#何気ないツイートから始まる物語 (2話)〈ぼくはいわゆるダメな奴〉
何気ないツイートをきっかけに、スポーツビジネス界の大物と地方都市に住む一般人であるぼくがイベントを企画・実施することになり、その後の人生に大きな影響を与えることになったことを記した、ちょっとした物語。
以下のリンクは〈はじめに〉
前回まで
何気ないツイートから、岡部さんへTwitterの手ほどきが始まり、そこから「よくわからない関係」を築けたことで、イベントの開催に向けて走り出すことになったところまで書いた。
「イベントまで手掛けたんだから大したもんだ」といっていただく機会が増えたぼくですが、元々は、いわゆる"イケている奴ではなかった"ので、今回はそれについて書いていこうと思う。
少しどころか、結構残念なやつ
ぼくの特徴を一言で言えば「少し残念なやつ」だ。特に中学から高校にかけてのぼくは本当にイケてない部類に入ってた自負がある。だからかもしれない。ぼく自身の自己肯定感が高くないのは。
何より、ぼく自身がイケていないのには自信がある上に、疑いようのない事実のため、当時のクラスメイトとは当然のように交友がない上に、何よりも自覚がある。
何が理由でイケてないのかといえば、継続できないのだ。我慢ができない、とも言い換えられるのかもしれない。
通っていた燕市立燕中学校だ。新潟県の真ん中に位置する燕三条地域の中にある、割と大きめな規模の中学校だ。ぼくが通っていた当時で1クラス40名弱で8クラスあったのだから、結構な規模だ。
その中学校において(他の中学校でも恐らくそうだったように)、部活動への所属は「絶対」であり、無所属なんてことは許されない状況だった。
理由の詳細については知らないものの、高校へ進学する際に提出される"内申書に記載事項"を気にしてのことなのだろう、と考えている。うがった見方をすれば、「大人(教員)が困らないように」配慮していると言えるのかもしれない。あくまでもぼくの私見であり、うがった見方だ。実際の運用面について走る由もない。
その中でぼくは「所属できない人間」だった。
1日でやめた野球部
所属した部活は94年から台頭したイチローや、96年にアメリカメジャーリーグで、それこそ旋風を巻き起こしたトルネード投法の野茂英雄の影響もあり、野球が大好きだった。
小学校の時には、野球の少年団へ所属はしてなかったものの、野球が大好きで、長期期間などの暇があれば、即座にグラウンドへグローブとボールを片手に出かけては壁にボールを当てたり、共に行った誰かとキャッチボールをしたりしたものだ。
いま考えると、野球が好きだったのは本当なんだけど、球遊び全般が大好きだったように思う。犬みたいに。本当に好きだったのは、Jリーグ開幕と、いわゆるドーハの悲劇を目の当たりにしたサッカーなのだけど......ちょっとサッカーでは嫌な思い出があり、子どもながらに気持ちを封印していた。
ひとまず、中学校への入学と共に大好きな野球ができる野球部へ。
部活動への本入部の前には「試用期間」があり、流れとしては仮入部期間が1週間や2週間ほど設けられており......あれ?1ヶ月ぐらいあったっけ。とにかく、そこで新入学生はいろいろな部活動を物色する。
別にそれも必要なく、ただただその部活動に所属したいと考えている真面目で熱い学生は、仮入部期間には他の部活動に目もくれず、ひたすらに所属したいと思う部活動の仮入部活動へ参加しまくっていたりもしたけど。
ぼくはというと、野球部へ仮入部で参加しながら、いろいろと他の部活動の見学なんかもした記憶がある。最終的には野球部へ入部届を出した。
仮入部期間が明け、本入部となった日には喜び勇みながらグラウンドへ向かったが、翌日には退部した。
仮入部期間中、学校の周りを10周走った後にグローブを持って上級生のキャッチボールやノックの球拾いをしていた。
本入部した暁には、きっとそれが終わり、自分たちもキャッチボールをできるものだと思っていたのだが、本入部をしても状況は変わらず「野球部なのに野球をやらせてくれないこと」が嫌になったのだ。ただ、言い方を変えれば、我慢することができなかった。
顧問との関係がイヤで辞めたバスケ部
ぼくは野球以外にも入部したいと思える部活動があった。バスケ部だ。
マイケル・ジョーダンの活躍を衛星放送で見ていたし、何よりもスラムダンクのど真ん中世代だったのもあり、桜木花道の「よく考えたらわかる」あり得ない成長曲線を自分でも実践できると思っていたし、何より球遊び全般が好きだったからバスケットボールも好きだった。
おまけに、父親の友人にバスケの指導をしている人がいて、その人からプレーぶりを少しだけ褒めてもらえるぐらいに、"ちょっと"は褒めてもらえるような状況だったので、真面目に取り組んでみたいな、と。
先にも触れている通り、部活動には所属しなければならないため、退部届には同時に次の部活動も記載しなければならなかった。移籍届みたいに。
何よりも好きだったサッカーを楽しめるサッカー部はなかったのもあり、野球部を選んだのだが、思わぬところで挫けてしまった。そこで、同じぐらいに入るのを迷っていたバスケ部へ移った。
するとどうだ。
バスケ部の新入生は、ぼくを含めて20人ぐらいいて、上級生も含めるとコートに入りきれないのは目に見えていたが、バスケ部は新入生だけでもバスケをさせてくれた。
それが妙にうれしかったし、その中でも秋には下手くそだったけど上級生に混じってメンバーとして選出してもらい、それなりに順調だったように思う。
それでも入部から9ヶ月後には辞めたくなっていた。
気管支炎を患い、長期間部活動への参加ができなくなったのもあり、部活へ参加している同級生や上級生からの「あたりが強く」なった。それをどうにかしようとも思えなかったし、イケてないぼくとしては、その「当たり」に挫けぬ精神性も持ち合わせてもいなかったし、何より、そんなやりとりを繰り返すのに疲れて辞めたくなった。
また、バスケットボール部の顧問は体育会系な「強い当たり方」をぼくにしてきた。「辞めたい」と伝え、話し合いの席を設けたいと思い、教務室の前で何度も納得できるまで話したかったのだが、それを避けられた。
「ここで逃げたら一生逃げ続けるんじゃないのか」と言い残し、彼はそれ以後、教務室の前に立つ、もしくは教務室に入るぼくを"無視"し、何かしらの用事で教務室をでなければならない際には"素通り"した。
担任も、初めはぼくを思うような表情を見せていたものの、部活動の転籍先を相談した際に、ぼくが彼が指導する部活動を挙げようものなら「大丈夫か?舐められちゃ困るよ」」と、擁護するばかりか追い詰める言葉を投げかけ、最終的には「どう考えても弱いお前が悪い」の一点張りに。
そんな大人(教員)の姿勢や態度に耐えきれるだけ強くはなかった。ぼくは、ついに学校へ足を運べなくなった。
不登校へ
バスケ部の顧問や担任からの発言を、それこそ真面目に受け止めたぼくは、恥ずかしくて、情けない人間なんだとも感じたし、「あの場所へ行けば同じように叱責され、同級生や上級生からの強い当たりも味わう必要がある......。」と考えたら絶望的な感情すら抱いた。
学校に行くには勇気を持たなければならなかったし、それを奮い立たせるだけの底力は、残念ながら持ち合わせていなかった。そして、登校拒否状態、つまり不登校へ。
学校に行こうとするとお腹が痛くなる。朝、お腹が痛いぼくはトイレに篭る。トイレの中は誰も入ってこれない究極のパーソナルスペースだ。
誰もぼくを出すことはできない。時期は12月から1月だから真冬。寒いトイレに1時間、2時間と平気で入っていた。
初めのうちは「学校へはいくものだ」と諭していた両親も、次第に態度が軟化しはじめ、最終的には学校へ行く・行かないの判断を委ねてくれるようになった。
転機として、学年が上がる際には所属する部活動を再度申請し直すのだけど、その際に強制的に変わった(パソコン部というものがあり、実質的には帰宅部だった)こともあり、ぼくは何とか不登校状態を解消することができた。ただ、本質的な「ぼく」は何も変わっていないように思う。
いわゆる大人になった今でも大して変わりはない
我慢のできないイケてない奴で、それはそこから10数年経った社会人になってからも大して変わる様子はない。
どこかの企業に属することはできても、そこから10年も勤めることをイメージすることなんて全くできない。5年ですらきつい。実際、これまでぼくが所属していた組織での最長所属組織は小学校だ。
仕事をする「職場」となると、いまのところは5年が最長。
これからはわからないが、キャリアのスタートを新卒フリーランスで始めたのも影響しているからか、生来的な気質なのか「自分で作ったわけではない訳のわからないしがらみ」が嫌いなのと、大人がよく使う「建前と本音」が大嫌いなのだ。
「これまでがそうだから」なんてことや「そうはいっても...」みたいな誰を見ているのかわからない状態に苦しくなるため、それがよく見えるところからは離れたくなってしまう。
もちろん、都度、転職を繰り返してきたものの、自分なりにはきちんと道筋を立てて進んできたし、そこに迷いもなかったのだけど、客観的には「我慢のできないダメな奴」だろうな、とは思う。
ただ、スポーツと新潟が好きだった
だけど、そんなぼくでも一貫して変わらないことがあって、スポーツが好き。そして、何よりも新潟ってエリアが大好きなことはずっと変わらない。
サッカーが大好きで、地元の少年団に入ったものの、練習試合にも出してもらえない状況が数試合続いたのを理由に辞めた。
高校入学を機にサッカーを取り組みたいと考え、ほぼド素人だったものの「帝京」って名前がつくぐらいの学校だったら、真剣に取り組めるかもしれない!と期待を抱き、帝京長岡高校サッカー部へ。
最終学年の時にはGKとしてレギュラーポジションを貰ったし、チームとしても県大会で準決勝までは勝ち残れた。
いまとなっては、全国高校サッカー選手権大会のベスト4で、負けてしまったものの、見事なまでに試合をやり切れる高校生たちを「後輩」と(呼んでいいのかは別)として見れるのは誇らしい。
スポーツって枠組みで新潟をアツいスペースにしたい!と個人的にプロジェクトを立ち上げて動きだしたものの、見えない壁にぶちのめされて諦めた経験もあったが、スポーツの組織からは離れている今(2018年2月)、そんな自分でも岡部さんとのつながりをTwitterで構築できたのは、最高の気分だった。
"スポーツ業界の中の人でもない人物が、スポーツビジネス界の大物とイベントをする。しかもきっかけはTwitterから。"
その企画と経緯に我ながらニヤニヤした。よくわからないができる自信もあった。だから岡部さんへこんな宣言をし、実際に"形にすること"を目指して動き始めることに。
(つづく)
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#何気ないツイートから始まる物語
地方に住む「普通の人」であるぼくが、ある業界の大物に何気ないツイートで絡んだところから、イベントを企画・実施するところまでを追ったちょっと…
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