アヴァター時代の短歌
SFはコスプレがお好き
『ニューロマンサー』は広い意味でのコスプレSFではないか?そのように思うことがある。サイバーパンクの先駆と言われるジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女」(『愛はさだめ、さだめは死』所収)は、ブスがテクノロジーの力を借りて世界的アイドルになりすます、という話である。言うなればアイドル・コスプレである。同じようにウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』は、神経質な虚弱児が「ハードボイルド」のコスチューム・プレイを演じている作品とは言えないか(スチーム・パンクの一部の作品は「コスプレ欲望」を大々的に開放しているし、コスプレ自体がSFカルチャー周辺から出てきた)。この作品の重要ガジェットである身体改造もコスプレの小道具に見える。『ニューロマンサー』の冒頭は次のような書き出しである。
有名な冒頭の1行である。いわゆる純文学や普通の小説とは異質の風景描写である。ここでは風景それ自体がコスプレを演じている。「空きチャンネルに合わせたTVの色」というイメージは、人工的で無機質な世界を表しているし、「空きチャンネル」は俗に「砂嵐」と呼ばれるざらついた画面を映すばかりで、その空虚さが登場人物たちの虚無感を伝えて秀逸だ。
ところで、私が前々から気になっていたのが、『ニューロマンサー』の「ニューロ」という言葉である。「ニューロン」とは神経細胞のことであり、「ニューロコンピュータ」のことを含意していよう。それは脳神経の構成要素を参考にして設計されたテクノロジーであり、熱力学がリビドーに対応しているとすれば(フロイトやニーチェの思想は熱力学に基づいており、それは性的であり肉体的である)、「ニューロコンピュータ」はリビドー的熱量からは遠く離れて非身体的である。『ニューロマンサー』の登場人物たちが纏う人工身体も頽廃の色濃いものであり、人工的なパーツを剥ぎ取ってしまえば病人の肉体が残るのではないか?
『ニューロマンサー』の起源にある神経症
興味深いのは、YMOでテクノミュージックを始めた坂本龍一が、ほぼ同時期に(1979年)レゲエ音楽にコミットしたことがあり、アルバムタイトルは『SUMMER NERVES(夏の神経症)』という。聴けば当時の空気感が思い起こされ、個人的には好きな作品であるが(坂本龍一のヴォーカルはいただけないが)、ソフィストケートされ過ぎていて、レゲエというにはあまりに線が細すぎる。言うなれば、非ジャマイカ人が時代の空気を呼んでレゲエ・コスプレを演じている感が強いのである。当時の音楽界はレゲエブームおよびボサノバブームの真っ只中にあり、イギリスの10CCが「トロピカル・ラブ」(この曲は成功したレゲエナンバーと言える)を発表したり、ジョージ・デュークの『ブラジリアン・ラブ・アフェア』やバリー・マニロウの「コパカバーナ」があった。
また、YMOのメンバーである高橋幸宏が1981年に発表したのが『NEUROMANTIC(ニウロマンテック・ロマン神経症)』であった。ギヴスンの『ニューロマンサー』は、高橋のこのアルバムに由来する。結局のところ、坂本龍一、高橋幸宏、ウィリアム・ギブスンの共通項は「神経症」ということなのである。
「サイバーパンク」だ、「ストリート感覚」だと威勢のいい言葉が謳われているにしても、少し違うんじゃないかと薄々は気づいていたが、翻訳者黒丸尚のやくざで蓮っ葉な名調子の訳文やギャングっぽい隠語の羅列に目をくらまされて(見事なコスプレ文体というほかない)、単純な私はギヴスンが演じたハードボイルド・コスプレにまんまとひっかかってしまった。デルフィという人気アイドル・アヴァターの影に貧しいブスが隠れていたように(「接続された女」)、コンピューターカウボーイ・アヴァターの影にはストリートで鎬を削るタフさには恵まれなかった虚弱児が身を潜めていたというわけだ(と言っても、初読の印象があまりに鮮やかだったので、その時刻印された記憶に基づく「ハードボイルド幻想」に執着する気持ちはやはり残る)。その顔面のいかつさから「リアル生頼範義」の異名を持つ北方謙三にしたって、彼の大河小説『水滸伝』は彼の内面の奥深くに住まう「キューバ革命オタク」のオタク魂の産物であって、北方は一生懸命時代小説的ファンタジーを演じているのだ。
二種類の言葉
近年のデジタル技術の発達は、人間にもともとあるコスプレ願望をかなりの精度で実現することを可能とし、モードとしての浸透が飛躍的に広がっている。菅浩江の『誰に見しょとて』も、化粧というコスプレの素朴な形態を扱っている。化粧とは人目にさらされる「皮膚」という身体の領域がテーマとして中心化される。吉本隆明は、言葉の種類を「皮膚の言葉」と「内臓の言葉」に分類している。前者は、表面的に人と人の間でやりとりされるコミュニケーションの言葉であり、後者は、はらわたに沁みるような自分にだけ価値のあるような言葉であるという(ちなみに「はらわた」は英語で「guts」といい、「ガッツポーズ」の「ガッツ」に通じている)。
今現在は「皮膚の時代」といったものであり、皮膚というセンサーを通して「空気を読むこと」が極端に価値化されている。かつて吉本は、「内臓の言葉」を「自己表出」(『言語にとって美とは何か』)と呼んで、文学の言葉の根底にそれを見出した。海を知らない原始人が生まれて初めて海を見たとき、驚きのあまり、「う」と声を上げ、その強度の体験が「海」という言葉を生み出したというのだ。ここには取り換え不可能な「1回かぎりの固有の体験」がある。戦争に負けたことによって、戦後の日本文学は文学言語が刷新される体験を強いられ、「第一次戦後派」や「荒地派」や「前衛短歌」の運動を生み出した。
文学の言葉が創造されるには風景の変容が起こらなければならない。日本近代文学の起源にそのような変容を見出すのは、『日本近代文学の起源』を書いた柄谷行人である。「近代文学を扱う文学史家は『近代的自己』なるものがただ頭のなかで成立するかのよう」に考えるが、それは間違いである。「近代的自我の確立」など、取るに足りない結果であって、原因と結果を取り違えている。重要なのは、自我なるものは習慣的システムにすぎず、そのシステムが崩壊することが文学の創造を促すということを認識することである。
日本近代文学は明治維新後の混乱期を通して確立された。いうまでもなく風景が変容した=それまでのシステムに従属していた自己が崩壊したからである。新しく見出された風景を通して、「言文一致」の制度は確立され、「風景」とともに「素顔」も発見された。歌舞伎から新劇への転換である。このような転換が「意味」を持っていたのは、システムが崩壊を強いられる混乱期においてである。そのような混乱において「実存」は露出するし、塚本邦雄の前衛短歌はそれと無縁ではなった。塚本の持っていた実存感覚を自分は持っていないようだ、と平成歌人の穂村弘はため息とともに確認する。
アヴァターとしてしか生きられない歌人
穂村弘といえば、たとえば「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいこわいせつないさみしい」という歌が有名である。そこはかとない抒情が読む者に伝わってくるが、それよりも強く印象づけられるのはひょうきんさを装う演技のポーズである。象のうんこにさみしさを訴えるという振舞は、自虐芸人のパフォーマンスにほとんど近い。それが短歌として成立するのは、「五七五七七」という短歌の韻律があってこそであり、短歌という制度に保護されているともいえる。穂村の社会的姿勢は、表現者というよりは、キャラとしての短歌人であり、「短歌詠み」というアヴァターを纏って社交サークルとしての電脳空間をうろつく何者かである。
自己表出(内臓の言葉)による文学表現が難しくなってきたのは、システムが安定した高度成長の時期からである。そのような世界では戦争や震災のような1回限りの固有の風景が孕んでいた強度の感触は失われる。代わりにメディアが流通させ続けるイメージの分厚い社会的様式のようなものが取って代わる。それは書き割りのようなものだ。実存の切実さは忘却の彼方へと消滅し、「あるある」「わかるわかる」という共感しやすい風景のキャラ化現象が起きる。
なるほどここには、ある意味、新しい情景の発見があるのかもしれない。しかしそれ以上に、人生の悲しさとされるもののパロディ感をまず感じとってしまう。そしてそれを垂直的に深めてなにがしかの認識の場へと到達するのではなく、水平的に「あるよね~」という共感の回路の中に回収しようとする経験の消費行動というか、要するに芸術家的というよりは商売人的な行動形態をとるのであって、なおかつそのような行動を通して、商売の場を強化してゆく。塚本邦雄と穂村弘や松木秀の世代の作家との差異は、政治と経済との差異ということになる。
塚本邦雄の代表作に次のようなものがある。
この歌に対して、菱山善夫はかつて、皇帝ペンギンを天皇の象徴としてとらえ、飼育係に日本国民を見る、という解釈をしたという。私自身も、皇帝ペンギンを天皇あるいはそれに近い権力者に、そして飼育係に敗戦によってそれまでの権威を奪われた天皇を支えようとする日本国民としてとらえた、そして歌全体の世界としては、敗戦のショックに圧倒された日本の象徴と日本国民が肩を寄せ合って、さびれた動物園のような薄暗い日本に脱出することもできずに呆然としたまま留まっているという、しょぼくれたイメージを感受したのだった。そしてその戯画はなんとも痛切で、存在感覚を垂直に突き刺す力を秘めていた。現代短歌はこんなこともできるのか、と畏怖を感じた。
けれども私と同年生まれの穂村は、「皇帝ペンギン」にぬいぐるみやアニメのイメージを見出し、塚本邦雄を言葉遊びの人としてとらえたという。1986年生まれの望月裕二郎は、「ペンギンと作業服の飼育員が旅客機に乗り込もうとしている映像」を思い浮かべたという。軽いショックを受けたが、このことを穂村自身は、斎藤茂吉を例にあげて次のように説明している。
穂村は、斎藤茂吉より若い塚本邦雄に「生の一回性」があることを認めつつも、塚本には言葉遊び的なフェティシズムが内包されているという。そして塚本のフェティシズムを自分も共有しているのだと言いつつ、穂村は自分の短歌のスタイルを説明する。「我々は『生の一回性』の実感を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである」(『短歌の友人』)。
「何度でも再生可能なモノ」としての人生。近年書かれているSF作品には、このようにリセットされる人生を描いたものがよく見られるようになった。コスチュームを次々と変えてゆき、そうすることでかろうじて物語が成立する・・・・・。そこに欠落しているものはリビドー、内臓感覚、情熱、出来事、実存・・・・・・。
ともあれ、短歌の世界にもリセット的というか、アヴァター系の短歌が増えていることは確かなようだ。試しにいくつかの「系」に分けて具体的な作品を並べてみよう。
文学再確認
A・アヴァター系およびピン芸人のヒロシ系
B・北方謙三系
C・宗教系
D・もしかしたらこれがことの始まりかも・・・・・
思いつくままに並べてみた。Aは最近の平成短歌である。なんというかヴァラエティ番組のショートショート・コントのノリである。現在の言葉の状況はそういうものなのだろう。クスッと笑ってもらって共感=「いいね!」マークを得るという姿勢が骨に沁み込んでいる感じがする。基本メンタリティが商売人なのだな。
BおよびCは個人的に好きなタイプ。Cのタイプはほとんどお目にかかれないだろう。いうなれば、経済原理とは異なる原理の理念(宗教)系といったところか。こうした感覚はほぼ絶滅状態。昨今の「文学部廃止論」はこのような状況を背景に出ている。文学部の教授は、「文学部廃止を唱える政治家は、人文学に触れて感動した経験を持たないのであろう」と反論しているが、「人文学に触れて感動した経験」を持つ人々は今では極端なマイノリティである。当然教授は知っているだろう。こういう嘘は見え見えだが、大いにつきとおしたほうが良い。政治家の嘘には文学部教授の嘘をもって対抗すべし!
Dの河野裕子に関してだが、彼女が俵万智の直接の先行者だろうと、前々から思っている。「ゐ」とか「やうに」とか古語を使用しているが、文体や語法は俵とほぼ同じである。引用したのは『森のやうに獣のやうに』(1972年)と『ひるがほ』(1976年)から。どちらの歌集もオーソドックスな古風な作品が多く、引用作品はそれらの中では異色といえる。ただ「連合赤軍事件」の起こった1972年は「終わりの始まり」の年であり、雑誌『ポパイ』が創刊された1976年は重要な時代の曲がり角だったと個人的には考えている。1976年が実存の終焉であり、アヴァター的なキャラ時代のはじまりであっただろう。俵万智の『サラダ記念日』は広告コピーの時代の産物だったと思う。
A~Dとざっと改めて振り返ってみて、再確認したことがある。それは・・・・「オレの古き良き文学(短歌)を返してくれぇ~っ!」ということ。それがわが実存の叫び=内臓の言葉である。
最後に古き良き時代の音楽を。1972年の作品からアル・クーパーの「Jolie」。この輪郭が明確だが、けっして通俗に堕していないメロディ、好きだなあ。
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