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確信犯の時代錯誤・磯田光一

聖なる時空の消滅

 『殉教の美学』や『思想としての東京』といった著作で知られる磯田光一の原稿を読んでいて、第一に印象づけられることは、一種独特な緊張感である。行楽地にて思い切りリラックスして休息を満喫する、というのどかな気配は微塵もない。むしろそのような安息感を斥けて、自分と周囲との間に摩擦と葛藤を積極的に呼び寄せ、その居心地の悪さを引き受けることに生の手応えを感じているかのようだ。万能感を保証された幼児の黄金期ではなく、そこからの追放の苦痛こそが精神の運動の起点となっている。祝福を許された幼児の安眠ではなく、安眠を奪われた者の研ぎ澄まされた覚醒。自分という人間にとってかけがえのないものが奪われ欠落している、その不条理の来歴とはいったい如何なるものなのか?磯田の紡ぐ言葉の根底にはそのような衝迫的な問いがあるようだ。

 では磯田にとってかけがえのないものとは何であるのか。それは、一言でいえば、「詩」という聖なる時空である。若き日の磯田にとってのヒーローは、ボードレールであり、ロートレアモンであった。「青年時代の私にとって、『悪の華』と『パリの憂愁』とは、ほとんど枕頭の書と呼んでもよいものであった」(「わがボードレール――近代性のイロニー」)と位置づけられているボードレールは、磯田にとって究極の美学の化身というものであり、「人間の能力を超えている」ような不可能な夢の存在であった。磯田にとってのボードレールは、個人主義という近代の原理に根差しながら、近代の価値意識であった「human nature」から離反しようとする複雑な精神の運動の体現者であった。磯田の筆による次のようなボードレール像は、磯田自身の精神の姿をほぼ言い尽くしている。

 おそらくこうしたダンディズムの精神像は、民主主義が本質的には様式の破壊をしか招かないという認識と結びついている。いかなる社会の進歩も過去の道徳律からの脱皮なしには成立しえないかぎり、民主主義とは本質的にいって〝人間の自然性〟を擁護する思想である。このいわば〝自然開花主義〟とも称すべき民主主義が次第に時代の主流をなしてゆくとき、精神の貴族に残された反逆は、意識的に一つの様式を選びとり、それを時代の価値観に対置することだけである。

「時代錯誤への情熱――ダンディズムについて」

 磯田にとって耐えがたい事態とは、聖なる時空が消滅し、間延びし弛緩しきったような世界である。それはエントロピーが増大し、あらゆる差異が消滅し、いかなる運動も発動をやめたようなのっぺりした世界であり、自堕落な惰眠ばかりが広がっているような世界である。聖なる時間の力に触れてこそ、精神は溌剌とした活動を開始するはずであるが、あらゆる様式(差異)が消滅した世界にあっては、精神は惰眠の中に沈みこみ、しまりのないブヨブヨの肉体へと凋落するばかりだ。磯田にとっての聖なる時間は、生物にとっての空気のようなものであり、聖なるものの記憶を失った民主主義的世界で生きることは、環境破壊によってその生存に必要な清流を失った川魚の悲哀を帯びた生に似ている。

ドン・キホーテを擁護する

 磯田に酸欠感を感受させる事態というのは、なにもボードレールが直面した19世紀なかばのフランスだけに特有の現象ではない。それは中世という一つの様式を崩壊させた近代の始まりにおいてすでに胚胎していた。近代小説の祖『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスが属していた世界の構造は、聖なる時空を解体させる力として働いていた。

 セルヴァンテスの生れた一五四七年には、スペインはなおも栄光の絶頂にあった。しかしルターによる宗教改革の波は、すでに「中世」の秩序感覚を次第に突き崩そうとしていたのである。セルヴァンテスの誕生が、コペルニクスの死の四年後であるという事実は、私にはきわめて象徴的なことと思われる。イギリスの哲学者・コリングウッドは、地動説の真の意味は「天」の権威を失墜させたことにあるのではなく「世界にはいかなる中心も存在しない」という世界像をうち出した点にあるといっている。(『自然の観点』)セルヴァンテスの生きた時代は、まさしくそういう時代であった。

『ドン・キホーテ』論」

 「世界にはいかなる中心も存在しない」。すべては相対性の圏域に収まり、正統性を保証する根拠などどこにもありはしない。あるのはどうやらこれが優勢らしいといういたって曖昧な気分であり、それはだから虚構でしかないのだが、それでもその虚構は共同体を成立させる共同幻想としての力を持つ。セルバンテスが直面した近代における共同幻想とは、商業資本主義の物語であり、それはいっさいの宗教的幻想を解体するものであった。ドン・キホーテが執着した騎士道ももちろん宗教的情熱の対象としてあった

 磯田が終生ドン・キホーテにこだわり、最初の著書を『殉教の美学』と名付けたのも、磯田の根本的な気質が宗教家のそれであり、たとえパンが食えなくとも言葉さえ輝いてくれればよい、という発想に傾く人間であったからである。騎士道。超越性。制服。形式。磯田が価値を置くそれらのものは、みな、魂の飢えを満たし、癒すものであった。近代の自由は制服や形式からの自由は実現したが、自由の刑にどう対処するかという底知れぬ虚無の問題には頬被りした。磯田は、その問題を消費活動の水平的な流れに従ってスルーさせることなく、それを垂直に掘り下げることで、ドン・キホーテのアナクロニズムに同調したのだった。

 騎士道という超越性を解体しつくしたドン・キホーテの従者サンチョ・パンサは、いうなれば、正統性への反逆者であるトロツキストのような存在である。トロツキストたちが勝利した戦後日本の社会への反語として、磯田は「正統」という概念を「異端に対する異端」というふうに反転させ、「オール・トロツキスト時代ともいうべき戦後において、スターリン型の家父長的現実護持は可能であるか」を問い、いいかえれば「『異端』としての個人の群れが『正統』をかたちづくってしまった時代」において、「〝異端にたいする異端〟としての『正統』は可能であるかを問う」たのだ、といえる。それは自由と形式についての正当な認識でもあった。例えば、ルールや制服について磯田は次のように述べている。

 『太陽の季節』のこの書き出しは、はからずも人間にとって「行為」というものが何であるかを示している。拳闘はスポーツであり、スポーツはルールを前提としてのみ可能なのである。いったいスポーツにおける「自由」とはなにか?少なくともルールを破ることではないであろう。ルールという仮構の壁への絶対的な服従のうちにのみ「自由」は具現するのである。

「現代作家の肖像」

 『太陽の季節』の底にあるもの、それはむしろ既成のモラルへの反抗とは逆なもの、つまり秩序の崩壊した現実のなかで、何ものかへの渇きをいだき、自己確認のためには自己破壊さえも辞さないという苛烈な世界である。
(略)
 「抵抗される時に於いて」のみ「自己を摑む」ということは、逆にいえば氏は〝抵抗物〟のない時代の空虚のなかで、自己を拘束するもの、あるいは自己をゆだねるに足りる何ものかを求めているということである。

「日本的自然の殺意」

 「制服」の文化が人間性を制圧するとき、人間の肉体は「制服」に反逆して「私服」の文化を作りだす。しかし「私服」の文化が停滞を示し始めるとき、人間の心には、いつしか「制服」への悪魔的な飢渇が忍び込むのである。

「『制服』の魅力と恐怖」

 このような認識は出来合いのイメージをなぞるような平板な思考からは出てこない。比喩的に言えば宗教的な垂直の運動を通して得られるような認識である。だが、「宗教的」なものほど、消費社会において遠ざけられているものはないのである。

「否認」としての対幻想

 磯田光一は、「非在」という言葉を好んで口にした。「非在」という言葉は「実在」の対概念であり、「実在」が「現実」だとすれば、「非在」は「幻想」である。「非在としての美が私にとってのすべてだ」というような言い方を磯田はしばしば口にした。だとするなら磯田は、磯田自身が偏愛した澁澤龍彦のような精神の密室に引きこもるようなベタな芸術家なのであろうか?幾分かはそうである。けれども必ずしもそうとも言い切れないのは、澁澤のような完全なオタクとは違って、磯田は実在の側からの去勢を受け入れるからである。磯田が資質的には詩人(宗教家)でありながらも、散文(宗教批判を通しての宗教擁護)を実践できたのは、彼がいわゆるオタクとは違って、「成熟」という回路を軽蔑することをしなかったからである。磯田は「己を切らせる」ことで精神分析学のいう「去勢」=「象徴界」への参入を拒まなかった。

 人は他者にたいする違和感から文学に入る。しかし、そこで摑まれた真実を文学化するには、やはり他者の論理に己れを切らせることが必要なのである。成熟とは「他者」による自己否定に耐えうる能力以外の何であろうか。

「現代作家の肖像」

 「成熟とは「他者」による自己否定に耐えうる能力」という言葉は、ラカンが描いて見せた人間は「去勢」を経て「想像界」から「象徴界」へと参入できる、というプログラムと重なる。赤ん坊は母親との密着状態から切り離されて父の論理たる法と言語の秩序に参入し真っ当な社会人に成熟する。人間の成長は概ねこのような筋書きとしてある。ただしあらゆるルールには例外というものがあって、「去勢」のプログラムにもそれはある。「否認」という概念がそれだ。「否認」は去勢を肯定しつつそれに抵抗することである。「否認」は「否定」とは異なる。「象徴界」を否定することはオタク的に密室のなかに引きこもることでしかないが、「否認」は「象徴界」の論理をなぞりつつ、なおそれからはみ出るものの可能性を肯定することである。

 そして象徴界=大文字の他者が共同幻想であるとするなら、象徴界からはみ出るもの=小文字の他者は対幻想である。それを国家と市民社会との関係になぞらえることもできるかもしれない。ただしポストモダンの世界においては法秩序としての大文字の他者が成立していないという意見がしばしば出されるので、今は大文字の他者=多数派、小文字の他者=マイノリティと捉えたほうが実情に即しているかもしれない。

 そしてまた、このことは現在話題となっている学術会議問題(註・この原稿は2020年に書かれた)に寄せると大文字の他者=ヤンキー、小文字の他者=インテリという図式になる。この図式は斎藤環と與那覇潤の図式をなぞっている。彼らの危機意識は日本人の大半がヤンキー・センスの状況にあってインテリやべえよという実感としてあり、それは安倍晋三政権下でひしひしと今そこにある危機として感受されたが、安倍内閣を引き継ぐとされる菅内閣による学術会議任命拒否は「ヤンキーVSインテリ」の延長戦であった。菅義偉の見込みではヤンキー・センスが大文字の他者化しているのだからこの勝負は勝てると踏んだだろうしその計算は正しいのだが、計算違いだったのはおとなしい羊と思われていたインテリが牙をむいたことであった。牙をむいたことによってそれなりにインテリの言葉が活気づいてしまった。土着的なふるさと談義なら勝ち目ありでも(私は菅義偉という人は地方行政なら映えるけれど、海外のマクロンやメルケルのようなインテリとはウマが合わないと思う)、抽象的な方に話の舞台がずれ込んだので、土俵が不得手なものと化し、劣勢となり、任命拒否の言い分が苦し紛れにしか聞こえなくなっている。私はインテリ側の人間であるが、横暴政治家にも三分の理というか、菅のメンタリティがわからないでもない。インテリにも怠慢も傲慢もある。

 ところで今回のことで改めて感じたことは、インテリの言葉のプラットフォーム(演壇)がほとんど消失しているということであった。盛んに「学問の自律」ということが繰り返されたが、このような言葉がうまく収まってくれる状況がないのである。言葉のリアリティは場所に規定されるが、私が思い浮かべたのは温泉宿のチャンバラ劇の舞台とか地方のプロレス興行の古びたリングといったイメージであった。人文学はあと四半世紀もしたら大学からほんとになくなってしまうと思ったね。私の感じでは、人文学は文芸ジャーナリズムで細々と生き延び、ついには同人誌のようなところで好事家限定愛好品になってしまうのではないか、と危惧している。実をいうと大学のような場でも人文学は読まれていないのが現状である。

 朝日新聞で学術会議問題についてある学者が寄稿していて、そこで「前衛」と「後衛」という言葉が用いられていたのだが、磯田光一もそのような言葉を使って自論を述べたことがある。吉本隆明の共産党批判のことなどが念頭に置かれていたと思われる。

 ここで社会、政治的な観点を導入するならば、「異端」(前衛)は「正統」(大衆)に己れを切らせることによってのみ「正統」に参与しうるという逆説が成立する。そして、このことは、現代社会から強いられた乖離の必然的所産としての内部的「異端」を、「正統」に属する言語によって客観的な空間として造型しえたところに文学が成立する事情と全く同じことなのである。文学の社会性の根拠はそれ以外のところにありえようはずはなく、この「異端」と「正統」との架橋に自己を賭け、そこに新しい言語空間を構築しうる作家のみが、次の時代を背負うに足りるであろう。

「現代作家の肖像」

 大文字の他者はコミュニケーションの言葉を担う基盤であり、小文字の他者はアートの言葉といえようが、産業としての人文学(?)は、大文字の他者と手を切ってはならない。100パーセントの満足を断念すること=去勢をいったんは通過したのち、新しい空間の構築を構想した方がいい。

前衛と通俗のはざまでポップ

 ということで、今回は前衛と通俗の間で微妙なバランスをとっているかに見える楽曲をチョイスする。まずはクラムボンの「はなればなれ」。癖になりそうなリズムである。ボーカルの女の子のヘアースタイルも前衛的。

 中村一義の「1、2、3」も独特なリズムだが、今聞いても新鮮。

 後藤次利作曲による八神純子の「夜間飛行」も脱通俗的なメロディーが印象的。それにしてもこんな複雑なメロディーを歌いこなす八神の歌唱力の高さは驚異的。

 前衛と通俗というと思い浮かぶのがスティーリー・ダンである。スティーリー・ダンでは「Kid Charlemagne」が一番好き。

 スタイル・カウンシルの「Angel」も通俗的から微妙な距離感を持ちつつポップ。

 Tame Impalaの「The less I know the better」にはポップなんだけれど、潔癖症の人間が手を洗いまくるように、通俗から能う限り距離をとったはてに純化されたポップのようなポップのアート性に魅せられた者のそこはかな痛ましさを感じる。

 この痛ましさはトッド・ラングレンにも共通する。トッド作品では「Love is the answer」を選ぶが、ここではカバー・ヴァージョン。コロナの影響によるリモート録音のようなのだが、今の空気感にあっているし、パフォーマンスのクオリティーも高い。


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