廷をとびこえて、刑そのものへ直結していることにある。

「体刑と自己否定」

 いかにもキリスト教徒であった石原らしい発想である。としても、この濃厚な原罪意識への傾斜ぶりには、なにか不穏とも言える過剰さがただよっている。「体刑と自己否定」というタイトルの原稿がいつ書かれたかは不明だが、おそらく『望郷と海』が藤村記念歴程賞を受賞した(1973年)あとのことではないか。歴程賞受賞後に、石原のなかで、自分が書いた言葉に対して複雑な変化が生じていた。

 山城むつみの「鹿野武一をめぐって」(2008年)は、石原が『望郷と海』に対して、自分の書いたエッセイは思いすごしによって成り立っていて、「これらの思いすごしには、たぶん厳密で、冷静な訂正が必要だろう」「このような思いすごしの切実さ、錯誤のリアリティによって、自分自身をささえることができた」と自省していたことを報告している(同じく山城によって1998年に、石原吉郎と鹿野武一について書かれた「ユーモアの位置――ペシミストとコミュニスト」は鹿野武一のことを聖人化している)。石原には(そして鹿野にも)、公的にもそして自分に対してすら明らかにはできなかったおぞましい過去があったようだ。石原は、親しい人間に対して「おれも、一番苦しいときは、人を売ったからな」と語ったという。山城によれば、「ラーゲリでは、食料代わりに仲間を逃亡に誘っておいて、逃亡の途中でその仲間を殺して食べるというようなこともときにあったという」(「切断のための諸断片」)。山城は、石原がそのような状況を生き延びるためには、過去の潤色や虚構の導入にすがるしかなかったであろうと、推測している。

 じっさい、石原は『望郷と海』の原稿を「三年かけて、酒を飲んでは書き、書いては酒を飲むという危なっかしい状態で書いた。原稿を書いていると、あるところでぶっつり切れてしまう。そして、ほかの発想が入りこんで来て別の文章が出て来る。そういう文章が十ばかり出来る。石原は仕方なく畳一畳ぐらいの長さのハトロン紙をひろげ、原稿用紙を切って、その断片的文章を適当に間を空けて貼り、その間隙を無理やり繋ぐように文章を拵えたという」(「鹿野武一をめぐって」)

 このようにして石原はシベリヤ体験を再構成し、鹿野武一の肖像を描いた。そこにはどうしても必要悪としての嘘が紛れ込んだ。残された鹿野の手紙やほかの資料を突き合わせてみると、鹿野の実像は石原が描いた肖像画とはいくつか齟齬があるようで、事実の記録というよりは石原の創作に近いらしい。じっさい鹿野武一は妹に書き送った手紙の中で次のように語っている。

 あの厳しい生活条件――人間をすっかり裸にして了ふと思はれる様な――捕虜生活の中でも自分は虚栄の皮を被ったポーズをもった人間だった。

 だからあの生活で自分が敬意を払ったのは、すっかりむき出しの人間性を発揮した人々でありながらその人達には真に近づく勇気がなく、多くを語り合ふ機会を持ったのは、ポーズをもった人々であったといへませう。純真な人々の中には自分のポーズに欺かれて近寄ってきた人も二、三ありましたが。

 鹿野は自らの欺瞞を認めている。欺瞞を認めたことによって、「位置」の明確さを守るという誠実さは貫いたとも言える。そしてまた、「あの厳しい生活条件」の中で、「ポーズ」を貫いた強靭さは驚異的とも言える。建前的なポーズを安易に捨ててしまえば、いとも簡単にトランプ現象が引き起こされる。欺瞞なしでやってゆくということは、肉体の100パーセントを神の領域に送り込むことだ。そんなことは人間にできはしない。人間にできることは、自らの欺瞞に対して自らが加害者となることだ。「裁かるべき法廷をとびこえて、刑そのものへ直結」するようにふるまうことだ。すなわち「明確なペシミスト」になることだ。

 ペシミスト――これほど反時代的なものもあるまい。いまや絶滅危惧種と言ってよかろう。経済一辺倒の状況においては、ペシミストは圧倒的に不利な立場に置かれる。経済とは何よりもオプティミズムの状況を必要とするからだ(アゲアゲで好景気と行こうぜっ!)。ペシミズムは経済活動を妨害する邪魔者でしかない。そしてまた、石原の硬質な言葉は現在の文化環境には馴染まない性格のものでもある。とはいえ、鹿野武一のような人物や石原吉郎の言葉およびペシミズム的なものを社会に導入すべく、社会のなかにそれらを受け入れる余地を作り出しておくことは、社会が多様性を肯定し、より良い方向へと進むための方途となるのではあるまいか。

 シベリヤ、氷、雪、冬が頻出してきたので、その周辺の曲を。まずは、ずばり「シベリアン・カートゥル」。イエスのアルバム『危機』から。イエスはプログレッシブ・ロックにカテゴライズされているけれどあまり病んだ感じはしない。楽器オタク、音響オタクという感じはする。深層というよりは表層の人。

 次いで、メロディの「課外授業」。結局これ一発だった。けれどもバンド名と同様、メロディ・センスはある。冬の高校生活を歌っている。歌の内容は意味不明にネガティブなのだが、このリリシズムは胸に忍び入ってくる。

 ラストは中島美嘉の「雪の華」。平成の代表的な冬唄であろう。とにかく歌唱力がある。歌がうますぎるのと、神秘的すぎる容姿で損をしていると思う。私がプロデューサーだったら、まずは縁日で売っているドラミちゃんやポケモンのお面をかぶらせてデビューさせたと思う。


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