正法眼蔵 1/100
目標は、『正法眼蔵』75巻を75ページのエッセンスにして注釈・解説をつけて200ページの本にする。そのための準備を始めようかと思いつつ早くも半年過ぎました。今日からやるか。
たとえば「正法眼蔵 100」みたいなタイトルにする(原広司『集落の教え 100』に倣って)。100個のキーセンテンスを選び出す。1つについて見開き2ページのコメントを書けばちょうど200ページ。すぐできそう(なわけない)。さっそくやろう。
拄杖は遊行僧が行脚に携えていった杖、払子は紐を束ねて柄を付けた道具。現代では仏具として象徴化されているが、本来は、古代インドで修行中に蚊を追い払うために使用された。露柱は壁に付いていない、独立柱のことらしい。
要するに、拄杖・払子・露柱・燈籠は、僧院の日常的な道具や設えの類いである。それらに「問取」する。「取」は動詞の接尾辞(接尾辞という文法用語は英文法のためにできているので、漢語に使うのは問題があるが、ここはがまんする)だから、つまりは「問う」ことだ。何を問うかといえば、もちろん仏法を問うわけである。
変でしょ。仏の教えを問うのに、先生に質問するか、経典や論書のなかに答えを探すか、あるいは自分で考えるかするのがふつうじゃないか。どうして、いま近くに見えてる物体に「問取」するの?
こう考えます。仏法と西洋哲学とのちがいの一つ。後者は世界から半ば自立している。世界からいったん離れたところから世界について考察する。「形而上学 metaphysics」の語源はアリストテレスが "Physics"の後にそれを書いたってことだけど、後世、フィジカルを超越する存在についての学問と解釈されるようになった(オクスフォード英語辞典による)。
他方、仏法はというと、最初からブッダは弟子に抽象的な質問をされても答えなかったし(スッタ・ニパータ)、日本に伝来されてその傾向はますます強くなったように思う。古今集仮名序で貫之はこう書いている。「やまと歌は… 心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出だせるなり」。心に思ったことを直接言うんじゃなくて、かならず「見るもの聞くものにつけて」言うんですね。この伝統と仏法が混ざった。古今集から300年後、道元。かれ自身歌詠みですし、父親の通具は定家とともに新古今集の撰者だった。「やまと歌」のプロ中のプロの家で育ってるわけです。花鳥風月につけてものを言ひ出すのが子どもの頃から身に付いていたでしょう。そういう少年が発心して仏法を求め、悟りを得て「正法眼蔵」を書けば、花紅葉の風雅はないけど拄杖払子にても仏法を問い、露柱燈籠にても問うのは、自然のなりゆき。
一世代前の日本の哲学者たちがよくテーマにしていた「主客二元論の超克」っていうのがあります。「見るもの聞くものにつけて」心を言葉に変換するのを千年以上やってきた伝統は、近代日本の哲学者がそう自覚しなくても、かれらの血肉となっていたんじゃないでしょうか。だから西洋哲学に接して、妙な違和感を感じてしまう。「超克」という少し大げさなリアクションはその違和感の大きさの反映なんじゃないかと思うのであります。