放屁無頼 #1
放屁無頼
1
久しぶりのシャバの空気は、しんと冷えていた。空にはひと雨降りそうな曇がどんよりと漂い、ムショの中と変わらないくすんだグレーの風景が広がっていた。
さて、仕事とアパートを探すとするか。おれは最寄の駅を目指して歩き始めた。
「ダンナ、どこへ行くんでげす? アテはあるんですかい?」
橋に差し掛かったところで、見知らぬ男が声を掛けてきた。背が低く、頭は無残に禿げ、左目には眼帯、汚い腹巻きに手を突っ込んでいる。どうやらただ者ではないようだ。知らぬが仏。おれは無視して歩き続けた。
「不躾にすいやせん。あっし、ドロ亀っちゅうもんでげす。見たところ、ニイサンはどうやら訳アリなようなんで、へへ、なんかチカラになれねえかなと思いやして」
歩き続けるおれに、ドロ亀と名乗る男はさらに語り続けた。
「まあ、あんまり大きな声では言えやせんが、あっし、例のアレの仲介人をやらせていただいとるんでげす。出てきたばっかりのところ誠にすいやせんが、ニイサン、ひとつあっしと一緒に仕事しやせんか」
川上から吹き下ろしてきた風が、おれのコートの裾を揺らした。ドロ亀は片目でおれをじっとみつめ、短い指で鼻水をぬぐった。
悪いが、おれは足を洗ったんだ。他を当たってくれ。そう言い捨て、駅への道をふたたび歩き始めたおれに、ドロ亀は背中から声を掛けてきた。
「ニイサン、あんた、すかしの大政さんでっしゃろ? あんたほどの男が、足、いや尻を洗うなんてもったいねえでさあ」
すかしの大政。それは、確かにおれの通り名だった。闇にまぎれて忍び込み、気付かれぬよう屁をかます。芸術的と謳われたあざやかなその放屁は、数千の人間をあの世へと送っていった。
「すかしのアニキ、1度だけでいいから、仕事してくだせえや。ほらっ、この通り。どうしても殺らなきゃなんねえ奴がいるんだ」
おれは冷たく強い風に目を細めながら先を歩き続けた。男の声がしばらく耳にへばりついていた。遠くからトラックのクラクション。その音は、かつての放屁の現場を思い起こさせた。
(つづく)