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言い訳がしたいのです。

言い訳がしたい。
そんなことを思って、今これを書いています。

言い訳がしたい。
それは一体どういうことなんだろうか?
(自分で書いてるのですが…)

最近、私は自分の感性
(というものなんだと思うけど)について
公にすることにした。
それは、なんというか…ジュエリーを
制作をするにあたり、
自然とやっていたことだった。
『お話をしてから作りたい』なんて思うことが、
多分、 作家としては変わっていることだと思うし、 
変なことなんだろうと思う。
でも、その頃の私には
『普通に作っていく』ということが
難しく感じられていた。

『作る』ということは好きだった。
けれど、『お母さん』とういう存在が家族がいないときは、一人ならご飯は適当に作ってしまう人が多いように、ビジネスや、お金を稼ぐというために作り続ける、ということが私にはとても難しく感じた。

今思えば、
あの頃、悶々としていたのは
今に繋がることなんだろうと思う。


今はもう、普通に話しているので
ここでも書いてしまうが、私は音楽をやっていて、
そして精神を病んだ経験がある。

精神科に通い、薬を飲みながら、仕事をしていた。
仕事をしながら、音楽活動をして、目の見えない母と一緒に暮らしていた。
でも音楽活動をしながら、私は『自分が成功する』なんてことは全く思っていなかった。
どんなに、周りの現実が音楽活動を後押しするように動いていても、
『どうせダメだろう』と思っていた。
だめなのに、なんで活動してるんだろう?
今やってることに、意味なんてないじゃないか。
どうせダメなんだから。
そしていつしか、その思いは、
なんで生きてるんだろう。どうせいつか死ぬのに。
という泥沼になっていった。
今思えば、私は『その泥沼の思いが通常』という中で暮らしていた。

ご飯も食べていたし、笑っていたし、友達もいた。
仕事もしていたし、普通に電車にも乗れたし、映画だって見ていた。
でも、いつでも、もう終わりを思っていた。
眠っていたい、何もしたくない、そう思っていた。

それがピークに達した頃、
私は倒れた。

その日のことは、よく覚えていて、
とても変なテンションだった。
幼稚園の子供と、年配の方が歩いているのを見て
なんだか無性に感動していた。
仕事場についてからも、目にするいろいろなことが
キラキラしているように思えて、心が浮き足だっていた。そして、その数時間後に私は倒れた。

あの倒れた日に、
感じたあの気持ちはなんだったのだろう。
倒れる予兆のようなものだったのだろうか。
今でも、不思議に思っていた。



今日、とある方とその時の私の話をしていた。
『倒れる前に、世界がキラキラしてた』と
話していたら、
彼女は、うーんと少し考えてから、
『多分、その時一回死んだんだね』と言った。
そう言われたとき、私の中で震えるような
大きな声が『イエス!!!!!』と
胸の中で響いた。
私は、か細く『えー…』と言いながら口を押さえ、
唖然としてしまった。

一回死んだ。

あの倒れた時以降、私はすごく変わったな、
とは自分でも思っていた。
でも、まさか一回死んでいるとは。
でも、それで辻褄が合うことがたくさんあった。
それまでは、自己中のわがままなやつと自分でも思う行動をしていたけれど、人格が変わったように、コツコツと生きていくことを望むようになった。『普通の暮らし』というものをしてみたい、ときちんとした生活を望むようになった。
そして、精神科に通いながらも、
私の心はどんどん回復していった。
その時に、私の支えになったのが、
スピリチュアルな考えだった。
大量の薬を服用することなく、
離脱症状もなく回復したのは、
『目に見えない世界』を感じていたからだ。

そして、スピリチュアルを学ぶにつれて、
自分の他の転生を急に思い出すようになった。
『これは、私の過去生かな?』と思いつつも、
そんな話は、誰にもして来なかった。
確証もない、立証もできない。
だから、誰に話しても仕方ない。
私の妄想だと思い、
『私には妄想癖があるな、うん。』
という程度に思っていた。

いろいろと、
その妄想の辻褄が合ってきたのは本当に最近だ。
今でも、本当にそうなのか、確証も得れない。
でも、私が一回死ぬ前に、感じていたことを
妄想の中の私と照らし合わせていくと、
腑に落ちるところがたくさんあった。

人身御供として生きた人生があった私は、
どうしても、自分を犠牲にすることに
激しく抵抗がある。
献身や貢献ということの、
本質を履き違えていた私は
どうしても、今でもその言葉たちを聞くと
心がざわつく。

遊牧民の女の子のような
生活をしてた人生があった私は
夜に動物と一緒に暖をとりながら、
動物の温かさ、風の冷たさ、
そして全てがここにある、という満足感で
自分の中に『神様』がいると感じていたし、
空を見上げて
『あそこにも神様がいる』と感じていた。
私は、修道院でシスターの生活もしてたし、
他にもまさしく『神様』と共に生きるというような人生もあったけれど、この放牧民の女の子の人生は、私の転生で一番幸せであり、
一番神様を心に感じる生活をしていた。
(一番神様を感じることが出来たから、
幸せを感じていたのだと思う)

宗教や、戒律がなくても
神様は、ここ(私の中)にいる。

そう感じられるのは、この人生があったからだ。
大きな空を見上げている、そのビジョンは
今でも私を支えてくれる、宝物のようなものだ。

そして、これは私の妄想かもしれないものであり、
作り話のような、夢物語のようなものである。
でも、確証はなくても、今の私は
この他の転生からのつながりを感じて生きている。
生かされていると感じる。

そして、私はいろいろなご縁をいただき、
それを伝えさせていただくことを始めている。

昔から私を知ってる人は、
いきなりなんだ?と思ってるだろうな、
と思っている。
どうした?どうした?と、
戸惑わせているのだろうな、と。
(本当、ごめんなさい)
もう人生の半分以上を一緒に生きている、
旦那さんには一切隠し事なく、
今の私の一番の理解者であることは、
本当に感謝しかない。
そして自分の中は、全く変わっていないのだけど、
それを隠さなくなったので、
周りからは『変わった』と感じるだろうな、と。

ああ。そうだ、私はそれを言い訳したかったのだと思う。

『変わったのではなく、戻ったのです。』
と、言いたかったのだ。
そしてそれで混乱を招いていたら、
本当にごめんなさい、と言いたかったのだ。

ジュエリー作家であるには、
私にはスピリチュアルが、
この感性が、必要なんです。
対話をして、お伝えできることを伝えて、
その思いをジュエリーに込める、
ということでしか私は作れないのです。

私にとって、
音楽が『私の中にいる、私の神様』と
繋がるものならば、
ジュエリーは『あなたの中にある、私の神様』と
繋がるものなんです。

混乱を招いていたら、本当申し訳ない。
(本当、特に昔からの知人には)
こういう感性が苦手な人がいることも、
よく承知してるし、
私も至って普通の人であって、神がかった人でもない。
ただ単に、自分が感じることを
そのまま許可し始めているだけなんだと思う。
(だから、誰でも許可すれば、
わかることなんだろうなと思っています)

過去生についても、確証なんてないし、
妄想かもしれない。
でも、私自身が思い出して、救われている。
映画やドラマを見て感動して、
自分の人生が変わるのと私の中では大差がない。
自分が主人公の物語で、
自分を救っているようなものだと思う。

そして、その妄想癖が
誰かのために使えるのならば、
私は嬉しい。
そう思っています。

『言い訳がしたい』
なぜか、そんな言葉がふと出てきて
筆を走らせたら、こんな記事ができました…🙏


とても長々と書いてしまったのですが
読んでくれて本当にありがとうございます。
混乱を招いていたら、本当にごめんなさい、と
ただ言いたかっただけなのかもしれないです。

長々と、本当にありがとうございました。
こんな私でも、出来れば
今後もお付き合いして頂けたら嬉しいです。

2024/08/05
雷がゴロゴロ言ってる休日の夕方にて

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