うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく
水と空は『正法眼蔵』にたびたび出てくる表象です。たとえば「現成公案」の巻から。
うを〔魚〕水をゆくに、ゆけども水のきは〔際〕なく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
魚が水を行く。水に果てはない。鳥は空を飛ぶ。空にも限界はない。
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
そうではあるが、魚や鳥はいまだかつて、水・空を離れたことがない。
....鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命〔いすいいめい〕しりぬべし、以空為命〔いくういめい〕しりぬべし。
鳥は空を出たらたちまちに死んでしまう。魚も水から出たらたちまちに死ぬ。水を以て命と為し、空を以て命と為すことを、鳥も魚もわかっているのだろう。
と、ここまでは、そりゃそうだよね、水の中でしか魚は生きられないし、空がなければ鳥は死んじゃう。それを「以水為命」「以空為命」って表現するのはかっこいいけど、でも言ってることは当たり前です。が、ここで話は終らない。
....しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。
にもかかわらず、水をきわめ、空をきわめた後、さらにその先まで水・空を行こうとする鳥や魚があったとしたら、そこに道はないし、とどまる処もない。
「ゆかん(行かん)」は行くの否定ではなく、〝行こう〟という意志の表現です。否定なら「行かぬ」になります。「擬す」は〝〜しようとする〟。「うべからず」は得可からず、得ることができないという意味です。
水をきわめた魚、空をきわめた鳥が、さらにその先へ、水も空もないところに行こうとしている状況を道元は想像しています。想像してどうなるの?
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