祈り・虚構・推し
祈りという概念への憧れがある。
憧れを持って実践しようとしている時点でそれは純粋な祈りではなく、悲しい。
祈るという行為に夢を見ています。一方的かつ暴力的でもある感情の暴露を綺麗な言葉で誤魔化せるからかもしれない。
ヘッダーはパウ郎/宇野祐生佳です。聞いてください。
https://youtu.be/3Q-Eg3Dgb9M?si=Mr0r_pwxzGOId_uS
てか私がずっと言ってる祈りってそもそもなんなんだよと思って改めて調べたら面白かったです。
https://kotobank.jp/word/祈り-435502#goog_rewarded
こうして見ると、オタクが奇声を発したり暴れたりするやつも広義の祈りですよね~とか軽率に思ってしまう。現場はハレの場であり、MIX振りコピケチャモッシュリフトは祝詞と盆踊りみたいなもんですよね。こういった雑な言及ばかりして単位を取得できる場所に一瞬いたのでイキイキしてしまいます。
私のなんとなく憧れているやつはおそらくキリスト教的な信仰の形っぽい。信じられる教義があり、死後の救済を信じて神に祈ったり罪を懺悔することで現実を生きていける、教会というコミュニティが生活の一部に存在する、という構造に対して憧れがあります。
私自身は幼少期から仏教に結構なゆかりがあるのですが、女という理由でうっすら遠ざけられていた感覚があり、特に教えを説かれた記憶もなく帰依には至りませんでした。
無神論者というほどの思想もなく、初詣に行ったり観光地の神社仏閣にお参りする程度の、おそらく標準的な程度の信心しかありません。
私が本気で信仰を実践できないのは、自閉症的な気質故にどうしても第三者視点の私が嘘乙!って言ってきて最悪だからです。
宗教というシステムが虚構だとわかっていてもそれを信じて支えにする、というロールプレイ(ちゃんと信仰をやっている人に対して失礼な表現かも)を人生を通して素直に、真面目にやりつづけられないだろうな、という諦めがあります。もっと情緒が育ったら信仰が持てる日が来るのかな。
手に入らない信仰への憧れと好奇心が強すぎて、中学生くらいの時にいとこの日曜礼拝についていって教会のおばさんを質問攻めにしたり、親世代のカトリックの友人にあれこれ聞いたりしました。その節は本当にすみません。
本気で神がいると思っている訳ではなくても、神がいるということにして、自分以外の神という判断基準を設置することで日常を善く過ごす努力をしやすくなる、というシステムを説明してもらって納得しました。
なぜ目に見えない曖昧な救いを休日を費やしてまで強く信じられるのか?というクソガキの問いにまともに取り合ってくれて有り難い。
とはいえ、仕組みを理解したら尚更それは結局、自分の気の持ちようと努力次第じゃん……と思ってしまいました。神秘体験とかに裏打ちされた場合はまた違うのかもしれませんが、信仰とは結局そこに己が救いを見いだせるかの適性があるか否かで、常に絶対的なものではないんだ……とガッカリした記憶があります。嫌なガキ。当時は多分手っ取り早く救われたかったんですが、そんな都合のいい救済がそこらへんに存在しまくっていたら人間はこんなに悲しい生き物じゃないですよね。
ただ、「嘘を本気でやって生活の糧にする」というロールに関しては、アイドルのオタクをやっていて感じることでもあります。雑言説に戻ってきました。
今世間一般に認識されているいわゆる「推し活」はあまりにも商業化して消費・資本主義の扇動をラッピングした言葉になってしまいましたが、誰しも「推し」に対する感情は多かれ少なかれ信仰に近いものがあると思っています。
推しメンが芸名の存在として見せてくれている姿を嘘・演出だと認識しつつも、そこに萌えや憧れや救いを見出して本気でオタクをやる、それによって地続きの生活が豊かになる、という構造自体は似ているように見えます。
嘘を嘘と理解した上で、どれだけそのノリに入れ込めるかという問題です。その対象である神をアイドルに置き換えれば、私は信仰に似た構造のものを実践できていると言えなくもない。ギリギリ。推しは比喩でもなんでもなくマジ天使ってこと?
乱暴な言い換えをすれば、現場に行って推しメンに存分に愛をお伝えするのってほぼ礼拝だし、チェキ飯は食前の祈りだし。bioに名前を書くのは信仰告白だし。なんでもない日常にも、なにかを頑張る時とかなんとなく凹んだ時とかに推しの存在そのものに励まされたりするし。あとはオタクコミュニティが自助グループ然としてゆるく機能していたりとか。それって信仰を持つことによる、仕事とか学校とか以外の場で還元されてくるメリットと似ているんじゃないでしょうか。要は共通の趣味のコミュニティに属すると楽しい休日が過ごせるねみたいなニュアンスで括れもするんですが……。
でもアイドルって偶像崇拝と比喩されるし、一方的な祈りを向け続けていたらライブで奇跡的な瞬間が発生していままでの切実が返ってきたのだと錯覚して泣く、みたいなわかりやすい瞬間がありますよね。その瞬間のためにみんなオタクをやっているのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
私のオタク気質の源流は宝塚歌劇なので、演劇的な演出や外連味などの"嘘"を本気でやっている演者と、その文脈を跨いで読み解く観客の構造を感じると更に激アツになります。
宝塚の四層構造という概念を東園子さんが提唱しているんですが、SNSでの活動によって本名の存在や前世、事務所などの複数の文脈を前提にパフォーマンスを鑑賞する現在は、アイドルもこれに近い複数のレイヤーを往復して読解する存在に近づいているのでは?と思っています。複数のペルソナを本気で演じてくれている生身の人間であるアイドルに、感謝……。
サブカル学部にいた時はちょうど推し活が持て囃されだしたタイミングだったのでこんな感じの話を一生していました。ただ最初にアイドル論が流行ったのが大昔で最近はメディア論が下火でいい感じの出典が見つけられなくて苦しんでました。コロナ禍を含めたアイドルシーンへの言及がある書籍ないかな。おすすめ情報をお待ちしています。
見ず知らずの場所ではじめましての人に突然宗教の話をしたあげく、飛躍した理屈を展開してしまったので喧嘩になるかもしれません。怒らないでください。
あなたの祈りはどこから?
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