サンタを探り合う
昨夜は久しぶりにチーターで呑んだ。週5くらいで通い詰める時期もあったが、最近は金欠気味ということもあり、週1程度に自制している。ともあれ、最寄りのコンビニとほぼ同じ近さに、オキニの立ち呑み屋があるというのはほんとにありがたい。僥倖。
ドアを開けると友人夫妻が立っていて、おおー奇遇やねえと乾杯。こんな「ホーム感」を味わえるのも、この店につい通いたくなる理由のひとつ。結局、閉店時刻まで呑み、その後、友人夫妻とともにすぐ近くにある店長のしんちゃんちへ上がり込み、さらに呑んだ。5人で取るに足らない話をぐだぐだしたり、「おれ、こういうのよう分からんねん。でけへんねん。観れへんねん。何て言ったらいいんかなあ、つまり、でけへんねん」とピュアな瞳で訴えるしんちゃんのために、テレビとChromecastの接続を試みたり、そうこうするうち深夜3時くらいになり、わたしは帰ることにした。友人夫妻はすでに眠っていたので放っておいた。眠りたいときは眠ればよい。
夜道をふらふらとよろめきつつわが家へ。つめたく澄んだ空気に触れていると、ふと、ああ、もうじきクリスマスよなあ、という想いが湧いてきた。もはやわたしがクリスマスに期待するものなど何もないが、気になっているのは、娘はいまだサンタ神話を信じているのか、ということだ。トナカイに乗ってやって来て、靴下に子どもたちの所望品を入れていく白髭の好々爺。娘はいま中2であり、そういうファンタジックな存在や現象について、そろそろ疑義を呈してもおかしくない年齢だと思える。わたしが中2のときには、とっくにそういう神話から卒業していたし、友人連中のなかにも信じている者は一人もいなかったはずだ。しかし、娘は訳あって学校に通っておらず、そういう話ができる同年代の友人もほぼいないので、もしかするとまだ信じているかもしれない。
妻はそのあたりの事情を把握しているかもしれないと思い、こないだ尋ねてみたのだが、「よう分からんねん。何て言ったらいいんかなあ、つまり、分からんねん。お互いに探り合いしてる感じやわ」とのことだった。探り合い、か。これは厄介だな、とわたしは唸った。
サンタなどおらず、今までのプレゼントは、父母がこっそり買い与えていたものだと知っているのか、もしくは、サンタ神話を信じているのか。それさえ判然としていれば、特に問題はない。前者なら「プレゼントをやるのにやぶさかでないと思っているのだが、おまえはいったい何を所望するか?」と問えばよいし、後者ならこれまで同様、「サンタさんに何がほしいか手紙を書きなさい」などと、下手くそな芝居を打てばよい。
問題となるのは、娘のサンタ信仰の有無と、親たるわれわれの予想・思惑が合致しないときだ。娘がサンタ神話を信じているのに、われわれ親が「サンタなんてもう信じてないよねー、そんな幼稚じゃないっしょー」的な態度を取ると、娘のロマンを破壊することとなり、積木くずしの200日戦争の挙げ句、出奔して夜の街で厚化粧をして酌婦となり、その後、ドサ回りの歌手となって、さびれた港町でトランクを掲げて腹巻きを巻いた気の良い中年と丁々発止のやりとりを繰り広げるかもしれない。
また、その逆もマズい。娘がすでにサンタ神話の真実を見破っているというのに、われわれ親が「サンタさん、今年もちゃんと来てくれるかなぁー。よい子にしてないと来てくれないかもよぉー。ほやさかい、早くベッドに行って寝なきゃダメなんじゃなぁーい?」などと猫なで声を出すというのは、あまりに惨めだ。きっと娘も調子を合わせてくれるだろうが、そうなると、家族3人の誰もが内心「あほくさ」と思いながらも芝居を続けなくてはならず、絶望的な選択肢が首をもたげてくる。
「探り合い」というのは、つまり、このような悲劇を起こしてしまわないよう、互いの腹の内をそれとなく確かめるということである。だが、それはなかなか至難で、現在のところ上手くいっているとはいえない。真実は白い霧の中、本音を吐けないサイレントナイトは続く。