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ダンスいろいろ、人生いろいろ

『サタデー・ナイト・フィーバー』にボウイ敗北する

 『ダンシング・ゼネレーション』(槇村さとる)という少女マンガがある。題名の通り、ダンサーたちの青春ストーリーなのだが、物語の骨格は『エースをねらえ』(山本鈴美香)のようなスポ根ものである。鬼コーチとして知られる年長の男(『エースをねらえ』であれば宗方仁)に才能を見出されたヒロインが、幾多の試練を乗り越えて栄光への階段を駆け上がってゆくというスポ根の王道である。ただし、1973年連載開始の『エースをねらえ』が持っていた暑苦しさや悲壮感を、1981年連載開始の『ダンシング・ゼネレーション』は、そのいくばくかを引き継いでいるとはいえ、軽やかに扱っている。

 そのような物語の雰囲気の変質は、ヒロイン・萩原愛子のダンス遍歴を反映していると言えよう。小中学校時代バレエを習っていた高校生愛子は、ジャズ・ダンスの世界へと足を踏み入れる設定となっている。1973年であればバレリーナが主人公のガチなスポ根となり、古めかしいアーチストものとなっただろうが、1981年のヒロインはアートの非日常性よりも、ジャズ・ダンスというカジュアルな日常性から遠く離脱することは控えるという態度を選択しており、苦悩する天才というこれみよがしな19世紀ふうの物語と戯れることはない。

 この作品を読みながら、私は1981年に発表されたオリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」のことを思い出していた。「Let’ get physical」「I wanna get animal」と歌われるこの歌は、70年代の理想主義的な精神性とは手を切って、たんにエンジョイしましょうという時代の歌の宣言であった。ここで歌われている肉体は、60年代の体制に逆らうような闇を抱えた肉体とは全く別物の、体制に順応し管理された肉体のことであるし、「動物」もまたフランスの哲学者コジェーブが世界の最先端アメリカ文化に見出した哲学を必要としない動物=消費者のことといってよい。消費社会が全面勝利する様を、とんでもない名家の出であるオリビアは、新自由主義の勝ち組よろしく、そうとは知らずに予言してみせた。

 オリビアに先立って、こうした交代劇は、1977年にビージーズによって演じられていた。1979年の暮れ、英国の音楽評論家によって、70年代を代表するロック・アルバム・ベスト10が行われたのだが、第1位の『ジギー・スターダスト』(デビッド・ボウイ、1972年)に次いで、第2位に『サタデー・ナイト・フィーバー』(ビージーズ、1977年)がランクインしたのだった。いわずと知れた大ヒットした映画のサントラ盤である。80年代に来るのはダンス音楽だと言われ始めたのはこの頃である。ボウイ・ナンバー(ここでは「レディ・スターダスト」)とビージーズ・ナンバー(ここでは「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」)を聴き比べてみれば、その世界観の違いは明らかである(80年代にボウイは「レッツ・ダンス」と歌うだろう)。

 ただしオリビアの「フィジカル」と映画『サタデー・ナイト・フィーバー』とには微妙な差異があった。「フィジカル」は中流階級的なエアロビクスの世界だが、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の主人公は、下町ブルックリンの下層労働者であり、土曜の夜だけ彼は現実から逃避するように踊り狂うのであり、そこにはプロレタリアの体臭がにじんでいた。1980年に公開された映画『フェイム』は、『サタデー・ナイト・フィーバー』の側に属している。そこに登場する若者たちの大半は、芸能で階級上昇を果たそうとする貧しい人間たちであり、たとえば主題歌を歌い役者としても出演しているアイリーン・キャラは金を稼ぐためにヌード・モデルをやらざるを得ない少女を演じている。ストリートを占拠する群舞のシーンは、エアロビクスというよりはプロレタリアのプチ騒乱に近い印象がある。

消費社会の外

 消費社会が全面開花したということは、「祭り」が日常化したということである。それはジャック・ラカンがアメリカを訪れた際に目撃した「享楽=ジュイッサンス」ではなく「エンジョイ」がすべてを覆いつくしたような世界である。非日常的な祭りが消滅し、日常的な祭りだけがあるような、たとえて言うなら「ディズニーランド」のような無害衛生的な祭りである(東京ディズニーランドがオープンしたのは1983年のことであった)。エアロビクス的身体あるいは消費者的身体といったものが言祝がれたのがオリビアの「フィジカル」であった。

 「フィジカル」が発表された1981年にそれとは対極にあるような肉体が登場する。イギリスのバンド「バウ・ワウ・ワウ」のジャングル・ビートである。一聴すればオリビアのエアロビクスとの違いは明らかであろう。都会のダンススタジオというよりは、原始的な土俗の世界である。計算高いプロデューサーによって、ワールド・ミュージック的にパッケージされた感もあるのだけれど、ヴォーカルのビルマ系女性アナベラの存在感は都会の日常を突き破って聖なる次元に触れそうな勢いがある。そしてまたドラムとベースのビートが凄い。やっぱりジャングルとしか言いようがないのである。

 オリビアの「フィジカル」を基点としてみた場合、2つのものが消費社会から消えていったことが確認される。ひとつは、日常としての「フィジカル」とは異質の「メタフィジカル」な部分。もうひとつは、やはり、日常としての「フィジカル」ではない非日常的な「フィジカル」。前者は、バッハに代表される宗教性を帯びた天上的な音楽。後者は、激しいリズムを基盤とする大地のエネルギーを放射する音楽。前者が弦楽器によってそれを伝えるのに対して、後者は打楽器によってそれを聴く者に体感させる。

 三浦雅士は、アドルノやブリンドルの考察を受けて、19世紀の弦楽器音楽が持つ精神史における重要性を強調する。室内楽とブルジョワ経済の発展が並行して起こり、私的領域が公的領域を押しのけたことを確認したアドルノは、さらに「ヘーゲルの言葉にあるように、世界の質的充実がすべて室内楽の中に内攻していたのである。とすれば室内楽を内面性の音楽と定義することは容易である」(『音楽社会学序説』)と断ずる。弦楽器の特権化に、ヨーロッパ的内面性の中心化を、三浦雅士は見てとり、19世紀における音楽の表現様式の栄光と限界を確認する。なるほど確かに弦の優雅な調べには、19世紀ロマン主義に感化された小市民の感性様式がうかがえる。けれどもそのような「小市民的な片隅の要素、諦観的な牧歌調」(『音楽社会学序説』)よりも大きいサイズの感性を、弦楽器の調べから感受することもある。

 たとえばサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」からは、小市民的世俗生活とは異なる次元の感情の高まりを受け取る。それは強いていえば、宗教的感情といった体験である。弦楽曲の中には人間の中のメタフィジカルな感情を刺激するようなタイプの音楽が確かにある。バーバーは自分のことを「頑固な古典主義者」と呼んだが、そのようなバーバーは消費社会的な日常に距離をとっている。

 日常的なフィジカルを、精神分析の用語に倣って「意識」と呼ぶとすれば、メタフィジカルな宗教的音楽は「超自我」といえる。そして精神分析が「無意識」と呼ぶものに相当するのが、リズムを基盤とする土俗的な音楽である。それは弦楽器ではなく、打楽器を中心にすえる

 「打楽器は、調性という小市民的な幻想を剥ぎ取る裸の音、暴力的なまでに荒々しい裸の音にほかならなかった」(「思想としての打楽器」)と三浦雅士は述べている。三浦は打楽器の歴史を一種の階級闘争の歴史と捉えると同時に、植民地の歴史としても捉えている。それは、精神分析の構造における「無意識」のことが、「プロレタリアート」や「アフリカ」(植民地)に類推されることに似ている。19世紀にはオーケストラのヒエラルキーにおいて下位に位置していた打楽器が20世紀になると重要な要素となる。19世紀的な旋律(ブルジョワ)が、リズムというプロレタリアートや植民地の侵攻に曝されるような事態が、音楽という舞台で演じられたのだ。

 具体的にはストラヴィンスキーが作曲した「春の祭典」とそれをもととしたバレエ舞台である。それまでのバレエが「跳躍」などのアクションによって「天を目指す」ことを主題化していたのに対して、「春の祭典」は「大地」を焦点化し荒々しいリズムを導入することで野蛮な異教世界を展開する。その舞台は、当時の観客に大きな衝撃を与えた。性と暴力の雰囲気が横溢していたからである。三島由紀夫や大江健三郎の世界である。ここからあと5歩進めば、革命かファシズムの世界に突っ込んでしまう。「春」の世界につなぎ止められて「生」の側に属していられるが、「雪」が舞えば、「226事件」である。ディオニュソスの不穏な力が「聖」と「死」の次元を触知させる。司馬遼太郎は、「革命」や「ファシズム」は酔っ払いの所業であると難じていて、私はそれに全く同感なのだが、私が司馬と違うところは、私が「酔っ払いにも三分の理」と思っていることである。

 打楽器、パーカッションは、ひとに胸騒ぎを覚えさせずにはおかない。フラメンコのパーカッシブな世界観も、その音楽といいダンサーの打楽器的な運動といい、観るものを昂ぶらせる。「フラメンコ」は「flama(炎)」を語源とする説がある。ひとを日常の外へと連れ出すダンスの世界をもう少し概観してみよう。

ダンスいろいろ、人生いろいろ

 DNAのレベルで身体組織が日本人とは別仕様ではないかと思い知らされるのがラテンのパーカッション系である。たとえばマイアミ・サウンド・マシーンの「コンガ」。こういうパーカッション・パフォーマンスは日本文化にはない。フラメンコの北方性とは異なる南方の陽気なリズム。マイアミ・サウンド・マシーンもフラメンコも同じスペイン系なのだが、テイストは異なる。ラテン系の文化には「あれ?」と思うようなマイナー調が時折混じっている。イタリアのカンツォーネで「燃える明日」(マルチェラ)という曲を私は好きなのだが、これはマイナー調。そういえば映画『ひまわり』とかイタリアにはベタなメロドラマの水脈というものがあるようだ。

 日本にも「コンガ」的縦列群舞というスタイルはあって、子供の頃踊った記憶のある「ジェンカ」がそれである。もともとはフィンランド民謡らしいのだが、高度経済成長期と見事にシンクロした昭和の名物アイテムであった。今思うと、あのダンスよく踊れたよなあ。不思議な幸福感はあったが、無理矢理幸せごっこをやらされてる感があったし、後進国感も子供心に感じていた(ようするに盆踊りの変形ヴァージョン)。だがそれにしても、この動画の初台フォークダンスクラブのオバさん軍団の意味不明なポジティヴさは、いったい何であろうか?原生動物的逞しさというか、ともすれば観念に傾斜してしまいがちな男には、真似できない芸当である(とはいうものの、様式性の高い橋幸夫のヴォーカルが「三丁目の夕日」を非常にうまく演じている)。

 穏当ではあるが、『コーラスライン』の健全さは好きである。観客と舞台が一体となるフィナーレは、清々しい青春譚というもので、嫌みな感じはしない(大学2年の時劇団四季による舞台を新宿で観たことがあるが、この場面はやはり大盛り上がりであった)。このミュージカル自体、ベトナム戦争で落ち込んだアメリカを励ます意図があったという。コロナ禍への対抗としてこういう運動感は欲しい(※この原稿は2021年コロナ禍の最中に書かれたものです)。


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